第259話 カツレツを食べます!

『まもなく〜関内かんない関内かんない〜』


 港の風が微かに漂うその駅に黒乃とメル子を乗せた電車が滑り込んだ。


「ふうふう、ようやく着いた」

「遠かったです!」


 休日の晴れた日の朝。二人ははるばる一時間かけて浅草から横浜の港へとやってきた。

 ここは横浜市中区。北にはみなとみらい、東には横浜中華街、西には野毛山を望む。神奈川県庁、横浜市役所、神奈川県警、横浜スタジアムなどが集まる横浜の中心地だ。

 その町の中を二人は歩いた。


「なにか爽やかな町ですねえ」

「海が近いからかそんな感じするよね」


 綺麗に整えられた町並み。広い車道、広い歩道。通りには古めかしいレンガ造りの建物が並ぶ。十九世紀の姿がそのまま二十二世紀に現れたかのようなレトロな雰囲気を漂わせている。


「どことなく浅草に空気が似ていますね」

「浅草も関内も古い町だからねえ」


 レンガで舗装された道を歩く。目に入るのはガスで光る街路灯だ。夜になれば実際にガスの灯りを楽しむことができる。

 今日は人通りが多い。横浜スタジアムで野球の試合が開催されるようだ。


「ご主人様、今日はどのようなお料理を食べられるのでしょうか?」

「ふふふ。今日はね、カツレツだよ」

「トンカツですか! 大好物です!」

「違う違う。トンカツではなくてカツレツね」


 メル子は首を捻った。


「それってなにが違うのですか? 呼び方が違うだけですよね?」

「そう思うでしょ? じゃあまずはカツレツの歴史について勉強しようかな」

「お願いします!」


 カツレツが日本に伝わったのは1870年代のことだ。フランス料理のコートレットが元とされている。コートレットは薄切りの仔牛肉にパン粉をまぶしてフライパンで揚げ焼きにしたものだ。

 日本では仔牛肉ではなく、馴染み深い豚肉が使われるようになった。カツレツとはコートレットがなまって名付けられたのだ。

 このカツレツから派生したのがトンカツだ。薄い肉ではなく分厚い豚肉を使ってボリュームを出した。そのため調理に時間がかかってしまうため、フライパンではなく鍋に張られたたっぷりの油の中で揚げられるようになった。


「なるほど。となるとカツレツとトンカツが全くの別物だというのは理解できます」

「うん。カツレツは西洋からきた洋食。トンカツはもはや和食と言っていいね」


 二人は大きな通りから一つ曲がって小さな通りに入った。そしてすぐに看板が見えてきた。


「あ! ご主人様! あのお店でしょうか!?」

「そう、カツレツの老舗『ロボ烈庵』!」


 ロボ烈庵。創業昭和二年の老舗中の老舗だ。和のテイストが漂う門構えに堂々のロボ烈庵の暖簾。黒乃はその暖簾を指でちょいと押し分け、扉の中に入った。


「ふわぁ」


 メル子は目を輝かせた。昭和レトロな内装であるが、暖かい照明ときちりと整備された店構えは安心感と清潔感を与える。


「いらっしゃいませ」仲居ロボが笑顔で二人を出迎えた。

「カウンターになさいますか? テーブルになさいますか?」


 店の一階はカウンター席とテーブル席。二階はテーブル席とお座敷が用意されている。二人はカウンターに座った。巨大な鍋の正面である。するとすぐにお茶とおしぼりが提供された。


「こういった格式高いお店でカウンターは少し緊張しますね」

「大丈夫。老舗で立派な店構えだけど、庶民的なお店だよ」


 カウンターの上にはメニュー、ソース、ポン酢、カラシ、塩が置かれている。メル子はメニュー表を手にとった。一通り目を通してほっと息をついた。


「ご主人様……! そこまでお高くはないですね……!」

「でしょ? カツレツは庶民の食べ物。お安くがっつりいただこうよ」

「はい!」


 二人はヒレカツ定食とロースカツ定食をオーダーした。

 メル子はカウンターの中を見渡した。純白の調理服を着た料理人達がせわしなく動いている。巨大な鍋でカツを揚げる者。包丁でカツを刻む者。肉にパン粉をまぶす者。それぞれが手際よく動いて大量の客を捌いている。

 店の中にはカツを揚げるカラカラとした音がBGMのように鳴り響いている。

 その様子を見てメル子はあることに気がつき、プルプルと震え始めた。


「ご主人様……」

「ん? どしたん?」

「話が違いますよ!」


 メル子はテーブルに手をついて椅子から立ち上がった。目の前の鍋を指差した。


「カツを……! 油で……! 揚げています! ご主人様の話ではカツレツはフライパンで揚げ焼きをするはずです!」

「まあそうだね」

「でもカツを……! 油で……! 揚げているではないですか! 話が違いますよ! 店長! どういうことですか!? 店長出てきてください!」

「こらこら、落ち着きなさい」


 黒乃はメル子の肩に手を置いて座らせた。肩で息をするメル子にお茶の入った湯呑みを握らせた。


「メル子。カツレツがフライパンで作られていたのは、フランスから伝わった初期も初期の頃だけだよ。その後はトンカツの技法を取り込んで今に至るのさ」

「ハァハァ、そういうものですか。では現在ではカツレツとトンカツにはどういう差があるのでしょうか?」

「あんまないね」

「ないのですか!?」


 大騒ぎをする二人の後ろに仲居ロボが現れた。


「どうぞ、ご飯とお味噌汁です。こちらはロースカツ用のおソースです」


 程よく米が盛られた茶碗と味噌汁が入ったお椀、それに小鉢が並べられた。それとテーブル備え付けのソースとは違う容器に入ったソース。


「美味しそうなお米です。味噌汁は……シジミですね! お新香は大根の細切りです!」


 するとカウンターの向こうの料理人からスッと皿が差し出された。二人はそれを慎重に受け取った。


「きたきた! きましたよ!」

「ようやくきました!」


 皿に乗っていたのはきつね色に輝く大判のカツだ。山盛りのキャベツも添えられている。


「ご飯とキャベツはおかわりできますから、仰ってください!」

「はい!」


 メル子は瞳を輝かせた。ロースカツ用のソースを手にとりカツにかけようとした。


「これ」

「ミァー! 痛い! なにをしますか!?」


 黒乃はメル子の手をはたいた。


「まずはソースをかけずに塩で食べなさい」

「塩で!?」


 メル子は言われた通りに塩を振りかけ、あらかじめカットされたカツを箸でつまむと一口かじった。サクリとした小気味よい食感の後にくるねっとりとした肉の食感。


「!? 柔らかい! お肉がとてつもなく柔らかいです!」

「ほんとだね。このとろけるような食感にまず驚くよね。そして衣の弾けるような、唇と舌に刺さるかのような刺激。この対比よ」

「そしてお肉の香り! 芳醇な豚の香りがこれでもかと鼻を抜けます! この食感と香りを感じるための塩ですね!」

「うむ。さあ次は秘伝のソースをかけよう!」


 黒乃はヒレカツ用のソースを、メル子はロースカツ用のソースを振りかけた。そして勢いよく口に運ぶ。


「うまっ! なんだこれは!?」

「衝撃的な美味しさです! いわゆるトンカツ屋のトンカツとはまるで違う味わいです!」


 秘伝の自家製ソースは野菜と果物をじっくり二日間煮込んで作ったものだ。


「これはおソースそのものが美味しいです! ペロペロ! 野菜の甘みが残った角が丸い優しい味わいのおソースが、豚の脂と合わさり圧倒的なコクを与えています!」

「ペロペロ。このソースが美味すぎて丸ごと一本使ってしまう猛者もいるらしい」

「そんなバカな!?」


 黒乃はご飯をかっこみ、シジミの味噌汁を啜った。


「あ〜、癒される〜。このお味噌汁癒される〜」

「赤味噌ですね! シジミの旨みと強めの味噌が食欲を増進させてくれます!」

「ぐふふ、このちっちゃいシジミの身をほじって食べるのが好き」


 メル子は続いてカツを食べようと箸を伸ばした。


「待ちなさいメル子」

「なんでしょうか?」

「一切れ食べるごとにキャベツを半分食べなさい」

「どういうことですか!?」


 黒乃はキャベツの山にソースをこれでもかと注いだ。純白の山が漆黒に染まった。


「かけすぎですよ!」

「これでいいのだ」


 黒乃はキャベツをもりもりと頬張った。


「うおっ、うおっ! うまい!」

「なにを言っていますか。たかがキャベツではないですか……」


 メル子も真似をしてキャベツを口の中に押し込んだ。その瞬間、アルプス山脈から吹き下ろす浄化された風のような爽やかさが口の中に吹き荒れた。


「美味しい! キャベツの千切りがとてつもなく美味しいです!」

「キャベツの甘みが秘伝のソースによって倍増されているんだ。そして刻みたての食感が脳に心地のよい振動を与える」

「口の中の脂が綺麗さっぱり洗い流されました!」


 二人は夢中になってキャベツを頬張った。その結果、二人の皿からキャベツが跡形もなく消え失せた。


「調子に乗って全部食べてしまいました!」

「ふふふ、案ずるなメル子。キャベツはおかわり自由だということを忘れたのかな?」

「ハッ!? そういえばそうでした!」


 その瞬間を狙って仲居ロボが現れた。手には山盛りのキャベツの皿を抱えている。


「キャベツのおかわりはいかがですか?」

「もちろんください!」


 仲居ロボはトングでどっさりとキャベツを盛ってくれた。


「キャベツが無限に食べられそうです!」

「ふふふ、この店の主役はカツレツではなくキャベツだと言っても過言ではない。ソースを丸々一本使う理由がわかっただろう?」

「そういうことでしたか!」


 二人はご飯をかっこんだ。カツを齧った。味噌汁を飲んだ。キャベツを頬張った。カツレツスパイラルの完成だ。


 二人の皿は今度こそ空になった。仕上げに大根のお新香をつまみながら店の穏やかな雰囲気に酔いしれた。


「ご主人様、これがカツレツですか」

「うむ。横浜が産んだ奇跡。明治の港町で働いていた人達も、このカツレツという見知らぬ外国からきた料理を目を輝かせながら食べたに違いない。現代とは作り方も味も違うのかもしれないけど、未知の世界への憧れは今も昔も同じさ」

「よくわかりませんけど、とにかく美味しかったです!」


 二人は大満足で店を出た。

 浅草へと向かう車内。

 

「ご主人様。揚げ物を食べた後なのに全く胃がもたれていませんね」

「うん、それがキャベツの効果。キャベツに含まれるキャベジンという成分が脂ものの消化を助けてくれるのだ。カツとキャベツ。まさにベストパートナー。そう、ご主人様とメル子のようにね」

「ところでご主人様、その包みはなんですか?」

 

 メル子が指を差したのは黒乃が抱えているロボ烈庵の文字がプリントされた箱だ。


「ふふふ、これね。お土産」

「なんでしょう? 秘伝のソースですか!?」

「ぐふふ、ハズレ。これカツレツサンド」

「え!?」


 その答えにメル子は一瞬、胃に鉄アレイをぶち込まれた気分になった。


「いくらキャベツ効果があっても、今カツを食べたばかりですよ!? またカツを食べる気なのですか!?」

「うん、これデザート。パンに染み込んだソースが堪らないの。ぐふふ」

「デザート……」


 メル子は顔を青くしてプルプルと震えた。横浜の港が車窓から遠ざかっていった。

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