第254話 ULキャンプです!

 夕食後の小汚い部屋。黒乃は床にずらりと並べられた道具を満足そうに眺めていた。


「ふんふん、いいねいいね」

「ご主人様、キャンプ道具ですか?」


 床に整列しているのは最新のキャンプギアだ。クッカー、焚き火台、鉄板、ナイフ。どれも完璧に磨き上げられ、美しく光を反射している。


「そうそう、明日二人でキャンプに行こうと思ってね。前からちょっとずつ道具を揃えていたんだよ」

「明日ですか!? ずいぶん急ですね。なんの準備もしていませんよ!」


 黒乃は焚き火台を持ち上げ、電灯に照らしながらニヤリと笑った。


「ふふふ、それでいいのさ。明日行くのはULキャンプ、その中でもさらにライトな『ザブトニング』だからね。準備はいらないのさ」

「ULキャンプ!? ザブトニング!? 謎の単語を連発しないでください!」



 ——翌朝。

 黒乃とメル子は電動自転車に乗っていた。四月の爽やかな青空と澄んだ風の下を軽快に駆け抜ける。


「ご主人様! 気持ちがいいですね!」

「いや〜、いい気分だ。絶好のザブトニング日和だよ」

 

 二人が自転車で目指しているのは荒川あらかわの河川敷だ。荒川は埼玉の秩父から東京湾に注ぎ込む延長173キロメートルの一級河川だ。浅草付近では隅田川に並行して走っている。川幅は隅田川より遥かに広く、その河川敷は様々な目的に利用されている。浅草からはほんの四十分で到着する。


「ご主人様、そろそろそのザブトニングとやらを教えてくださいよ」

「ふふふ、そうだね。まずその元となるULキャンプから説明しよう」


 ULキャンプのULとはUltra Lightのことだ。超軽量という意味である。一般的にキャンプ装備は総重量が二十キログラムを超えることも珍しくはない。テント、寝袋、タープ、マット。必要なものは山ほどある。当然お金がかかるし、準備に手間もかかる。移動も大変だ。

 そこで昨今ブームになっているのがULキャンプだ。装備重量を極力減らしてもっと気軽にキャンプを楽しもうという概念だ。ULキャンプの場合、装備重量は十キログラムを切る。


「確かに装備が軽い方がお手軽でいいですね。お金もかからないですし、労力も減ります」

「近頃キャンプが人気なのは、このULの概念が広まってきたからとも言える」


 間もなく荒川に辿り着いた。広い河川敷の土手の上を颯爽とペダルを漕ぐ。その回転は軽妙だ。二人が装備しているのは中サイズのリュックサック一つだけだからだ。


「しかし、今日の装備はずいぶん軽いですね。重さにして三キログラムしかありません」

「その通り。今日はULキャンプの中でもさらに軽量なザブトニングだからね」

「出ました! ザブトニング!」


 ULキャンプのスタイルの一つとして『チェアリング』なるものが存在する。その名の通り椅子でキャンプを行うのだ。通常のキャンプはテントを設営するのに対して、チェアリングは椅子を設置するだけでいい。テントも寝袋もいらない日帰りキャンプだ。大幅に重量を削れるというわけだ。

 しかしザブトニングは椅子すら持っていかない。持っていくのは座布団だけだ。ザブトニングは究極のULキャンプなのだ。



 そうこうしているうちに荒川河川敷にビービーキュー場が見えてきた。


「ご主人様! 結構人がきていますね!」

「アウトドアブームだからねえ。気軽にアウトドアを楽しめる河川敷のビービーキュー場は人気だよね」


 しかし二人の自転車はビービーキュー場を通り越した。


「あれ? ご主人様、ここではないのですか?」

「もうちょい先だよ」


 しばらく走ると人っ子一人いない河川敷に辿り着いた。背の高いヨシが生い茂り、視界を遮っている。

 黒乃は自転車から降りてヨシを掻き分けた。


「ここでキャンプをするのですか!?」

「そうだよ」


 そのままヨシの林を進むとぽっかりと空いた空間が現れた。目の前はすぐ川面である。


「ご主人様!? こんなところで勝手にキャンプをしてもいいのですか!?」

「もちろん大丈夫だよ」


 国有の河川敷は原則自由使用が許可されている。荒川などは六割が民有地であるが、それ以外の場所であればキャンプやビービーキューをしてもいいのだ。ただし国土交通省が定める河川敷使用のガイドラインに従うことを忘れてはならない。


「さあ、到着した。さっそくザブトニングを始めようか」

「はい!」


 二人はリュックサックを下ろすと座布団を敷いた。まずはこれがなくてはザブトニングは始まらない。その上にドカりと座り込む。


「えーと、そしたら焚き火シートを地面に敷いてね」

「これですね!」


 五十センチメートル四方の耐熱シートである。キャンプ場によっては焚き火シートの使用が必須になっている。地面を熱から守るためだ。


「そしたらこれ、ミニ焚き火台」


 黒乃は小さなポーチを取り出した。その中から出てきたのは十二センチメートル四方の板切れだ。


「これが焚き火台なのですか!?」

「うん。この板を組み合わせると箱型の焚き火台になるんだよ」


 黒乃は器用に板を組み合わせて箱を作った。ちょこんと焚き火シートの上に立つ金属の箱。メル子も真似をして自分の焚き火台を組み立てた。


「うふふ、これ可愛いですねえ!」

「でしょう? 小さくて可愛くて軽い。重さなんと百グラム。チタン製だから」

「百グラム!?」


 メル子は荷物を漁った。そしてあることに気がつき、顔を青くした。


「ご主人様! 大変です!」

「どしたの?」

「燃料がありませんよ! 薪も炭もガスもありません! これでどうやってキャンプをするのですか!?」


 黒乃はリュックサックから手のひらサイズの小さな缶のようなものを取り出した。


「これがそうだよ」

「それ燃料だったのですか!? 缶詰かと思っていました!」


 メル子は缶の蓋を開けた。中には青い蝋のようなものが詰まっていた。


「なるほど。固形燃料なのですね」

「うん。廃棄される植物から抽出したエタノールだから、とても安心安全エコロジカルなのだ」


 その缶を焚き火台の中にセットする。メタルマッチを擦り、火花で着火をする。いとも簡単に大きな炎が立ち昇った。


「結構火力が強いです!」

「これで一時間以上燃えるから、料理には充分だよね」

「はい!」


 焚き火でまずすることといえば炊飯すいはんだ。円筒形のクッカーの中にはあらかじめ研いだ米と水が入れてある。サイクリングの間に充分に吸水はされている。

 黒乃とメル子はそれぞれ自分の焚き火台の上にクッカーを乗せた。


 二人は座布団に座り、炎をのんびりと眺めた。焚き火台の向こうには緩やかに流れる荒川の水面だ。魚が泳ぎ回り、水鳥達が羽を休めている。


「穏やかですねえ」

「だねえ」

「地面が近いと逆に視界が広がったような気がしますね」

「うん、これがザブトニングの効果だよ。椅子よりも背が低いから空が遠く感じるんだよね」


 地面が近いのには他にも利点がある。テーブルが必要ないのだ。椅子に座る場合、各種道具を椅子の高さに合わせる必要がある。つまりテーブルが必要なのだ。ザブトニングはあらゆる道具を地面に直接置く。テーブル分の重量をカットできるというわけだ。


 クッカーに変化があった。グツグツと煮える音と共に汁が溢れ出してきた。米の甘い香りが二人の鼻をくすぐった。


「ご主人様! もう炊けましたか!?」

「まだまだ。ここから弱火で十分」


 黒乃は固形燃料の缶の上に穴の空いた蓋を被せた。これにより火力調節が可能だ。

 程なくして米の甘い香りの中に香ばしさが加わった。炊き上がりの合図である。


「ご主人様! 炊けましたか!?」

「うん。火から下ろして蒸らし十分ね」

「なかなか食べられませんね!」


 この間におかずの準備に入る。黒乃は小さな鉄板を焚き火台の上に乗せた。


「ぐふふ、キャンプといえばお肉ちゃん。さっきスーパーで買ったツラミとハツね」

「牛の頬肉と心臓ですね! 私は塩ジャケを買いました!」


 二人はそれぞれの食材を鉄板に乗せた。鉄板が奏でる軽快な音色が河川敷に広がった。


「うひょー! やっぱお肉ちゃんは丸ごと焼くのがいいねえ!」


 黒乃は肉を塊のまま焼いているようだ。メル子もシャケの切り身を二枚焼いていく。食材に火が入るにつれ、二人のお腹の楽器もアンサンブルを始めた。


「ご主人様! シャケが焼けました!」

「そろそろご飯の蒸らしもいいね。じゃあ食べようか!」


 二人は焚き火台の横で保温をしていたクッカーの蓋を開けた。途端に湯気が吹き上がり、二人の顔を包んだ。


「ふわー! いい香りです!」

「どれどれ……おお! 完璧な炊き上がりだ!」


 甘い香り、香ばしい香り。それらを吸い込むと歯が浮くような感触が現れ、次いでよだれが溢れてきた。二人は箸をクッカーに突っ込みご飯を一口頬張った。


「うまい!」

「美味しいです!」


 焼き上がった塩ジャケをご飯に乗せた。身をほぐし、米と一緒にかっこむ。


「ぐわわ! お米と塩ジャケ! 質素なご飯がなぜこれほどうまい!」

「川辺で食べるお米とお魚! これぞ日本の原風景です! 太古の血潮がデオキシリボ核酸に刻まれているのです!」


 続いて肉だ。丸のまま焼いたのでまだ中までは火が通っていない。


「こうして肉をナイフでスライスして、鉄板で赤い部分に熱を通してから食べるのだ!」

「いいですね!」


 調味料は岩塩だ。指で摘み、パラパラと適量振りかける。そして勢いよく頬張る。


「うわっ! 脳にガツンときた!」

「表面をじっくりと焼き、最後にさっと中心を炙ることで柔らかさとジューシーさを両立しています!」


 二人はバクバクと肉に齧り付き、鉄板の上はあっという間に空になった。座布団に座った二人は腹をさすり青空を見上げた。


「うーい。食った食った」

「食べました〜」


 米と魚。スーパーの安い肉。たったこれだけで高級レストランの贅沢を味わった気分だ。


「なんていうのかな。普通キャンプって結構な大イベントじゃん」

「そうですね。準備も大変ですし、遠いですし」

「キャンプは言ってみれば非日常なんだよ。でもザブトニングは日常の延長なんだよね。荷物が少ないし、場所もそこらの河原でいいし。今日行こうと決めてすぐに出発できる」

「はい」

「この気軽さが気負わなくていいんだよ。絶対楽しんでやるぞっていう意気込みも必要ない。暇な時にちょろっときて、ちょろっと食べて帰る。これがザブトニングの醍醐味なのさ」

「なるほどですねえ。うんちくを語っていますが、ご主人様も今日が初めてですよね!?」


 二人は流れゆく雲を眺めた。固形燃料の残り火で湯を沸かし紅茶を飲む。至高のひと時が完成した。


 しかしその時、荒川の河原の砂利の隙間からたおやかな水面を荒立たせるかのような怠惰な声が響き渡った。

 オーホホホホ……オーホホホホ……。


「ぎゃあ! なんですかこの声は!?」

「こっちから聞こえるぞ!」


 二人は座布団から立ち上がり、すぐ横のヨシの壁を掻き分けた。その向こうには開けた空間があり、地面に二人の人物が横たわっていた。


「オーホホホホ! リラックスしている最中にごめんあそばせー!」

「オーホホホホ! リラックスでは負けてはございませんわえー!」

「「オーホホホホ!」」


 そこにいたのは金髪縦ロール、シャルルペロードレスの二人組であった。二人はなにもない地面に直に寝そべっている。


「うわっ、二人ともなにしてるの!?」

「ザブトニング被りですか!?」


 お嬢様たちはその言葉を聞き、ニヤリと笑った。


「オーホホホホ! まだまだでございますわねー!」

「これはお嬢様が提唱した『ジベタニング』でございますわよー!」


 ジベタニングとはULキャンプの最上位に位置する概念で、チェアリング、ザブトニングを遥かに超える領域にある。

 それはその名の通り、椅子も座布団も必要ない、地べたに直接座るスタイルのことなのだ。お嬢様たちはさらにそれをエスカレートさせ、焚き火台、燃料、食材などを一切持ち込まない究極のULキャンプを成し遂げたのだ。名付けるのならUltimate Ultra Lightキャンプ、略してUULキャンプだ!


「オーホホホホ! 勝ちましたわー!」

「さすがお嬢様ですのー!」

「いや、もうキャンプでもなんでもない」

「それは河原で寝ているだけです!」

「「オーホホホホ!」」


 お嬢様の止むことのない高笑いが、いつまでもいつまでも荒川の水面に反射を繰り返した。

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