第239話 ラーメン大好きメル子さんです! その八
『まもなく〜
シルバーにグリーンのラインがスタイリッシュな車両が町中の小さな駅に滑り込んだ。ホームは極度に薄暗く、今日の天気はそれに輪をかけるように薄暗い。
「ふ〜、着いた着いた」
「遠かったですね」
横浜線。横浜と八王子を繋ぐ横浜市民移動の要。十日市場はその中程の閑静な駅だ。駅ビルがあるわけでもなし、商店街があるわけでもなし。かといって薄汚れ寂れたという感じでもない、捉えどころのない駅である。
黒乃とメル子はバスのロータリーを通り抜け、街道沿いに歩き始めた。人通りはほとんどなく、車だけがひっきりなしに往来する。
「ご主人様! また横浜ですか!? 横浜好きですねえ」
「うん。横浜は名店が多いからね。店まで結構歩くから覚悟してね」
「はい!」
お昼にも関わらずあいにくの曇り空で町は薄暗い。雨も降りそうな雰囲気だ。
「今日はどのようなラーメンを食べられるのでしょうか!」
「ふふふ、今日はご主人様のとっておきだよ。ある意味究極のラーメン屋といっていいかもね」
「究極!? 楽しみです!」
二人は長い長い坂を登った。どこまでも続く長い坂。
「ハァハァ、横浜は……坂ばっかり!」
「遠いです! まだですか!? もう二十分は坂を登っていますよ!?」
「昔はご主人様もよくこの坂を登ってラーメンを食べにいったんだよ。懐かしいなあ」
「そんなに好きなラーメンなのですか?」
「一番好きといっても過言ではない」
黒乃のその言葉にメル子の期待は否応にも高まった。
いよいよ店の前に辿り着きメル子は唖然とした。プルプルと震え立ち尽くした。
「あの……ご主人様……」
「んん?」
「ここ……精米屋ですが……」
「だね」
メル子は青ざめた顔で黒乃の顔を見た。黒乃は精米屋を見つめ、なにかに思いを馳せているようだ。
「ご主人様!?」
「なになに」
「ラーメンを食べにきたのですよね!? お店が潰れているではないですか!」
「そうだよ」
「そうだよ!?」
黒乃は精米屋の扉を開けて中に入った。メル子もそれに続く。もちろん精米もするラーメン屋であるとか、ラーメンも作る精米屋であるとかではなく、純粋な精米屋だ。
「実はね、このラーメン屋はもう二十年も前に潰れてしまったんだよね」
「じゃあなぜ来たのですか……それに二十年前だと時系列が合いません……」
「今日はその今はなきラーメン屋の思い出を皆様に届けようと思って来たのさ。ご主人様が一番好きなラーメンのね」
「妄想回ですか!?」
ホワホワホワホワン。
黒乃達は二十年前にタイムスリップした。
——元祖ネギラーメンロボ浜ラーメン。
横浜の山の上に佇むとてもとても地味なお店。
一戸建ての店舗の前面はガラス張りになっており、カウンターとテーブルが二つ並んでいるのが見える。店の前には駐車スペースが二台。今はそのどちらも空だ。
黒乃はガラスの引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
「いらっしゃいませ〜」
笑顔で出迎えてくれたのは老夫婦だった。白い調理服に白い帽子、穏やかそうな大将と、白いエプロンが可愛らしい少し腰が曲がった女将さんだ。
黒乃とメル子はカウンターに座った。年季が入ってはいるが、綺麗に掃除された店内。白いカウンターに回転する丸椅子。
目の前には小さなメニュー表。それに胡椒、ラー油、お酢などの中華料理屋定番の調味料。
店内に広がるのは甘いネギの香り。
女将さんがコップに水を汲んで持ってきてくれた。
「あ、ありがとうございます」
メル子は水を一口飲んでメニューを眺めた。ラーメン、ネギラーメン、チャーシューメン、チャーハン。中華料理屋ではなく、ラーメン屋のメニューだ。
「ご主人様、なにを食べましょう?」
「ふふふ、メル子はなにを食べたい?」
「そうですね。結構歩いて疲れたのでガツンとチャーシューメンをいきたいです」
「ふふふ」
「ワロてますが」
その時、カウンターの中にいる大将が優しい声で伝説の呪文を唱えた。
「うちはネギラーメンが美味しいですよ〜」
メル子はポカンと口を開けた。そのあまりに滑らかな旋律と『間』に心が溶かされた。何十年と毎日毎日積み重ねてきた『うちはネギラーメンが美味しいですよ〜』の一言。
「この名言を聞くために来た」
「どういうことですか!?」
よく見るとメニュー表にも同じセリフが書いてある。
「そこまで推すならネギラーメンだけにすればいいのでは……」
二人は大将の言う通り、ネギラーメンを注文した。
「はい、ネギラーメン二丁。毎度ありがとうございます」
大将は黄色い麺をテボの中に放り込んだ。大将の背後では女将さんがこちらに背を向けて懸命にネギを刻んでいる。ザクザクとネギを切る心地よい音が店内に広がった。
「なんともまったりとしたお店ですね」
「昨今の緊張感のあるラーメン屋とは正反対だね」
女将さんがネギを切り終わるとボウルにそれを移した。大将が金属音をたててボウルをかき回す。タレを和えているようだ。
麺が茹で上がり、大将が湯切りをする。チャッチャと軽い音の後、丼に麺をあけた。最後に秘伝のネギを乗せて完成だ。
「ごゆっくり召しあがってくださいね〜」
女将さんの温かい言葉と共に熱々のラーメンが運ばれてきた。
「おおおおお! きた〜」
「きました!」
目の前に現れたのは昔懐かしいといった風情のラーメンだった。純白の丼に濃茶の透明なスープ。黄色が強めのちぢれ麺。ペラペラのチャーシューが一枚に、メンマとほうれん草。そしてどっさりのネギ。ネギは大きめの斜め切りだ。
「あ〜、いいなあ。これぞラーメンって感じだね」
「素朴なビジュアルですね。いただきます!」
二人はスープを掬い上げ口に含んだ。醤油が強めの鶏ガラスープだ。
「あ〜、癒される〜。心の底から癒される味だ」
「本当です。子供の頃に夢中になって飲んだラーメンのスープという感じです。最初に強めの塩味がきて、その後に鶏の旨み、最後にピリリとした味わいが舌を刺激します」
ネギのタレがスープに溶け出しているのだ。次に麺を勢いよく啜った。
「なんだろう、この甘み。麺が甘い」
「ピリ辛のスープとの対比で麺が甘く感じるのです。程よくちぢれた麺にスープが絡みついているからこそ起きる現象です」
チャーシューを齧る。流行りの低温調理チャーシューでもなければ、ガツンと脂が乗ったとろけるチャーシューでもない。
「中華料理屋のチャーシューだね」
「香辛料多めのやつですね!」
そしてネギだ。荒目に刻まれたネギをザクザクと噛み締める。
「このネギ、旨みの塊だな。無限に食べられるネギだ」
「豆板醤をベースにしたタレですね。胡椒も効いています。ともすれば豆板醤によってくどくなりそうですが、スープと合わさることによって、むしろあっさり感が生まれています」
タレがスープに旨みを与え、スープがネギに爽やかさを与える。相乗効果である。
二人はスープまで綺麗に飲み干した。
「プハー! 美味かった!」
「美味しかったです!」
完食し、まったりとしている二人に大将が声をかけてきた。
「美味しかったでしょ? うちがネギラーメンを最初に始めたんですよ」
「本当ですか!?」
メル子は店の名前を思い出した。『元祖ネギラーメン』だ。
「中華街の料理人はね、みんなうちに味を教えてくれって頼みにきてたんですよ」
「ほえ〜」
「ほえ〜」
大将の自慢話を女将さんは笑顔で聞いていた。
「……ご主人様……本当ですか?」
「……何回もこの話聞いたけど、本当かはわからん」
二人は大満足で店を出た。いつの間にか雲間に青空が見えるようになってきていた。
「ご主人様、なんとも居心地の良いお店でしたね」
「そうだね。大将と女将さんの人柄だろうね」
「ラーメンもなんというか、また食べたいと感じる味でした」
「そうなんだよね。特別ななにかがあるわけではないんだけど、無性にまた食べたくなる味なんだよね。ご主人様はもう食べたくなってるもん」
しかし黒乃の顔は曇っている。メル子はその理由を慮った。
「ご主人様がこの店に通っていたある時ね、大将の姿が見えなくなったんだよ」
「え……。ではお店はどうなったのですか?」
「女将さんが一人でお店をやってた」
メル子はなんとも言えない気持ちになった。かなりの高齢の婦人である。体は細く頼りない。
「すごく大変そうだった。それにやっぱりね、大将の味とは違うんだよ。当たり前だけどさ」
「大将はどうされたのでしょうか?」
「わからない。聞く勇気もなかったし」
黒乃の顔は沈んだ。
「大将はどうしちゃったんだろう? 女将さん一人で大丈夫なんだろうか? 色々考えたよ」
「それでどうなったのですか?」
「しばらくしてお店は閉じたままになってしまってさ」
二人は大将と女将さんに思いを馳せた。なぜ女将さんは一人で店をやろうと思ったのだろうか。結局一人では無理だったのだろうか。
「ずっと店が再開するのを心待ちにしていたんだけどね。ある日店の前を通りかかったら、この精米屋になっていたというわけさ」
「妄想から現実に帰ってきました!」
黒乃とメル子はとぼとぼと横浜の町を歩いた。
「ご主人様。色々と時系列が合いませんが、これ誰の話ですか?」
「え? 誰のってどういうこと?」
「いえ、忘れてください」
通い詰めた店。人柄のいい老夫婦。美味しいラーメン。そして別れ。
ただラーメンを食べるだけのはずが、思いもかけずに他人の人生を覗き見ることになってしまった。赤の他人だ。深く立ち入ることはできない。ただ思うだけだ。
「なんとも切ないお話でした。ご主人様もセンシティブな感情を持っていたのですね」
「どういう意味?」
妄想と同じように雲間から青空が見えてきた。青空が広がるのに比例して空腹も増してきた。
「結局ラーメンを食べられませんでした。どうしてくれますか!?」
「フハハ、そうだね。じゃあこの近所に家系ラーメンの老舗『ロボ桜』があるから寄っていこうか」
「はい!」
二人は元気よく坂を登り出した。
「坂しかない!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます