第237話 文明って最高です!
平日の朝。ボロアパートの前には通学や出勤の人々が行き交っていた。
黒乃とメル子はボロアパートの小汚い部屋の床に寝転がっていた。
「あああああああ」
「なんですか、うるさいですね」
「あああああああ」
黒乃は唸り声を出した。天井を見上げるとほのかな電灯のシャワー。肌を優しく包み込む空調のベール。
「あたたかーい」
「暖かいですね」
黒乃とメル子は心の底から文明を堪能していた。二人はつい昨日まで無人島でサバイバル生活をしていたのだ。八日間の地獄のようなサバイバル。生きて帰ってこれたことが奇跡のような環境であった。
「ご主人様、そろそろ服を着てくださいよ〜」
黒乃は全裸で床に寝転がっている。無人島での全裸生活に慣れてしまったようだ。
「え〜? 服を着るとなんかチクチクするし〜。メル子も脱ぎなよ」
「私は全裸サバイバルはしていませんので……ちょっと! 帯を引っ張らないでください!」
二人はひたすら天井を見上げて過ごした。なにもやる気が起きない。目を閉じると肉球島の大自然が瞼の裏に甦ってくる。土と潮の混じり合った香り、木々のざわめき、甲高い鳥の鳴き声。
この部屋にはそのどれもがない。あるのは安らぎと寛ぎ。
「ご主人様……」
「な〜に?」
「そろそろ出社のお時間ですが」
黒乃は手元のデバイスを操作した。ゲームスタジオ・クロノスの社員にメッセージを送る。
「『本日臨時休業』と……」
「お休みですか」
「この世のどこに遭難から帰った次の日から働く猛者がおんねん」
「確かに」
黒乃は床に寝転んだまま両腕を天井に向けて上げて伸びをした。
「ふぁ〜」
そのまま腕を両サイドに下ろした。すると隣で寝ていたメル子のお乳の上に手が落下した。
「ポヨン。あ、ごめん」
「わざとやりましたね?」
「わざとじゃないよ」
「なぜすぐに嘘をつくのですか。ポヨンと言いましたよね?」
黒乃は横を向きメル子を見た。メル子はポカンと口を開けて虚空を見つめている。
「ねえ、メル子」
「なんでしょうか?」
「もうお昼なんだけど」
「そうですね」
「お腹すいたからお昼作ってよ」
「なぜ私が作らないといけないのですか」
「なぜってメイドロボだからでしょ」
しかしメル子は動かない。
「言えば料理が出てくる。そんな甘い世界ではないのですよ」
「もうサバイバルは終わったんだけど」
黒乃はメル子の
「ねえ、ご飯。ご飯を作ってよ」
「しょうがないですね」
メル子は寝ていたパンダが起き上がるかのような緩慢な動作で冷蔵庫まで歩くと中を確認した。
「なにも入っていませんね」
「まさか家の中でまで食料不足になるとはなあ」
一週間のサバイバル合宿の予定で肉球島に向かったので、当然冷蔵庫の中身はほぼ処分してから出かけたのだ。
「しょうがない。ご主人様のとっておきを出すか」
黒乃は寝ていた象が歩き出すかのような緩慢な動きで押し入れまで這った。襖を開け、段ボール箱を漁った。
「ロボヌードルがあった」
「いいですね」
「お湯を沸かさないと。メル子、薪を持ってきて」
「ご主人様」
「なに?」
「もうサバイバルは終わりましたので、お湯はガスで沸かしましょう」
「ああ、そうか」
メル子はヤカンに水を汲み、コンロに置いた。数分でお湯が沸いた。
「文明って凄いな」
「蛇口をひねるだけで水が出てくるのも奇跡です」
暴走機関車のように白い湯気を吐き出すヤカンからロボヌードルの容器に熱湯を注いだ。紙の蓋にフォークを突き刺し封をした。
「ああああ、いい匂い!」
「文明の香りです!」
昨日はクルーザーの中で栄養補助ゼリーを食べただけであった。疲労のあまり、ろくに夕食もとらずに風呂にだけ入って布団に潜り込んだのだ。
「三分でご飯が食べられるなんて文明って凄い!」
「これを考えた人は天才ですね!」
二人はフォークを引き抜き、蓋をめくった。たちまち顔が湯気に包まれ、その中から文明の大海原が現れた。
「うひょー! 麺の大波だ!」
「このロボ肉は無人島ですね!」
しょうもない例えを炸裂させるとフォークを麺に絡ませた。そして天高く引き上げる。波打つ麺から滴る黄金色の滝。
「こりゃたまらん! ズルズル!」
「いただきます! ズルズル!」
二人は夢中で麺を啜った。焼けるような熱さと強烈な塩味が脳天を突き抜けた。
「味! 味が濃い!」
「なんですかこれは!? 味が何種類ありますか!?」
無人島で存在する味といえば塩味しかなかった。海水の塩分だ。しかし文明の中ではありとあらゆる味が同時に押し寄せてくる。
二人は一瞬にしてスープまで完飲した。フォークを使い、底に溜まったロボ肉の欠片を丁寧にこそぎ取って口に運んだ。大自然の中ではほんの少しの無駄も許されない。
「あ〜、信じられないくらい美味い」
「人類は恐ろしいものを発明してしまったのですね」
文明の味。人類の進化の証。食こそ科学の根源。黒乃とメル子は今、科学を食べたのだ。
二人は再び仰向けになった。空腹が満たされ、夢うつつとなった。
ドアベルが鳴った。
「ん〜? 誰だろう?」
黒乃はゆっくりと起き上がろうとした。しかしすかさずメル子がそれを制した。
「ご主人様は全裸ですので出ないでください」
メル子が扉を開けた。そこにいたのはヴィクトリア朝のメイド服を完璧に着こなしたメイドロボルベールであった。メル子は慌てて自身のメイド服を整えた。
「ルベールさん! いらっしゃいませ!」
「うふふ、お話は聞いていますよ。お疲れでしょうから持ってまいりましたよ」
ルベールが腕に抱えていたのはミニチュアハウスであった。
「あ! すっかり忘れていました!」
メル子は大事そうにそのミニチュアハウスを受け取った。サバイバル合宿に出発する前にルベールに預けていたのだった。
「黒乃様、ご無事でなによりです」
ルベールは全裸の黒乃に向けて慎ましくお辞儀をした。黒乃は胸と股間を隠して照れた。
「えへえへ。ルベールさん、わざわざありがとうございます」
「それとこちらも作りましたので、お二人でお召し上がりください」
メル子は包みを受け取った。中からは美味しそうな匂いが漂ってきている。
ルベールを見送ったあと、メル子はミニチュアハウスを床に置き天井を外した。そこには二体のプチロボット、プチ黒とプチメル子が待ち構えていた。
「二人とも! 元気でしたか!?」
プチ黒は全裸でプチ小汚い部屋の中で寝転がってケツをかいていた。プチメル子はなにやら腰に手を当てて頬を膨らませている。怒っているようだ。
「プチメル子、ごめんなさい! 八日間も放置してしまって!」
「まあでも、ルベールさんが預かってくれたから不自由は無かっただろうよ」
黒乃はプチ黒を指でつついた。プチ黒は面倒くさそうにその指を払いのけた。
「なんでお前まで全裸なの?」
二人はルベールからもらった包みを解いた。中から出てきたのはホットサンドイッチだ。熟成したチェダーチーズとハムをトーストで挟んだイギリス伝統のレシピだ。
ロボヌードルを食べたばかりであるが、堪えきれずに齧り付いてしまった。
再び二人で天井を見上げて過ごした。今何時だろう? 確認する気力もない。
無人島では時間の経過は太陽を見て判断した。デバイスの時計で確認はできるがしなかった。大事なのは時刻ではなく、太陽がどの位置にあるかなのだ。
文明の中では太陽の位置を気にすることはない。時刻に縛られて生きているからだ。例え太陽が東から昇ってこなかったとしても、人々は時計の示す時刻の通りに電車に乗るだろう。
部屋の中は変化に乏しい。いつでも明るく、いつでも快適だ。大自然は変化が激しい。光か闇かだ。
「メル子〜」
「なんでしょうか?」
「夕飯作って〜」
「食材がありません」
「じゃあ買ってきて〜」
「外は寒いので嫌です」
「ご飯作らなかったらメイドロボじゃないよ〜」
「メイドロボでも食材が無かったら無理です」
二人は重い腰を上げた。
そうだ。買いにいけばいいのだ。文明の中ではお金を支払えば食材が手に入る。無人島で食材を得るには、多大な労力を支払った。労力を支払えば食材が手に入るとも限らない。しかし現代社会では労力分のお賃金は支払われるのだ。
「楽なもんだ。働けばいいだけなんだから」
「ですね。あと外へ出るなら服を着てください」
黒乃達は寒空の下へ繰り出した。
すっかり日は落ち、星空が広がっていた。星空はどこでも変わりがない。無人島で眺めたものと同じだ。
「ハル達はどうしてるかなあ」
「どうしていますかねえ」
二人は街灯に照らされながら歩いた。
安全な文明の中から過酷な運命を背負った彼らを心配するのはおこがましいことであろうか? 文明の中では人はなにもしなくても様々なものに守られている。では彼らを守ってくれるものはなんであろうか?
そんな思いも目の前のスーパーマーケットの明かりに照らされるとまもなく霧散した。
「メル子〜、お嬢様たち呼んでタコスパーティしよ〜」
「いいですねぇ! でも明日からちゃんと働いてくださいよ!」
「ふぁーい」
人は与えられた環境で精一杯生きるしかないのだ。
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