第219話 さよならお月様です!
黒乃は小汚い部屋の窓の桟に腰掛け夜空を見上げていた。怪しく光る月輪が黒乃の青白い顔を赤く照らした。
「メル子〜、見てごらん。今日は満月だよ」
「ご主人様、窓を開けたら寒いですよ」
メル子は料理の手を止めて渋々窓辺にきた。桟に手を置き空を見上げた。
「本当ですね。こんなに綺麗に見えたのは久しぶりです」
メル子はうっとりと月を眺めた。
「不思議だなあ〜」
「なにがですか?」
黒乃は月へ向けて指を差した。
「あそこにマヒナとノエ子がいるんだよね?」
「もちろんそうですが」
「でも人が住んでいるようには全く見えないよ」
メル子は呆れた。息を吐いて料理に戻った。
「見えるわけがないですよ。月まで四十万キロメートルも離れているのですから」
「そっか〜。お? 流れ星だ」
「見せてください!」
メル子は黒乃を突き飛ばして窓から身を乗り出した。
「流星群です! あれ? でもおかしいですね? あの流れ星、落ちてきているというより昇っていっているような」
月に雲がさしかかり、その美しい姿を覆い隠した。
——月面、ロンドン
ウェストミンスター宮殿を模した巨大な建築物にマヒナとノエノエはいた。
地球のこの宮殿は王達が住居として使用したのち、近代では議事堂として使われるようになった。それにあやかり、月のウェストミンスター宮殿も同じく議事堂として使用されている。
月世界に数多く存在する基地。その首脳達がこの宮殿に一堂に会していた。
『月面サミット』である。
マヒナ達の所属するハワイ基地、ニュージーランド基地、ジャカルタ基地、四国基地、マダガスカル基地、ジャマイカ基地。円卓に座った各基地の代表は皆一様に重苦しい表情を見せていた。このサミットの議題を聞けば笑顔のかけらさえも絞り出すのは難しいだろう。
褐色肌の美女マヒナ。ハワイ基地の女王は儀礼用のドレスに身を包み、円卓に座った面々を見渡した。彼女の椅子の後ろに立つのは褐色肌のメイドロボノエノエ。ナース服をベースにしたメイド服が麗しい。
「議長、全員揃っているようだが。始めないのかい?」
マヒナはロンドン基地の代表に向けて言った。その浅黒い肌の若い代表は滝のように汗を流しながら答えた。
「博士が遅れているのです」
その言葉と同時に会議室の扉が開いた。円卓の面々が一斉にそちらに顔を向けた。中には起立しその人物を迎える者もいた。
その人物は伸び放題の白髪を後ろに無造作に撫でつけた小柄な老人のロボットであった。豊かな口髭を蓄えてはいるが、整えられているとは言い難い。分厚い生地のスーツが重そうに見えるくらいのしょぼくれた老人である。
「アインシュ太郎博士!」
「アインシュ太郎博士!」
アルベルト・アインシュ太郎。理論物理学ロボット。近代ロボットの父である隅田川博士によって生み出されたロボットの一人。トーマス・エジ宗次郎、ニコラ・テス乱太郎、ルベールの兄弟と位置付けられる人物である。
アインシュ太郎は気難しい顔で一同を睨め付けると部屋の奥へと歩き出した。
「アインシュ太郎博士」呼び止めたのはマヒナだ。
「おお、マヒナちゃん。大きくなったの」
先程までのいかめしい顔は消え失せ、子供のような笑顔をのぞかせた。
「マヒナちゃんはやめてください。アタシはハワイ基地の代表として来ているのですから」
「ひゃひゃひゃ」
アインシュ太郎はおどけてうやうやしいお辞儀をした。
「これは失礼をしました、女王様」
「博士!」
アインシュ太郎は少しだけ悲しい表情を見せ大型のスクリーンの前に立った。議長が会議の開催を宣言した。
「急遽皆様にお集まりいただいたのは、月の、いや世界の危機をお知らせしなくてはならないからです」
議長の言葉に出席者達はざわつき始めた。
「可及的速やかにこの問題に対処し、解決をしなくてはなりません。月世界のみならず、この太陽系全体に影響を与えることなのです。前置きはこのくらいにして、ゴホン、アインシュ太郎博士、よろしくお願いします」
スクリーンに明かりが灯った。そこに映し出されたのは月であった。
「単刀直入にいう。『スフィアロトロン』が暴走状態に陥った」
その言葉を聞き会議室は凍りついた。皆青ざめた表情を見せた。ガタガタと震えるもの、机に突っ伏して動かなくなるもの、手を合わせ祈りだすもの。
フォークランド代表が拳で机を激しく叩いた。
「だから! あんなものは役に立たないと言ったんだ!」
「あれが暴走を起こしたりしたら!」
「誰の責任だ!? どう責任をとる!?」
「地球に連絡は!? どうなっている!?」
各基地の代表達は口々に捲し立てた。議長が静粛を求めたが場は混乱するばかりだ。
アインシュ太郎が右手を挙げた。その瞬間、再び会議室は氷のように固まった。
「知っての通りスフィアロトロン計画は極秘プロジェクト。地球に頼ることはできん。我々だけで対処せねばなるまい」
『スフィアロトロン』。
隅田川博士が開発した球状粒子加速器。それは本来世界に一つしか存在しないもののはずであった。かつて浅草に存在した隅田川研究所。その内部にあったものだ。
しかし隅田川研究所は何者かに襲撃され、量子兵器によって量子状態に移行した。以降隅田川研究所、隅田川博士、スフィアロトロンは存在する状態と存在しない状態が重ね合わさった状態でこの世を彷徨うこととなった。
そのスフィアロトロンが月にも存在していた。アインシュ太郎によって開発されていたのだ。
スクリーンに月の断面図が表示された。
「ご存じスフィアロトロンは月の地中奥深くに建設されておる。その目的はエネルギー生産のためじゃ」
月世界は物資を地球に大きく依存している。各基地は独立した『閉鎖系』を作り環境を維持している。しかしそれでも外界とのエネルギーの交換は不可欠である。それ故月世界は地球から独立できずにいるのだ。
そこで考え出されたのが『スフィアロトロン計画』だ。物質から膨大なエネルギーを取り出し、月を完全な『孤立系』として成り立たせるための計画である。
「月の内部は度重なるスフィアロトロンの稼働により、多くの部分が量子状態になっておる。この状態が続けば月全体が量子状態になり、月は消滅するじゃろう。月を失った地球には天変地異が降りかかる。公転軌道がずれ、地球は灼熱地獄と極寒地獄が交互に訪れる死の星となる」
再び会議室に罵声と怒号が飛び交った。
マヒナが立ち上がり叫んだ。
「博士! 対処法は!?」
「観測によりスフィアロトロンの量子状態を収縮させるのじゃ! 名付けて『
会議は解散となった。即時観測者作戦の実行に移らなくてはならない。
作戦の指揮を執るのはマヒナ、それに付き従うのは彼女のメイドロボ軍団MHN29だ。軍隊も兵器も持たない月世界で最強の存在だ。観測者は多い方がいい。
作戦は単純。ロンドン基地近郊にある大隧道を通り、地中奥深くに設置された暴走状態にあるスフィアロトロンを観測して収縮させる。
マヒナとMHN29達は特殊スーツを着込み大隧道を進んでいた。大隧道には大気が存在しない。本来ならば運搬用エレベーターがあるはずなのだが、スフィアロトロンの暴走により稼働できなくなっているようだ。
仕方がなく一行は急な斜面を徒歩で進んでいた。徒歩といっても月の重力は地球の六分の一しかない。加えて下り坂である。移動は早い。
「マヒナ様、不自然なことが」
ノエノエがデバイスを見ながら訴えた。
「どうした、ノエノエ?」
「月面との通信が途絶えました」
「スフィアロトロンの暴走の影響か?」
「そのようなはずは……」
一行は順調に進み、球状粒子加速器スフィアロトロンの前まで辿り着いた。
「おかしい……」
目の前には巨大な扉がそそり立っている。ミサイルの直撃にも耐えられるナノメタル製だ。この扉を開けられる権限を持っているのは月の自治政府の中でも選ばれた数人だけだ。
その権限を使いマヒナは扉を開けた。大きな音を響かせ(実際は振動が床を通して伝わってきただけだが)、ゆっくりと時間をかけて扉は開いた。
「おかしい」
一行はスフィアロトロンの施設内に足を踏み入れた。異常はなにも感じられない。スフィアロトロンは問題無く稼働していた。
「おかしい! なんだこれは!?」
施設内を探し回ったが全て正常であった。
「マヒナ様! 多数の飛翔体の接近を感知! 大隧道に迫っています!」
「これは罠だ! 扉を閉じるぞ! 何分かかる!?」
「間に合いません!」
マヒナはアインシュ太郎のふざけ笑いの顔を思い浮かべた。
「博士ー!!!!!」
——宇宙船。
アインシュ太郎は月の軌道から外れ、地球に向かう宇宙船の中にいた。
その窓から月を眺めた。月に向けて飛来するミサイル群を眺めた。
「ふふふ、ワシの計画もこれで完了じゃ。『
月が光った。目が眩むほどの光量に思わず瞼を閉じた。
「これで人類は飛び立てる。このちっぽけな太陽系を離れて、広大なる銀河へと飛び立てるのじゃ! ひゃひゃひゃひゃ!」
再び目を開けると月は跡形も無くなっていた。完全に量子状態へと移行したのだ。
「あとはワシの観測者としての権限を使い、月を生まれ変わらせるだけじゃ」
——ボロアパート。
「今日も月が綺麗だな〜」
「ご主人様、またお月見ですか? 寒いので窓を閉めてくださいよ」
「うん……うわっ!? なに!? 今、空が光ったけど」
「なんでしょう? 確かに光りましたね」
二人は夜空を見上げた。煌めく満天の星空に虚空が一箇所。
「んん? あれ?」
「どうしました?」
「お月様はどこ?」
「なにを言っていますか。あそこに、ほら……あれ?」
二人は夜空を探した。ついさっきまであった月を探した。
「ねえ、どこよ? お月様がなくなったらマヒナ達が困っちゃうよ。どこ〜? 出てきてよ〜!」
「どういう現象ですか? あ、見てください。あるじゃないですか」
メル子が指を差した先には先程と全く同じ赤く光る月が浮かんでいた。
「なんだ、あるじゃんよ。よかった〜」
「もう、なんなんですか。ちゃんと探してくださいよ」
「メル子だって見失ってたでしょが」
二人はお月様に照らされながら大騒ぎをした。
——宇宙船。
「なんじゃと!?」
アインシュ太郎は驚愕していた。新たなる太陽として生まれ変わるはずの月が再び元の姿を取り戻したのである。
アマテラスはツクヨミにより討ち倒されたのだ。
「これはどういうことじゃ!? ワシの権限が弾かれて、別の観測者が優先されたというのか? そうじゃ、こんなことができるのはマスター権限を持つものだけじゃ! 手に入れなければ……あの時に失われたはずのマスター権限を手に入れなければならないのじゃ!」
アインシュ太郎を乗せた宇宙船は地球へと飛び立った。
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