第212話 ボロアパートです! その四

 黒乃とメル子は呆然と駐車場に膝をついていた。

 目の前には見慣れたボロアパートがある。失われた我が家が帰ってきたのだ。


「オーホホホホ! 黒乃さん、お疲れ様ですわー!」

「オーホホホホ! ご無事でなによりですわー!」

「「オーホホホホ!」」


 高笑いを炸裂させたお嬢様たちを二人は口を開けたまま見上げた。


「私達どうやって助かったの!?」

「体が量子状態になって消えてしまったはずです!」


 黒乃達は量子状態になって消えてしまったボロアパートとその住人達を救い出すため、量子アパートへと侵入した。そこでローション生命体『ソラリス』と戦いになり、見事勝利を果たした。

 しかし、ソラリスが最後に起動させた粒子加速器『スフィアロトロン』によって二人の存在は量子状態へと移行してしまったのだ。そのまま存在が消え去るかと思われた時、お嬢様たちの出現によって再び現実に戻ってこれたのだった。


「簡単ですわー!」

「ロボチューブの配信をしたのですわいなー!」

「どういうこと!?」

「それはワシから説明させてもらおうかの」


 ボロアパートの中から老人の声が聞こえた。その声に驚き一行は声の方を見た。


「ワシじゃよ」


 ボロアパートの一階の角部屋。紅子べにこの部屋の扉が開き中から現れたのは禿頭の老人だ。


隅田川すみだがわ博士!?」


 背の低い、薄汚れた白衣を着た老人。頭には僅かに白髪が残っている。顔の真ん中には大きな丸い鼻が収まっていた。

 そして腕には赤いサロペットスカートを履いた幼女を抱いていた。


「紅子ちゃん!」


 メル子は紅子に駆け寄った。博士から紅子を受け取るとしっかりと抱きしめた。意識はないようだがゆっくりと寝息を立てている。


「心配するでない。お主達のおかげでワシの娘は無事じゃよ」


 黒乃とメル子は胸を撫で下ろした。隅田川博士は語り出した。


「お主達が助かったのは『観測者』が増えたからじゃ」

「観測者?」

「ロボチューブの視聴者のことですわー!」


 大勢の視聴者がボロアパートを観測したことにより電子雲が収縮し、ボロアパートが存在する状態に確定したのだ。


「それまではソラリスがマスター観測者としての権限を使い、ボロアパートは存在しない状態に収縮しておった。しかしお主達がソラリスを倒したことによりマスター権限が移譲され、再び重ね合わせ状態に戻ったのじゃ。あとは大勢の観測者の力で再び状態が収縮したというわけじゃ。結構ギリギリじゃったがのう」


 黒乃はその話を聞き、マリーに歩み寄ると力一杯抱きしめた。


「うう、ありがとう。マリー、ありがとう」

「まったく世話が焼けますわねー!」

「お嬢様にかかればちょろいもんですわー!」


 続いてアンテロッテを抱きしめて感謝の言葉を伝えた。もちろんこっそりお乳を揉んだ。


「ではそろそろ、ワシは消えるとしようかの……」


 隅田川博士は寂しげな表情を見せた。一同はその言葉にハッとした。


「消えるって、どういうこと?」

「どこにいくのですか!?」


 博士はニヤリと笑った。


「あの世じゃよ! 元々ワシは何十年も前に研究所ごと量子状態になってこの世を彷徨っておった幽霊みたいなものじゃ。マスター観測者としての権限を使い無理矢理存在をこの世に確定させておったが、もうその権限もあらんのでな」

「そのマスター観測者の権限ってのがよくわからないけど、ソラリスに奪われたんでしょ? じゃあソラリスを倒したんだから権限が戻ってきたんじゃないの?」


 博士はゆっくりと首を振った。そして黒乃を指差した。


「権限は確かにソラリスから戻ってきた。ただし黒乃、お主にの」

「私に!?」


 突然博士の姿が揺らめき始めた。再び量子状態へと移行しようとしているようだ。


「ワシはマスター観測者として世界を見てきた。世界のロボットを見守ってきた。ロボット達はワシの子供みたいなものじゃからの。ロボットがこの世界に生まれてからほんの数十年。これからじゃ。ロボット達が本当にこの世界で生きられるかはこれからにかかっておるのじゃ。ワシにはもうそれを見届けることはできない」


 博士は黒乃の前まで来るとその肩に手を置いた。


「だから黒乃よ。お主が世界のロボットを見守るのじゃ」

「私が!?」

「世界一ロボットを愛する男であるお主にしかできないことなのじゃ」

「いや、女だけれども」

「お主を新たなるマスター観測者に任命する!」

「ええ!?」


 マリーが手を叩いた。

 アンテロッテが手を叩いた。

 メル子も手を叩いた。


「おめでとうございます、ご主人様!」

「おめでとうですのー!」

「ご立派ですのー!」

「これ、めでたいことなの!?」


 博士は黒乃達の後ろに視線を向けた。


「ニコラ・テス乱太郎よ。トーマス・エジ宗次郎やルベール達によろしく言っといてくれるの?」

「ん〜、あの二人には会いにくいね〜」


 黒乃は我に返って訴えた。


「そうだ、隅田川博士! この変態に言ってやってよ! 世界を貧乳ロボだらけにするのをやめるようにってさ!」

「こら〜、なんてことを言うのかね〜」

「ガハハハハハハ!」


 隅田川博士は大いに笑った。大きな鼻が上下に震えた。


「ワシがこいつらに自由意志を与えたのじゃ。いまさらそれを否定することはできんじゃろ」

「ええ!? いや、しつけはしろぉ!」


 博士の姿がさらに激しく揺らめきだした。今にもその姿が消えそうだ。


「ワシはマスター権限を使い、地球規模まで確率の分布を広げた。権限を失ったワシはもう二度と収縮することはできんじゃろう。じゃが紅子は別じゃ。紅子はまだ生きられる。紅子を頼むぞい」


 黒乃は博士の視線を真っ向から受け止めた。


「博士……わかった。ロボット達がこの先どうなるか、私が見届けるよ。紅子も任せて」

「博士! 博士がいたから私達ロボットはこうしてここにいます! 本当にありがとうございました!」


 隅田川博士は最後に優しい笑顔を見せた。そしてその量子は地球全体に広がり霧散した。


 黒乃達は空を見上げた。次々に雲間から光が差し込み、やがて雲は消え去った。

 透き通るような青空に博士の顔が見えたような気がした。



 ——後日。

 復活したボロアパートの小汚い部屋で黒乃とメル子は紅茶を嗜んでいた。


「ふ〜、うまい」

「よかったです」

「やっぱりボロアパートが一番くつろげるね」

「はい!」


 見飽きたはずの薄汚れた小汚い部屋が、今ではこの上なく愛おしく思えてくる。結局帰る場所はここしかないのだ。

 二人はテーブルの上のプチ小汚い部屋を眺めた。そのミニチュアハウスの中ではやはりプチ達がティーカップでナノペーストを飲んでくつろいでいた。


「お前らもご苦労さん」

「プチ達のおかげで助かりました」


 覗かれているのに気がついたプチメル子は大きく手を振って応えた。プチ黒は眠そうに大あくびをした。


「ところでご主人様、マスター観測者の権限は使えるようになりましたか?」

「うーむ」


 隅田川博士から権限を譲り受けて以降、黒乃は毎日その能力を使おうと試しているものの、一度も発揮できた試しがない。


「だいたい、どうやって権限を使ったらいいのかがわからないんだもん。博士も取説くらい置いていってほしかったよ」

「どなたか量子力学に詳しい人はいませんかね」

「ええい! いでよ! 紅子! いでよ!」


 黒乃が必死に念じると押し入れの中から紅子が襖を通り抜けて現れた。


「ぎゃぽぽぽぽ!」

「でました!」


 突然の出現に黒乃とメル子は椅子から転がり落ちて床に這いつくばった。


「黒乃〜、メル子〜、うちきて遊ぶ〜」

「うちってニコラ・テス乱太郎の地下研究所でしょ? いやだよ!」

「紅子ちゃん、この部屋で遊びましょう! プチもいますよ!」

「遊ぶ〜」


 こうしてボロアパートでの日常が帰ってきた。

 ロボット達を見守ってきてくれた偉大なる隅田川博士はもういない。これからは自分達で未来を切り開いていかなくてはならないのだ。

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