第200話 これが最終話です!

 森の中にひっそりと建つ西洋風のお屋敷に一台の車が到着した。

 人里離れた静寂が支配する森。だが決して鬱蒼とはしていない。春の暖かな陽射しに照らされ穏やかな雰囲気を漂わせていた。

 車から一人のロボットが降りるとすぐにそのロボタクシーは出発した。そのロボットの腕には小熊のぬいぐるみが抱えられている。荷物は小さなケースが一つだけだ。屋敷の中から使用人と思しき女性が現れた。


「……そうなんです。もう何年もなんです」

「一度もですか?」

「はい。ただの一度もです」

「きっかけはなにかあるのでしょうか?」

「それが……」


 ロボットと使用人は屋敷に入った。表の爽やかさとは裏腹に、内側は薄汚れた感じが否めない。聞けばこの広いお屋敷に住んでいるのはたったの二人だけだ。この使用人の女性と……。


 古ぼけ、埃を被ったシャンデリアの下の階段を一歩一歩登る。水の中を歩いているかのように自然と足取りが重くなる。目に見えない蜘蛛の糸が歩くたびに体にまとわりついてくるようだ。


 ロボットと使用人は扉の前に立った。扉には子供がクレヨンで木の板に描いた表札がぶら下がっていた。

 『しらゆき』

 拙い文字だが読むことはできる。使用人が扉をノックしてすぐに開けた。こもった空気が扉から溢れ出てきた。

 部屋の中には大きなベッドが一つ。ベッドの上には大量の小熊のぬいぐるみだ。だが全てのぬいぐるみが『伏せられていた』。


「しらゆき様」


 使用人がベッドの上にいる少女に声をかけた。亜麻色の長い髪が乱れ放題の少女。青い顔に青い皮膚の少女。ずっと陽の光を浴びていないようだ。

 少女はこちらに背を向け、まるでこちらに誰もいないかのように振る舞っている。


「しらゆき様」


 今度はロボットが少女に声をかけた。一瞬少女は体を硬直させると、ゆっくりとこちらを振り返った。





 ——小高い丘の上。

 メル子は車椅子を引いていた。秋の風がなだらかな丘を撫でるように駆け抜けた。遥か彼方には赤や黄色に色づく峰々。丘の下には白い大きな建物が見える。その入り口には白衣の男性と白衣の女性が数人立っている。

 淡い朱色のメイド服を着たメイドロボは車椅子の主に声をかけた。


「ご主人様、見てください。綺麗な紅葉ですよ」

「うーん、いいね〜」


 ご主人様と呼ばれた老女は車椅子の背に体を預けて深く息を吸い込んだ。

 かつてはすらりと伸びていた背は、蓄えた年月が全て重みに変わったかのようにその骨を曲げていた。自慢の腰まで届くおさげは今や純白に変化していた。丸メガネの奥に潜むその目は閉じがちではあるものの、未だに子供のような輝きを放っている。


「メル子と初めて出会ったのもこんな気持ちのいい秋の日だったねえ」

「そうですね。よく覚えていますね」

「覚えているさ」


 再び丘に風が吹きつけた。落ち葉が舞い上がり、二人はそれを見上げた。そのさらに上には雲一つない青空。


「ご主人様、見てください。今朝の新聞ですよ」

「へへへ、よく見えないよ」


 メル子は新聞を広げた。


「では読みますね。『冒険家として名を馳せるマリー・マリーとそのメイドロボアンテロッテが快挙。木星の軌道リングで勃発したクーデターを鎮圧。和解させる』ですって」

「相変わらずお嬢様たちは元気だねえ」

「もうお婆ちゃんなのにすごいです。宇宙を飛び回っていますから」


 メル子は新聞をめくった。


「これはどうでしょう。『業界最大手ロボクロソフト、ゲームスタジオ・クロノスの買収に失敗。人材を大量に引き抜き逆買収を仕掛ける』」

「なにやってんだか。ゲームを作りなさい、ゲームを」


 メル子はまた新聞をめくった。


「まだありますよ。『月連邦政府、火星王国との国交を樹立。月の首長マヒナが記念式典で火星の王子を鉄拳制裁』」

「ふふふ、マヒナ達も忙しそうだ。みんな元気そうでなによりだよ。私はこんなだけどさ」


 黒乃は肉が落ちた手を車椅子の肘掛けから持ち上げた。プルプルと震える手はすぐに下に落ちた。メル子はその手を取り、自分の頬にあてがった。


「ご主人様も元気で長生きしてくださいよ……」

「私はもう充分生きたよ」


 メル子の目から涙がこぼれた。その雫は頬を伝わり黒乃の手に滴った。


「思えば色んなことがあったなあ」

「はい、ありました」

「月にも行ったよね」

「月にも行きました」

「火星にも行ったよね」

「火星にも行きました。ご主人様が火星に置き去りにされた時はもう終わりかと思いました」

「ふふふ、ご主人様があんなことで死ぬわけないでしょ」


 メル子はその電子頭脳に蓄えられた記録を走査した。


「北海道にも行きましたよね」

「北海道行ったねえ」

「沖縄にも行きました!」

「沖縄は大変だったねえ。島全体が空に浮いてたからね」

「一緒に銭湯に行ったことは覚えていますか?」

「もちろん覚えているさ。メル子との思い出は忘れるわけがないよ」

「初めて一緒に食べたお料理は?」

「もちろん。美味しかったよ〜」


 メル子は両目を閉じた。メモリから寄せる大波のように思い出が湧き出す。


「本当に色々なことがありました」

「あったねえ」

「なんであんなに色々なことがあったのでしょうか? 毎日毎日、嘘みたいに色々ありました」

「本当に嘘みたいな日々だったねえ。毎日が冒険だったよ。全部メル子との思い出だよ」


 メル子は車椅子の後ろから黒乃の首に腕を回した。


「ご主人様、人間の記憶はどこにいってしまうのでしょうか?」

「ん〜?」


 ロボットの記録は電子頭脳に蓄えられる。定期的にサーバにバックアップされるので、その記録の保存は堅牢である。


「ご主人様が私と過ごした思い出はどこにいってしまうのでしょうか? 消えて無くなってしまうのでしょうか?」

「うーん、そうかもねえ」


 黒乃は震える手をあげてメル子の頬を撫でた。


「私の記憶は風と一緒にこの青い空に飛んでいくんだよ」

「空に……」

「そうだよ」


 メル子はその腕で黒乃を強く抱きしめた。


「嫌です。そんなの嫌です。悲しいです」

「でもメル子は覚えていてくれるでしょ?」


 二十二世紀初頭。ロボットの人口比率は一割にも満たなかった。しかしその比率は徐々に上がり、二十三世紀現在ではとうとう五割に到達した。


「私達人間のことはメル子達ロボットが覚えていてよ。ずっとずっとね」


 ロボットは永遠なのか? 永遠に生きられるのだろうか?

 その答えは二十三世紀になっても出ていない。ボディが交換可能である以上、物理的に滅びることはない。AIはどうだろうか? AIに寿命はあるのか?

 二十三世紀になっても寿命を迎えたロボットは存在しない。人々はロボットは永遠の存在なのだと理解し始めている。

 そして世界はロボットのものになりつつあると理解し始めている。


「ロボットは永遠などではありませんよ。少なくとも私は眠りにつきます」

「眠るの?」

「ご主人様のいない世界で生きていくことなんてできません。ご主人様と一緒に永遠の眠りにつきます」


 新ロボット法によると本人が望むのであればAIは『人工知能の海』に還ることができる。元々AIは『人工知能の海』から生まれたのだ。


 黒乃は泣き崩れたメル子の頭を撫でた。


「メル子、メル子。メル子は私がいなくなってからも生きてほしい」

「なぜですか! ご主人様がいないなら生きていても仕方がありません!」

「メル子に新しいご主人様に仕えてほしいんだよ」


 メル子は大きく首を振った。


「嫌です! 嫌です! 昔ご主人様は言いました。ずっと私だけのメイドでいてと! 他の人のところに行かないでと! 行かないと約束をしました! ご主人様の思い出と共に人工知能の海に還ることが私の最後の幸せなのです! 私は……!」


 メル子は叫んだ。涙が溢れ出し、最後は言葉にならなかった。


「ご主人様はメル子からたくさん幸せを貰ったんだよ。毎日毎日幸せを貰って、こんなに幸せでいいんだろうかって思いながら生きてきたんだよ。だから……新しいご主人様にも幸せをわけてあげてほしいんだ」


 黒乃は大きく息を吐いた。


「メル子はたくさんの人間を幸せにできる力を持っているんだよ。メル子はそういうロボットなんだ」


 メル子は黒乃の膝の上に突っ伏していつまでも泣いた。丘の上の二人に風が吹きつけた。

 風が止んだ頃、ようやくメル子は起き上がると静かに言った。


「わかりました。新しいご主人様にお仕えします。そして黒乃様のことをお伝えします。その次のご主人様にもお伝えします。その次もです。ずっと、ずっとです」


 黒乃は微笑んだ。


「メル子、ありがとう……大好きだよ」


 再び強い風が吹きつけた。白衣を着た男女が丘の上へ歩いてきた。

 落ち葉が風で舞い飛び、青い空に向けてどこまでも昇っていった。





「しらゆき様」


 少女はメル子の声に振り返った。青い顔、こけた頬、割れた唇。半開きの口から唸るような音が聞こえてきた。


「おねえちゃん……だれ」


 使用人は衝撃を受けた。



『はい、そうなんです。一度も喋っていません』


『はい、部屋に籠ったきり外に出ようともしません。何年もです』


『きっかけは小熊のぬいぐるみです。大事にしていたぬいぐるみを奥様が誤って捨ててしまったんです』


『慌てて別のぬいぐるみを買い与えました。でもどれも違うみたいで……』


『それきりです。それきりしらゆき様は生きる力を無くしてしまったんです』



「お姉ちゃんはメル子です。さあ、しらゆき様。この子を差し上げます」


 メル子は腕に抱えた小熊のぬいぐるみを差し出した。相当古いものであちらこちらに修繕を施した跡が見える。


「これ、ちがう。ロビイじゃない」

「そうです。この子はロビイではなくてワトニーといいます。もう動かなくなってから何十年も経ちますが、きっとまだ生きていますよ。しらゆき様とお話できるのを待っているのです」

「……ワトニー?」


 しらゆきはワトニーを手にとった。上下左右念入りに調べるとようやく抱きしめた。


「おねえちゃんはだれ?」

「私はメル子と申します」

「メル子はなにをしにきたの?」

「しらゆき様にお仕えするためにまいりました」

「なにをするひとなの? おそうじ? おりょうり? おせんたく?」

「全部です」

「ぜんぶ?」

「全部です。私はメイドロボですから」

「でもそんなのだれでもできる」

「はい、メイドロボは誰にでもできることをいたします。でもそれだけではないのですよ?」


 しらゆきはきょとんとした目でメル子を見つめた。


「メイドロボはご主人様に幸せを与えるのがお仕事なのです。よろしいですか? 私の前のご主人様は……」


 使用人はカーテンと窓を開けた。

 春の暖かな陽射しが部屋に差し込んだ。窓辺に置かれた瓶にさされた花からひとひらの花びらが風にあおられて宙に舞った。それは高く高く、青い空へ向けて高く昇っていった。

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