第196話 ラーメン大好きメル子さんです! その六

 家電とオタクの町秋葉原。そしてもう一つの隠された顔がグルメの町だ。

 昼前から黒乃とメル子は秋葉原の外れにいた。


「ふうふう、疲れた」

「ご主人様! 頑張ってください!」


 浅草から徒歩四十分。二月の澄んだ空気を存分に味わいながら町を闊歩してきた二人。神田川を左手に見ながら人気のない路地を歩いている。


「秋葉原といえど、この辺は静かでいいねえ」

「神田川も綺麗です!」


 二十世紀後半、東京の河川は酷く汚染された。高度経済成長期には産業排水、生活排水が川に流れ込み、神田川は死の川になった。水面を覆い尽くすゴミ、漂う悪臭。歌に聴く美しい神田川は影も形もなかった。

 二十一世紀になる頃には環境問題への意識が高まり、厳しい規制によって川の環境は改善されつつあった。ゴミは消え、匂いもなくなった。

 二十二世紀には規制が更に強化され、美しい川に変貌を遂げた。川底が見えるほどの透明な水質。魚達が元気よく泳いでいるのがわかる。お掃除ロボが毎日川の清掃をしてくれているお陰だ。


「ご主人様! 見えてきましたよ! あれですよね!?」


 二人が向かっている先にはシャッターが下りた店があった。こじんまりとしたビルの一階。店の軒には目立たない看板が一つ。


「『ロボ島食堂』ですか」

「ふふふ、とうとう来たね」


 二人はシャッターの前に並んだ。すると強烈な匂いが漂ってきた。


「力強い醤油の香りがします! シャッターが下りているのに凄いです!」

「あ〜、この香りたまらんね。食欲がもりもりと湧いてくるよ」


 黒乃とメル子は誰もいない店の前で寂しく佇んでいた。


「あの、ご主人様。早く来すぎたのではないでしょうか。まだ開店まで一時間もありますが」

「これでいいのだ。この店は大人気店だから、混雑時に来ようものなら二時間は並ぶ」

「そんなにですか!?」

「だから一番早くきて一時間だけ並ぶのが賢いのだよ」


 しばらくすると別の客が黒乃達の後ろに並び始めた。


「しかし並んでおいてなんですが……よくラーメンに一時間も二時間も並びますね」

「確かに。ラーメン一杯のために貴重な時間を使うのはもったいないと考える人も多いよね」

「中には飲食店には絶対に並ばないというポリシーの方もいらっしゃいますね」


 その後もみるみるうちに客が集まり、行列の最後尾は店の角を曲がって見えなくなった。


「ご主人様はその考えは邪道だと思う」

「邪道ですか?」

「結局は自分が食べたいものを食べる、それだけなんだよ。そこに並ぶとか並ばないとか、情報がどうだとか、流行りがなんだとか。そんな余計な概念を入れ込んでもしょうがないってことさ」

「はあ」

「食べたいから食べる。純粋な食の欲求に従う。それが正道ってなもんさ」

「はあ、全く意味がわかりません」


 開店時刻が迫ると行列は歪にうねっていた。なぜか最後尾は車道に飛び出してしまっている。


「なぜあの人達は路側帯の中に並ばずに車道の真ん中に並んでいるのでしょうか……」

「わからんけど、人間の本能だと思う」


 シャッターが開いた。さらなる強烈な醤油の香りが黒乃達を襲った。


「ぐああ、胃に直撃する香りだ!」

「ここは醤油工場なのですか!?」


 いよいよオープンだ。女将さんロボが扉を開け黒乃達を案内する。入ってすぐのところには食券機があり、ここでチケットを買う。


「メル子、チャーシュー麺でいいよね?」

「はい!」


 大きめの厨房にカウンター席だけの店構えだ。黒乃達は並んで大釜の前に腰掛けた。


「ご主人様、ここはどういうラーメンを食べられるのですか?」

「では説明しようか。ここは長岡生姜醤油ラーメン発祥の店なんだよ。本店は新潟にあるんだけどね」

「長岡生姜醤油ラーメン!?」


 長岡生姜醤油ラーメンは新潟で生まれたご当地ラーメンだ。濃い目の飴色スープに生姜がピリリと効いたコクのある味わいが特徴だ。


「なるほど、醤油の裏に隠れていた香りは生姜だったのですね」

「そう、生姜を押し出したスープは珍しいよね」


 女将さんロボが大釜の前に立った。


「大きな釜の中にお湯が煮えたぎっています! どうしてこんなに大きいのですか!?」

「ふふふ、まあ見ていなさい」


 女将さんロボは中太麺を大量に鷲掴みにすると大釜に投げ入れた。すると大釜の中で麺が踊り始めた。


「泳いでいます! 麺が大釜の中を楽しそうに泳いでいます! まるで神田川を泳ぐお魚のようです!」

「これがロボ島食堂の名物じゃい!」


 女将さんロボが平ザルを大釜の中に差し込んだ。逃げ回る麺を巧みなザルさばきで捕まえた。完璧な手際で一人前の麺だけを掬い上げ、中華鍋でチャーハンを炒めるかのような手つきで湯を切る。


「すごいザルさばきです! チャッチャチャッチャと小気味の良い音をたてる麺がまるで水揚げされたお魚ようにピチピチと跳ねています!」

「いやあ、いいもの見られた。やっぱり平ザルはいいねえ」


 メル子は小首をかしげた。


「そういえば、普通のラーメン屋さんはもっと深いザルを使いますよね? これは平たいザルです」

「そこに気がついてしまったか。ラーメンの世界には平ザルとテボザルの争いの歴史があるのだよ」

「平ザルとテボザル!? ウッキー!」


 平ザルとテボザルはどちらも麺の湯を切る道具である。

 平ザルは大釜に投入された麺を掬い上げてから湯を切る。

 それに対してテボは初めから深い網の中に麺を入れ、テボごと湯に投入して茹でるのだ。茹で上がったらテボを引き上げれば自動的に一人前の麺が完成する。


「平ザルとテボ。湯を切る方法が違うのはわかりましたけど、それって味に違いはあるのでしょうか? どちらも変わらない気がしますが」

「いい質問だ。基本的にはどちらで湯を切ってもたいした違いはない。しかしご主人様ほどのラーメン通ともなると、そのわずかな違いこそ見逃せないのだ」


 テボは初心者でも扱いやすい。一人前をテボに入れ引き上げるだけでいいからだ。一人前ごとに麺の硬さを調節することも容易だ。

 平ザルを扱うには修練が必要である。大釜の中を泳ぐ大量の麺からきっちり一人前を掬い上げるのは至難の技だ。湯を切る際もザルから飛び出ないように気をつけなくてはならない。

 ではなぜ使いわける必要があるのだろうか? それは麺の茹で上がりに大きな影響を与えるからだ。

 テボは狭いザルの中で麺が茹る。すると麺同士がくっつき、テボの壁面に何度も衝突する。つまり麺が削れて丸くなってしまうのだ。麺同士がくっついた状態で引き上げられるため、完全に湯切りをすることも難しい。

 平ザルは大釜の中を自由に泳ぎながら麺が茹る。麺同士がくっつかないし、壁にも衝突しないのだ。だからしっかりと角が立った麺に茹で上がる。角が立った麺は素晴らしい歯応えを返してくれる。

 また平ザルに大きく広がって湯切りがされるので、テボよりもしっかりと湯が切れる。スープが薄まらないというわけだ。


「……というわけだ」

「かつてこれほどまでに湯切りを語った作品があったでしょうか!? どうでもいいです!」


 黒乃がクソ長い話をしている間にラーメンが完成した。二人の前にチャーシュー麺の丼が届けられた。


「きたきたきた!」

「きました! 美味しそうです! ってあれ? なんかチャーシューが少ない!? チャーシュー麺なのにチャーシューが全然入っていません! ちょっと店長! 店長でてきてください!」

「こらこら、落ち着きなさい。ちゃんと入っているから大丈夫だよ」

「ハァハァ、そうですか。わかりました」


 二人は目の前の丼にうっとりと見惚れた。黒いスープから微かにのぞく黄金色に輝く麺。具は海苔、ほうれん草、メンマ、ナルト。

 そして何より鼻を刺激する醤油と生姜のダブルパンチ。レンゲでスープをすくい口に運んだ。


「んん!? 濃いーです! 醤油がガツンと電子頭脳にきます!」

「あ〜、これだこれこれ。この醤油の旨みと生姜のキレ。濃いのに爽やかなのは生姜が絶妙に効いているからだな」


 次は麺だ。平ザルで完璧に茹で上げられた麺を勢いよく啜った。


「なんでしょう、麺もキレキレです! 歯応えが心地いいです! これが平ザルの効果なのでしょうか」

「ほむほむ、やっぱ長岡生姜醤油ラーメンには平ザルがマストだね。湯切りが完璧だからスープが薄まらないし、ヌメりもないから舌触りもいい」


 メル子は麺の下からチャーシューが飛び出してきているのに気がついた。


「なるほど、細かく薄切りにされているので下に沈んでいたのですか。チャーシューがたくさん出てきました!」

「うーん、やわらかい。そして食べやすい。塩分強めのスープの合間に食べるとほっとするよ。ほっとするチャーシューなんて聞いたことがないよ」


 二人はぐいぐいと食べ進め、スープまで完食してしまった。


「「ふー」」



 二人は店を出た。お昼とはいえ空気は冷たい。しかし二人の体はポカポカである。


「汗をかきました! これも生姜の効果なのでしょうか」

「寒い新潟で生きる人達はこのラーメンで体を温めているのかもねえ」

「とても美味しかったです! また来ましょうよ!」

「そうだね。でも次は新潟の本店に行きたいな。いつか本店で食べるのがご主人様の夢なんだよ」


 突然メル子の胸の谷間から何かが飛び出した。


「あ、プチ達が汗で蒸されて飛び出してきました」


 谷間に挟まっているのはプチ黒とプチメル子であった。プチ達は腕を振り回して抗議をしている。


「なんだなんだ?」

「きっとラーメンを食べさせろって言っているのですよ」

「プチには長岡ラーメンはまだ早い! ガハハ!」

「うふふ、新潟に行ったら食べさせてあげますよ」


 二人の笑い声と醤油と生姜の香りが風に乗って神田川を下っていった。

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