第190話 なにもしません!

 浅草、ボロアパートの小汚い部屋での休日の午後。

 黒乃は床に寝転がり青い空に薄らと張り付く月を窓から眺めていた。


「あー、お月様丸い。おっぱいみたいに丸い」


 黒乃は月に向けて手を伸ばした。しかしその手は力無く垂れ、床に落ちた。

 玄関が開き赤い和風メイド服を着たメイドロボが部屋に入ってきた。


「ご主人様、ただいま戻りました」

「あー、おかえりメル子」


 メル子は部屋に入るといそいそと掃除を始めた。


「メル子〜、どこにいってたの〜。ご主人様を置いて〜」

「どこって、仲見世通りの出店の営業ですよ」

「そうだったんだ」

「ちゃんと言いましたからね! 正月はほとんど営業できなかったのですから。二月はガンガンいきますよ」

「すご〜い」


 黒乃は床に寝転がったまま微動だにしない。メル子は掃除を終えると明日の出店の料理の準備を始めた。


「元気だね〜」

「いえ、まだ月での生活の影響で体調は万全ではありませんよ」


 月で摂取した月用のナノマシンがまだ体内に残っているのに加え、ボディが月の環境に合わせて最適化オプティマイズされているので、地球環境に慣れるのに時間がかかるのだ。


「だからといって泣き言は言っていられませんから。メイドロボとしてお仕事はきっちりいたします」

「すご〜い」

「そういうご主人様の体調はまだまだみたいですね」

 

 人間もロボット同様に月環境に慣れてしまうと中々調子が戻ってこない。

 月と地球では異なる要素が様々にある。重力、大気の組成、気圧、光線、ウイルスや微生物。それらが全て体に影響を与える。

 とはいえ月にいたのは短い期間だったので、大きな影響を与えるほどではない。


「どちらかというと気持ちの問題でしょうか」

「気持ち〜?」


 黒乃は屁をこいた。


「脈絡なくおならをしないでください」

「いや、おならは脈絡なく出るでしょ。なんかお腹の調子が悪いんだよね」


 月の食べ物は無菌のものが多い。地球でも加工品は殺菌処理を施してはいるが、全ての食べ物が無菌というわけではない。月にはそもそも菌が極端に少ないので口に入る菌の量も極端に減るのだ。すると腸内細菌が変化しこのような状態になるのだ。


 黒乃は屁をこいた。


「あの、ご主人様」

「ん〜?」

「あの、ご主人様も一応乙女ですので、おならは控えていただけると助かります」

「そんな無茶言わないでよ」


 黒乃は屁をこいた。


「どこの世界に屁をこきまくる女主人公がいますか」

「なんの話?」

「来週からはお仕事も始まるわけですから、それまでにしっかりと体調を整えてくださいね」

「うぃー」


 メル子は冷蔵庫を漁ると皿が入っているのに気がついた。


「あれ!? ご主人様! お昼のパン・アマサードが残ったままですが。お昼食べていないのですか!?」

「うん」

「どうしてですか!? 食欲がないのですか?」

「お腹は減ったんだけど食べるのが面倒くさくて」

「なにをしていますか!?」


 黒乃は寝転がったままメル子をちらちらと見た。


「食べさせて〜」

「赤ちゃんですか!」


 しかしお昼を食べないわけにもいかないので、メル子は仕方がなく遅い昼食の準備を始めた。

 パン・アマサードとはチリの薄いパンで、チーズ、ハム、アボカドを挟んでいただく。


「どうぞ、お召し上がりください」


 メル子は床に座り黒乃の前に皿を差し出した。黒乃はゆっくりと体を起こし、猫のようにうつ伏せになるとゴロゴロと唸り声を出した。


「どうしました?」

「メル子が食べさせて〜」

「しっかりしてくださいよ!」


 メル子はパン・アマサードを手に持ち黒乃の口へねじ込んだ。ボロボロとパン屑をこぼしながら咀嚼した。


「うま〜い。パンがサクサクしてる〜。うま〜い」

「食レポもなにか本調子ではないですね」


 黒乃は一通りパン・アマサードを食べ終えると、うつ伏せになったまま眠り込んでしまった。


 夜になり黒乃は目を覚ました。窓からは星空が見えている。


「ふわ〜、よく寝た」

「もうお夕飯ですので、椅子に座ってください」

「うん」


 黒乃はふらつきながら椅子に腰掛けた。テーブルの上にはメル子のお手製料理が勢揃いしている。


「お〜、これを見ると地球に帰ってきたなあって感じするね」

「それはどうも。さあたくさん召し上がって元気を出してください!」

「うん」


 今日の料理はボリビアのサルテーニャとピケマチョだ。

 サルテーニャは小麦粉の生地で具材を包んでオーブンで焼いた餃子のような料理だ。


「ほむほむ、カリッと焼き上がった生地を噛みしめるとゼラチンたっぷりの熱々スープが溢れ出てくる〜。ウユニ塩湖から溢れ出てきた天然のスープや〜」

「なにをいっていますか……」


 ピケマチョは牛肉、フライドポテト、玉ねぎ、ゆでたまごが豪快に盛り付けられた料理だ。


「これはボリュームがすごいな。もぐもぐ、うまし! ジャンクな素材をスパイシーに味付けした、まさに働く男達の料理って感じでござる!」

「これを食べて元気を取り戻してください!」


 黒乃はマッチョな男しか食べられないと言われるピケマチョを完食してしまった。

 お腹を膨らませて仰向けに寝転がった。再び窓の外を眺めた。


「月が見えないな〜。ねえメル子」

「なんでしょうか」メル子は洗い物をしながら答えた。

「マヒナ達は大丈夫かな? クーデターの罪で捕まったりしないよね」

「根本的な原因はニコラ・テス乱太郎ですから。MHN29の皆さんはそこまで重い罪に問われることはないとは思いますが」

「だといいな〜」


 黒乃は床で丸くなった。


「もう二人には会えないのかなあ。寂しいなあ」


 メル子は食器を洗い終えると黒乃の頭の横に正座をした。そして黒乃の黒髪を撫でた。


「お二人は月で頑張っていますから応援をしましょう。ご主人様も頑張らないと笑われますよ」

「うん」


 黒乃はしばらく床を転げ回るとメル子をじっと見つめた。


「なんでしょう?」

「いやー、可愛いなあと思って」

「可愛いのは知っていますが」


 黒乃は床を蛇のように這い、メル子に近寄ってきた。


「ぎゃあ! 気持ちが悪いです!」

「可愛いメイドロボちゃんに慰めてもらいたいな〜」

「なんですか。なにをして欲しいのですか」

「おっぱいビンタ」

「おっぱいビンタはメイドポイントが足りないので無理ですね」

「その設定まだ生きてたんだ。今ポイントいくつ貯まってるのよ」

「三十二ポイントですね」

「おっぱいビンタは何ポイント必要なのよ」

「二百ポイントです」


 黒乃は拳を床に叩きつけた。「ガッデム!」


『うるさいですのー!』

『やかましいですのー!』


 下のお嬢様の部屋から苦情がきた。


「仕方がないですね」


 メル子は押し入れから何かを漁ると黒乃の頭を自分の膝の上に乗せた。


「今日はお顔マッサージをしてさしあげます」

「やったぜ」


 メル子はカメリアオイルの瓶の蓋を開けて手のひらに数滴落とした。それを両手に馴染ませ黒乃の顔に広げていった。


「ふわわ、きもちえー」

「あれ、でもお顔のつやはかなりいいですね」

「ぐふふ、メイドロボちゃん達のエキスをもらったからかな」

「そんなわけがないです」


 しかし実際月の住人のお肌は綺麗だ。紫外線が少なく重力が弱いため老化が遅れると言われている。


「そういえば月の人達はみんなお肌つやつやで若かったなあ。ひょっとしてマヒナも実は結構歳いってたりして」


 マヒナは見た目二十代前半といったところだが、実際の年齢を聞いたことは無い。二人は想像して冷や汗を流した。


 黒乃の顔全体にオイルを染み込ませると乳液の瓶を開けた。顔の各所に乳液を垂らしていく。


「うひひ、冷たい」


 顔に盛られた乳液を薄く伸ばしていった。顎から耳にかけて手のひらを往復させた。鼻の周りは細かく円を描くように指を這わせる。耳たぶは指でこねくり回すようにマッサージをした。


「はわわ、はわわ、リラックス〜」


 化粧水をたっぷりと手に開け、そこにペパーミントオイルを一滴加える。よく手で練り合わせてから黒乃の頬に添えた。ペパーミントのひんやりとした感覚が頬に伝わってきた。顔全体をペチペチと叩き肌を引き締めていく。


「あ〜、極楽じゃ〜」


 最後に綺麗な布で顔を拭ったらマッサージは完了だ。


「あ〜、無重力状態〜」


 黒乃はメル子の膝の上で寝息を立て始めた。平らな胸が規則的に上下している。


「まったくお風呂も入らずに寝るつもりでしょうか」


 メル子は仕方がなく押し入れから布団を取り出し床に敷いた。黒乃を転がして布団の中に押し込むと頭の横に跪いて顔をじっと見つめた。

 無邪気な寝顔だとメル子は思った。夢の中でメイドロボ達にさば折りをかましているのだろうか?


「ご主人様は月の人達を救うという大仕事をしたのです。今日くらいはだらけていても文句は言われませんよ」


 メル子は黒乃のおでこにキスをした。ニヤけた顔に若干の苛立ちを覚えつつ風呂に入る準備を始めた。

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