第177話 ひとりぼっちです!

「それではご主人様、行ってまいりますね」


 メル子は小汚い部屋の玄関に立ち黒乃に告げた。床に寝転んで尻をかいていた黒乃は上半身を起こしてメル子の方を見た。


「あれ? 今日はどこかにいく予定だっけ?」

「浅草工場で定期メンテナンスですよ。前から言っていたではありませんか」


 黒乃は人差し指でおでこをかいた。


「ああ、言ってたね。すっかり忘れてたよ」

「朝食はテーブルの上に置いてありますので食べてくださいね」

「おっけー」

「それから洗濯物は気をつけてください。雨の予報が出ていますので」

「ほいほい」

「駐車場のプランターの水やりもお願いします。それから夕食は栄養が偏らないようにしてくださいね」

「んん?」

「あとチャーリーが時々くるので餌をあげてください。ロボチュールはだめですよ」

「ちょっとメル子?」


 黒乃は口を開けてメル子を見上げた。メル子の目にいつもとは違う色が浮かんでいる。


「メンテナンスってすぐに終わるんだよね? 夕方には帰ってくるんでしょ?」

「いえ、ご主人様。今回は三日間の長期メンテナンスです」


 黒乃は何かを思いつき顔を輝かせた。


「あ、そうか! ミニメル子ボディで帰ってくるんだ。そりゃ家事とかできなくなるよね」

「いえ、AIの静的解析と単体テストが入りますので他のボディで帰ってくることもできません」

「え……」


 黒乃の顔がみるみる青ざめてきた。


「じゃあ……三日間戻ってこないの?」

「はい」

「ご主人様、三日間ひとりぼっちなの?」

「はい」


 黒乃の丸メガネから水滴が大量に滴り落ちた。


「ご主人様!?」


 メル子は慌てて駆け寄るとハンカチで涙を拭った。


「泣くことではありませんよ。ただの定期メンテナンスですよ」

「だって、三日間もメル子がいなくなるなんて」

「たった三日ですよ!」


 黒乃は体をプルプルと震わせて嗚咽している。ハンカチがびしょびしょだ。


「だってだって、メル子と三日も会えないなんて、うおっうおっ」

「まあ今まで一日と離れたことはなかったですからね」


 メル子は黒乃の頭を抱きしめた。しばらくの間黒乃はメル子の胸の中で泣いた。


「ではご主人様、行ってまいります」

「うん……」

「留守の間のことは皆さんにお願いしておきましたから、きっと寂しくありません」

「みんな?」


 メル子は後ろを振り向き扉を開けた。一瞬肩を震わせると小汚い部屋から姿を消した。


 黒乃は部屋に転がったまま呆然としていた。テーブルに用意された朝食を食べ、食器はそのままにオフィスへ向けて出発した。


「先輩、お元気がないようですが」

「シャチョー! 今日は女将サンはどうしまシタ?」

「……ちゃんと働いて」

「ええ? ああ、うん」


 終始上の空で業務が終わった。

 よろけながら暗くなった道を歩く。いつの間にか雨が降ったのか通りが濡れていた。ボロアパートの灯りが見えてきたが黒乃とメル子の部屋は暗いままだ。部屋を見上げると洗濯物が干したままだったのに気がついた。

 部屋に入り灯りをつけた。黒乃は入口に突っ立ったまま小汚い部屋を眺めた。流しには食器がそのまま置かれていた。


「部屋が広く感じるな」


 黒乃は荷物を床に置くと自身も床に寝そべった。そういえば夕食のことを何も考えていなかった。冷蔵庫を開けると奥の壁面が全て見えた。


「メル子は食材を買い込まないタイプなんだよな」


 『いつも新鮮な食材を』をモットーにしているので買い置きはしない。


 再び床に横になった。このまま何も食べずに寝てしまおうかという気分になってきた。

 その時、不意にドアベルが鳴った。体をビクンと震わせると黒乃は立ち上がった。


「黒乃さん、いらっしゃいますのー?」

「ディネを持ってまいりましたのよー?」


 扉を開けるとお嬢様二人が立っていた。


「なにやらお一人で寂しそうでしたので一緒にお夕飯いかがですのー?」

「顔色が優れないようですわね。ちゃんと食べておりませんのー?」

「二人とも……」


 黒乃はお嬢様たちを招き入れた。

 アンテロッテは作ってきた料理をテーブルに広げた。


「スープ・ア・ロニョン・グラティネですわ」

「なんて?」


 スープ・ア・ロニョン・グラティネとはオニオンスープグラタンのことだ。タマネギたっぷりのオニオンスープに千切ったバゲットとチーズをたっぷりと乗せオーブンで焼く。


「うわー、美味しそう」

「召し上がりゃんなうぇい」


 黒乃はスプーンでスープをたっぷりと吸い込んだバゲットをすくいあげた。トロトロのチーズと共に口の中に放り込む。


「あつあつ、もぐもぐ。うまー。なんかこう、チーズが溶けてて、パンに汁があの、染み込んでてうまい!」

「食レポが冴えませんのね……」


 食事を終えた三人は揃って床に寝転んだ。誰もなかなか喋ろうとしない。


「あー、黒乃さん?」

「んー?」

「メル子がいなくて寂しいとは思いますけど、元気出してくださいまし」

「たった三日でございますわ」

「んー」


 マリーは床に正座をすると、自分の腿を手で叩いた。


「今日はわたくしがメル子の代わりになりますわ」

「ほうほう」

「さあ、膝枕をして差し上げますからこちらにいらっしゃいまし」


 黒乃は渋々マリーの膝に頭を乗せた。


「いかがでございますの?」

「お嬢様の膝枕はバッキンガム宮殿のベッドより快適でございますわよ」

「バッキンガムはイギリスね。うーん、まあでもいい感じだよ」


 マリーが膝枕をしている間、アンテロッテは黒乃の足を揉みほぐしていた。


「あー、あー、あー」

「あーあーうるさいですの」


 しばらくすると黒乃はそのまま寝てしまった。アンテロッテは押し入れから布団を一つ取り出して床に敷いた。二人で苦労して黒乃を布団に寝かせると静かに下の部屋へと帰っていった。


 二日目の朝、目を覚ますと黒乃はひとりぼっちであった。起きて数秒は隣にメル子がいないことでパニックになり、玄関から飛び出そうとしてテーブルにしこたま足を打ちつけた。

 崩れ落ちるようにして椅子に座ると目の前にウォーターヒヤシンスで編まれたバスケットが置かれているのに気がついた。被さっていたナプキンをめくるとブルーベリーパイが入っていた。


「うう、アン子ありがとう」


 パイと紅茶で手早く朝食を済ませるとシャワーを浴びた。仕事にいく準備を済ませ、床に正座をして浅草工場の方角を向いた。


「メル子が無事に帰ってきますように」


 黒乃は手を合わせて拝んだ。


 オフィスに着くといつもと同じように業務をこなした。幾分気力が戻って来たようだ。

 仕事中、突然ゴリラロボが部屋に乱入してきた。


「お前なにしにきた!?」

「ウホ」


 ゴリラロボは黒乃の手にバナナを乗せると肩を叩いて去っていった。


「ゴリラロボにまで慰められとる」


 仕事の帰り道、バナナを食べながらボロアパートへ向かっていると壁の上にロボット猫のチャーリーがいるのに気がついた。


「お、チャーリー。うちで飯食うか?」


 チャーリーのグレーの艶やかな毛並みを撫でようと手を伸ばしたが、それを軽々飛び越え黒乃の頭に乗った。


「痛ぇ!」


 大きなロボット猫を頭に乗せたまま部屋に入ると冷蔵庫を漁った。黒乃とっておきのスモークサーモンを皿に乗せるとチャーリーはバクバクと齧り付いた。


「お前それ好きだな。しかしこれで私が食うもんがなくなったぞ」


 押し入れを漁るとカップ麺が一つ見つかった。


「夕飯はこれしかないな。今日はマリー達来ないのかな」


 黒乃が湯を沸かしていると扉を叩く音が聞こえた。


「お? お嬢様たちかな?」


 扉を開けるとそこに立っていたのはマヒナとノエノエであった。褐色肌に部屋の灯りが反射をして艶かしく光っている。


「やあ、黒乃山。お邪魔するよ」

「二人ともどうしたの!?」


 ノエノエはテーブルに葉っぱの塊をどさりと置いた。


「さあ黒乃山、召し上がれ」

「なにこれ!?」

「これは『ラウラウ』です」


 ラウラウはタロイモの葉で肉や魚を包んで蒸したハワイの郷土料理である。


「へえ、うまそうだ」黒乃は包みの葉を解こうとした。

「黒乃山、タロイモの葉っぱはとってはいけません。葉ごと食べなさい」

「葉っぱごと!?」


 黒乃はラウラウを素手で持つとその葉っぱに齧り付いた。


「うまい! 葉っぱがほうれん草みたいでなんかうまい! 中の何かのお肉がトロトロで柔らかくてうまい!」

「まだ本調子ではないようですね」


 食事を終えてしばらくすると黒乃は表に引っ張り出された。


「ねえ二人とも、公園でなにするの?」

「元気がない時は稽古に限る。さあ黒乃山、どんとこい」


 マヒナは足を大きく開き腰を落として構えた。


「ふにょにょ〜、夜のぶつかり稽古だぷひょー!」


 黒乃はマヒナに激しくぶちかましを決めた。稽古は怪しい三人組が夜の公園で暴れているとロボマッポに通報があるまで続いた。

 その晩、黒乃は疲れのあまり泥のように眠った。


 三日目の朝、黒乃は布団から起き上がれなくなっていた。稽古の疲れもあるが気力が湧かないのだ。


「うう、メル子〜。ご主人様頑張るからね〜」


 黒乃は自分を励ましながらようやく布団から抜け出した。テーブルの上にはノエノエが置いていったココナッツミルクのシチューがあった。それをレンジで温めて無理矢理すすった。


「今日頑張れば明日メル子が帰ってくるから。ちゃんとしないと」


 黒乃は扉を開けて部屋を後にした。


 仕事帰り、黒乃はボロアパートに帰るのを躊躇していた。灯りが消えたままの部屋に戻るのが怖かったのだ。

 黒乃は浅草に来てからはずっと一人であった。暗い部屋に帰るのはいつも通りのことのはずだった。黒乃にとっては当たり前のことだったのだ。しかし今は暗い部屋は恐怖の象徴になってしまっていた。


「なんてことないさ。明日メル子が帰ってくるんだから。寝て起きたらメル子がいるかもしれない。それとも戻るのは夕方かな。お昼だといいな」


 路地を歩くとボロアパートが見えてきた。黒乃は異変に気がついた。


「あれ? 灯りがついてる。消し忘れたのかな」


 黒乃の足は自然に早くなった。消し忘れではなかった。ボロアパートの階段を登って確信した。美味しそうないつもの香りが漂っている。


「メル子!」黒乃は勢いよく扉を跳ね開けた。


 キッチンで料理をしていたメル子は振り返って言った。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


 黒乃は呆然と部屋に入り床にへたり込んだ。メル子は鍋の火を止めると黒乃の前に正座をした。


「帰ってくるの明日じゃなかったの?」


 メル子は少し照れて言った。


「先生に無理をいって検査を早めてもらいました」


 黒乃はメル子の膝の上に顔をうずめた。


「ごめんね、心配かけて。ごめんね」

「別に心配なんてしていませんよ」


 黒乃の乱れた髪の毛をそっと撫でた。


「少し寂しくなったから早めに戻ってきただけです」

「うん」


 黒乃はしばらくの間メル子の膝の上で泣いた。

 ボロアパートの表では手に包みを持った美食ロボが満足げな笑みを浮かべて黙って去っていった。

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