第167話 コーヒーを飲みます!

 冷たい雨が降る休日の午後。黒乃とメル子はボロアパートの小汚い部屋でゆっくりと流れる時間を弄んでいた。


「あーあー」

「あーあーうるさいですね。どうかされましたか」


 黒乃は床に寝転んで何やらいじくり回している。


「今日は何もなさそう」

「と言いますと?」

「いや、いつも何かしらの事件があるじゃん」

「ありますね」

「なんでいつもわけわからんことに巻き込まれるの?」

「知りません」


 メル子も黒乃の横で床に寝転んで何やら弄んでいた。床にはいくつものボルトやナットが転がっている。


「ねえ、メル子。それまた秋葉原で買ってきたの?」

「そうです。百年前の骨董品が格安セールしていましたので」


 メル子はボルトやナットをしきりに組み合わせている。


「ご主人様、見てください。ワトニーが完成しました」

「おお、すっげ」


 メル子が床にちょこんと置いたのは小熊ロボのワトニーを模したオブジェクトであった。


「細かい部品でうまく組み立ててあるなあ。指先が器用なんだね」

「ロボットですので」


 黒乃もいくつか部品を手に取ると何やら組み立てているようだ。


「ほら、私もできたよ」

「なんですかそれは?」

「おっぱい」


 大きさの違うナットを順に乗せただけのオブジェクトだが黒乃は気に入ったようだ。


「本当におっぱいが好きですね」

「じゃあ聞くけど、おっぱいが嫌いな人間なんてこの世界にいるの?」

「五大陸に一人ずつはいるのではないでしょうか」


 黒乃はため息をつくと自分の作業に戻った。


「ご主人様はなにをしておられますか?」

「ん〜? 丸メガネのお手入れだよ」


 床にはずらりと丸メガネが並べられていた。それぞれ大きさが違うようだ。それをひとつひとつ手に取りドライバーでフレームのネジの調節をしていく。仕上げにコーティング用ナノミストを吹きかけナノワイパーで丁寧に磨く。


「丸メガネが随分たくさんありますね。いくつあるのですか?」

「二十本ちょいだよ。毎年新調しているからね」


 メル子は首を傾げた。


「毎年? その計算ですと赤ちゃんの頃から丸メガネをしていることになりますが……」

「そうだよ。黒ノ木家では生まれて三秒後には丸メガネだよ」


 メル子はその絵面を想像して吹き出した。


「目が悪い状態で生まれてくることを前提としているのですか?」

「先祖代々そうなんだからしょうがないよ」


 そういうものかと納得しそうになった。実際二十一世紀後半には生まれた時から視力を矯正する手法が確立されていた。

 メル子はそのうちの一つを手に取った。一番小さな丸メガネだ。赤ん坊の頃につけていたものだろうか。


「うふふ、ちっちゃくて可愛いですね」


 メル子は試しにその丸メガネを装着してみた。しかし流石に赤ちゃん用は小さすぎたのか、あるいは古かったのか、丸メガネは二つのレンズを繋ぐブリッジの部分で真っ二つに折れてしまった。


「あ、ご主人様。やってしまいました」

「ぎゅわわわわわわ!」


 黒乃は慌てて折れた丸メガネを拾い上げた。プルプルと震えながら無惨な姿になった丸メガネを見つめた。


「あ、あの、ご主人様。あの、本当に申し訳ございません! やってしまいました!」


 メル子は床に手をついて謝った。


「うん、まあいいさ」


 黒乃は折れた丸メガネを大事にケースにしまった。正座をするメル子に向き直るとその金髪を撫でた。


「これはこれでいい思い出さ。うちのメイドロボが最初の丸メガネを真っ二つにしたってね」

「はあ」


 黒乃は自身が作ったおっぱいオブジェクトをメル子に手渡した。


「これもご主人様の思い出の品としてとっておきなよ」

「いや、別にいらないですが」


 メル子は渋々おっぱいオブジェクトをパーツ箱の片隅にしまった。


 二人は窓の外を眺めた。雨が降り続いており止む気配がない。どんよりとした厚い雲は世界中を覆い尽くしてしまったかのような錯覚を二人に与えた。


「……」

「……」


 久しぶりの何もない休日。やることもなにもない。

 黒乃は立ち上がり押し入れを漁り始めた。大きめの箱を取り出すと封を開けて中のものを取り出した。


「ご主人様がコーヒーを淹れてあげよう」

「ご主人様ってコーヒーを飲むのですか?」


 メル子はその姿を一度も見たことがない。


「メル子が来る前は結構飲んでたよ。インスタントだけどね。メル子が来てからはずっと紅茶だったから、コーヒーの存在を忘れていたよ」


 黒乃が箱から取り出したのはコーヒー豆、コーヒーミル、ドリッパー、コーヒーサーバーのセットだ。去年買ったまま未開封でしまってあったのだ。


「豆から挽いて淹れるのですね! 楽しみです!」

「まあご主人様も挽くやつはやったことがないから、どうなるかわからんぞ」


 黒乃はコーヒー豆の袋を開いた。一筋の香りの帯が二人の鼻を撫でた。


「うーん、中々良いお豆のようですね」

「コーヒー屋さんで買ったセットだからね」


 黒乃はコーヒーミルの金属の筒に豆を流し込んだ。蓋をしてハンドルを取り付ける。あとはハンドルをゆっくりと回せば豆を挽ける。内部で豆とステンレスの刃がぶつかりゴリゴリとした音と振動が伝わってきた。更なる香りが二人を楽しませた。


「どんどん香りが出てきます!」

「コーヒー屋さんの香りだぁ!」


 豆を挽き終わりコーヒーサーバーの上にドリッパーをセットした。ドリッパーはステンレスの表面に細かい穴が空いたペーパーレスタイプのものだ。ペーパータイプのドリッパーは紙のフィルターをセットして使用する。目の細かいフィルターを通すので雑味がなくすっきりとした味わいになる。ペーパーレスタイプはコーヒーの粒子や油分が加わるのでコクのある味わいになる。


「よいしょ、よいしょ。ドリッパーに挽いた豆を入れたらあとはお湯を注ぐだけだ」

「紅茶用のポットに汲んでおきました」


 ポットからゆっくりと湯を注いだ。水分を吸い込んだ豆が体積を増しドリッパーから盛り上がってきた。表面にぷつぷつと細かい穴が無数に開き、豆が呼吸をしているかのようだ。しばらくするとドリッパーの下側から琥珀色の液体がコーヒーサーバーに垂れてきた。蒸らしは完了だ。

 更にドリッパーの中心部分目掛けて湯を注いだ。みるみるうちにコーヒーが溜まっていく。


「香りが完全に花開いたぁ〜」

「香ばしさの奔流です」


 二人はうっとりと垂れていく水滴を見つめた。


「そうだメル子。折角だからさ、お嬢様たちも呼んでコーヒーブレイクといこうよ」

「それもいいですね」


 メル子が立ち上がって玄関に向かおうとした瞬間ドアベルが鳴った。二人は顔を見合わせて微妙な表情を見せ合った。

 扉を開けるとそこに立っていたのはもちろん金髪縦ロールのお嬢様二人であった。


「オーホホホホ! なにやらおキャフィのいい香りがしますのねー!?」

「オーホホホホ! おキャフィに合うカヌレを持ってまいりましたわー!」

「「オーホホホホ!」」


 四人はテーブルを囲んだ。

 いつものティーカップにコーヒーを注ぎ、アンテロッテのカヌレを並べた。その豪勢さに四人は目を奪われた。


「さあ粗茶だけど召し上がれ」

「いただきますわー!」


 マリーとアンテロッテはコーヒーをグビリと飲み込んだ。


「めちゃうまですわー!」アンテロッテは喜んだ。

「ぐえー! 苦いですわー!」マリーは顔をしかめて悶えた。


 黒乃とメル子もコーヒーを啜った。


「おお、苦味が強いけど香りがたまらんね」

「大人の味って感じです! 苦いけれども酸味は少なくて飲みやすいです」


 マリーはテーブルに突っ伏し鼻水を垂らしながらプルプルと震えていた。それでもまだコーヒーを飲もうとしている。


「マリー、無理しないほうがいいよ。お子ちゃまにはまだ早いよ」

「誰がお子ちゃまですのー! おフランスでは生まれて三秒後にはおキャフィを飲んでいますのよー!」

「マリーちゃん、ミルクと砂糖をたっぷり入れましょうよ。世界的にはブラックで飲む習慣の方が珍しいのですよ?」

「お嬢様ー! カフェオレにいたしますのー!?」


 マリーはテーブルに伏せてカフェオレを注文した。メル子は空のカップにミルクを少し注ぎヒートブレスで温めた。さらに手のひらから振動を発生させる『尾震掌』でミルクを泡立てた。スプーンで泡をすくいマリーのカップに乗せ上から砂糖をまぶした。


「さあマリーちゃん、どうぞ!」


 マリーは恐る恐るミルクの泡を溶かしながら一口飲み込んだ。


「飲めますの……」


 マリーの顔が輝いた。


「まろやかで甘くて美味しいですのー! おキャフィなんて恐るるに足りませんわー!」

「さすがお嬢様ですわー!」

「「オーホホホホ!」」

「これもうメル子の母乳と言っても過言ではないじゃろ」

「キモッ!」


 黒乃はカヌレを手でつまむと齧り付いた。

 カヌレとはフランスボルドー地方の菓子だ。ラム酒、薄力粉、卵黄などの素材を型に流し込んでオーブンで焼き上げる。型の内側に蜜蝋みつろうを塗るのが特徴だ。


「おお、あま〜い。苦味の強いコーヒーとベストマッチだなあ。ラム酒の香り高さとカリカリとした歯応えが楽しいねえ。さすがアン子だよ」

「お褒めいただき、ありゃりゃとやんせー!」

「変なお嬢様言葉!」


 大騒ぎしながらひとしきりコーヒーとカヌレを堪能するとメル子とマリーとアンテロッテは床に転がって寝てしまった。

 ふと窓の外を見るとすっかり雨は止み、雲の隙間からうっすらと光が差し込んできていた。その光が寝ている三人を照らした。


 黒乃は再びコーヒーを注ぎ、三人の寝姿を「あて」にしながらその苦味を堪能した。

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