第116話 ラーメン大好きメル子さんです! その五
自動ドアが開きその中から黒乃が現れた。ここは台東区役所。台東ロボ区役所の隣の建物である。
「ふー、メル子お待たせ」
「ご主人様! どうでしたか?」
メル子は走り寄り黒乃の隣に並んだ。
「うん、手続きは問題無く終わったよ」
「良かったです」
二人は上野の町をとぼとぼと歩き出した。平日の夕方前。上野駅の前とはいえそれ程人通りが多いとはいえない。
「せっかく上野まで来たんだし、ちょっと早いけど夕飯を食べて帰ろうか」
「はい!」
区役所の裏手、小さなビルが立ち並ぶ路地に入る。冬の風が通りを吹き抜け二人は体を震わせた。
「今日は何を食べるのでしょうか?」メル子は笑顔を作り黒乃の顔を覗き込んだ。
「今日は私が時々食べに行くつけ麺屋に行こうと思う」
「つけ麺……ですか」
メル子の目が一瞬泳いだ。黒乃はそれをめざとく見つけた。
「ん? つけ麺好きじゃないの?」
「いや、そういうわけでは……」
メル子は言い淀んだが気を取り直して語った。
「実はよくわからない料理、というのが正直なところでして」
「ほほう?」
「なんで麺とスープをわざわざ分けているのかが理解できないのです」
つけ麺はスープが入った丼と麺が入った丼に分けて提供される。
「なるほどね」黒乃はニヤリと笑ってメル子を見た。
「じゃあつけ麺がどういう料理か理解する為にその歴史から勉強しようか」
「お願いします!」
つけ麺が誕生したのは1950年代の東京。ラーメン店で働いていた
その後、山岸氏らは独立しラーメン屋『
1970年代に入るとつけ麺ブームが発生。都内ではつけ麺を出す店が急増した。
2000年代には再度ブームが起こり、様々な亜種が発生。つけ麺専門店も増えラーメンと同等の地位を確立。一気に全国に広がり定着した。
「大勝軒というお店が元祖なのですね。では今日はその大勝軒に行くのですか?」
「ふふふ、違うんだな」
二十二世紀現在、つけ麺は主に三つの系統に分かれている。
一つは大勝軒を源流とする『大勝軒系』。一つは『濃厚魚介豚骨系』。そして『支那そば系』である。
大勝軒系は透明な豚と鶏のスープに魚粉や甘酢を加えて濃厚さと酸味を出している。太麺を使用する。
濃厚魚介豚骨系は大勝軒のスープを更に濃厚にしたようなスープで、透明感はなくドロドロとしている。大量の魚粉が加えられており甘味が強い。太麺を使用する。
最も新しい系統である支那そば系は前の二つと違いあっさりとしたスープが多い。淡麗系とも呼ばれている。透明で塩味が強いスープで細麺、太麺両方使われる。
「今日行くお店は支那そば系ね。初心者でも食べやすいから」
「なるほど」
二人が立ち止まったのは細い路地に面した小さな店だった。カウンター十席のみの縦に長い構造だ。
「『支那ロボ屋』、ここですね」
「うん、さあ入ろうか」
黒乃は暖簾を潜り店内に入った。入り口で食券を買う。既に店内は満席だったが、すぐに席が空き座る事ができた。店内は清潔でライトが強めに照らされている。ラーメン屋とは思えないモダンな雰囲気を出している。
「ご主人様、結局なぜ麺とスープを別々にするのかがわからないのですが……」
「ふふふ、では説明しよう。それはラーメンが抱えている『弱点』を克服する為なのだよ」
「ラーメンの弱点!?」
メル子は隣に座っている黒乃に身を寄せて聞いた。
「ラーメンの弱点ってなんですか!?」
「おやおや、メル子ともあろうロボがわからないのかい?」
メル子は額に指を当て考えた。厨房をキョロキョロと見渡す。
「なんですか、弱点……弱点……そうか、わかりました! それは『麺が伸びる』事です!」
「その通り。ラーメンである以上、麺が伸びるという現象は避けられない。なぜなら熱々のスープに麺が浸っているからだ。時間と共に麺が伸びるのは止めることができない」
メル子はハッとした。両手をパチンと合わせ得心した。
「つけ麺はスープに麺が浸っていません! だから伸びないという仕組みなのですね!」
「さすがメル子。理解できたようだね」
すると二人の前に麺が入った丼とスープが入った丼が運ばれてきた。カウンターの上に置かれた丼を黒乃が下に下ろす。
「って……ええ!?」
メル子はその丼を覗き込み仰天した。ガタンと椅子から立ち上がる。
「スープに麺が浸ってる!? つけ麺なのにスープに麺が! なんですかこれは!? 今のやりとりはなんだったのですか!? というかスープに浸かっていたらつけ麺ではないではないですか! 店長出てきてください! 店長!」
「こらこら落ち着きなさい」
黒乃はメル子を宥めた。ハァハァと息を乱すメル子の肩に手をやり座らせた。
「この麺が浸かっている液体は『
「昆布水!?」
「ほら、丼触ってみて。熱くないでしょ?」
メル子は言われて丼を両手で持ち上げてみた。ひんやりとした感触が手のひらに伝わってくる。
「本当です。なんですか昆布水って?」
「これは水に昆布を漬け込んだものだよ。昆布は加熱しなくても
メル子は箸の先を昆布水につけると口に含んだ。
「んん? 美味しい! 昆布の出汁がきっちりと出ています。トロリとしていてお吸い物みたいです」
「この冷たい昆布水に浸っているから麺は伸びないんだよ。普通の皿に盛られた麺でも伸びないんだけど、あちらは時間と共に麺が乾くからね。これは乾燥も防止してくれる」
「ほえ〜、よく考えられていますね」
メル子は箸でチビチビと昆布水を舐めながら感心をした。
「じゃあまずは麺だけいこうか?」
「麺だけとは!?」
「オンリー麺
「オンリー麺啜り!?」
黒乃は箸で麺をつまむとそのままズルズルと啜った。
「なぜそのまま食べるのですか!? スープはどうしました!?」
「まあまあ、いいからやってみなよ」
黒乃に促され、メル子も麺をそのまま啜った。すると爽やかな風味がすうっと鼻を抜けた。
「美味しい! 麺だけなのに美味しい! 昆布水のおかげでツルリと滑りがいいですし、小麦の香りをしっかりと感じます!」
「さあ次はこれ。
「藻塩!?」
テーブル備え付けの藻塩を手に取った。藻塩とは海藻に潮水をかけ焼いて精製した塩の事である。パラパラとふりかけて麺を啜った。
「もうこれスープがいらないレベルです。藻塩と昆布水の出汁で立派なスープが完成しています」
「ふふふ、そう言わずに次はスープに浸けて食べよう」
二人は箸でごそっと麺を持ち上げると黄金色のスープに麺をダイブさせた。サッと麺を引き上げて一気に啜った。
「!? 麺が! ご主人様! 麺がとてつもなく美味しいです! この歯応え! コシ! 香り! 麺の美味しさが限界突破をしています!」
「つけ麺というのは麺を一番美味しく食べる為の料理なんだよ。つけ麺の麺は茹で上がった後冷水でよく洗って締めるんだ。すると麺の表面のぬめりが落ちてコシが出る。熱もとれるからそれ以上伸びなくなる」
二人は次々と麺を持ち上げてスープに浸す。そして勢いよく喉の奥に流し込んだ。
「なるほど、これが麺とスープに分かれている理由なのですね。麺を最大限に美味しく食べる為の工夫ですか」
「うん。まあつけ麺にも弱点があってそれは『スープがぬるくなる』というものだ」
「冷たい麺をスープに浸しているのですから、当然そうなりますね」
「でもご主人様はこれを弱点とは捉えない。何故ならつけ麺は『スープで麺を温めて食べる料理』ではないからだね。つけ麺は『冷たい麺にスープで味をつけて食べる料理』なんだよ。だから別にスープが冷たくても問題ないんだ」
「そういうものですか」
「でもスープがぬるいのはどうしても嫌っていう人も結構いる。そういう人の為にスープを温めてくれるサービスを提供している店もあるね」
二人はあれよあれよという間に麺を完食してしまった。つけ麺はラーメンに比べて麺の量が多く盛られている。しかしそれを感じさせない程勢いよく食べられてしまうのだ。
「でもご主人様、スープがちょっと勿体無いですね。余ったスープを飲もうとしたのですが、塩分が強すぎて飲むのはきついです……」
「案ずるなメル子。その辺も抜かりはない。あ、すいません、スープ割りください」
黒乃はスープの丼を店員に差し出した。すると店員はその丼に出汁を注いでくれた。
「なるほど! これでスープを最後まで飲めるという仕組みですね」
「つけ麺のスープは濃く作られているからね。最後はスープ割りでゴクリってわけさ」
スープ割りをしてくれるかどうかは店によって違うのでしっかりと確認をしておこう。
二人はスープまで完飲して店を出た。その途端寒風が二人を打ちつける。
「ううう! さぶさぶ!」
「寒いです!」
「つけ麺は体が温まらない! これが弱点といえば弱点かも!」
黒乃とメル子は身を寄せ合い上野の町を後にした。
程なくして浅草のボロアパートに戻ってきた。二人はギシギシと軋む階段を登り部屋の扉を開けた。真っ暗な部屋の中に滑り込む。
そして二人は真っ暗な部屋の中で布団を被ってピタリとくっついていた。
「ううう、寒い」
「寒いです」
冬の風がボロアパートの窓を揺らす。静まりかえった部屋の中で息を潜めて震えている。
「ごめんねメル子。ガスも電気も止められちゃってるからさ」
「いえいえ、大丈夫ですよ。失業保険も下りたわけですし、来週には復旧しますよ」
「うん……ごめんね、辛い思いさせちゃって」
メル子は黒乃の肩に頭を乗せた。
「そんな事はないです。会社をクビになっても次があります。ご主人様を支えるのがメイドの務めです。また二人で頑張っていきましょうよ」
「うん……ありがとう」
黒乃はメル子をそっと抱きしめた。
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