二 はじまりの日(3)
駅構内にある純喫茶店〈
白く艶やかな扉を開ける前から珈琲の香が鼻孔をくすぐる。鈴の音の共に洋装の男性が高久に近付いてきた。
猫の頭をした
「ようこそお
「
「かしこまりました。後程、料金にお含みします。珈琲と共にお持ち
「よろしく頼む」
給仕は高久から豆大福が入った紙袋を受け取ると、静かに背後に近付いた給仕に注文内容と共に紙袋を手渡した。
猫の頭をした給仕に案内されたのは奥まった個室のような席だった。窓の下から行き交う人が見える特等席の、ベルベットの
「高久さん。お久しぶりです」
桐ケ谷大将とは似ても似つかぬ、優しい面差しが高久を見ている。
まだ幼さを残す顔は昔、少女と間違われるあどけなさを残していたが、久々に見た顔はほんの少し、男らしい顔つきへと変わっていた。令人を座らせ、自分も座る。
そこに給仕が珈琲とお皿にのせた豆大福を運んできた。失礼いたします、の声と共に人数分の珈琲カップとソーサーが置かれ、次に豆大福をのせたお皿を置かれた。
「では、ごゆるりと」
頭を下げた給仕が立ち去ってから高久は改めて令人に向き直った。
「久しぶり。羽坂特務曹長殿はどうした?」
「
高久は思わずため息を吐いた。高久の村までは汽車で六時間掛かる。羽坂は令人と居る時は
令人のことだ。自分は
「私が羽坂特務曹長殿に行かせました」
令人は
「大丈夫だ。あいつが愛煙者なのはよく分かっている」
高久に言われて令人は心の底から
「今は何を描いているんだ?」
令人は高久に問われたことが心底、嬉しいようだった。表情を明るくして、高久の問いにはきはきと答えた。
「人物画です。皆様、
令人に言われて、断れる者はいないだろうな――と高久は苦笑した。
「今は誰を」
「羽坂特務曹長殿を。今日は、雪村少尉殿を描きました」
「雪村少尉殿?」
高久は目を丸くした。
「はい。途中でお会いしまして、時間がございましたのでお願いしました」
「そうか」
聯隊旗手を担う少尉は、黒を基調とした軍装を
しかし、言い
「雪村少尉殿は……
「はい。雪村少尉殿は、とてもお優しくて、純白の軍装がお似合いの美しい方ですね。お姿を写し取りながら、緊張してしまいました」
令人は人に対する
雪村は人を真っ直ぐに見る。
だが――と高久は表情を暗くした。雪村澄人が雪村の姓を名乗るようになったのはここ一年の事だ。〈
気にかかることはあったが、甥の嬉しそうな笑顔を前に高久は表情を
「〈鬼の
軽口を叩く男の声が聞こえて高久は顔をあげた。疲れた表情を見せた無精ひげの男が高久を見おろしていた。
「……羽坂」
「久しぶりだな。……お、〈まめや〉の豆大福じゃあないか」
羽坂は令人の隣に腰を下ろすと、洋卓の上に煙草の箱と銀色のライターを置いた。煙草の箱は〈
「羽坂特務曹長殿。〈鬼の守り部〉って、何でしょうか?」
「令人は幼年学校だから知らないんだな。高久は新人少尉専属の教育担当だからな……」
羽坂は高久を見た。余計なことを言うな、という高久の目を無視して羽坂は答えた。
「〈鬼の守り部〉は高久の異称だ。昔から新人少尉を守る役目の軍曹に対して呼ばれる名前でな。我が身を
「そうなのですね」
令人が瞳を輝かせて高久を見る。高久は決まり悪そうに羽坂を
「……で、あの先生の許可は得られたんだろうな」
声を落とし聞いた羽坂に高久が
「勿論だ」
「あの先生は
羽坂は令人に豆大福の皿を差し出した。令人は遠慮なくひとつ、手に取った。
「いただきます」
「だからな、俺はここでお
声をあげたのは令人だった。令人は羽坂に
「後は幼年学校でお会いしましょう。令人軍曹殿」
どこか茶化したような言い方に令人が微笑んだ。こうして見ると自分と羽坂のどちらが伯父だが分からないな――と高久は内心、思った。
「高久。それからな、例の奴を呼んだ。こちらは予め、先生の許可を得ている。返答は嬉々としたものだったよ」
先生と呼んだ男の嬉々とした表情が
そして羽坂が身を乗り出して高久の耳に口を近づけた。周囲に聞かれないように声を落とす。
「それから、例の医者にはこの件は殺人を犯して、逃亡の為に顔を変えた男の起こした口外禁止の事件のことを聞きたいとだけ、伝えてある。電話での会話だからな……事情が事情なだけに
「十分だ。後で何かお礼をさせて欲しい」
高久の申し出に羽坂は不敵な笑みを浮かべた。
「なら〈あずまや〉が良い。
「手配しよう」
体を起こした羽坂は豆大福をそのまま口に入れ、席を立つと背を向けて手を振った。疲れた足取りの軍靴は重々しい音を立てて遠のいていった。
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