二 はじまりの日(3)

 駅構内にある純喫茶店〈三色旗さんしょくき〉はこの駅の始まりと共にある歴史ある店だ。汽車を待つ人の待合の場所になっているが、駅に用がなくともわざわざ来る人もいる名店である。

 白く艶やかな扉を開ける前から珈琲の香が鼻孔をくすぐる。鈴の音の共に洋装の男性が高久に近付いてきた。

 猫の頭をした給仕きゅうじは恭しく頭を下げた。

「ようこそおしくださいました」

羽坂はざか特務曹長の名で待ち合わせをしている。注文は珈琲を。後、持ち込みを頼みたい。中に五個あるが、私のはひとつにして欲しい」

「かしこまりました。後程、料金にお含みします。珈琲と共にお持ちいたします」

「よろしく頼む」

 給仕は高久から豆大福が入った紙袋を受け取ると、静かに背後に近付いた給仕に注文内容と共に紙袋を手渡した。

 猫の頭をした給仕に案内されたのは奥まった個室のような席だった。窓の下から行き交う人が見える特等席の、ベルベットのあざやかやかな赤いソファーに座って画材用紙と鉛筆を手に何かを描いている黒い軍装の少年。洋紅色ようこうしょくえりが鮮やかにえる軍装は帝国軍幼年学校ていこくぐんようねんがっこうの生徒であり、軍曹であることを表していた。人の気配に少年は手を止めて振り返った。息を呑む程美しい顔をした少年、高久は久々に甥の顔を見た。

 桐ケ谷きりがや令人のりとは高久に気付くと画材用紙を閉じて洋卓てーぶるの上に置いてから立ち上がり、敬礼した。

「高久さん。お久しぶりです」

 桐ケ谷大将とは似ても似つかぬ、優しい面差しが高久を見ている。眉目秀麗びもくしゅうれいしょうするに相応ふさわしい少年は未来を期待された聯隊旗手候補れんたいきしゅこうほであった。

 まだ幼さを残す顔は昔、少女と間違われるあどけなさを残していたが、久々に見た顔はほんの少し、男らしい顔つきへと変わっていた。令人を座らせ、自分も座る。

 そこに給仕が珈琲とお皿にのせた豆大福を運んできた。失礼いたします、の声と共に人数分の珈琲カップとソーサーが置かれ、次に豆大福をのせたお皿を置かれた。

「では、ごゆるりと」

 頭を下げた給仕が立ち去ってから高久は改めて令人に向き直った。

「久しぶり。羽坂特務曹長殿はどうした?」

喫煙室きつえんしつです」

 高久は思わずため息を吐いた。高久の村までは汽車で六時間掛かる。羽坂は令人と居る時は煙草たばこを吸わないようにしているのだが、当人は愛煙者あいえんしゃなので煙草を吸えないのはきついのだろう。

 令人のことだ。自分は此処ここで待ちますので、と羽坂を行かせたに違いない――と思っていると令人は高久の思った通りの答えを言った。

「私が羽坂特務曹長殿に行かせました」

 令人は美麗びれいな笑みを浮かべながらも申し訳なさそうな表情で高久を見ている。高久は実のところ、甥に弱い。そうでなくとも、村への愛着は人よりも強い。羽坂をかばう甥に高久は口元をほころばせた。

「大丈夫だ。あいつが愛煙者なのはよく分かっている」

 高久に言われて令人は心の底から安堵あんどした表情を浮かべていた。高久は令人が絵を描いて待っていたことを思い出し、問いかけた。

「今は何を描いているんだ?」

 令人は高久に問われたことが心底、嬉しいようだった。表情を明るくして、高久の問いにはきはきと答えた。

「人物画です。皆様、こころよく協力してくださるので、嬉しいです」

 令人に言われて、断れる者はいないだろうな――と高久は苦笑した。

「今は誰を」

「羽坂特務曹長殿を。今日は、雪村少尉殿を描きました」

「雪村少尉殿?」

 高久は目を丸くした。

「はい。途中でお会いしまして、時間がございましたのでお願いしました」

「そうか」

 雪村澄人ゆきむらすみと少尉は帝国陸軍の聯隊旗手だ。雪村はいくつもの戦争において前線を駆け、多くの部下を生還させている。聯隊の生存率が高い聯隊旗手はたっとびを込めて〈白天ノ子はくてんのこ〉と呼ばれあがめられている。

 聯隊旗手を担う少尉は、黒を基調とした軍装をまとう少尉と違い、全身を純白の軍装で纏う。軍帽、軍衣ぐんい軍袴ぐんこ軍靴ぐんか肩章けんしょう襟章えりしょう飾緒しょくちょ帯刀たいとう、刀――身に着けるもの全てが色の違う白で作られた、この国のほまれの証である白装束しろしょうぞくである。

 しかし、言いえれば死に装束だ。聯隊旗手は前線をける為に軍の中で一番、死亡率が高い。まほら様からたまわ御旗みはたと共に、純白の軍装が敵の血痕けっこん土埃つちぼこりで汚れれば汚れる程、誉れ高い証となる。そうして汚れた純白の軍装は凱旋がいせんの際に人々の羨望せんぼうの眼差しを浴びるのである。

「雪村少尉殿は……御健在ごけんざいであるか?」

「はい。雪村少尉殿は、とてもお優しくて、純白の軍装がお似合いの美しい方ですね。お姿を写し取りながら、緊張してしまいました」

 令人は人に対する賛美さんびを口にすることをてらわない。そこは雪村にも通じるものだった。

 雪村は人を真っ直ぐに見る。清廉潔白せいれんけっぱくという言葉があれ程までに板についた人間も相当いないだろう。

 だが――と高久は表情を暗くした。雪村澄人が雪村の姓を名乗るようになったのはここ一年の事だ。〈迫桜高原ノ乱はくおうこうげんのらん〉で雪村は人身共に傷つき、聯隊旗手を休職している。今は総務課で軍務にあたっている筈だった。

 気にかかることはあったが、甥の嬉しそうな笑顔を前に高久は表情をゆるませた。

「〈鬼の〉も従兄弟の前では〈仏の守り部〉になるか」

 軽口を叩く男の声が聞こえて高久は顔をあげた。疲れた表情を見せた無精ひげの男が高久を見おろしていた。

「……羽坂」

「久しぶりだな。……お、〈まめや〉の豆大福じゃあないか」

 羽坂は令人の隣に腰を下ろすと、洋卓の上に煙草の箱と銀色のライターを置いた。煙草の箱は〈彼岸ノ桜ひがんのさくら〉とある。昔から変わることのない羽坂の好物の銘柄めいがらだ。

「羽坂特務曹長殿。〈鬼の守り部〉って、何でしょうか?」

「令人は幼年学校だから知らないんだな。高久は新人少尉専属の教育担当だからな……」

 羽坂は高久を見た。余計なことを言うな、という高久の目を無視して羽坂は答えた。

「〈鬼の守り部〉は高久の異称だ。昔から新人少尉を守る役目の軍曹に対して呼ばれる名前でな。我が身をていして少尉を守る軍曹の姿が陵墓りょうぼを守る番人のように見えることから畏怖いふを込めて呼ばれる言葉だ」

「そうなのですね」

 令人が瞳を輝かせて高久を見る。高久は決まり悪そうに羽坂をにらんだが、羽坂は気にすることなくぬるくなった珈琲を飲み干した。そして深く息をすると疲れた目を高久に向けた。

「……で、あの先生の許可は得られたんだろうな」

 声を落とし聞いた羽坂に高久がうなずく。

「勿論だ」

「あの先生は軍人贔屓ぐんじんひいきと言われているが、そうじゃあない。典型的な軍人嫌いの変人だ。特に俺のことは嫌いだろうよ。……令人。一個食え」

 羽坂は令人に豆大福の皿を差し出した。令人は遠慮なくひとつ、手に取った。

「いただきます」

「だからな、俺はここでおいとまする」

 声をあげたのは令人だった。令人は羽坂になついている。長く共に居た後でも寂しいのだろう。悲しそうな表情を向けている。そんな令人の頭に羽坂は手を置いた。

「後は幼年学校でお会いしましょう。令人軍曹殿」

 どこか茶化したような言い方に令人が微笑んだ。こうして見ると自分と羽坂のどちらが伯父だが分からないな――と高久は内心、思った。

「高久。それからな、例の奴を呼んだ。こちらは予め、先生の許可を得ている。返答は嬉々としたものだったよ」

 先生と呼んだ男の嬉々とした表情が容易たやすく想像された高久はあきれた表情を隠さなかった。

 そして羽坂が身を乗り出して高久の耳に口を近づけた。周囲に聞かれないように声を落とす。

「それから、例の医者にはこの件は殺人を犯して、逃亡の為に顔を変えた男の起こした口外禁止の事件のことを聞きたいとだけ、伝えてある。電話での会話だからな……事情が事情なだけに傍受ぼうじゅされる危険性を考えて本来の目的は伝えていない。後はお前さんがなんとかしてくれ」

「十分だ。後で何かお礼をさせて欲しい」

 高久の申し出に羽坂は不敵な笑みを浮かべた。

「なら〈あずまや〉が良い。地酒じざけが飲みたい」

「手配しよう」

 体を起こした羽坂は豆大福をそのまま口に入れ、席を立つと背を向けて手を振った。疲れた足取りの軍靴は重々しい音を立てて遠のいていった。

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