最終章・間章5 悪い魔女の相方
第19話 Episode-2.0
私は、真っ白い空間にいた。
一面美しい雪のような、真っ白な空間。それなのに、寒さは感じない。
むしろ、人肌のような心地よい暖かさがある。
地面のようなものは無い。何かの上に立っているわけでもない。ただ、真っ白い空間に浮かんでいるだけ。それでも、不思議と不安のようなものは無い。
身体を動かしたり、泳ぐように周囲を掻いたりしてみるものの、何も変化はない。
動いてないのか、それとも周囲が一面真っ白なので分からないだけなのか。
いくら頑張っても加速するような力は感じないが、果たしてこの状態で自分の感覚という物がどこまで頼りになるのかも分からない。
そうだ、魔術を使うとどうだろう。
そう思って、写本の霊装をいつものポケットから取り出そうとして、そこで自分の服装に初めて意識が向いた。いつも城で着ていた、シンプルなシャツとロングスカート、それにカーディガン。そのポケットには、霊装どころか埃の一つすらない。
まあ、身一つでも魔術は使える。とりあえず飛行術式を構築し、私の身体の持つ運動量を魔術的に操作できるようにしようとし、けれど空を掴むような感覚と共に術式は霧散する。
それならば、と。もっとも基本的な魔術の一つ、蝋燭ほどの炎を生成する魔術を使うが、やはり肩透かしをうけたような感覚だけがあり、炎どころか熱すら生じない。
どうやら、この世界では魔術は使えないらしい。
この世界。その単語に、引っかかりを覚えて、私は記憶を漁ろうとして。
そして、今までまるで存在しないかのようにひっそりと黙っていた記憶の数々が、急に主張を始めた。第六位だった時代の記憶。アカシアを迎えた時の記憶。アカシアと過ごした記憶。アカシアを失った記憶。悪い魔女となった記憶。第四位の封書の魔女となった記憶。一人でアカシアのために準備した記憶、行倒れていた連絡員を拾った記憶、その連絡員と過ごした数週間の記憶。節操無しの第八位との戦闘の記憶。
そして、己とこの世界を嘆き絶望した記憶と。
嘆きのままに世界を滅ぼし、そして息絶えた記憶。
――何してるんだろ、私――
後悔ではなかった。落ち着いた、呆れのような感情。
――私が悪い魔女になるのは、彼女のためなのに。そうでもないのに何やってるんだろ――
そう思った瞬間、聞きなれた、懐かしい声が聞こえた。
――そうですよ。昔っからあなたは賢い魔女を演じようとしてましたけど、結局は年相応の女の子でしたから――
その声は、まぎれもなく彼女の物で。
ああ、きっとこれは私が彼女にかけて欲しい言葉なのだろう。
死後の世界なんていう物が無いのは知っている。
だから、きっと私が勝手に作り上げた彼女の言葉のような物に過ぎないのだろう。
――あなたが自分で作った私相手に、人見知りの少女みたいに気を使って、なんだかんだ言いつつも城では私に頼りっきりで、それで私に頼られると面倒そうにしつつも頬が緩んで、しょうもない失敗も沢山して、時には感情に振り回されてちょっと大きな失敗もして――
それでも、その言葉に耳を傾けてみようという気になった。
――あれから随分年を取ったようですけど、やっぱり変わってませんね――
私の頭が作り出した彼女「のような」存在であっても、最期に言葉を交わせるのならば。
――相変わらず自分の感情と向き合うのが下手で、人と向き合うのが下手で――
けど、どうしてだろうか。
私の頭が思い描いた、私の記憶をベースに作られた彼女なのなら、きっと。
――怒らないの、いや、私を叱らないのかい、君は――
きっと、こんな私を見れば叱るはず。何をしてるんですか、と。
何のために、あなたは魔女になったんですか、と。
ぽっ、と。顔も姿も見えない彼女が、少し笑ったような気がした。
――叱れるわけないじゃないですか。私のためにあれだけ努力して、私のためにいろいろなものを犠牲にして、そして私のために泣いて、嘆いて、悲しんでくれたあなたを、私が叱れるわけないじゃないですか。私のために、世界を壊して、世界中を敵に回して。そんなあなたを、他でもないこの私が叱れるわけないじゃないですか――
気のせいかもしれない。それでも、私の浮く空間が少し暖かくなったような。機械仕掛けで人より幾分か体温の低い彼女に抱きしめられたような、そんな感覚があって。
――でも、私は、約束を、――
思わず浮かんだ言葉だったが、その答えは分かっていた。
私を誰よりも大切にしてくれて、そして私が誰よりも知る彼女が、何と答えるのかは。
――分かってますよ。けど、あなたが私のためにしてくれた努力、払ってくれたもの。それだけで、私はもう十分すぎるくらいに救われてるんです。もう十分すぎるものを貰っているんですよ。だから、そうですね、今度は私の番です。これでは、私もあなたになにかあげないといけませんからね――
けれど、続く言葉までは、分からなかった。
――あなたは、もう私を忘れてもいいんですよ。約束は果たしてもらえませんでしたけど、それ以上のものを私はもらいました。ですから、私は満足です。いつまでも、過去の女が、生きているあなたを捕まえているわけにはいきませんからね――
その言葉に滲んだものは、涙、だろうか。
――だから、叱っちゃいけないんですよ。ここで私があなたを叱ってしまったら、あなたはまた、私を忘れられなくなってしまいますからね――
顔も見えない彼女が、それでも目尻に涙を浮かべて笑っているのが分かって。
――忘れられるわけ、――
――もちろん、こう言ったところであなたが私を忘れられないことは分かっていますよ。けど、これが私なりの、あなたから貰ったものへのお返しなんです――
やっぱり、その柔らかい声が苦しいほど愛しくて。
彼女のその優しさが、狂おしいほど温かくて、悲しくて。
この空間で本当にそんなものが流れるのかは分からないけれど、頬を何か暖かい液体が伝ったような気がして。
――それに、あなたに怒るのではなく、あなたを叱ってくれる人なら、もう他にいるじゃないですか。あなたを叱って、そのうえでその傍らで肩を支えてくれる人なら――
ああ、そうか。この彼女は、彼の事も知っているのか。
――ナナのことかい――
――ええ。彼と、それからもう一人――
いたずらっぽく、涙を拭って、彼女が笑ったような気がした。
――ひょっとして、私自身とかいうつもりじゃないよね――
――いえ。あなたが自分で自分のことを支えられるほど器用でないのは、誰よりもよく知っていますからね――
滲んだ視界の中で、白い空間の収縮が始まる。
――あとは、あちらに託すことにします――
――あ、まって、アカシア――
遠くなり始めたその声を、慌てて呼び止めた。
小さくなり始めたその声は、しかし途中で止まって。
――それから、最後にもう一つ。あなたが結局何も書かずに、一度も開かずにわたしの棺のある部屋に仕舞っていたあの封筒。せっかくなんですから開けてみてください――
今度こそ、フェードアウトしながら。
――あえてさよならは言いません。あの時だって言えなかったんですからね。それから、あの時も言いましたけど、あなたはもう少し世界の未知の部分に夢を見てもいいと思いますよ――
***
天井だった。
見慣れた、私の城の天井だった。
「これでよしっ、と」
聞き慣れた、懐かしい、けれどついさっきまでも聞いていたような気のする声がして。
あれ、ひょっとして本当に死後の世界なのかな、なんて思って。
上体を起こすと、その顔が目の前に飛び込んできた。
肩の少し下まである長い茶色い髪。
髪と同じように少しだけ茶色がかった瞳。
いつの日か私が買ってあげた、私とおそろいのカーディガン。
その後ろから、ひょっこりとこれまた見慣れた顏がのぞく。
「お、半不死ってホントだったんだな。つくづくとんでもないな、魔女ってのは」
ナナ。私の、もう一人の相方。
いや、ならきっとここは死後の世界なんかではないのだろう。
世界の敵となったのであろうわたしが行く死後の世界があるのならそれはきっと地獄とか冥府とか言われる場所で、きっとそこはこんなに暖かい場所ではないし、アカシアやナナがいるはずがないのだから。
だとしたら。
「あんたの死体を担いでここまで戻ってくるのは大変だったんだからな。感謝しろよ」
なるほど、と心の中で小さく頷く。
魔女の命は、その体の中にあるものだけではない。聖域もすなわち、魔女の命といえる。
恐らくは、ナナの手によって私の身体がここ、私の聖域に運ばれ。そして、この聖域にもともと備わって、その中での私の半不死性を保証していた命の修復用の仕掛けが働いて。結果として、聖域にあった私の生命力を使って私の命をゼロから「修復」したのだろう。
確かに、私はあそこで死んだのだ。そして、私がアカシアにしようと思っていた方法とは違うが、ある意味において生き返った。
その身に宿すもの以外の生命力を持たない普通の人間にはできない、魔女だからこそできる、その半不死と言われる所以。
いや、けど。
修復用の仕組みなんて言っても、聖域に入るだけで勝手にゼロから構築、もとい「修正」をやってくれるほど便利な物ではない。私がここにいる時はそのための術式を用いて、第三者が行うのならそれなりに複雑な魔術的な作業を踏んで初めて、私の命は「修復」される。
ナナにそんなことができるとも思えない。
じゃあ。
「あれ、ほんとにこれ大丈夫?失敗してないよね?」
再び先程の顔が私の顔を覗き込み。
はらりと舞った長く茶色い髪が私の頬に触れ。
その茶色い瞳が私の目を真っ直ぐ見つめて。
「……アカ……シア?」
「あ、大丈夫そうだね。よかったよかった」
その顔がどけられて、つられるように視線が上を向いて。
きっと、私の表情は年端もいかない子供のような物にみえるのだろう。
彼女の横から、ナナが見守るようにこちらを向いていて。
「じゃあまずは挨拶からにしようか」
彼女は、胸を張るようにして私の前で仁王立ちする。
膝ほどの高さの台の上で座る私は、必然的に見上げる形に。
「初めましてだね、ミストレス。じゃなくって、アストラエアだったね」
活発そうに笑ったその顔は、確かに私の知っている彼女の顔だったが、私の知る彼女の表情ではなくって。
「不完全な状態だった「アカシアを生き返らせる術式」が、地脈変動に連動して発動されて。それで、生命力の足りない部分を適当な生命力で補って「再構築」された命。その命が、本来の設計通りこの体に納められた結果生まれた、全く別の、新しい「ホムンクルス」」
少し迷うような間の後。
「いわば、アカシアの魂を引き継いだ者、ってところかな」
そう言うと、まっすぐこちらを向き直って姿勢を正した彼女は。
「では、改めて」
表面だけ柔らかいその手を差し出して。
「初めまして、アストラエア。私に、名前をくれませんか?」
彼女はそう言うと、どこか見覚えのある表情で、静かに笑った。
無意識に頬を拭った私の手の甲は、温かい液体で濡れていた。
空になった棺。
その脇に腰を下ろした私は、手にした古ぼけたクリーム色の封筒に視線を落とす。
四〇〇年の時を経て、赤かった蝋は褐色になり、滑らかだった表面には無数のヒビが。
逆三角形のフタを掴んで軽く力をかけると、あっさりと封蝋は砕けた。
その砕けた蝋を傍らに置いた、封筒を収めていた箱にいれてから、中の紙を取り出す。
時を感じさせないほど真っ白な、二つ折りの紙だった。
おそるおそる、その紙を開く。
書いてあったのは、一言だった。紙の真ん中にその一言があり、端にはアカシアという署名。
五文字だけの、短い言葉。
その彼女の書いた五文字を噛みしめるように何度も何度も胸の中で反復し。
私は、そっとその紙を箱に仕舞う。
今は亡き彼女の遺したその一言が、滲んでしまわないように。
人形は死して魔女を残す 梅雨乃うた @EveningShower
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