第11話 熱と冷

 1日に何万回もの鉄板を容易く切断する業務用のカッター。それはギアを滑らかに動かすための油でパンケーキに垂らしたシロップのような色と共に濡れている。握り込んだ手のひらが金属にくっきりと指の跡を残すほど強く握り込まなければ、遠心力に負けてしまいそうだった。

 そして、その油はまた、別の油で上書きされていく。どろりと溢れた油に、鏡から反射された光がキリリと反射している。琥珀色の油に輝くのは、クリームのように真っ白な光だった。


 †


 けたたましくなり続けるアラームにアタシは空白になっていた意識を取り戻す。警備員と思われる重装備の男達と、たった1人しかいない中年の研究員が来る。本日最後の実験だと言われ、緑色の薄い布とテープだけでできた服と身体中に付けられたケーブルを身に付けたまま、手術台のようなベッドから立ち上がった。この状況が明らかに不自然なのは分かる。しかし、何が問題なのか疑問を思い浮かべようとする度、目の前に布をかけられたかの如く考えるのを停止させられた。

 もう何度も通った白い廊下を通ると、監視カメラが自分たちの動きを追う。その監視カメラには、異様に大きな首輪を付けた姿が映っていた。


「これより、第3低温実験場にて夜間実験を開始する。JLM-0502。避けてみなさい」気が付かせるように研究者が言た。

 何が起こるのか理解しきれない中、パパバっと軽い音が響いた。部屋の奥から空間を歪ませる何かが3つ、飛んでくる。頭を少し傾け、それが右に通り過ぎるのを待つ。最後の1つだけ顔に当たりそうだったので、指先でピンと弾いた。そして、広くて真っ白な部屋に、壁に当たって弾ける音だけが響いた。奥にある黒いロボットと備え付けられていたライフルを見て、ようやくそれが弾丸だったと気付いた。

 今度は、バッと音とともに球が12個、こちらに飛び込んで来た。当たらないものはそのまま見逃し、こちらに飛んできそうな6玉だけ、右手と左手、そして右肘で受け止めた。そのまま地面に落ちたそれは、水滴が落ちるような音を静寂に染まった空間へ垂らした。

 弾を避けては受け止める作業を数回繰り返す。退屈な時間が数十分過ぎた後に、ようやく研究員が声を漏らす。

「素晴らしい」

 ニット帽を外し、前髪の後退した茶髪を掻き上げる。もう片方の手の親指を立て、そのまま分厚い生地のグローブでマイクのスイッチの電源を押した。

「予想以上の結果だ。覚醒レベル50%では、最低限の回避行動を取れるのだな。君の今の知能レベルはイルカより少し頭が悪い程度だ。しかしながら、普通の人間では知能レベル50%では犬よりも悪い反応しか示さない。しかも睡眠が不足している中でのこのパフォーマンスだ。どうやら君は潜在的な知能指数も上がっていると考察でき――」

 そうやって、たらたらと語られる内容の3割もアタシは理解出来なかった、いや、理解を邪魔されていたというのが正しいか。

 

 数分後、見知ったサイボーグの女が鋼鉄の扉を押し開けて入って来た。研究員が何かを女と話していたが、突然振り返り、急いで何かの機械を操作している。女は、ポンチョの下に腕を組みながら、こちらをじっと見つめる。ピリつく脳裏。

 ――見慣れた街と砕けた家。

 女が微笑んだ瞬間、石で頭の後ろを殴られたような感覚が突然襲った。腹部を強く打った時のように、肺の空気が喉奥から漏れ出て、白い煙となる。瞬く間に、脳に被せてあった布のようなモヤが剥がれていった。しかし、糊付けしたように張り付いていた布のような物体は無理矢理剥がれるように、脳を激しく痺れさせた。

 ――路地裏の植木と星ヶ島の底。

 真っ白なタイルに目眩を覚え、思わず膝を付く。激しい不快感と口内の酸味と共に、これまでの状況がどっと押し寄せてくるのを耐えていた。そうだ、アタシは捕まっていたのだ。あの女、星紀夙夜に追われ、意識が飛んだと思ったらこの状態だった。一体何をされた?ここ数日間は身体をずっと観察されていた。

 様々なもので傷を負わせようとした。毎日、身体能力を測るために限界までテストされていた。

 ――母の笑顔、星紀の笑顔。

 星紀夙夜がゆっくりとこちらに歩いてくる、その眼には保護犬に向けられるような同情が含まれていた。

「久しぶりね、アルヴィナちゃん。ちゃんと頑張ってるねぇ」

「アタシに何をした……」喉奥に未だ留まる胃酸を飲み込んで、立ち上がって声を捻り出す。

「ウチらは何もしてない。でも、から調べてるの」

 言葉を返そうとする。その時、がくんと、体勢が崩された。視界が円を描くように半時計に周る。彼女の機械の脚が自分の足元を払った事を悟る。

 ――銃声、右腹への圧力と溢れるもの。

 頭が地面に叩き付けられる僅かな瞬間、右手を地面に叩き付けた。銃弾を受けても砕けないタイルは容易に砕け、さらにその下にあったコンクリートすらも砂場をかくように、この手をめり込ませた。

 衝撃を受け止めて視界のブレが消えた。見えるのは唖然とした顔を見せる研究員と銃を今にも構えようとする警備員。そして、星紀夙夜の口角の上がった表情だった。

 ――それは純粋たる怒り。

 固定された右腕で、身体を振るう。バットで相手を叩きつけるように、そしてベルトで相手を打つように、力任せに星紀夙夜の左脚を蹴り飛ばした。

 拳銃やショットガンの比にならない、轟音が響く。衝撃でコンクリートが粉々に砕け、タイルを持ち上げてまで砂塵を撒き散らした。

 星紀夙夜は仁王立ちで、アタシは身体を地面と水平に保ちながら静止していた。砂塵が1つも落ちない内に、ブリッジするように四肢を地面に押さえつけて、埋もれていた右腕でコンクリートを掻き出した。しかし、星紀夙夜も巻き上がる石弾を避け、タイルごと蹴り上げてくる。左腕と両脚で身体を弾くように跳び、すんでの所で避けた。彼女の靴底から伸びる鋭いスパイクがタイルで火花を散らし、この鼻先にまで赤く閃光を輝かせた。

 空を切った星紀の左脚の装甲はアタシの蹴りで少しひび割れていた。鋭い蹴りで空気が切れるように晴れ、その隙間から、巻き上げられたコンクリートが銃撃をしていたロボットをバラバラにしている様子が見える。研究員と屈強な身体の警備員はなすすべもなく、部屋の入り口で団子を作るように避難してアタシ達2人を見ていた。

 空中で身体を捻って冷たいタイルに着地する。そのまま、両腕をぶるんと振り、脇を締め、拳を目の先で固く握りしめた。汗が身体中から湧き出るが、息は一切乱れず、いくらでも続けられそうだった。星紀も、微動だにしないまま、蹴り上げた方の脚の膝をゆっくりと降ろした。

 

「だいぶこなれてきたんじゃないの?」

「アタシもびっくりさ、身体がどうかしたのは理解してるけどここまで動けるようになってるなんて」

 ――星紀が一歩踏み込んでジャブを打つように蹴りを数発。右手で3発、左手で6発、足首を叩いて弾く。

 ここ数日の実験で、ぼうとしていた頭でも、身体の動かし方だけは理解していた。破壊的な筋力、鞭のようなしなやかさ、偉大な鋼鉄の如き骨格。

 わずか1週間で全身がサイボーグにでもなったような感覚だった。

「それにしても、脳のリミッターを解除した直後でこの動きかぁ……。自警団で鍛えられてたとしても、天賦の才能ね」

 ――今度はこちらが踏み込み、右の拳を斜め下から、腰の辺りを狙う。機械の足関節を外して回避される。

「今までは弱いと思ってたけど、対等に立つと強い人。マージェスみたいな男じゃないとバディを組めないのも納得」

「……あいつは殺してないだろうな」

 ――外れた脚がバネのように飛び上がり、ふくらはぎの部分からカッターが3枚展開。うち2枚は星紀が掴み、斜めに振り下ろす。跳ねた脚が踵落としの姿勢で脳天へ刃を向ける。

「いくらウチでも、彼にははしない。それに死なせようとしたのはあなたじゃないの」

「マージェスはそんなヤワな男じゃない」

 ――振り上げていた右腕を時計回りへ、空に浮いていた機械の脚と星紀が持っていたカッターの刃を叩き割る。そして片方の刃を左の肩甲骨で受け止めた。

 貨物列車のコンテナをバターのように切った刃をそのままに、星紀の切れ長の目を左目で睨んだ。弾かれた脚は静かに着地した。

 

 勝負は付いていた。刃はこれ以上肩甲骨を通らない。代わりにアタシの伸ばした左腕の拳が相手の下顎寸前で止まっている。しかし、彼女もまた、割られた刃を手放し代わりに爆弾を、柔らかい右眼球へ押し付けている。完璧な相打ちだった。あと数ミリ、互いに押し込めば死ぬところであったのだ。

 互いに冷静になって、拳や爆弾を相手から離す。奥にいる研究員は緊張が解けた事に安堵して大きく息を吐いている。刃を受け止めた肩を触れると、わずかに血が手に付着していた。そして、胸のあたりに熱が籠り始めている事に気が付いた。

「どうして、どっちも相棒が生きてるって言い切れるほど絆が強いんだか……。彼は捕まえたけど脱走した。あなたがどんなに彼を信用していたとしても、今度こそ殺される。あんなに逃げるなと説得したのに馬鹿な男」

「生きてるんなら、それでいいんだ」

「どうするつもりかしら?」

「マージェスと合流する」

「まぁ、あなたも馬鹿な女ね。その身体で出るつもり?」

 そう言うと、そばにあった脚の関節を空っぽになっていた股のジョイントへ接続し直す。続いて、腰の内部から注射器を取り出してこちらに投げる。ぱしりと皮膚を叩く、見慣れたエピペン型の注射器をすぐに胸へ突き立てた。細い針を通る冷却剤に、緑色の患者服の胸の辺りが汗と共に氷の膜を形成した。

「身体が強くなったとはいえ、あなたは春取君の劣化版。彼とは違って体温が上がり続ける致命的な欠陥を持っている、しまいには内臓から焼け付いてしまうのよ。この研究施設は本来、極低温下でのサイボーグ用の義体や新素材をテストする場所。あなたはこの環境下で布一枚、しかも身体をちょっとでも激しく動かした後は急速冷却剤を打たなきゃ生きられない。良い子だから、脱走なんて馬鹿な考えはやめてよね」

 彼女は、アタシが壊れない身体であることを良い事に定期的に命がけの手合いを挑んでくる。しかし、この施設から出ようとすると途端にこれだ。アタシは思わず鼻で笑いそうになった。

「俺の直感だが、アルヴィナは我慢してられんだろうな」

 突然、重機のような低い声が響いた。

 

 研究員と警備員を押し退けて現れたのは、まるで山のように大きい身体で、天を覆うような大きな上半身に身を包んだ大男だった。星紀の青白い肌とは対照的に、どこまでも深く、視線を吸い取られるような黒茶色の肌だった。そして、彼は身体の上半身を機械化したサイボーグだと悟った。しかしながら、類稀な体格に、機械化していない部分は全て迷彩色のパワードスーツで覆われていた。一歩一歩、進む歩幅が星紀の機械の脚より大きく、歩いているだけなのにたちまち覆われるような感覚すらあった。キング・Dデルタ。まさに王に相応しい風貌だった。さっきまでの2人の時と違い、真剣な雰囲気が立ち込める。この冷たい部屋よりも、場は凍り付いた。

「何かあったときは、この首輪で脳の働きを抑えられるのだろう?」

 低く、床に響く声で言いながら、腕程もある機械の指でアタシの首元を触れる。下手に動くと何が起きるか分からない、あらゆる災害への本能的な恐怖が心の奥で渦めいていた。

「……必要ないようだな。この女、馬鹿ではない。力関係で勝てるか常に測っている。忠実な犬のような性格よ」

 事実、そうであった。しかし、それを直接言い渡されるほど屈辱的な事は無かった。星紀の時と違い、対抗する気概すら薄れさせるほどの気迫と体格を持っていたのだ。

「へー、可愛いじゃん」星紀を睨むと冗談だよと返す。

「格闘は見事だった。自分の身体がどう動かすべきか、限界はどこなのか全て理解している。星紀も見習うと良い」

「ええ、参考にしますよ。ボス。」

「良い。アルヴィナ、お前の動きに免じて、1つだけ情報をやる。自警団は残り41名、残りの自警団員1385名は死んだか、牢の中だ。それでも残った全員が深夜に集まり、徹底抗戦しようと画策している。俺はこれから連中の掃討に入る。よって、お前が出る幕は無い」

「希望は持たないことね。あなたが列車でウチと戦っている間、キング・Dデルタはたった1人で100人の武装した団員を殲滅させてたのよ」

「お前は余計な情報を与えるな。お前はここに残り、体温が正常に戻るまで情報を与えれば良い」

「それで黙ってモルモット生活をしろと」星紀を横目に言う。

「ええ。それが一番よ」

「いずれ、自警団長とマージェスとやらをやる。ここは何も無ければ静かだ。良い遺体安置所になる」

 大きな体を戦車のようにゆっくりと回し、入り口へ去った。そして、こちらを振り返る。大男は、逃げれば今度は実弾で首輪ごと上半身を吹き飛ばすと脅し、重々しい扉を閉めた。

 研究員と警備員はヒビ割れて、洞窟のように足元が悪くなった床に立つアタシを眺めていた。

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