第十四話 僕の特別だもん
ふっと暗い影が落ちてきた気がした。
ぼんやりした心地でジークが目を開けると、澄み切った夜空が視界いっぱいに広がる。
「……。……あー」
「おはよう、ジーク。僕より寝坊なんて珍しいね」
夜空と感じたのはハルシエだった。艶めく漆黒の髪色を夜空と勘違いするとは、ジークの頭も壊れている。
「……はよ。お前は早いな」
「もう昼だけどね」
「え」
「百面相してたよ。変な夢見た?」
寝顔まで見られていたとは。
昔から共に寝ることは多かったが、まじまじと見つめられると恥ずかしくなる時はある。
本日は休日だ。休日の前の日は決まってハルシエのところで寝るのが習慣であり、家に帰ったらむしろ「喧嘩でもしたか?」と心配される。下手をすると、休日前でなくても普通にここで一週間の半分以上は寝る。
春から習慣になっている宿泊だが、そろそろこちらが家になってきていた。思いながら、ジークはあくびをしつつ着替え、洗面所で顔を洗う。
「仕方がないから、ジークの分も作ってあげたよ」
「え」
あまりに現実味のない言葉に、ジークの目が点になる。
ハルシエが、料理。
紅茶やお菓子さえ魔法で作るハルシエが、手作り料理。
一年に一回あれば多い方な真実に、ジークは恐る恐るテーブルに向かう。
だが、恐怖はそこではなかった。
「――」
テーブルの上に並べられていた品に、ジークは一瞬手が止まった。心臓に悪い。
四等分に切られた耳の無い食パン。艶やかな黄色い表面に、適度に香ばしさが残る焦げの色。
他にあるのは紅茶とチョコマフィンだけ。
究極なまでにシンプルなその食卓には、先程までジークが見ていた夢の中の一品が飾られていた。
「……フレンチトースト」
こいつは夢の中でも覗いたのか。
いや、そうではない。
きっと。
「君、寝言でふれんちーふれんちーって繰り返してたよ」
「……悪かったなあ、うるさくて」
「僕の特別だもん。構わないよ」
さらりと告げられた言葉に、ジークの心臓が止まる。止まったら死ぬ。だから死にそうだ。
時々耳にしている内容ではあるが、それでも不意打ちは心臓に悪い。本当に止まったらどうするのか。ぜひとも文句が言いたい。
「昨日俺が作ってやっただろ」
「また食べたくなったんだよ。毎日食べても良いよ」
「はいはい」
冗談とも本気とも取れるその言葉はあえて受け流し、ジークは席に着く。いただきます、と手を合わせてフォークで一切れ放り込んだ。
しゅわっと軽い食感に、じんわりと広がっていく甘い味。適度に熱が通された生地はしっとりしながらもふわりとした感触も残し、絶妙だ。
文句なく。
「……美味い」
「そうでしょ。フレンチトーストの何たるかを、君に教えるべく練習したからね」
「――」
再び手が止まる。
絶対寝言で他にも言っていた。
あの悪夢を見る時、うなされているのは知っている。何を見ていたか、寝言でハルシエは判断したのだろう。
「僕が自ら作って食べさせる相手なんて、ジークしかいないんだから。誇ってよ」
「……」
「フレンチトーストが無かったら、僕はもうとっくに死んでたんだから」
さくさくと、情緒もなく食べ進めるハルシエの顔は変わらない。
だが、どこか懐かしそうに目が細められている。彼にとっても、あの日は特別なのだと染み入るほどに伝わってきた。
けれど、ジークにとっての特別は、決して良いことだけではない。
ハルシエがあんな風になる直前。失敗したのは、ジークの方だ。
ハルシエが散々危険に
それなのに、部屋に閉じこもりっきりな彼と外で遊びたくて、あの日、ジークが外に誘った。
渋ってはいたが、ハルシエも外に出て遊びたかったのだろう。久しぶりに小さく笑って、ハルシエはジークと手を
お互いの家から護衛兼使用人を一人ずつ付けてもらって、ピクニックをした。
人間不信気味になって長らく閉じこもっていたハルシエも、久々に外の空気を吸って楽しそうだった。草むらに寝転がり、風が運ぶ深緑の匂いに包まれて、のんびりとした笑顔でくつろいでいた。
外に誘って良かった。
そう思ったジークの頭は、どこまで春だったのだろう。
取り出したハンカチが風で飛ばされ、それをジークが追いかけた。
その一瞬だった。
ハルシエが、
たった数秒のことだった。
たった数秒で、ハルシエが消えた。
そのことに呆然としながらも、ハルシエ、ハルシエ、と探し回る。
そのうちに気付いた。いつの間にか、どちらの使用人もいなくなっている、と。
両親を呼びに行こうか、と青ざめながら走り回った草むらの奥の方だった。
「――、……ジー、ク?」
使用人達に押さえつけられ、無理矢理何かを飲まされていたハルシエが、いた。
殴られたらしく、顔にあざを作ったハルシエが、いた。
今まさに、ナイフを振り下ろされようとしている、ハルシエが、いた。
その時のジークは、一体どういう表情をしていたのか。どんな反応をしていたのか。今でもよく分からない。
ただ、頭の中に不自然な空白が出来ていた。
体は勝手に動いていた。
腰に、護衛用の剣を吊るしてきていて良かったと、遠い自分が思ったことはよく覚えている。
気付いた時には、使用人二人は地面に転がっていた。
ジークは、六歳にして大人顔負けの剣技を身に着けていた。だから、斬り倒すことなど造作もないことだった。
それでも、人を斬ったのはその時が初めてだった。
後悔はなかった。恐怖もなかった。
ただ、最初に人を斬った姿を見せたのがハルシエだったということだけを後悔した。
彼にこれ以上、穢いものを見せたくなかったから。
ハルシエが飲まず食わずになったのは、それが境目だった。
ジークの罪だ。目を離したせいで、ハルシエを危険に
食べなくなったのは、ジークのせいだ。
それなのに、ハルシエの家族は、最後の原因となったジークを責めなかった。自分の家の使用人まで一緒に毒殺に関与したと、土下座したジークの両親にも首を振った。
痛ましそうにジークの頭を撫でることさえした。
出かける前にハルシエは嬉しそうにしていたと感謝までされた。
これからも、どうかよろしく頼むと逆に頭を下げられた。
ジークは、彼らの信頼を裏切ったのに。彼らは、今もジークを信じてくれている。
食べられなくなった原因のジークのフレンチトーストを、ハルシエは食べてくれた。
だから、誓ったのだ。
もう二度と、ハルシエを傷付けさせないと。
あの時、フレンチトーストを食べ終わった後に、彼自身に、何より己に誓った。
「あの時のフレンチトーストは、美味しかったね」
考えを読む様なタイミングでハルシエが放り込んでくる。
本当に、彼は心を読めるのか。
違う。ジークが彼には分かりやすすぎるのだ。
「まずいって言ってたじゃねえか」
「まずかったよ」
「おい」
「でも、美味しかった」
最後の一切れを食べながら、ハルシエが断言する。
彼の味覚は実はおかしいのではないかと、ジークは疑っている。
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