第九話 出かけたくない症候群


「うん、気持ち良い。ジークは頭洗うの上手だよね」

「お前は一人ででも洗える様になれよ」


 風呂から出て、ソファに座るハルシエの頭をジークがタオルでがしがし拭く。放っておくと髪もそのままに寝転がって本を読むので、風邪を引きそうだ。

 一人でも一応風呂へ入れると聞いてはいるが、ジークがいると梃子てこでも動かない。ぽたぽたと、襟足えりあしから首筋に流れる雫を眺めながら、溜息を吐いた。


「お前、俺が来なかったら餓死してそうだよな」

「大丈夫。ジークは来るでしょ?」

「騎士団副団長様の仕事は、もっぱらお前のお世話係として有名だよ」

「他の仕事がしたい?」

「いいや」


 問われて、ジークは即答する。

 望んでいた仕事だ。誰にも渡すつもりはない。


「ま、仕事にも思ってねえけど」


 ハルシエといるのは楽しい。むしろ、彼がいらないと言ってきても無理矢理居座る心づもりだ。

 ぱんぱん、とハルシエの濡れた髪を軽くタオルで叩いて拭き取る。

 いつもながら失われぬ艶やかな輝きを放つ黒髪に、ジークは半ば感嘆した。


「……ずぼらなのに、何でこんなに髪が綺麗なのかね」


 彼の髪は特に手入れされているわけではないのだが、いつでも滑らかな手触りだ。これも魔法なのだろうかと不思議でならない。

 何となく気になって髪を手でもてあそんでいると、ちらりと見上げてきたハルシエと目が合った。


「欲情した?」

「何でだよ」

「こういうシーンがある」

「マジかよ……」


 洗脳されていきそうだ。

 自分達の本について暴露されてから、この一日で物凄い情報を詰め込まれた気がする。読んでもいないのに、その本に載っているシーンが現実にあった気がしてくるから末恐ろしい。

 ジークが身震いしていると、ハルシエは声もなくじっと見上げ続けてくる。



 かちり、と。視線が絡み合うこの感覚が、ジークは嫌いではない。



 吸い込まれそうな彼の夜空の瞳は、相変わらず深淵を静かに見つめる様な濃さをひそやかに保っている。


 ――昔から。


 いつもこの瞳に、己でも知らない奥の奥をあますことなく暴かれている様な気がしていた。

 ジークについて、知らないことは無い。淡々と、けれど事も無げに豪語する眼差しの清冽せいれつさに、いつだって貫かれてきた。

 その瞬間が、ジークは好きだった。

 周りの上っ面しか見ない視線より、無遠慮にも土足で踏み込んでくる彼の視線の方がずっと心地良い。

 だからこそ、この瞳が好きなのだろう。



 昔から変わらないこの透明な夜空の瞳を、ジークはとても気に入っている。



「ジークの深くて透き通る様な青空の瞳も、僕は好きだけどね」



 心を読んだ様に答えるハルシエに、ほらな、と溜息しか出ない。

 苦笑して見せると、ハルシエも一瞬微笑わらって、再びじっと見つめてきた。見つめたりないらしい。

 ジークの瞳を覗き込む様に見つめてくるのは、ハルシエの幼い頃からの癖だ。

 誰に対しても静かで真っ平らな視線を向け、暴く様に相手の瞳を見つめはするが、ジークに対しての頻度は彼の家族よりも多かった。両親に――特に彼の父親に嫉妬されたこともあるくらいだ。

 しかし、その行為の背景を思えば、苦いものである。

 ジーク本人は嫌では無いので、とがめることはしない。これからもしないだろう。

 無事に髪を拭き終わり、彼の隣に腰を下ろす。一息吐いて、ちらっと彼を見つめた。



「ハルシエ。お前、わかってたのか?」

「ストーカー?」

「ああ。そうじゃないって、カロリナ嬢が言ってた時からわかってたんだろ」



 彼は世間の情報には、興味があること以外まるで集めていないが、相手の観察力はずば抜けている。彼の右に出る者はいないだろう。恐らく、――己の父親よりも。


「だって、カロリナ嬢、ライナス殿のこと潰さないで欲しそうだったから」

「へえ……」

「彼女は嘘が上手いね。嘘を吐く時は、真実を織り交ぜて話すのが一番効果的だとよくわかってる」

「……」

「本が好き、だからかもね」


 様々な分野の本を読破するならば、おのずと知識が身に付いていく。実践するには経験値が物を言うが、何度もシミュレーションをしたならば経験が無くともそれなりに知識でカバー出来そうだ。

 それでも、経験値が無いから、ほころびがあった。そういうことだろう。


「ライナス殿に食事と紅茶を振る舞ったのも計算か」

「だって、ずっと緊張してるんだもん。言いたいことを全く言えない感じだったから。お腹も満たされて、ラベンダーでほっとしたら、口も心も緩むでしょ」

「まあなあ……」


 どっちかって言うと、ハルシエの鋭いツッコミの方が効果があった気がするが。

 それは言わないでおこうと、ジークは苦笑いするだけにした。



「クッキー。必要なほどやばいのか」

「食べなければ死ぬんじゃない?」

「おい……」

「加護も含まれてるから、食べてれば大丈夫だよ。一ヶ月分は渡したし」



 ハルシエの、死ぬ、という言葉は、誰かに襲われて殺されるか毒殺されるかを意味する。


「……毒の方か?」

「そうだね。ちょっと目の下のクマが普通と違ったから」


 ライナスの目の下のクマは、ジークも気付いてはいた。

 てっきりカロリナが心配で眠れていないのかと思ったが、毒のせいでもあるのか。舌打ちしてしまう。


「舌打ちしたら幸せ逃げるよ」

「したくもなる。見抜けなかった。……白目や肌の色は正常だったけどな」

「簡単な毒じゃないし、見た目だと無理かも? まあ、食べてたら近寄れなくなるよ。食べてたらね」


 心底どっちでも良いのはハルシエの本音だ。彼は、話をしたからといって情を移すタイプではない。

 昔から、ハルシエに対して拉致監禁誘拐実験をしようと試みる輩が多かったせいで、すっかり周りに心を開かなくなってしまった。口に入れるものでさえ、家族とジーク以外からは拒否だ。徹底している。

 ハルシエは、骨の髄まで周りのことがどうでも良い。



 ただ、誰かに相談されたなら渋々でも応じる。



 幼い頃から父と交わした約束だけは、忠実に守っていた。

 その約束が、ハルシエを今も外の世界に人間として留めている。


「……明日、出かけるかも」

「へえ。ハルシエが? 珍しいな」

「出かけたくないけど」

「どっちだよ」

「出かけたくない症候群」

「俺を巻き込むな。俺は外が好きだ」

「変わってるね」

「お前がな」

「君もだよ」


 しばらくお前が君がと押し付け合いながら、ハルシエはいつの間にかジークの膝を枕にして寝入ってしまった。

 それをベッドに運ぶのは、大体ジークの役目である。


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