episode 2:罪過 《10月15日》

鉄の、匂いがする。

鼻腔を刳るような、刺す様な匂い。

呼吸が、出来ない。意識が、保てない。

しかし───視界が、働かない。

まるで夢の中にいるかの様に、世界は暗くて、暗くて、暗くて。


────突然、それは現われた。

パラパラパラ。パラパラパラパラ。

幾重にも重なった、塵となった鉄の残骸の寄せ集めとも言える球体。

団子虫のようなソレは、何をするわけでもその場に存在しており───ふと、気がついた。


ソレを構成する物質は、錆だった。

余りの異臭を放つ、茶色を超過した漆黒。

まるでそれは、狂った芸術家の作った作品の様に理解し難く………否。それを理解できたのなら、ソイツは恐らく人間を辞めている。


錆の粉塵が、臓腑に浸透する。

脳が、胃が、気道が、肺が、肝臓が、血液が、膵臓が、膀胱が、大腸が、小腸が、口腔が、鼻孔が、眼球が、心臓が───生命が。

パラパラパラ、と。錆になって消えていく。


ほら、亜ってた。此れをリカいできたヤツがい田のなら、ソイツはにんげんを矢めている。

だって、ほら。

そのまえに、ぶざまにおろかにきえるんだから。




◆◇◆




「──────ッつぁっ!!!」


余りの息苦しさと恐ろしさから、漫画の様に飛び起きてしまう。

思わず心臓を抑える。ソレは小気味よいリズムで、勢い良く脈打っていた。


…………どうやら、悪夢を見ていたらしい。明晰夢、というやつなのだろう。鮮明に、あのときの恐怖を、痛覚を、狂気を思い出すことができる。

深く。まるで体の中の異物を取り除くように、僕は大きく息を吐いて右手で額を押さえると、寒い夜にも関わらず、掌には運動時と同等かそれ以上の汗。


「…………大丈夫、夢だ。」


かぶりを振って、そう自分に説得する。鼓動は次第に小さくなり、汗も、徐々に乾いていく。

時計に目をやると、短針と長針は5時12分を示していた。

登校には余りに早すぎる。と言っても二時間程度なのだが、どっち道、今から準備して家を出ても、まだ電車は到着していない。


立ち上がり、テーブルの台上に置かれていたテレビのリモコンに手を伸ばす。

二度寝する気なんて、起きなかった────また、あの夢を見てしまう気がしたから。




◆◇◆




約二時間ほど経過し、朝日が顔を出す頃。

早朝6時56分、僕は昨日と同じ様に電車に揺られていた。

まだ1つ目の駅を過ぎたばかりだから人は殆どいない。学生なんて以ての外だ。

普段なら、少しばかりうたた寝するところだが、今朝は妙な夢を見たせいで妙に目が冴えて眠れない。

そんな幼稚な理由から、どうしようもなくスマホを啄いていると───トントン、と。

そんな軽い衝撃が僕の気を引いた。

反射的にその方向に顔を向けると───


「うぷぇ。」


ずぶり、と。

華奢で清廉で余りに美しい、その妙に血色の良いその指先が、無慈悲にも僕の頬に突き刺さった。

しかも指の腹ではなくしっかり爪を立てて僕の頬を殺りに来ているのだから、余計にタチと性格が悪い。


「ぷふっ。なんですかセンパイ、『うぷぇ』って。」


そう言いながら、僕の苦悶を余所に目の前の女はケラケラと嘲笑う。

あぁ、こんなに性格の悪く、然して地雷の塊のような僕に近づく変人は、僕が知っている限り一人しかいない。


「………いたのかよ。一華」

「はいっ!嬉しいですか?センパイ!」


───深見一華。

僕が通う学校───正式名、『灰倉第三高等学校』の一年生。僕の後輩だ。因みに、僕はピッカピカの二年生である。


一華は後ろで一つに纏めた茶髪のロングを尻尾の様に揺らしながらこじんまりとした、可愛らしい笑みを浮かべている。

服装は当たり前に制服───なのだが、コイツが着るとそれすらも洒落て見えるのは何故だろうな。


………流石、入学して2日を待たずにファンクラブが出来、今でも血気盛んに活動されているだけはある。顔も他が霞む……というよりは消えるくらいには整っている。性格はお察しなのだが。コイツが女神だと宣うやつは知らないのだ。深見一華という女を。僕がこれまでに、何回辛酸を舐めさせられたか………!


「えへへ。ありがとーございます!」

「何も言ってねーよアホ。」

「顔見たら分かるんですよあーほ。」


相変わらず先輩へのリスペクトが足らんやつだ。

そんな下りを一頻り終えると、一華はまるで当たり前かの様に僕の隣に席かけると僕のスマホを覗いてきた。スッ。


「ちょ、何で隠すんですか。」

「逆に、何で見るんですか。」

「オーディエンスに私とセンパイのイチャラブを見せつけてセンパイへの反感を高めるためですけど何か?」

「問題しかねぇわ!………というか、オーディエンス言うな。」


朝の夢といい、コイツといい、今日はカロリーが高いな。

というか、そのオーディエンスとやらはまだ一人として居ないのだが。それもそうか。何せ──


「というか、昨日来てなかっただろ。サボりか?」

「これでも優等生キャラで通してるんですけどぉ!偏見辞めてください!」


本当の優等生は僕なんかに話しかけないと思うんだがな。

実際、学校での一華では実におとなしい。物静かで、品行方正で、成績優秀。唯一の欠点として運動は苦手だが、学校ではそれもまたかわいいとされ人気に拍車を掛けているらしい。何でだよ正当な評価をしろよ。


「単に、ちょっと用事があっただけですよ。」

「ほーん。」

「何ですかぁ?寂しかったんですかぁ?」

「はんッ」

「今鼻で笑いました?」


そんな意味も無い会話を繰り返している内に、時間はいつの間にか7時26分。駅も既に4つを通過し、そろそろ学生が乗り込んでくる時間帯である。

実際、ほんの少しではあるが、制服を来た生徒が別車両にいるのが見える。


「ほら、そろそろ生徒が乗り込んで来る頃だぞ。」

「うぇ、もうですか。」


そう云うと、一華は立ち上がり、対して埃も着いていない臀部をパッパッとわざとらしく払うと、此方を振り返り、


「んじゃあセンパイ、また明日です!」

「あぁ、じゃあな。」


そう言って、一華は前方車両に歩を進める。

これで、今日の深見一華との交流は終わりである。

僕達はこの早朝、時間にして約30分しか話さない。それ以降は、学校で見かけようが街で出会そうが放課後電車で鉢合わせようが、決して言葉を交わすことはない。

傍から見れば何とも歪な関係なのだが、これにはれっきとした理由がある。


……僕は、魔女の息子。僕と関わって、もし彼女に被害が及ぶ訳にはいかない。

考えすぎ、だとも言われそうではあるが、この世界にとって魔女という存在はそう云う事も考えないといけない程ら特異な存在なのである。


「………ホント何なんだろうな、アイツ。」


ホントに、心の底からそう思う。

───付き合いにしてに、約1年半。出会いは、去年の春。

僕が高1のころ、つまり、アイツが中3の時、俺とアイツの妙な関係が始まった。


初めの頃──それこそ去年の4月なんて、面識も何もない僕に、まるで親しい友達かの様に話しかけてきて、新種の詐欺か何かと疑ったものだ。

僕と関わるなと言ってもアイツはまっっっったく引き下がらなかったから手を焼いたのを覚えている。

わざと冷たい態度をとったり、無視をしたりと、当然ながら僕としても手を打つ訳で。

しかし、それでもアイツは僕と関わるのを辞めなかった。

────僕と関わるのを、諦めなかった。


認めたくないが、僕は根負けしたのだ。

しかし、彼女が同じ高校に進学してきて──そうなると、僕も簡単に認めるわけにもいかない。何せ、最悪いじめやら事件やらに巻き込まれる可能性がある。顔見知りがそんな目にあって、平然といられる訳もなく。


故に、朝の30分の会話は僕の最大限の譲歩であり、同時に彼女の努力の賜物なのだ。その努力をさせたのは、他ならぬ僕なのだが。

───僕が普通だったら、彼女と、もっと話せていたんだろうか。


「………まぁ、いいか」


必然に、訪れる静寂。

若干に、苛む寂しさ。

確実に、増え行く人。


ヒソヒソと人々が楽しそうに話す中、ただ独りでスマホを啄く自分がなんとも惨めに思えて。

───先程と今のギャップに、胸がチクリと傷んだ。




◆◇◆




一日が立つのは、何とも早いもので。

屈折率だのスペクトルだの、聞き流すように授業を受けていたら、いつの間にか時間は放課後となっていた。

つい数ヶ月前の今は蒼かった空も、暗みがかった赤となっており季節の移り変わりを実感せざるを得ない。

右手では、昨日買い損ねた重い重いレジ袋が、振り子の様にブラブラと揺れている。


「………冷えるなぁ。」


秋、というかもう冬である。

思わず、空いた左手で右腕の二の腕を擦る。

何が嫌だって手先やら足先やらが冷えることだよなぁ……。まぁ夏か冬かと言われたら断然冬だが、しかしあと2ヶ月も経てば夏が恋しくなるんだろうなぁ……。

──瞬間、うなじに何とも表現しにくい温さがじんわりと伝播した。


「そう言うとおもって、はいっ!カイロですっ!」

「………温いわ。てか、何でいるんだよ。」


声の方向に振り返る。

見慣れた────というか、友達がいない僕にとっては見慣れすぎた顔。

今朝顔を合わせ、少なくとも明日の朝まで合うことは無いと思っていた深見一華が、してやったりといった得意顔で立っていた。


「何、偶然ですよ。放課後は別段予定もなかったですし、それにここらへんはあんまし人がいないから話しかけても良いかなーって。」

「……まぁ、良いけどさ。」


そう言って、僕は再び歩を進めると、一華は軽い足取りでテクテクと僕の横に並ぶ。

ちらっと横目に見ると、何にもないのに妙に笑みを貼り付けた顔がそこにはあった。

嬉しそうで。でも、ちょっとだけ悲しそうな瞳を浮かべながら。

………何だろう。いつも僕は、馬鹿な一華しか見てこなかったから、新鮮だ。


「何か、あったのか?」


だから、思わずそう問い質してしまう。

一華はどうやら気を抜いていたよう此方に顔を向けると同時に、「んぇ?」と間抜けな鳴き声らしきものを上げた。


「何かあったって、そう見えました?」

「そう見えたっていうか、いつもより元気が無いなって思っただけだよ。そんな感じのお前、初めて見たからさ。」

「学校ではこんなもんですよぅ。まぁ、何もないですよ。強いて言うなら昨日センパイに会えなかったのが悲しくて悲しくて………よよよ。」

「チッ。」

「今舌打ちしました!?しましたよね!?」


全く、心配した俺が馬鹿だった。

まぁ、心配事をする必要がない、っていうのはコイツの立派な魅力なんだが。

無邪気で、無垢で、純粋で。

常に元気いっぱいな一華を見てると、悩んでいた事がバカらしくなる、なんてことはざらにある。そう考えるとなんかよく懐く犬みたいだな。


……相も変わらず、一華は何を考えているのか判らない。

何故、魔女の息子である僕にこうも関わろうとするのか。

何故、そんな嬉しそうな顔を浮かべるのか。

何故、時偶、そんな哀しい瞳を浮かべるのか。

それらを知る由も、術も生憎ながら僕は持ち合わせてはいない。

──────でも、


「何かさ、物分かり良いよな、お前。」

「何目線ですか。というか、なんで急にデレるんですか。別に気にしてませんよ?舌打ちしたこと。」

「ちげーよ。いやほら、お前猪突猛進な性格してるのに、喋るのは朝の30分だけで学校では関わるなってヤツも守ってくれてるし、何だかんだ言って本当に聞いてほしい事は守ってくれるからさ。あんまり心配しなくていいっていうか。」

「……『お前が学校で関わるのなら僕は学校に来ない』とか宣いだしたのは何処の誰ですか、全く。というか、猪突猛進ではなく八面玲瓏と言ってくださいっ!」

「なにそれ。」

「ふふん。どこから見ても一切の穢れなく透き通っている、ということです…!」

「ハハハ。面白い面白い。」

「はい、キレましたぁ!」


───でも、一華との会話が、とても、とても楽しいことだけは確かな事実なのだ。

少しだけ。ほんの少しだけだが、勿体なく感じてしまう。コイツと関われる時間が、24時間のうち、10分の1にも満たないほど、余りに短い事に。



そんな馬鹿な会話を続けているうちに、視界にはいつの間にか住宅街へと入る分かれ道が映る。


「んじゃ、僕はここで。」

「はいっ!また明日!」

「おう。また明日な。」


突然、一華が何やら嬉しそうな表情を浮かべる。

………しまった。つい気分が乗ってまた明日とか言ってしまった。つかコイツそんなことで喜ぶのか……?最近の女子高生って皆そうなの?…………いや、コイツだけだな。


「はいっ!」


そう返して、何とも楽しそうに帰り道を進み始める一華。

その背中を数秒見送り───僕は自らの帰路を辿る。


さっきまでの騒がしさがまるで嘘だったかのように、一気に静寂がその場に訪れる。空は未だ暗みを帯びた赤───というよりは、少し気味の悪い紫の色へと変化していた。

寒い………思わずそう口づこうとしたその時ふと思い浮かぶ。

ポケットに手を突っ込んで出てきたのは、最早温かみもなにもないカイロという名をした唯の紙の袋。


「……アイツ、ゴミ押し付けやがった。」


……まぁ、いいか。

そんな生意気なところもまた彼女の魅力なのだろう。そういうことにしておく。

そんな自己解決を済ませながら僕は脚を進め──20分ほどして、自らの家に帰宅した。


「ただいまー。」


いつもは口にすることのない『ただいま』を久しぶりに声に出す。何だか可笑しな感じだ。

靴を脱ぎ、部屋に上がると──母さんはいた。

黒髪のショートヘア。

国指定のペイル専用装束は丁寧に部屋の端に畳まれており、その身はなんとも緩い白の部屋着が纏われていた。

母さんは僕に気がついたようで、テレビから目を離し、僕に顔を向けると───なんとも、とても魔女には思えない緩やかな笑みを浮かべながら───


「ん、おかえりぃー」


と。

僕の母さん──桐葉夕乃はそんなことを言うのだった。




◆◇◆




───この世にはニ種類の魔女がいる。

いわゆる『セーロム』と呼ばれる、対魔女のために人工的に作り出された魔女と、『魔女災害』を引き起こし人々に害を為す、悪逆非道な魔女。

───僕の母さんは、その両方でもあるし、両方でもない、と言える存在だった。


本来、対魔機関によって身柄を確保された魔女は、現代の異端審問であり、刑事や民事といった裁判に属さない特異裁判、通称『魔女裁判』に架けられる。

その内容は至って残酷で非情である。

何せ、被告人の罰の有無やその酌量を決める本来の裁判ではなく───魔女をどうやって殺すか、その方法を取り決める裁判なのだから。

一応、罪の有無を決める段階もあるにはあるのだが、殆ど意味をなさないらしい。


現代社会において、魔女とは絶対的な悪。どんなに残忍な殺人を犯そうが、どんなに狡猾な窃盗を行おうが、悪という分類で、魔女を超える存在にはならない。それが、今の世の中である。


そんな社会で、とある奇跡が起こった。

魔女裁判で───母さんは、無罪を勝ち取ったのだ。

なぜだかは判らない。当時の記録は、今は殆ど残っておらず、唯、『とある魔女が魔女裁判で無罪判決を下された』という事実しか残っていない。

だが、それでも、それはれっきとした事実だった。無罪ということは、誰も殺していない。魔女に生まれただけ、だから無罪になった。

ただそれだけの事なのに。


────なのに。


当たり前の様に、人はそれを善しとしなかった。

いや、実際当たり前の事なのだろう。魔女は人を何千人も、何万人も殺してきた異物だ。

そんな異物をなぜ無罪にするのか、と。

多くの非難が、多くの罵倒が、多くの侮蔑が。

母さんと、裁判を行った裁判所に殺到し──それでも結局、結果が覆ることはなかった。


そんな、国民の全否定を食らった魔女の下に、僕は生まれた。

………正に、村八分を食らっている気分だった。

小学校では腕を折られ、中学校では実害こそ無かったものの徹底的に扱いが無かったものとされていて。

決まっているかのように、その時には『魔女』という言葉が鼓膜と、脳と、意識を揺らしていた。


………そんな僕を、本当に、本当に支えてくれたのが、僕の母さんだった。

何度も。何度も刃先を自らの首に捉え──それでも、母さんという居場所があったから死ねなかった。

自愛を、仁愛を、優愛を。

母さんは、その全てを掛けて、僕を育ててくれたのだ。




「ん、どうしたの?ぼーっとして。」


その言葉で、思わず我に返る。

久しぶりに見るその顔に、どうやら少し混乱──というよりは追憶してしまっていたらしい。

時刻はもう既に8時過ぎ。ご飯も済ませ、今は特にやることもなく団欒ムードである。


「何でもないよ。」


そう言うと、母さんは安心したように笑みを浮かべた。

毎度の事だが、母さんは学校の事を聞いては来ない。恐らくは申し訳ない、とでも思っているのだろう。

あまり気を使わせたくないし、可能ならば是非言って安心させてあげたいのだが、生憎ながら、僕が自慢できる様なキャピキャピなエピソードを持ち合わせてる筈もない。


「ペイルの方はどう?やっぱ大変なの?」


取り敢えず、そんなことを聞いておく。

母さんはんー、と唸るような声を、上げると、少しばかり困ったような顔を浮かべる。


「うん。最近、魔女災害が多いし、何だか魔女の動きが活発化してる気がする。」

「そうなんだ。」


そういえばつい昨日、そういった記事を見た気がする。

7日で死者が2桁を超えるのは中々酷いんじゃないだろうか。


「私たちは事件が起きてから出動するから、どうしても、間に合わない事もあるし…………」


憂いと、後悔に塗れた表情。

……本当に。何で、救えないことに嘆く人が魔女と罵られるのだろう。

あぁ、仕方のないことだとは判っている。判っているが、それが納得しているか、と問われればそれはNOだ。


僕は、救われた側の人間だ。何故救われてない側の人間がそれを言うのかと毎度想い───しかし、僕がそれを想えるのは、喪ったことが無いからだ、という思想に毎度行き着く。

結局、立場の違いというやつに落ち着いてしまうのだ。


「……大変だね。」

「うん。本当にね。」


それでも、母さんは下を向かない。

何があっても、だ。ひたむきに、全力で、どうしようもなく前を向き続ける。

まるで───なにかに贖う様に。

───すると、母さんは深く深呼吸を繰り返し始めた。どうしたのだろう。


「………結仁は、どうなの?」


何ともまあ、ぎこちない笑みと強張った声音でそう言って来るもんだから、思わず困惑してしまう。


「どうって、何が?」

「ほら、その、………学校、とか?」


母さんはこちらの気を伺っているという様子でちらちらと横目をやりながらそんなことを言う。そのぎこちなさに思わず笑みを零してしまう。

……実際、僕も気を使わせたくは無かったから言おうとはしていなかったのだが。

けど、こんなに挙動不審に訊かれると妙に面白いな。


「可もなく不可もなくって感じかな。特に何かと言われれば─────」


思い返してみると、あった。ばりばりあった。


「え何その間。何かあったの?聞かせてよ。」

「…………いや、なんつか。」


ちょっと、気恥ずかしいというか。

少しばかり臆しながらも、徐々に詰め寄ってくる母さんに向けて、僕は言った。


「………友達が、出来た。」

「え、うっそ!ホントに!?男の子!?女の子!?」

「……………女、だけど。」

「………やばい、ちょっと涙出てきた……!」

「えっ、ちょ、母さん!?」


柔らかティッシュで自らの涙を拭き取る母さんに思わず心配してしまう。

そんなに驚く………ちょっと失礼ではないだろうか、僕という人間に。そりゃあ、否定出来無いのだが。


「ごめんごめん。でも、嬉しかったんだよ。ほら、結仁が嬉しそうに友達出来たーなんて言うこと事なかったからさ。いやまぁ私のせいなんだけどね。」

「………そんなこと───」

「───あるんだよ。そんなこと。」


キッパリと。母さんは、そう云う。

けれど、先程と違い、その顔は憂いも、惑いも何もなく、唯、嬉しさと誇らしさが混じったような、おおらかな表情をしていて。


「結仁が腕を折って帰って来た時さ、私、どうしても許せなくなっちゃって。そんな目に合わせた相手と、自分自身に。でも、結仁は覚えてるか分かんないけど、そんとき結仁は笑って『大丈夫だよ』って言ったんだよ。それが、どうしても嬉しくて。でもどうしても、悲しくって。」


……覚えてない。僕、そんなことを言ってたのか。


「その時、思ったんだよ。あぁ、この子は近いうちに潰れちゃうなって。だから私は、結仁の全てになれるように、潰れちゃわないように頑張って来たんだよ───それが今日、やっと意味を為したんだなって思うと、ホント嬉しくてね。」


そう言うと、母さんは僕をグッと抱き寄せて。

その暖かな言葉と、その優しい声音で。

心の底から、といった様子で言った。


「本当に──結仁は最高の息子だよ。」

「───────」


思わず、黙り込んでしまう。

小学生ならいざ知らず、高校生にもなってこんな事を言われて黙り込まない人なんてこの世にいるのだろうか……いやいないだろう………!

どんな反応をすればよいか判らず黙り込んでいると、突然肩をグッと掴まれる。


「んで、いつ!?いつ家に呼ぶの!?私あと一週間はいるよ!?」

「ちょ、落ち着いて!呼ばないから!」


本当に、騒がしくて───優しい人だ。

興奮する母さんを見て、僕はそう思わずにはいられなかった。




◆◇◆
































































































─────────────ふと。

ふと、目が覚めた。

辺りは未だ暗く、肌寒い。どうやら時計を確認しようにも、暗すぎて何も見えない。

枕元を探り───手元に硬い感触が伝わる。

スマホの電源を入れ、時間を確認すると、時計は未だ2時41分を示しており、深夜の真っ只中だった。


当たり前だが、まだ眠い。

そう思い、僕は横になろうとして───何となく、違和感を感じた。

鉄臭い。それに、余りに静かすぎる。

夜だから静かなのは確かだが、ならば、この鼻を刺す様な鉄の匂いは何だろう。


真隣の部屋に足を踏み入れる。異変は無い。異常な点なんて、何一つ無い。いつもの部屋だ。

あぁ、そうだ。だからこそ、おかしい。

────母さんの、姿がない。


スマホをライトのようにして部屋の隅まで照らしても、母さんの姿は無い。

嫌な感覚が、背筋をゆっくり往来していく。

脳裏を過ぎるのは、今朝見た夢。

鉄臭く、歪で、おびただしい狂気の虚。


かぶりを振って、玄関に向かう。

何もいない、なんて分かりきっているのに、ゆっくり、ゆっくり、としか歩が進まない。

寒さで震える足を何とか諌めながら靴を履いて、扉を開ける。


歩を進め、いつもの坂を降りていく。

カツ、カツカツカツ、カツカツ、カツ。

乾いた靴音が不安定に鳴る。

住宅街の端っこだ。街灯は無い。あるのは漆黒の中を照らす一筋の弱々しい光のみ。

カツカツ、カツカツと。永遠に思える靴音が鳴り続けて──────


────ぴちゃり、と。

何かを踏んだ音がした。

目をやる。何も見えない。

灯りを照らす。あぁ、見えた。


────それは余りに悍ましい、あかいあかい水溜り。


呼吸が、おかしくなる。

視界が、おかしくなる。

思考が、おかしくなる。


やばい。なにこれ。血?初めてみた。いやそうじゃなくて。これ、なんでこんなものが、こんなとこに。それに何で母さ



─────ドスッ!!!



ふと、前方からそんな重い音が響いた。

重い音は連続で鳴り続けて、なぜだか、若干な水気を含んでいて。

解っている。解っているのに、ライトを向ける。

道筋のようなその光は一直線に瞬いて────


───その姿見を明らかに照らしていた。


黒い、黒い、黒い外套。

闇の中に完全に溶け込むであろう、その古く草臥れたソレは、残酷に赤い血で滲みていた。

次に、その阿修羅を思わせる紅い髪。返り血ではない、その余りに深い紅は、その姿を異常性をより色濃く表していて。

───その、足元。無惨にも泣き別れた胴体の上半身の断面は、まるで腐っているかのように茶色へと変色しており。


───その、顔、は。

…………………………………………母さん、だった。


「あら、まだ寝ててよかったのに。」


お気楽そうに、口元を真紅で塗らしながら。

その、カニバリズムであろう女はそう言った。

動けない。動けない。動けない。

正に蛇に睨まれた獲物だ。こうなってしまった以上、もう死しかありえない。

女は、実に深い深い黒の眼で僕の姿を見ると───


「ふーん。可愛い顔してるじゃない。エディンダルの倅なんて生かしておく理由もないけど───まぁやめとこ。地雷だしね。」


そう言うと────何が琴線に触れたのか、踵を返して立ち去ってしまった。


一人になる。暗い、血塗れの惨状の中、一人になる。

ゆっくり、と。

母さんだったものに近付く。

最早、その面影は顔しか残っておらず、それ以外は全てが腐っていた。上半身の断面付近は赤茶色のゲル状になっており、下半身は、遥か遠くに打ち捨てられていて───もう、目の前にあるソレは死体という表現が優しい程の、ただの腐った肉塊だった。


ドクン。


あぁ、駄目だ。駄目なのだ。駄目なのに。

立ち上がり、ライトで先を照らす。

血痕が、糸をひく様に、子供の落書きのようにコンクリートに残っている。

その血痕を辿るように、ボクは歩を進め始める。


ドクン。


どうやらボクという人間は、幾ら時間をかけようが、どこまでも歪らしい。

思えば、それこそ腕を折られた翌日なんて──いやそんなことはもう本当に、どうでもいい。

唯一つ。頭に反芻するのは───


────殺す。


■■■から教わった晶魔法によって、刃渡り15センチにも満たない短剣の出来損ないが手元に出現する。あぁ、別に構わない。刃物があればそれでいい。どれだけ不承不承であろうと、不細工であろうと、刃があるのならどうだって構わない。


ボクは、深く、重く、錆臭いその夜を、血痕を頼りに彷徨する。

ユラユラと。ユラユラと。

見据える先に、何があるとも判らずに。

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星が産声を上げて ハルコナ @harukona

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