1 リライク・リンベディア
episode 1:日常 《10月14日》
広い。余りに広い、その夜空を。
暗い、余りに暗い、その漆黒を。
眩い、余りに眩い、その恒星を。
──ボクと父さんは、二人して眺めていた。
瞼を擦る。眠い。けれど、もし目を瞑ってしまったら、もう二度と、父さんには会えないような気がして、ボクは星の数を数えながら必死に意識を保っていた。
「眠いか?」
ポンポン、と。
ボクの頭を軽く押さえながら、父さんはそう問いかける。
そりゃあ、眠いに決まってる。だからこうやって、興味も何もない星の数を数えているのだ。
でも、それを言ってはいけないから。
「ううん。眠くない。」
「そうか。」
そう云うと、父さんはボクの背丈に合うように屈み込んだ。
何を、云うつもりなんだろう。何を、伝えるつもりなんだろう。何を、遺すつもりなんだろう。
判らない。判らないけれど、それでも、ボクにとって都合の悪いことだということは、何故だか理解出来た。
聊かに、鈍くなる思考。
微かに、冷え渡る寒さ。
確かに、溜まりゆく涙。
父さんは、そんな様子の僕を見ると、焦る事も、惑うことも無く。
何か、達観したような、後悔と言うには余りに重すぎる表情を浮かべ───しかしそれでも、口元に張り付けるように微笑を浮かべた。
「………ごめんな。父親らしいこと、何一つしてやれなくて。」
グッと、ボクを抱き寄せながらそんなことを云う。
後悔と、懺悔にどっぷり浸かったその言葉は、とても重くて。とても冷たくて。受け入れたくなくて。
「…………何処かに、行っちゃうの?」
だから、知らないフリをする。
無垢で。無邪気で。無知で。その言葉を受け入れる自分を否定する。
あぁ、判っている。判っているとも。
父さんが何をするつもりか、というよりかは、何に『成る』つもりか、なんて。
「……あぁ、ちょっと───いや、とても遠いところに行くんだ。」
「母さんはどうするの?」
引き止める理由を、小さい脳で何とか見つけ出し、手繰り寄せる。
抱擁の力が、ほんの少しばかり強くなる。
約2秒。余りに長い沈黙が通過し、でも、それでも父さんは口を開ける。
「……お前が、守るんだ。」
「無理だよ。」
「でも、守るんだ。」
腕が離れる。どうやら、父さんはボクが思っている以上に脆かったらしく、眼前の表情は、正に決壊寸前だった。
瞼は揺れ、瞳は濡れ───でも、必死にそれが壊れるのを止めている。
………其処で悟った。悟って、しまった。
もう無理なのだと、この人を止めることなんて、出来ないのだと。
涙を拭う。垂れ流された鼻水を禦ぐ。託すような脆い眼差しを見据える。
軈て、父さんは安心したといった様子で、その貌と躯体を弛緩させる。
「大丈夫。俺は──父さんは、何時でもあの星から見守っているから。」
再び、上空に広がる漆黒を見上げる。
夜空には、眩い斑点が点滅するように拡散しており────その中の、一つ。
鈍く、眩く、紅く光る恒星。父さんはそれを指差しながらそう言った。
遥かな
「二十年の猶予。その間に、お前は絶望を宿すだろう。その名はリンベディア。原初の魔女、始まりの絶望。でも、希望もある。」
そんな頓珍漢な事を云うと、父さんは振り返り、歩き始める。
もう必要ないと。憂うことなど何一つ無いと、そう云うように。
その瞳が捉えるのは、赫色の星。一歩、また一歩とその脚を進める。
『待って』はもう出し果てた。『行かないで』はもう枯れ果てた。出来ることは、その背中を唯見送るだけ。
「だから、諦めることだけはするな。迷っても、喪っても、進むことを辞めるな。」
父さんは、最期に、此方に振り返り───
「──────じゃあな。」
軈て、その躯体は花弁となって。
軈て、この意識は真白となって。
軈て、この世界は粒子となって。
消え始める。何もかもが消え始める。
…………ぁ。一つ、訊きそびれた事が─────
◆◇◆
────────ガタンッ!!!!
不意に、そんな大きな雑音がしたもんだから思わず僕───
何だと思って辺りを見渡すと、其処は小気味よい振動を繰り返す電車の中だった。
………どうやら寝てしまっていたらしい。恐らく、線路の小さな歪みによって大きな音がなっただけだろう。
時計を確認すると、早朝7時27分。学生によっては、そろそろ家の門を潜る時間帯だ。
辺りは暗い。どうやらまだトンネルの中らしく、朝であるにも関わらず、電車の灯りのせいで真夜中にいるようだ。
………しかし、何の夢を見ていたっけ。
いまいち思い出せない。思い出そうとしても、靄が掛かったように瞬間に堰き止められる。
何とも気持ち悪い感覚だ。もう其処まで出てきているというのに。
───刹那、余りに眩しい陽光が目を刺す。
「うおっ。」
思わずそんな声が出てしまう。
どうやらトンネルを抜けたらしく、窓からはビルやらマンションやらが建ち並ぶ灰昏の街が広がっているのが見える。
しかし、目的の駅はまだ遠い。
何となく鞄からスマホを取り出し突いてみると、『窮赫星、60年振り地球に接近。一年以内。』やら、『大御所所属の芸能人、再び痴情の縺れ』やらと、メインのニュース欄にはそんな記事が表示されており───その内の一つ。『今月の魔女災害について』という記事に目が止まる。
タップしてその記事を開くと、魔女災害の発生や被害などが事細かに記してあった。
「…………多いな。」
思わず、そんな言葉が吐いて出る。
死亡者23人、負傷者6人、行方不明者21人、被害物件11棟。
魔女災害による被害では、中々に多い部類に入る数字だった。
対魔機関は何をしているのか───なんて、そんな毒を吐くつもりも資格もないと自負してはいるが、それでもここ最近の被害者の数が多い気がする。
そんなことを思いながら、画面をスワイプしていると、ふと刺す様な視線を感じる。
気付かれない程度でその方向を見て───少しばかり驚いてしまう。
先程まで人っ子一人居なかったのに、いつの間にか学生やら社会人やらが点々と、ではあるが席に着いていた。どうやら記事を読むのに集中しすぎていたらしい。
そしてその視線は、どうやら向かい側の席の学生らから向けられていたものらしい。視線の先は───
「………やば。」
思わず、といった様に右手の甲の黒い痣を押さえる。グローブを着けるのを忘れてしまっていた。
だが同時に、『今更か』という諦念に似た思考が脳裏を過ぎる。。
まぁ、仕方のないことだ。しかし、何時まで経ってもこの視線は慣れない。
憂鬱だ。恐らく学校に行っても、この視線を向けられるのだろう。
そんな事を思いながら、僕は電車に揺られる。
……………本当に、憂鬱だ。
◆◇◆
人は生まれながらに平等。
それは権利的な意味合いであり、個人の出自には何の意味も持たない言葉ではあるが、数年前の公民の授業でその言葉を聞いたときは、幼稚ながらにも、僅かに怒りを覚えた。
それが個人の出自には何の意味を持たない、と分かっていても、その情を感じずにはいられなかった。
何せ権利なんてものは、個人の能力と出自がまともでないと、持っていたとしても機能しないのだから。
───そんなもの、有って無いようなものでしかないじゃないか。
「刑事裁判や民事裁判とは違い───」
頬杖をつきながら、ふと窓の外の景色を眺める。
海のように広がる無窮の青空。
ふと、ちらつくようにニ羽ほどの鳥が翼をはためかせて飛んでいた。
決して交わる事なく平行に、美しい街並みには目もくれず、錆色の廃ビルに向かっていく。
「で、あるからして、これは裁判の中でも最上級の───」
あの二羽に、権利なんてものはない。
だが同時に、自身を縛るものもない。
ただ気の向くままに、飛び立ち往くだけ。
何ともまあ、美しくて羨ましい話だ。
あんなに自由に生きる事が出来たのなら、僕はどれだけ、どれだけ───
「おい、聞いているのか桐葉。」
不意に自分の名前を呼ばれたので、身体が僅かに震わせる。
教師の方向を見ると、いつも嫌に仏頂面な面の瞳が、珍しくも不満気なものになっていた。
「は、はい、聞いてました。」
「そうか。ならさっき言った魔女裁判の原則四条も答えられるな。」
原則四条。予習はしてある。確か『之は生物としての摂理を反しており』云々だったか。
「は、はい。確か、『これは生物として』───」
「嘘だよ。名前と仕組みを教えただけで原則までは教えてない。」
「あ。」
トラップだったか。
教師は僅かに困った表情を浮かべると軽くため息を吐いた。
「……予習が出来ているのは良いが、授業はちゃんと聞くように。まぁ、さっきは実技だったし集中力を欠くのも分かるが、それは真面目に授業を受けない理由にはならんからな。」
「……はい、すいません。」
謝罪するしかない。これは完全に僕が聞いていなかったのが悪かったことによる事象だし、完全に僕の落ち度だ。素直に謝り、前を向き直す。
………普通なら、それで終わる事なのに。
ざわざわとまでいかない、ほんの僅かの囁き声。僕に向けられる、嘲るような、慄くような、蔑むようなその言葉と視線は、黒板を書き始めた教師の耳へは届かずに、代わりに、伝播するように僕の鼓膜へと届いた。
『怒られてやんの。』『ちょっと……あんま言わない方がいいって……』『わぁーってるって。魔女の息子とか、キレさせたらヤバいし。』
手の甲に刻まれている黒い漆黒の痣を擦る。
…………大丈夫。いつもの事だ。慣れっこじゃないか。
聞こえないフリをしながら、僕は眼の前の黒板に目を向ける。
教師は咳払いを一つして、
「じゃあ取り敢えず、この魔女裁判制度が敷かれる発端の復習からな。教科書21ページを開けー」
僕はその言葉の通り、そのページを開き───
◆◇◆
『魔女』とは、国家指定の殲滅対象者の事を指す言葉である。
事の発端は約300年前、ロンドンのケント州に位置する小規模の町が一夜にして崩壊した。
建物は元の景色を無くし、人は女子ども含め文字通りの細切れになっていたという。
それが発端となり、世界各地で人が大勢死ぬと言った怪事件が多発することになる。
そして、これらには一つの共通点があった。
それが、『魔女』の存在である。
ある人は、黒服の女が下卑た笑みで赤子の血を啜っていたと語り。
またある人は、上半身裸の赤毛の女が自分の体から化け物を放ち人を食らわせていたと語った。
人々はそれらの証言から、歪な力でその怪事件を起こす者を魔女と呼び、魔女によって起こされた事件を『魔女災害』と呼ぶようになった。
軈て、米国は魔女に対抗すべく、とある技術を生み出した。魔女の残した痕跡から神秘である魔素を抽出しそれを、固体のモノに封じ込め、比較的身体能力の高い女性に埋め込んだ、擬似的な魔女。魔女を狩るための魔女を生み出したのだ。
名を『セーロム』と名付けられた。
米国はこの技術を国連を通じ世界に広め、やがて
だが、それ以外に魔女に対抗する方法もなく。
今は泣く泣くセーロムの存在を認めている、という形である。
だが、それは世界に対する存在を認可しているだけであり。
それが、社会という枠組となるとまた大きく話が変わってくる。
どこまで行っても魔女は人々にとって畏怖の対象であり、それがセーロムであろうが、相違無かったのだ。
必然的に各地で差別が発生し、軈てセーロムは表立って行動することが難しくなり。
───僕の母さんも、畏怖という名の刃先を向けられる側だった。
◆◇◆
午後の授業は滞りなく───とは言えないものの、まぁ何とか終えることができた。
今は電車を降り、駅前の広場。帰路を辿っている最中である。
もう6時過前だと言うのに、案外人が多い。学生や会社帰りの社会人ならまだしも、私服を纏った人も多く往来している。
………人が多い場所は苦手だ。人に見られている様な厭な感じがする。まぁ、これは僕の悪癖というか、性格的な問題なのだが。
何がともあれ、早く帰る事に越したことは無い。
乱雑した喧騒飛び交う広場で、人を避けるように歩を進め────
「おわっ……!」
「……ん。」
───ドンっ、と。
肩に軽い衝撃が伝わった。どうやら人とぶつかったらしく、目の前には黒いパーカーを纏い、フードを深々と被った小柄の人が立っていた。躯体やぶつかった時の声からして、女性だろうか。
「すいません。大丈夫ですか?」
そう声を掛ける。
彼女は少しばかり顔を上げ───ほんの僅か、その白銀が僕の目に映った。
白髪、というよりかは銀髪といった方が表現としては正しいそのセミロングは、髪染め特有の違和感が無く、冷涼かつ不快感のない綺羅びやかさを放っており。
そして何より、その奥にある双眸は───
「…………いえ、こちらこそ。」
彼女はそう言うと、足早にその場を立ち去った。
無意識的に、その姿を目で追う。
彼女の瞳。もし僕の見間違いじゃなければ───
「………赤かった、よな。」
一切の濁りのない、宝石の様な赤。
吸い込まれるような、呑み込まれるようなその極色は、何故だか僕の脳に焼き付いたかのように、何度も何度もリフレインを繰り返し、塗りたくる様に僕の意識を沈めて。
「……見間違い、か。」
かぶりを振って、停止気味だった自らの思考を再開させる。
そうだ。夕陽が反射して赤く見えていただけだろう。もしそうじゃなくても、カラコンかそこいらだろう。何をそんな深く考え込む必要があるのか。
パンパン、と自らの頬を叩いて。
今度こそ、僕は帰路を辿るために歩を進めた。
歩く。歩く。歩く。
二十分ほど道を歩いていると、いつの間にか辺りは住宅街で。
あんなに沢山いた人達も、殆どその姿が見えなくなっていた。
実際は違うのだろうが、まるで重力に従うかのように夕陽が沈んでいく。
秋の夕暮れ、と文字にすれば風情があるものの、秋の夜ともなればそれはもうただの夜である。それに秋の夜というのは、暑いのか寒いのかよくわからないのが余計タチが悪い。
そんな、夕方と夜の境界。日が沈む寸前の時刻に、僕は家に帰ってくることができた。
家と言っても、他の物件よりもボロっちい、住宅街の端に位置する安い賃貸のアパートである。
家の鍵を開け、部屋に入る。家には僕以外誰もおらず、殆ど一人暮らしだ。
一応母さんもいるが、全くと言っていいほど帰ってこず帰ってくるとしても、3月か───
「………そうだった。」
キッチンの壁に掛けているミニカレンダーの表紙を捲り、10月の要項を見る。
『10月15日:ペイルからの一時帰省』
細いペンの達筆で、そう書かれていた。
10月15日────明日である。
しまった、食材を買い込んでおくべきだったか。
「───まぁ、明日でいいか。」
窓からすっかり暗くなった外を眺めながら、そう独り言を溢す。
何せ此処は住宅街。直近のスーパーでも20分程度かかってしまう。明日、学校から帰るついでにスーパーに寄っていこう。
鞄を自身の勉強スペースに置いて、白Tシャツを脱ぐ。
「…………明日の飯何にしよっかな。」
──何ともまぁ。自分が思っている以上に僕は明日を心待ちにしているらしい。自分で口にして少しばかり恥ずかしくなってくる。
だが、それくらいは許してほしいというか。何せ、魔女の息子だ。友達や恋人なんて勿論出来るわけもなく、先ず人が寄って来ない。家族以外、関われる人が居ないのだ──まぁ、例外が一人程いるんだが。
魔女の息子ということを今更嫌悪しているわけでも無いが、それでも、これまでにそのことに嫌悪したことが無いといったら嘘になってしまう。
………けれど。これはもう仕方のないことなのだ。そんなことで母さんを恨むことなんて、僕には出来ない。出来る訳が無い。
たった一人の、家族だから。
たった一人の、肉親だから。
「────よし、頑張ろ。」
自身に言い聞かせるようにして、頬を叩く。
そうして僕は、残り数時間とない10月14日を過ごすのだった。
◆◇◆
白銀を夕陽に照らしながら、少女はビルの屋上から街並みを見下ろしていた。
見据える両の瞳は、燃ゆるばかりの真紅であり、一瞬の異常すら見逃さぬ様に爛々としている。
───刹那、彼女の腰のホルダーに収まっていたナイフが、僅かな震盪を発す。
方向は判らない。だがこれで、魔女がこの灰昏街にいることが確定した。
「……鉄───いや、錆か。」
滓かな魔女の工房の香気を感じながら、少女は小さく言葉を零す。
ナイフは依然として振動を繰り返している。いや、振動というよりは鼓動、なのだが。
少女はソレを軽く諌めながら、然し、夜の帳が落ちる街を確かに睥睨する。
錆の香気を発す魔女が潜むその街を、ありったけの殺意が滲み浸るその瞳で。
その様は宛ら───魔女の姿見だった。
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