一七 遠く遠く

 彼女の持って来たカプセルは幸せを呼ぶらしい。ひどく怪しげな気がしたが、彼女は僕の前で一粒飲み下した。五分くらいで効き始めるから、と上機嫌に言う彼女は、既に幸せそうに見えた。君も飲みなよ、と僕に向かって一粒差し出す。呂律が回っていない。

「あー、来た来た来た、これよこれ」

 へへへ、と見たこともない表情で笑う。童心に帰ったような、邪気の無い純粋な笑みだ。虚空を指差してはしゃぐ。虹が見えるらしい。七色で済まないほど鮮やかなそれが見えるらしい。見て見て、と言われても、指の先にあるのは見慣れたカーテンでしかない。

 紛れもなくドラッグだ。赤と白で中央から色分けされたカプセルの中に、細かい粉末が入っている。彼女がこんなものを持って来るのは初めてだし、中毒性や禁断症状は無いのかもしれない。あるいは、手を出してからまだそれほど日が経っていないのか。

 どんな幻覚が見えるのか、彼女は床に座り込んで両手で空を掻いている。膝を立てた無防備な座り方に直視を躊躇い、視線を逸らす。

 今更、僕には迷う道理が無かった。幸せになれる薬。大いに結構だ。落ちるところまで落ちても良かった。今までだって、どん底に近いところを歩いて来たのだから。

 カプセルを水で流し込んだ。異物感が喉に残った。幸せを待った。虹を待った。何でも良かった。自暴自棄より数倍自棄だった。本当にどうでも良かった。あの時と同じだった。あの時というのがいつなのかはわからなかった。

「お兄ちゃん、今日の晩御飯、何にする?」

 妹が尋ねてきた。それはいつもの妹の声で、特別幸せであるとかそういうことは無かった。効くまで五分くらいかかると言っていたし、まだ効いていないのかもしれない。晩御飯のメニューを考えなければならない。昨日は何を食べたっけ。

「お兄ちゃん、鉢植えに蕾が出来たよ。もうすぐ花が咲くね」

 幸せの薬が効いたら、花畑が見えるかもしれない。それはとても幸せだろうと思えた。空気自体が甘くなり、呼吸することが幸せになる。幸せが幸せを呼ぶ。素晴らしい。幸せはまだ来ないのか。

「お兄ちゃん」

 振り向くと、妹が床に座り込んで何かしている。膝を立てた無防備な座り方でいつものように僕を誘っている。駄目だ。はしたない。窘めなければいけない。口を開こうとする。言葉が出て来ない。視線をスカートの裾から引き剥がせない。僕は何をしている。幸せはまだか? 虹を見よう。見慣れたカーテン以外の何かがそこにはあるか? 確認出来ない。視線が動かない。妹が無邪気に笑った。動いた拍子にスカートがさらに捲れた。理性の弾ける音がした。

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