一五 椅子が無い
「こんにちは」
僕は流れる遊歩道に突っ立っていた。交差点の乗り換えに差し掛かった頃、背後から声をかけられた。振り返っても誰もいなかった。だからこそ誰がいるかわかった。隣に住んでいる公務官の男性だ。
「ああ、こんにちは。今お帰りですか?」
僕はそう尋ねた。時間的にそう予想したのだが、僕がいるのは家と反対方向の歩道だ。この先の交差点を右折すると商店街に出る。大方仕事帰りに奥さんに買い物でも頼まれたのだろう。
「ええ、家内に買い物を頼まれましてね」
案の定、見えない公務官はそんな風に答えた。行く当ての無かった僕も右に曲がる。足音と気配から、公務官が横に並ぶのがわかった。やけに靴音が硬い。改造スパイクを履いているのかもしれない。
「結婚生活というのも大変そうですね」
何を話して良いかわからなかったので、当たり障りのないことを言った。元々、この公務官とはそれ程仲が良いわけではない。むしろ、何度か話す機会のあった奥さんの方が喋りやすいくらいだった。
「良し悪しですよ。あなたもいずれその時が来たら見えて来るでしょう。結婚の良いところ、悪いところ、その両方が」
「そんなもんですか」
結婚なんてする気は無かった。尤もらしい言い訳も幾つかあった。一番わかりやすいのは、相手がいない、という奴だろうか。
ふと、この公務官と奥さんはどうやって出逢ったのだろう、と不思議に思った。目に見えない公務官は、いつからこんな風になったのだろうか。そもそも何故、目に見えないのだろうか。
「でも人間ってのはなかなか不思議なものでしてね。独身の間、結婚したい結婚したいって言ってた人ほど、いざ結婚してみると、独りのほうが気楽で良かった、なんてことを言い出すもんなんです。……結婚したばかりの頃の、家内がそうでしたし」
ここは笑うところかもしれない。そう思った僕は愛想笑いを浮かべた。目に見えない公務官は気をよくしたのか、こんな風に続けた。
「そして逆に、独身の内には結婚なんてするものか、と思っていた人ほど、いざ結婚してみると、連れ合いのいない生活なんて考えられない、なんて腑抜けた風になるんです」
「結婚したばかりの頃の、あなたがそうだったんですか?」
「いえいえ、結婚して以来ずっと、私はそうなんですよ」
今度は清々しく、心の奥から笑えた。見苦しい依存だと吐き棄てるには、自分の影が重なり過ぎていた。家に帰れば妹がいる。自分の気持ちを誤魔化すために、僕は乾いた笑いを続けるしかなかった。
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