一四 誤謬の席捲

 父親は世間的にかなりの地位に就いていた。国王から直接表彰されたこともある。普段、殆ど家にいなかったが、家では最低の人間だった。都合の悪いことがあるとすぐに暴力に頼った。僕が生まれてすぐ、母は殴られた傷が元で右目を失明した。勿論、父の暴力が原因だとは家族以外誰も知らない。僕は父が嫌いだった。純粋に怖かった。妹が生まれてからは妹を庇うためにそれまでの二倍殴られた。母の失明以来、父は顔だけは殴るのをやめた。おかげで目立たないところばかり傷を負った。友達や先生に怪我が見つかることはなかった。立派なお父さんで羨ましい、そんな風に言われ続けた。

 ある日父は、愛人が妊娠したことを、自慢気に母に告げた。僕は、既にその頃一人で生きていける覚悟と技術を手に入れていた。家を出なかったのは、妹が心配だったのと、母が憐れだったからだ。母は何も言わなかった。僕は何も言えなかった。妹には黙っていた。

 翌日の放課後が、僕の人生の転機となった。家に入る前から薄々異常を察していた。虫の報せというのがあるならまさにそれだった。

 居間で、血を流した父がうつ伏せに倒れていた。その脇では、母が肩で息をしていた。右手に持つ包丁が、魚の解体後のような、不気味な血と脂で汚れていた。僕は自分の甘さを悔いた。僕がやらねばならなかったのだ。ポケットには小さな凶器を持っていた。引き鉄を引く理由もあったのに。母は僕の顔を見て、ごめんね、と一言謝った。それから言った。この人が悪いのだ、と。

 ソファの上で、妹が気を失っていた。僕は絶句した。妹の制服は無理矢理破かれ、プリーツスカートは腰の上まで捲くれ上がっていた。下着が膝の辺りまで下ろされており、真っ白な腿の内側に、細く赤い血の跡が残されていた。血の気が引いた。吐き気がした。

 母は、ふらふらと勝手口まで歩いた。液体化石燃料の入ったタンクを持って戻って来た。前から、何に使うのか気になっていた。ずっとこうすることを考えていたのかもしれない。妹を連れて逃げなさい。母は、はっきりと言った。惜しげもなくタンクの中身を家中にぶちまけているところだった。僕は何も考えられなかった。

 自分の部屋に行って、ありったけの現金をかき集めた。妹をロングコートで隠すように包み、抱きかかえた。頬に涙の跡があった。無言で車の後部座席まで運んだ。免許は持っていなかった。取れる年齢でもなかった。それでもやるしかなかった。居間に戻ると、這いずって逃げようとしている父の姿があった。まだ生きていたのか。僕は驚いた。可燃性の気体特有の匂いがした。何も言わず、車の鍵と妹の鞄を取って踵を返した。最後に母と目が合った。母は頷いた。

 車を発進させた後で、背後から轟音の鳴り響くのが聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る