一二 模索の遥か
安らかな顔をしていた。もしかしたら違うのかもしれないが、そうであると信じたかった。人の死に顔を見るのは何人目かわからないが、何度見ても慣れるものではない。
「この女の人、一体誰なんですか?」
僕は混乱していた。見たことがある気はしたが、思い出せなかった。忘れたいことに紛れて一緒に忘れてしまったのかもしれない。
「僕にもわかりませんよ。ただ、死ぬ前にあなたを呼んでくれって。伝えたいことがあるって、そう、途切れ途切れに言うものだから」
その青年はタバコ売りだった。よくうちに来ては、僕にタバコを売ろうと躍起になっていた。タバコは嫌いだったが、その青年は話が上手く、押し付けがましいところもなかったので嫌いではなかった。青年が僕を呼びに駆け込んで来た時、僕は嫌な予感を覚えた。胸を締め付ける不快に後押しされ、ボンベを持たずに飛び出した。
仰向けの女の人が、流れる遊歩道の交差点に引っ掛かっていた。
「誰だったかな……。僕に伝えたいことがあるって……」
唇の端から一筋の血が流れ、血よりも赤いルージュは乾いていた。胸の真ん中に小さな穴が開き、取り返せない命が零れ落ちている。
「間に合わなかった……。すみません。本当に、すみません」
タバコ売りが謝罪の言葉を口にする。僕に対するものなのか、その女の人に対するものなのか。そのどちらともとれた。
僕は、女の人の肩から下がっていたショルダーバックの中身を勝手に検めた。身元を証明するものが、何故か一つも入っていなかった。ただ、隠しポケットのような入り組んだ場所に、見たことの無い類の携帯端末が入っていた。僕はそれを取り出して電源を入れたが、最初の画面でパスワードを求められ、起動を諦めた。
「本当は、僕が、憶えていなければいけないんでしょうね。この女の人が誰なのか。死ぬ間際に僕を呼ぶなんて、僕はこの人にとって、よっぽど大切な人だったはずなのに」
「もしくは、あなたを酷く怨んでいたのかもしれません。どこか鬼気迫るものがありましたし。だとしたら、死んで良かったですよ」
タバコ売りの言葉は不謹慎だった。ただ、確かに僕はこの女の人に怨まれていたのだと思う方が、幾分か気が楽だった。タバコ売りは、僕の手にある携帯端末を見て、大きな声を上げた。
「これ、もしかしてあれじゃないですか? ほら、起爆装置」
パスワードを求める液晶は、どこまでも冷めた顔で僕を見ていた。警邏の人間が来る前に、僕は女の人の瞳を閉じてやった。そして一冊の文庫本を、バッグに無断で入れる。
「読み終わったら、返して下さい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます