一一 溢水制御
花の命は短いという話なら聞いていた。しかしその話を聞いた段階で、僕は花というのがどんなものなのかまるで知らなかった。短命という情報のみを頼りに、その姿を想像することは難しかった。皮肉なことに、初めて花を見たのは、妹の病室でだった。
「……これは?」
窓際のカーテンが揺れていた。その陰に隠れるように、色とりどりの美しい何かが、何本も透明な瓶に刺さっていた。
「綺麗なお花でしょ? 看護師さん達が持ってきてくれたの」
妹は花がどんなものか、既に知っていた。珍しそうに眺めている僕を見て、苦笑するような、それでいて楽しそうな、不思議な笑みを浮かべた。真っ白なシーツに、真っ白な肌がよく映えていた。
「これが、花か。初めて見た」
「高かったらしいよ。みんなでお金を集めて闇市で買ったんだって。心が安らいで早く良くなるから、お見舞いには花が一番だって」
近付くと、柔らかくて甘い香りが漂っていた。花の命は短いと、それを口にすることは出来なかった。ひどく無粋に思えた。春の風が窓から流れ込んで来た。僕には心地よかったが、妹に障りがあるといけないので窓を閉めた。淡い喧騒が、優しく締め出された。
「お兄ちゃん、桜って知ってる? 凄く大きな木なんだけど、ピンク色のとても綺麗な花が咲くんだって。しかも、とっても沢山。風が吹くたびに、ふわーって雪みたいに花弁が舞い落ちるそうよ」
「へえ……、それは凄いな」
正直、雪のように舞い落ちる花弁なんて、全く想像出来なかった。
「もし、私が元気になったら、一緒に見に行こうね」
儚い。妹の笑顔は儚かった。その願いも儚かった。細いその腕を見、細いその肩を見、家にいた頃に比べて随分と痩せこけたその頬を見た。瞳だけは前と変わらず、きらきらと輝き、明るい未来を信じているようだった。僕はその瞳が大好きだった。
「そうだな。一緒に見に行こう。約束だ。早速、ここから一番近い桜の木がどこにあるのか、調べておくよ」
肩にかけたショールを外し、妹をベッドにそっと横たえさせる。あまり長時間起き上がらせないようにと、医者から釘を刺されていた。本当は、あまり調子が良くないらしい。妹は気丈に振る舞っているが、体を蝕む病魔がその手を止めることはなかった。どれほどの苦痛が妹を苛んでいるのか、僕にはわからない。花の命は短い、と今一度思う。妹の姿と窓際の花の姿が重なって見えた。冷たい手が、僕の手首を掴んだ。潤んだ瞳が、僕に口付けをせがんだ。締め出された春の陽気に、背徳が混じった。
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