一〇 嘆きの焦点

 空が青いのは当然だった。僕の生まれた町でも、首都でも、今まで行ったどんな場所でも、空は青かった。美しいかどうかは別問題で、その色合いも全て異なっていたけれど。それでも空は青かった。

「明日で、空の青は途切れる」

 僕はその学者が一体何を研究している人なのか、知らない。ただ、眼鏡と髭と白衣が似合っていたので、学者であることは疑うべくもなかった。その学者は、いつだって公園のベンチに座っていた。そこで日がな一日、空だけを眺めていた。ジョギングする人や、狗の散歩をする人が近くを通り過ぎても、見向きもしなかった。

「どうしてですか?」

 僕はその隣に座って音楽を聴いていた。旋律は好きだが詞が嫌いな曲と、旋律は嫌いだが詞が好きな曲と、どちらの方が耳あたりが良いか探っていた。後者の詞を前者の旋律に乗せて歌いたかった。

「もう、空の具が無いからな」

「空の具?」

 聞き慣れない言葉に、僕は音楽を止めて尋ね返した。空の具という響きには、専門用語にありがちな洗練された印象が皆無だった。

「絵を描くのに使うのが絵の具だから、空を描くのが空の具。便宜上、私が名付けた。今にこの国のスタンダードな単語になる」

 案外に、言葉とはそういうものかもしれなかった。

「私は全て、計算した。空の青い部分の面積と空が青い昼間の時間と。この星が生まれてからずっと、同じペースで続いているのだとしたら、明日の午後三時頃、青色の空の具は途切れてしまうのだ」

「空の具の総量がわからないのに、どうやって計算したんですか?」

 学者は、そこを聞いて欲しかった、と言わんばかりに笑った。

「空の具の総量は、本来誰にもわからん。だが、私は突き止めた。毎日空を眺めていると、瞼を閉じてもそこに空の青が映る。ある日私はその青に、小さな傷がついていることに気付いた。毎日少しずつその傷に近付いて行くと、だんだん文字に見えて来たのだ」

「まさかその文字が、空の具の総量を教えてくれたんですか」

「まさしくその通り。私は天啓を得たのである」

 空の青が翌日には消えてしまうというのに、学者はやけにうれしそうだった。僕はその理由を尋ねる。学者は当然のように言った。

「私は青色が好きでないのだよ。私が好きなのは雪のような赤色だ」

「僕は青色が好きです。だから、空の青が消えるのは残念です」

 結局、空の青色は途切れることはなかった。文句の一つも言ってやろうとしたが、学者はその日の昼に事故で死んだらしい。詳しい時刻を聞くのは怖かったので止めた。僕の知る雪は赤くない。

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