九 瓦解する疾走
どぶのような川が流れていた。心のどこかで、蛍が住めそうな透明な河川を想像していた。だが、そんなわけはなかった。この国のどこにも、そんな空想的な代物は残されていない。旧時代の遺産は既に滅んだと思ったほうが良い。橋の欄干に身を乗り出して、黒い川面を眺めた。異臭がした。嗅ぎ慣れた、よく知る川の匂いだった。
「何やってるの?」
声がした。僕より三つくらい年下の女の子だった。あどけなさの残るその顔は、僕の好みではなかったが、とても可愛らしい。制服を着ているから、どこかの学校の生徒か、あるいは売春婦だろう。
「見てわからないかな。川を、眺めているんだ」
制服の女の子は、流れる遊歩道からタイミングを計って、僕のすぐ脇の欄干に飛びついた。健康そうな肌の色から、売春婦ではないと当たりをつけた。香水もつけていない。制服の女の子は、僕と同じように身を乗り出して川面を見下ろした。その姿を傍から見ると、今にも落ちそうでとても危険に思えた。女の子が僕に声をかけたのも、そういう理由からかもしれない。淡い青さが心地良かった。
「……飛び降りるのかと思った」
「まさか。こんな高さからじゃ、落ちても死なないだろうし」
「だよね。だから、声かけたんだ。死ねる方法だったら、別に止めなかった。中途半端に死ねなくて痛いのは苦しくて辛いから、やめた方がいいよって、そう言おうとしてた」
女の子の発言にぎょっとする。若い青が闇の濁りに汚されていた。目をやった拍子に、手首に痛々しい傷跡がくっきりと一本残っているのが見えた。引き攣れて赤黒く爛れている。僕の視線に気付いてか、女の子がさっと服の袖を上げる。僕は思わず謝った。
「ごめん」
「別に、いいよ。昔のことだし。一度死に損なったら、もう怖くて死ねなくなった。……本当は、まだまだ死にたいんだけどね」
女の子は不思議な笑みを浮かべた。思わず見惚れていた僕を見て、もう一度、一層笑みを深める。
「私、自分で言うのもなんだけど、可愛いでしょ?」
一も二もなく頷いていた。本当に魅力的な女の子だ。
「だから、色々あるんだ。男の人は皆、私におんなじことをしようとする。抵抗なんて出来ないから、されるがまま。本当は嫌なのに」
僕は、女の子に切り札を見せた。似た話を知っている気がした。
「銃を、持ってるんだ……」
女の子はキスをくれた。ありがとうとも言ってくれた。
僕は苦笑した。上手く笑えた自信は無かった。力を失った肢体には重りをつけ、濁った川に投げ入れた。嗅ぎ慣れた匂いがした。
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