五 見境

 希望的観測だ、とその医者は呟いた。希望的観測に過ぎない、と。

「それでも信じるしかないのだ。わずかでも助かる可能性があるのであれば、私は助けるための処置をするし、助からないなどと口にすることは出来ない」

「そうだとしても」

 僕は反駁した。夜の待合室は静かだった。自動販売機から漏れ出る明かりのせいで、頬のこけた医者の目に、落ち窪んだ隈がはっきり見えた。あまり寝ていないのだろうが、それを言えば僕だって同じだった。

「本当のことを教えて下さい」

「教えているつもりだ。でなければ希望的観測などと言うものかよ」

「つまり、妹はもう助からないと、そういうことですか?」

「だから、そこまで言うつもりはない」

 低い駆動音が、自販機の下から聞こえる。カフェインのようにじわじわと僕を覚醒させるのはその音か。ちっとも眠くない。あの日から僕は眠っていないというのに。無為な不眠で人など救えない。

「未来は可能性で語るしかない。一パーセントの可能性すらなくても、実際に起こってみるまでどうなるかわからない。だからこそ、私は言うのだ。助からない、ではなく、助かるかもしれない、と」

「詭弁ですよ、そんなの」

 医者は無言で立ち上がり、白衣のポケットからカードを取り出した。自販機にそれをかざしてID認証を行い、コーヒーのボタンを押した。紙コップに注がれる真っ黒な液体が渦を巻く。深く、淀んでいる。僕の心のようだ。医者はそれを僕の方へ差し出して来た。

「眠り薬を混ぜるなら、コーヒーが良いという。元々苦いから、気にせずに飲めるのだ」

 医者の右手から、錠剤が一錠、カップの中に落とされた。発泡していた。端から溶けて温かいコーヒーに混じっていく。湯気をたてているカップを、僕は両手で受け取った。

「少し、眠りたまえ」

「……コーヒーは、苦手なんです」

 錠剤は発泡を続けている。細かくて真っ白い泡が、次々と浮かび上がり、次々と消えていく。見ているだけで、ふわりと口の中に独特の苦味と酸味が広がった。毒のような和みに僕は惹かれる。

「私も苦手だ。何しろ眠り薬を混ぜられても気付けないのでね」

 この医者は人を助けたくてたまらないのだろう。見ていて、辛かった。いっそ人の命を軽視する医者なら楽だった。僕は、堂々とそいつを憎めた。やるせなさに押しつぶされそうだった。感情の矛先をどこに向ければ良いのかわからなかった。久しぶりに飲んだコーヒーは、思ったより苦くなかった。癒しは瞼の裏側にあった。

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