四 剥離の幻
山に登ることは、嫌いでなかった。今では珍しくなった、機械で動くことのない大地を、自らの足で踏みしめて歩く。傾斜を登ることに何の意味があるのかはわからなかったが、山登りは面白かった。
「山には、動く植物がいっぱいいるらしいけど、本当かしら」
彼女は山に登ったことがないらしかった。元々、海辺の町で育ったと聞いている。きっとその時に仕入れた噂なのだろう。首都に出てから至るところで、『潮の匂いは人を狂わせる』と聞いたが、それと同じくらい無責任な話だ。
「動く植物なんていないよ。植物が動いたら、それは動物だ」
僕達はホテルにいた。窓から綺麗な夜景が見えるという触れ込みだったが、時間帯が昼だったので望むべくもなかった。くすんだ色をした空気が、相変わらずの町並みを包み込んでいる。
「でも、猫は動くわ」
「あれは動物だよ」
「元は植物なんでしょ。そういう化石が見つかったって聞いたわ」
サイバー伝言板には、嘘が多い。彼女がその手の噂話を好むと知ったのは最近だった。彼女はあまり多くを語らない。ただ、僕と会った時はとても安心している。顔を見ればわかる。
「だから、動いている今は動物なんだろ?」
「それもそうね」
彼女は素直に納得した。物分かりの良いところは美点だ。部屋の電話が鳴った。耳障りな音をたて、長い間続いた。二人とも受話器を見つめるしかなかった。それを取ることを恐れていた。
音が止む。静寂が広がった。繋いだ手を離し、僕はリモコンに手を伸ばした。壁際の冷たいテレビに命を吹き込む。
「闇の音がする闇の音がする闇の音がする闇の音がする闇の音が」
ノイズを切ることが出来なかったらしい。電波には不気味な声が紛れ込んでいた。モニターに映し出されたのは、僕と彼女の姿だった。山に登っている。雪山だった。吹雪の中、もがく様に歩く分厚い服を着た二人組が僕らだった。風の音はしない。二人が滑落する。
「闇の音がする闇の音がする闇の音がする闇の音がする闇の音が」
「真っ白ね」
彼女はそっと、僕の手を握った。僕はその手を握り返した。指を絡ませると、薬指にリングのぎこちない感触が触れた。
「動物も植物も、何もいない。死んだような世界だ」
「でも、白くて、とても綺麗」
君の方が綺麗だと、そう言おうとして止めた。吹雪と比べるのは、あんまりだ。モニターの中の二人は、もう動かない。
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