異形の後には




 はじけ飛んだ異形が、激戦の跡に降りしきる。



 黒い雨が止んだ頃には、その場にいたすべての人は、互いに落ち着きを取り戻していた。数刻前の激動が嘘であったかのように静寂の満ちたクレーターでは、黒泥を生み出していた異形は消失し、葉擦はずれ音が耳朶じだを叩く。

 曇天は晴れ、太陽が顔を出し始めた快晴、そこから落下してきた南門衛士長リオン・ラースは眉間にしわを寄せて、目前に白髪の青年に青筋を立て、鬼の形相で迫っていた。


「で、これはどういうことか説明してもらおうか?ポアロ」


 ポアロと呼ばれた青年は、あくまでも冷静さを装った面持ちでいるが、彼の脳内では疑問が渦巻いており、鼻先で揺れる髭をわずらわしそうに跳ね除けて問いかけずにはいられなかった。


「ははっ、その前に聞きたい。なぜ君は私のことを覚えている?」



 —————ポアロ・・・、ポアロとは、誰のことだ。



 頭の片隅で、いつまでも重たい霧が落ちてくる。さらさらと降り積もるそれは、次第に私を混乱の渦へと誘っていった。

 そんな、実態を持たない言葉の羅列を脳内で反芻はんすうさせるが、記憶の中で、その単語は脈絡もなく孤立し、さながら大海原に佇む孤島のような異物感であった。


「俺の資産を半分も持ち逃げしたヤツを忘れるわけねえだろバカ」


 だが、ポアロという人物は相当に面倒なことを残して死んでいったらしく、身に覚えのない悪事に、うーん・・・、と熟考した後に、舌を出して小粋に「許してね☆」と言ったら、リオンはブちぎれてポアロを追いかけまわした。

 高笑いを上げて逃走するポアロと、拳を振りかぶるリオン。

 傍から見ればじゃれあっているようにも見えるが、リオンの拳は簡単にポアロの頭部を砕けるので、しゃれにならない。


 リオンの拳が大地を揺らしたころ、ポアロの主となった少女たちは、この後について話していた。


「教会に戻ろう、・・・プレッタ」


「・・・うん」


 少女たちは、自身の所属する本部、教会のことを思い、絶望していた。

 それは、任務の未遂行による懲罰、神罰に対してだ。


 本来、大神の使いである使徒には、失敗は許されない。敬虔けいけんなる信徒たちを前に、それは大神の神威の失墜を意味する。

 なので、教会の権威に嫌疑けんぎをかけられず、信徒の堕落として処理するのだ。

 加えて今回の任務は大神直下の勅命であった。

 この世を統べる源たる大神、支配者のめいであるからこそ、それから逃れられる運命が存在する、その事実は大神の絶対性を犯し、畏怖の象徴であるその瞳をけがし、あまねく世界を見通す視野に陰りを起こす。

 教会では、それこそが忌避すべき絶対不変の教義である。

 だから教会の人間は、そもそも神に不足があったなど考えない。それがあったとすればそれを遂行した者であり命じられた者、神がその不純を洞見どうけんし、任務不遂行という形で我らにお教えになられる。

 それが教会が掲げる歪曲わいきょくした教義狂気である。

 なので、罰されるのはこの少女たちであり、その後に訪れる運命は・・・。


 決まっている。


 みそぎ、身を削るあがない。


 連綿と受け継がれてきた贖罪しょくざい

 規律に反した使徒や信徒は、己が身を粉にして許しを請わなければならない。


 初めに、肉体全ての皮膚を剥ぐ。


 神の意思に背くことは即ち、我欲に堕落したことを意味する。

 なので教会はその人間の個としての特性を剥奪するために罪人の皮膚を剥ぐのだ。

 

 次に、神の御下へ至るという洞窟に閉じ込める。


 不純な精神、肉体を清めるための神聖なほら

 そこでは飲食は禁じられ、突き付けられる絶食。ただあることのみを許される。

 邪な精神を疲弊させ、飢餓を引きおこす事こそが、体内の悪性を取り除く唯一のほうほうであると教会は唱える。


 そうして何も無くなった時、最後の死へと至る。

 

 ただ待つ。ただ待つのだ。

 自身の肉体の終焉を。


「大丈夫だ、プレッタ。お前の分まで、私が背負おう」


 ナギは大切な人を思って、そう言った。

 ナギには隣で座りこむ少女を、そのような拷問に合わせることを許せなかった。あの断罪の刃がこの少女の肌を裂くのなら、せめてその分まで自分が脅威を浴びてみせようと、そう決意していた。


「ダメだよ。生きるのも、死ぬのも一緒。最初にそう決めたでしょ」


 ナギは、その約束は果たせそうにないなと思い、ほのかに笑ってみせた。


 彼女を生かす方法はあるのだ。


 何より、まだプレッタには手札がある。

 今まさにその頭蓋をクレーターの地面に埋めている怪しい使い魔だ。


 魔女と遜色のない戦闘能力、これをだしに使えば、少なくともプレッタの身柄だけでも無事にすべく話を持っていけるかもしれない。

 そのためにも一度、奴とは話し合いを・・・。


「うわぁ~ん!ごめんよぉ~。許してくれ~」


 当の使い魔と言うと、地面から這い上がってみると、横たわる自分の頭上で、腕を組んで仁王立ちしているリオンの姿が目に入る。

 降りかかる拳の連打を防ぐべく防御障壁を張っていた。


 本当にあんなので大丈夫だろうか・・・?


 もしかしたら最後の一言、言い残しを考えておく必要があるかと、不穏が過り、ナギがため息を吐いた方角では、乱れた髪を整える幼い魔女と、それをまじまじと見つめる弟子の姿がいた。


 ゴオの右腕には異形が蠢いていた。

 しかし、心臓の脈動ように鼓動する異形は、次第になりを潜めて、次にはただの少年の右腕に戻っていた。

 その時、少年の首から下がっていたペンダントが淡く光っていた。それは〝不老〟のペンダントだ。そのペンダントは、所持者の肉体を最善の状態で保持する。

 つまり異形は少年という外殻に閉じ込められた状態だ。


「えっと・・・エリナさんで合ってますか?」


 陽光がその人を照らす。姿を変える前と同じく、絹糸のような黒髪は光沢をまとい、宙を待っていた。光彩の綺麗な瞳を潤ませて、不機嫌な気恥ずかしさで歪んだ顔を、髪を整える所作のふりをして可愛らしく隠そうとしているが、全く隠せていない。


 エリナは羞恥と怒り、そして自分の不甲斐なさを表情に織り交ぜながらこちらの顔色を伺った。


 ゴオはエリナの反応よりも突然の姿形の変化を心配に思い、安否を確認した。


「それって大丈夫なんですか?」


「うぅ、恥ずかしい・・・」


 へたり込んだ少女は両手で顔を覆った。ゴオの発言から本当に純粋な思いで心配してくれたのだとわかり、邪推じゃすいした自身と現状に惨めさを感じ、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。


「大丈夫、たんに姿が戻せないだけで、別にどうなるってことはないから・・・」


 ほっした少年は、立ち上がった。

 であれば、あとは元の生活に戻るだけだと思っていた。


「帰りましょう」と帰路につこうとしたゴオは、その少女たちを視界に入れる。

 自分を狙いに来たという二人の使徒たち、脅威は去ったとはいえ、目的は達せられていない。なら、次はこちらに向かってくるかもしれない。少し前なら、迷わずこの身を捧げていたが、エリナの言葉で生きてみたいと思った。


 何より今なら迷惑をかけることないと思った。


 エリナと一緒にあの家へ帰ろうとしたゴオであったが、背後から袖を惹かれて振り返った。

 そこではまだ顔が赤く染まったエリナの姿がある。彼女は何かを言い淀むと、舌がようやくうまく回るようになり、


「あのね、私はちょっと師匠らしくないことしたから・・・それでね」


 弟子の歩みを止めるように袖を引き寄せた彼女は、しどろもどろになりながら立ち上がることも忘れて上目遣いで彼に懇願した。


「忘れて、ね?」


 さっきまでの姿はエリナにとっての積年の恥であり、見られたくなかったのだ。何より彼女は年端も行かない少年を抱き寄せて子供のように泣いてしまったのだ。すごく居たたまれない。


 しかし、ゴオにとってはそれは嬉しい一面であった。


 姿が幼くなってしまったことも要因の一つだったのだろう。しかし、普段は大人びている彼女がこうも年相応の反応をされると、素直に従うことがはばかれる。加えて、夢の中でこちらの秘密も見られてしまったのだ。ゴオはその当てつけや少しの不服感から薄く笑うことに留めた。

 その反応に「ちょっと!忘れてよ!ねえ!」と強引に縋りついてきたエリナ、ゴオはやはり黙っていようと思った。前までは雰囲気の違いから年齢の壁、疎外感を感じてしまっていたが、今ではそれをあまり感じない。前の関係が嫌いとは言わないが、このような距離感や立場には愛おしいものを感じた。


 そうして戻って来た平穏を噛みしめて少年は一歩を踏み出した。


 その時、首筋にピリリと、不吉な予感がした。

 

 それは唐突で、理由のない警鐘が心中で響き渡り、一欠けらほどの敵愾心てきがいしんがそれより伝わってきた。


 振り返ったゴオは見たのだ。


 


 八体は完全な同種ではないようで、それぞれが違った特徴を持っていた。

 しかし、ひとつだけ共通点を持っている。

 それは頭部の空洞と肉体の色。異形らは共に黒泥より形成されているようで、その頭部には光を吞み込むほどの空洞がぽっかりと開いていた。まるで黒鉛筆で塗りつぶしたような穴が、その怪物らの顔にあったのだ。


「エリ——————」


 エリナの名を叫ぼうとしたゴオであったが、それが反響することはなかった。


 怪物の二体が飛翔を開始し、そのうちの一体が銃の形状をした泥でゴオの胸を刺し貫き、彼の心臓を破裂させた。肢体をだらりとぶらさげたゴオは、怪物の飛翔のままに、肉体を宙へと連れ去られてしまった。


 その場の誰も、反応はできなかった。


 二体の怪物が侵略を開始し、ゴオの背後、ちょうど斜線上に立っていたナギが剣の形状をした泥を所持する異形に腕を貫かれ、こちらもゴオ同様に連れ去られていった。


 一秒にも満たない時間で行われた襲撃に、眉を歪めながら異常を察知したリオンは、足元のポアロへの攻撃の手を止めて周囲を見回した。そうして少し離れた場所での異形が立っているのを見て「ああん?」と疑問を吐くが、その時にはもう遅く、いつの間にか彼の背後に立っていたローブ姿の異形がリオンの肩に触れた瞬間、二人はこの場から姿を消した。


 その一部始終を見ていたポアロは即座に行動を開始するが、相手の速度の方が上であった。

 急ぎ障壁を張るが間に合わず、羽の生えた異形が、彼の右腕を切断した。

 苦悶の声を上げたポアロは、態勢を立て直そうとしたが、羽の生えた異形に気を取られているうちに背後をとられていた。

 それに気づいた時にはもう遅く、筋骨隆々きんこつりゅうりゅうな巨体を誇る異形が、ポアロを森林方向へと吹き飛ばした。


「ゴオッ!」叫んだエリナは、すぐに弟子の下へと向かおうとしたが、それを阻む異形が、彼女の目前、顔に手のひらを向けて立っていた。

 そうして回避も間に合わず、エリナは血飛沫をあげて塵となった。

 不老不死であるエリナは再生を果たそうとするが、それは不完全であった。完全に回復を果たす猶予はなかったのだ。なぜなら先程の異形がまだ自身の前で手をかざしている。

 まだ皮膚の再生を果たせていない肉塊を前に伸ばして敵を排除しようとしたエリナであったが、それを許すはずもなく、またも異形は彼女を塵に返した。


 クレーターの内部で無事であったのはプレッタだけであった。


「・・・・ナギ・・・ちゃん」


 彼女は現実を受け止めきれず、呆然としていたが、彼女を挟み撃ちにする形で佇んだ二体の長身の異形が目に入ると、無理やりに現実に引き戻された。

 その長身の異形らは、それぞれ長槍を持ち、どこまでも深い闇を讃えた顔面をプレッタの前で静止させていた。

 声も出せずに恐怖に震えていたプレッタであったが、ナギの表情を思い出すとフタンナを用いて道を開こうとする。

 あたりに紫苑の臭気が漂ったが、煙が怪物らを拘束するよりも早く、槍が形状を変える。初めはただ一筋の線であったが、それは次には大木となり、また次には枝葉を広げ、木々のように広い牙を携えていた。そうして前方と後方から槍で貫かれたプレッタ。彼女は悲鳴をあげる。


「痛いッ!・・・ヤダ、痛いッ!」


 貫かれた二本の槍は、彼女の血液を掻き出し、まるで浸透させるように何度も貫く。槍は引き寄せるごとに彼女の肉を剥ぎ、赤水を掃き出した。木偶人形のように二体の異形に好き放題される彼女はさながら愛玩具のようで、荒く粗雑に犯されていた。

 紫苑の少女は、人の形をしているだけの無機物にただされるがままで、たとえ抵抗をしようにも絶え間ない激痛によりそんなことをしている余裕は少しもなかった。


「こんなの、もうヤダァッ!」


 そんな逃避を最後に、何度も刺し抜きされる槍は、彼女の体内で異物感を与える。貫くたびにプレッタは悲痛な声を漏らした。次第にその異物が馴染もうと、やはり、そのかつてないほどの痛みは彼女の体力を奪い、残ったのは痙攣けいれんしたプレッタだった。


 そうして獲物を獲得した二体の異形は、自身の本体へと供物を捧げる。


 そこは、八体の異形はが出現した後方、司祭を象った肉塊に、プレッタは呑まれてしまった。


 異形、その正体は支配者。


 この異世界の世界構成を理解した支配者はそれを模倣し、また文明も含めて全てを己が所有物にすることが出来る。


 使


 つまりあの肉塊は、使徒を携える司祭。予兆であるGGreatOOldOOne


 終焉の中でも序の口である使徒が、現世に放たれた。



                  ◇ ◇ ◇



 クレーターで復活を果たした終焉、現世での楔を見つけ完全に存在を証明できた後、二体の異形使徒により連れ去られてしまったゴオとナギ。

 意識を失ってしまったゴオに対して、腕を貫かれたナギはその風圧に耐えて、自分たちを釣り上げる使徒を睨む。


 彼女は連れ去られる直前、見てしまったのだ。

 ただ一人取り残される、相棒の姿が。

 彼女の中では、ただ一つの想いが全てを支配していた。


〝プレッタを守らなければッ!〟


「このっ・・・離せ!」


 彼女は己が権能を用いて、平行飛行する使徒らを撃墜した。

 ゼロ距離からの拳と蹴りに対応の遅れた異形使徒は直撃し、釣り上げた獲物を落としてしまった。

 ふたりはそのまま落下し、ナギは自身の傷口に治癒魔術を施しながらゴオを見ると、胸の中心より流血して、横たわったまま沈黙していた。

 ナギは不服ながら彼を助けるべきだと思い、接近を試みたが彼女の前に使徒は着地する。


 手負いの自分の前に、理解を拒む黒が悠然と見下ろしてくる。

 ナギの中で一瞬、諦めの二文字が浮かんだ。


「邪魔を、するなァッ!」


 彼女は水神を呼び起こし、異形使徒の殲滅に乗り出したが、決着はすぐについた。姿を現した水龍など意に返さず、一瞬、使徒らの姿が消えたかと思えば、


「かひゅっ・・・」


 次には自身の喉元と腹部から流血が起こっていた。


 それを理解した時、たまらずその場に膝をついて傷口を抑えた。

 彼女のすぐ後ろでは、つまらない、と言うように異形使徒が佇んでいた。


 この少女の処遇を話し合うように顔を見合わせた異形使徒、すると片方の黒き人型が、手元の剣を振り上げて少女の首元に突きつけた。


 漆黒の刃が光沢を煌めかせる。無慈悲な、感情すら伺えない凶器が、少女の首へと落とされようとしていた。

 森のさざめきがうるさいほどに響き、今より起こる不吉を言祝ことほいでいるようだった。ナギは森林の暗がりを見据えてプレッタを案ずる。何としても、彼女を守らなければならない。だって彼女は——————————。


 とうとう膝をつくことを諦めたのか、ナギは地に倒れる。

 それに異形使徒は狙いが定まらないことを嫌ったのか、構えた剣を一度は収めて、目前で芋虫のように這いずるナギに歩み寄った。


 ナギ、ほんの一握りの希望に賭けて、ゴオへ這いずる。

 この状況では、頼るのは生みの親である奴しかいない。


 だが、異形使徒はそれを許さなかった。

 足蹴にナギを押さえつけた異形は、今度こそ首を落とすべく照準を合わせる。


 仕切り直しとばかりに、木々の音が高まる。不気味な音色は、ナギの鼓動とは対照的であった。

 生き汚く現実へと縫い付けた意識で感じられたのはそれだけ、むしろそれがあったからこそ、意識を手放さずにいれたと言っても良い。


 それがあったから、彼女は間に合った。


「——————————」


 異形はあたりを見まわした。その違和感に、異形使徒らも気づいていたのだ。


 あまりにも森がうるさすぎる、と。


 黒い異形はその群を視界に入れた。


「グルルルッ・・・」


 それは、獣王の眷属らであった。


 無尽蔵に森より出でるその獣たちに、異形らはナギから一先ず意識を離した。

 別に異形らはその獣たちに脅威を感じてはいなかったが、彼らがゴオを連れ去ることは、面倒だと思ったのだ。


 そうして害虫駆除を開始した使徒らと、獣らが襲い掛かるのは同時であった。


 足を離され、解放されたナギは動ける程度に自身に治癒を施し、体の激痛を携えながらゴオの下へとたどり着き、彼にも治癒を施した。


「頼む、お前だけが頼りなんだ・・・頼むから」


 使徒らしからぬ懇願であった。

 教会の代表である使徒が、神以外に祈るなど、あってはならないことであった。

 しかし、ナギにとっては事実、神よりも優先するものがある。


 それは大切な人、そして同じ使徒であり相棒。


「頼むから、プレッタを助けてくれ。お前が生んだんだろ、お前なら方法を知ってるはずだろッ・・・」


 だがゴオには、あれらの異形がなんであり、どんなものなのかはわからない。正確には正体は知っているが、どんな現象であるのかも知らない。


 だが、ナギにとっては、ゴオを頼る他ないのだ。


「プレッタだけは・・・あの子だけは殺させないでくれ。あの子は世界でたったひとりの・・・」


 異形使徒はある程度まで獣を排除すると、残りは片方の使徒に任せて、もう片方はナギの処刑に向かった。

 獣らにとっては、その異形を押しとどめるのは快挙と言えた。本来であれば、注意を引くのでやっとのはずの盤面で、彼らはそれを為したのだ。眷属の中でも歴戦の個体であるからこそ、達し得た偉業である。


 しかし、それも一人の異形使徒だけだ。もうひとりは今も悠然と剣を天に掲げた。


 異形使徒が振り上げる剣を背に、ナギは最後までプレッタの無事を願う。


「たったひとりの・・・妹なんだッ」


 ナギの中で、音が消えた。


 空気を撫で切る音を最後に、彼女がそれ以上に何かを聞き取ることはなかった。異形使徒の刃は、無慈悲にも振り下ろされたのだ。黒き刃が画然とすべく、新しい供物の命を絶つ。


 たったひとつの願いの中で、彼女は最後まで、少年に治癒を施し続けた。


 無力さに慟哭どうこくし、濡れるものでかすんだ視界の中、彼女が見たのは胸の傷跡が完全に収まった少年の姿であった。

 すると視界が揺れる、おそらく、客観視すれば、自身の首が宙を舞っている。そう納得できるほどに視界が流れた。

 もう一人の異形使徒の様子だろうか、そこでは多量の獣が異形使徒へと群がり、その中でも少数の獣が牙や爪で応戦していた。

 一目見ただけで、少数の獣が精鋭であることがわかった。それぞれが耳や目、頬に痛々しい傷跡があったが、それは長い時の中で生き残ってきた勲章くんしょうのように思えた。


 それを最後に、彼女の視界は闇に包まれた。


 視界の中心よりじんわりと闇が浸食し、最後には全体が染まった。もう何一つ見えない。闇の中で見えるのは、瞳の残像。最後の光を取り入れた瞳が、闇の中で反射していたが、最後には掻き消えて、完全な暗闇となった。


 恐ろしい時間であった。


 冷たいものが首から登り、斬られたと感じた。首の視覚野を切断され、頭部と切り離されたためだろう。目前に広がる光景、その色彩が崩れる。

 いびつに歪んだだけでなく、ノイズが奔ったかと思えば赤黒く滲んだ。

 痛みは一瞬で、その後にはただなだらかな静寂が鳴る。その中でも彼女は世界でたったひとりの家族のことを想い、願い続けていた。


 それを最後の光景として、使徒は張りつめていた意識を途切れさせた。


——————————使


 ナギは視界を開ける。それは変わらず暗闇だ。


 だが一つだけ、聞こえる音がある。それは鼓動だ。


「せっかく生かしてもらったんです。ならそれに報いるだけの行いをしなければ」


 ようやく聞こえた言葉に、彼女は闇の中で何度も目をしばたたかせた。


 その時、光が差し込んだ。


 空気を吐き出すような開閉音がしたかと思えば、ナギの視界に入ったのは、先の森林の光景だ。


 鼓動だ、鼓動だった。


 ナギの頭部は当然、肉体とくっついたまま、少年の胸に頬を押し当てて鼓動を聞いていた。ゴオは刃から彼女を守るために抱き寄せたのだ。

 だがそんなことを気にしている暇はなかった。なぜなら視界の端で鈍色の何かが光っていた。

 それは排気音を轟かせ、こちらの肉体の芯に、より巨大な鼓動を伝播させる。

 相当なエネルギー排熱を行ったのか、超高温によってその鈍色は中心部を赤く染めていた。


 異形使徒がナギに刃を振り下ろす直前、意識を取り戻したゴオは、ナギを異形使徒の手から逃すために引き寄せた。

 しかしそれは、自身が行う攻撃からも彼女を守るためであり、その鈍色で少女を包んだのだ。


 そうして空いた方の手でそれを形成し、打ち出した。


 その威力を物語るように、異形使徒の残った下半身が地に倒れた。


 敵を排除したゴオは、飛び退いたナギを背後に、獣と交戦する異形と、今も再生を果たそうとする下半身のみの異形を前に立ち塞がった。


「世界を滅ぼす力を、世界を救うために使おうと思います」


 それは彼の使命とは乖離する行いである。だが、彼にはそんなことどうでも良かった。なにより自分は捨てられた存在なのだ。なら後になにをしようが自分の勝手というものだ。


 しかし、それにしたって無茶だと思う。


 だって自分は——————————。


「まあ、最弱なんですけどね」


 少年は、皮肉交じりに異形使徒を見据える。


 もちろん、勝てるとは思っていない。

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