第14話 20年後の未来

「了解です。あ、あと新人の子って今日からでしたよね?」

「そうです。先生、お昼過ぎにはくるんで対応お願いしますね」

「分かりました」


 そう言って俺はスマホの通話を切る。


「新人の子かぁ」


 俺は現在プロの小説家として本を出版している。刊行のペースは約半年に1冊。大変かといわれれば大変じゃないのかもしれないが、最近はどうにもいいアイディアが浮かんでこない。いわゆるスランプ状態というやつだ。

 ふと、本棚に目をやる。ここには今までに執筆した小説がずらりと並んでおり、まさに圧巻だ。20年前の自分に見せたら何というだろうか。たぶん、信じないだろう。


 俺は運がいいことに新人賞で審査員賞を受賞し、担当編集者がついた。まだまだ、改善すべきところだらけだったので、最初の1カ月は毎日のように改稿して提出、そしてまた改稿の繰り返しであった。まるで、あの時の日々のように。


 今でもふと、思い返すことがある。あの、星川さんという謎の少女と過ごした約ひと月は何だったのだろうか。最初は夢だったのではないかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。現に俺が小説家になれているのがその証拠だ。では、一体何だったのだろうか。その謎は20年経った今でも解ける兆しはない。


 そしてもう1つ、俺にも大きな変化があった。現在、執筆しているのは日本の真ん中、東京なのである。高級タワーマンションに住んでいる……はずもなく、東京も離れの安いアパートに暮らしている。


「もうすぐ10時かぁ。眠いなぁ」


 そう、何と言っても締め切りがあと1週間後に迫っているのだ。原稿自体は出来上がっており、後は担当編集のゴーサインが出ればオッケーだ。


「コンビニでも行くか」


 俺は重い腰を上げ、スマホだけをポケットに入れて家から出ていく。昼から新人の子も来るって言ってたし、流石にもてなさないわけにもいかない。それがコンビニの食材なのはどうかとは思うが。


 コンビニの目の前にやってきた。自動ドアが開き、中へと入る。俺は弁当のコーナーまで歩いていき、適当に2人分購入する。あとは、飲み物も買っておかなければいけない。


「最近の若い子はコーヒーとかは飲まないだろうなぁ」


 そう思って、無難に麦茶を買っておいた。これなら文句はないだろう。そう思って、レジに歩いていく途中、あるものが目に入る。それはスイーツコーナーだ。


「折角だしこれも、買っておくか」


 普段、1人なら絶対に買うことのないスイーツ。俺はイチゴが乗ったショートケーキを1つだけ手に取り、今度こそレジに向かった。


 コンビニを後にする。行きは感じることのなかった暑さが体中を焦がすかのようにして照り付ける。今年の夏も暑い。なんだか年々暑くなっている気がして、そのうち50℃とかが普通になるんじゃないかと思えてくる。


「あちぃ……」


 肌を伝ってぽつり、ぽつりと流れ出る汗が地面に落ちる。普段はクーラーの効いた部屋で引きこもってばかりの生活だから、体力などほとんどない。担当からは、健康のためジムを勧められているのだが、そんな体力すらどこにもなかった。


 しばらく歩くと、高校が見えてきた。グラウンドでは高校生たちが暑い中、元気に体育祭の練習をしていた。俺の高校時代はどうだっただろうか。ふと、思い返してみたが、今とあんまり変わらない気がした。あの夏を除いては。


 そんなことを考えていたらアパートが見えてきた。ここまでおよそ10分ほど。どっかの高級マンションみたく、1階にコンビニができたりしないだろうか、何て妄想をしながら長い階段をゆっくりと上がっていく。なぜ階段かというと、流石にここくらいは運動しておこうという謎の気持ちからである。


「着いた~」


 ようやく4階まで登りついた。俺の部屋は一番奥の角部屋だ。


 そこで俺は異変に気付いた。


 俺の部屋の前に人影があるのだ。ぼんやりとしか見えないが、確かに誰かが立っている。

 宅配便の人だろうか?

 いや、そんな服装はしていない。

 ゆっくりと近づいていき、その姿は女性であることが確認できた。


「あ、もしかして」


 そう、恐らく今日の昼に来ると言っていた新人の子なのだ。よもや女の子だったとは。あの担当は、何も伝えてくれないからてっきり男の子かと思っていた。

 俺は待たせてしまっては悪いと思い、袋を抱きかかえながらダッシュをする。

 だが、走りなれていないせいで、4歩目で足がついていかなくなり、もつれてしまう。


 ヤバッ


 このままだと完全にこけてしまう。そう思った時には時すでに遅しだった。


 ドッ!


 大きな音を立てて、俺はこけた。


「いって……」

 幸い、手のひらから地面についたため、手のひらが真っ赤にはれ上がっているだけでその他に怪我はなさそうであった。

 だが、あることに気付いた。

 そう、抱えていたコンビニの袋がないことを。


 コツコツとこちらに向かって歩いてくる足音が聞こえる。さっきの女の子だろう。

 俺は勢いよく顔を上げてこう言った。


「申し訳ない! とんだ姿を見せてしまっ」


 そこまで言いかけて俺は言葉を失った。目の前の女の子はスレンダーな体形で、濡羽色の髪は腰辺りまでかかるほど長かった。そこまでは普通だった。俺は顔を見た瞬間、息をのんだ。忘れるはずがない。20年前に出会った少女、星川さんにそっくりだったのだ。


「あ……あの、これ」


 女の子は何故か俺のコンビニの袋を持っており、俺にそれを差し出してきた。恐らく転んだ際に飛んできたのを上手くキャッチしてくれたのだろう。


「星川……さん?」


 俺はそんな会話を無視するかのように彼女の、名前を読み上げた。


「あっ、はい。今日からお世話になります星川可憐といいます。よろしくお願いします。月守弘人先生!」


 女の子は、行儀よくぺこりとお辞儀をする。俺はゆっくりと起き上がって、てっぺんから足元までじっと見まわす。


「あっ……あの。何かついてるでしょうか……?」


 女の子は視線を感じたらしく、恥ずかしそうに後ずさりをする。


「あっ、いや、すまない。ちょっと知り合いに似ていたもので」


 俺はとっさに誤魔化すように視線をずらす。


「知り合いに……?」

「そう……なんだ。名前も一緒で、すごい偶然だろ……?」

「名前まで一緒なんですか!」


 女の子は食いつくようにして、聞いてきた。


「そうだな。って、あんまり気分のいい話じゃないよな。この話は終わりに」

「待ってください! 私その話についてもっと聞きたいです!」

「え?」

「人間って同じ顔の人間が3人は世界にいるって言われているじゃないですか。それが本当だったってことですよね?」

「え……うん、まぁそうなるのかな」

「すごいです!私初めてそんな人に会ったかもです!」

「いや、別に会った訳じゃないんだけどね」


 ぴょんぴょんと女の子は嬉しそうにその場で跳ねていた。だが、改めて見ても星川さんの顔と瓜二つだ。一緒に過ごした期間こそ短かったものの、俺は20年経っても星川さんの顔を昨日のことのように鮮明に思い出すことができた。


「それで、その知り合いってもしかして先生の彼女さんだったりします……?」

「彼女……それは違うかな。星川さんは、俺の大切な人なんだ。俺のことを小説家にしてくれた人」

「先生を小説家にしてくれた人……! それってもはや神なのでは!?」


 目をキラキラと輝かせていた。若い女の子と話す機会なんてほとんどないため、中々テンションについていけない。最近の子は、皆こんなにテンションが高いのだろうか。


「私、その先生の師匠に会ってみたいです!」

「……残念だけどもう、会えないんだ」

「えっ……」

「もう20年も俺の目の前に姿を現してくれないんだ。だけど、俺はこの世界のどこかで今も生き続けてるって思ってるし、いつかひょっこりと現れるんじゃないか、そんな風に思っているんだ」


 20年、言葉でいうのは簡単だが、人生の約5分の1だ。長い旅だった。その旅も、もしかしたらもうゴールに近づいているのかもしれない。


「なんだかそれって素敵ですね」

「えっ?」


 俺は女の子の言葉に対して、疑問を投げかける。


「だって、先生は先生の師匠のことをずっと20年間も思っているんですよね。20年なんて私が産まれて今日この時までの時間だし、そんな風に思ってもらえるってすごくうれしいと思うんですよね!」


 その言葉を聞いて、俺はハッとした。そうか、そういうことだったのか。全ての歯車がかみ合った。だが、俺は敢えてそれを言うことはない。なぜなら言ったところで何も意味はないからだ。


「先生……泣いているんですか?」


 そう言われて初めて気づく。自分の頬から温かい涙がぽたぽたと流れ落ちていることを。


「あっ……すまないな。こんな姿を見せてしまって。外で立ち話もなんだから、中に入ろう。お昼ご飯も買ってきてあるから」


 そう言って俺たち2人は家の中へと入っていった。



「すごい! ここでいつも執筆しているんですか!?」


 部屋の中に入ってもなお、女の子の関心が薄まることはなかった。俺の本棚をまじまじと見ながら目を輝かせていた。


「そういえば、今更なんだけどどうして君……星川さんは俺のところを選んだの?」


 うちの編集部では、現在、新人の子に対して手厚いサポートをしている。1人前にデビューできるようになるまで、担当編集が付くのはもちろん、その担当編集が他に担当しているプロの小説家の下で勉強できるシステムがあるのだ。俺以外にも候補があったと思うのだが、なぜ敢えてそこまでヒットしていない俺なんかを選んだのか、疑問に思ったからだ。


「私、月守先生の作品が大好きなんですよ! それで、本当は他の小説家さんを紹介されたんですけど、私が無理を言っちゃって……。月守先生でお願いしますって、言いました!」


 そういわれた瞬間、俺の心に何か小さい渦のようなものが沸き上がってきた。この感覚はいったい何なのだろうか。


「そう……だったのか」

「はい! 私、先生のデビュー作品がものすごく大好きで、あ、これです!」


 星川さんは俺の本棚にあった、デビュー作を取り出した。


「私、この作品を見て、勇気をもらったんです。このころ学校に行くのも嫌になってて、読書にハマってたんですよ。ある日、本屋さんに行ったらこの小説がおすすめコーナーにあって何気なく買ってみたら、それからハマってしまって。……先生の作品が一番好きなんです!」


 今まで実際の読者の声というものはあまり聞いたことがなかった。だが、こうして聞いてみると、少ないかもしれないが俺の描いた作品を通して何かしら感じ取ってくれている人がいるわけだ。


「ありがとう。星川さん。そう言ってもらえると嬉しいよ」

「はい! 特にこの作品、最初は主人公のミクが魔法士になろうとして努力するところがすごい共感できるんですよ。魔力量が低いから絶対に魔法士にはなれないのに、何年も努力をする。けどやっぱりなれない。そんな時に共に魔法士を目指そうと手を差し伸べてくれる男の子、ヒロキと出会うんですよね。そして2人で協力することで何とか魔法士見習いになれる……すごくいい話じゃないですか!」


 星川さんは、俺のデビュー作について熱く語り始めた。


「何より、この主人公の女の子は自分に才能があると思い込んでいる。そして実際に才能もある。けど、ミスをしてばっかり。これを見てなんだか、完璧じゃなくてもいいのかなって思いました」

「って言うと?」

「やっぱり人間だれしも自分が他人より優れているところがある、と思っている人が多いと思うんですよ。私も『なんで必死に勉強や運動を頑張っているのに、それを妨げようとする人がいるの?』って思ってたんです。もっと努力しないとだめだとか、もっと努力して言い返せないくらい見返してやるって、火が付いたんですよね」

「……」


 俺はその熱弁をじっと聞いていた。妨げる人がいるというのは、恐らくいじめにでもあっていたのだろう。もちろん、いじめはした側の人間が悪いのだが、俺の作品を読んで少し前向きな気持ちになってもらえたのはうれしいことだ。


「私もミクと同じかもしれないんですけど、恥ずかしながら自分に才能があるんじゃないかって思ってました。読書を昔からしてたので、物語を作る才能はきっと誰にも負けないぞって思ってたんですけど、入選するまで結構かかっちゃいました……」


 へへへ、とあざといような笑いを見せた。その笑顔は、いつしか夕日とともに見た眩しいものと同じ気がした。


「少しでも俺の作品で前向きになってくれて嬉しいな。因みに新人賞は何回目で入選したんだ?」

「えっと、5回目ですね」


 その数字を聞いて、俺は過去の自分を思い出し、なんだか急に恥ずかしくなった。星川さんより俺のほうがよっぽど自分のことを”天才”だと思っていたに違いない。


 その後も星川さんの喋りは止まることはなかった。結局18時過ぎまで語りあかしたところで、その日はもう遅いからまた明日、ということになった。



 俺は星川さんを近くの駅まで見送って、1人部屋に戻ってきた。


「ふぅ……」


 なんだか色んな事が重なった1日だった。

 星川さんとそっくりの彼女、一体何者なのだろうか。いや、単に新人の子だと思うのだが。


 それにしても、俺のデビュー作をきっかけにこの業界に入ってくる子がいるとは、素直にうれしいものだ。何というか、俺の努力も無駄ではなかったし、むしろ役に立っている。


「明日は色々小説について教えてあげないとな……」


 小説を書くときの基本的なルールなど、一通り明日は教えておこう。たった5回で入選するくらいだから、既にそんなことは知っているかもしれないが。

 そう思って、資料を用意しようとパソコンに手を伸ばした瞬間、唐突な眠気に襲われる。


「……っ」


 意識がだんだんと遠くなって、やがて崩れ落ちるように俺は夢の中へと連れ込まれていった。


 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 夢


 ここは何もない世界。目を覚ました俺は辺り一帯を見回すが、天井も床も壁もどこにも見当たらなかった。見えるのはただ真っすぐ、遥か彼方まで広がる空間のみ。以前にもこのような体験をしたような気がするのだが、どうにも思い出すことができない。


「ここは、どこだ?」


 しばらく歩いてみる。だが、永遠と真っ白な空間が続くだけで、終わりは見えてこない。

 そんな時、後ろからコツコツと足音が聞こえてきた。俺は反射的に振り返る。

 するとそこには、先ほどまで家で小説について熱く語っていた星川さんの姿があった。


「星川さんか」


 俺は、安堵し星川さんに近づく。だが、星川さんの様子がおかしい。俺のことをじっと見つめているのだ。


「星川さん……? どうしたんだ? 俺のことをそんなにじっと見つめて」


 そう問い詰めた時、ニヤリと不敵な笑みをうかべた。


「久しぶりだね、ヒロ。大きくなったね」


 その名前で呼ばれ、心臓が大きく跳ね上がった。見た目はさっきまで話していた星川さんと変わりない。だが、口調が違った。俺のことをヒロと呼んだ。悪戯っぽく微笑んだ。


「星川……さんなのか……?」


 俺は疑心暗鬼で、ゆっくりと足を前に進める。震えていた。なぜだろう、ずっと会いたかった人なのに、こうして実際に会うと言葉が出ない。


「ん、見ての通りそうだけど、どうしたのヒロ。そんな固まった表情をして。あ、そうだ、ヒロに言わないといけないことがあったね」


 そう言って星川さんは後ろに手を回し、どこからともなく取り出した花束を俺に渡してきた。


「小説家デビューおめでとう。あの時、すぐに言えなくてごめんね」


 あの時、とはあの時のことだろう。20年前、俺が小説家になった日。


「あっ……あ……」


 俺は言葉が何も出なかった。


「もー、ヒロったら。なんでそんなに緊張しているのよ。20年ぶりにこうして会えたんだよ。もっと喜んでほしいな」

「ちょっと、待ってくれ。本当に星川さんなのか!?」

「そう言ってるじゃん。私、星川可憐ですよ」


 星川さんはおどけるようにしてその場でぐるぐると回る。その姿を見て俺は一歩、また一歩近づき、星川さんの肩をつかみ、そのまま崩れるようにして座り込む。


「ずっと、会いたかった。星川さん、寂しかったよ」


 ぽつり、ぽつり、と雨粒が降り注いできた。


「……私の方こそすぐに会いにいけなくてごめんね」


 そう言ってゆっくりと俺の頭をなでてきた。


「もう、絶対に会えないって思ってた。もう、無理だって思ってた。死んだら会えるかもって思って、自殺しようとも考えた。けど、こうしてまた会えて、嬉しい……」


 泣き崩れる俺を、星川さんは何も言わず、ただ、ただ、じっと抱きかかえるようにして傍にいてくれた。


「星川さん、俺の方こそお礼を言わなきゃいけないんだ。星川さんがいなかったら、俺はいま生きていたかさえ分からない。本当に、あの時、20年前に、俺に小説の書き方を教えてくれて、ありがとう……!」

「うん。いいんだよ、ヒロ。実はね私もなりたかったんだ、小説家に」

「え?」

「けど、なれなかった。んー、なれたんだけどなれなかったっていうのが正解かな。ヒロのお家と一緒でこっちもお母さんが厳しくてね。ものすごく反対されたんだ」

「それで、もしかして……」

「んー、この話はおしまい! 折角会えたんだからもっと明るい話をしようよ、ヒロ」

「明るい話……」

「ねぇ、ヒロ。どうして私たちはこうしてまた出会えていると思う?」


 突然、そう聞いてきた。俺はあの一緒に寝泊まりした最後の日のことを思い出した。あの時も確か、いきなり質問をされた気がする。


「なんでなんだろう。あ、そういえば今日、星川さんと全く同じ名前で顔も身長も同じ新人の子が来たんだ」

「ヒロ……」

「ん、何?」

「質問を質問で返さない。これ、小説書くときの基本中の基本のルールよ」

「あっ、ごめん」

「それで、なんでだと思う?」


 星川さんは、敢えてなのかその話題には触れようとしなかった。


「なんでだろう。今日は星川さんのことをたくさん思っていたから、かな?」

「うーん、まぁ正解かな。ヒロが私を思う気持ちが、この世界を作っているの。前にも1回あったけど、覚えてる?」

「なんだか、かすかにそんな記憶はあるんだ。けど思い出せなくて」

「うん、思い出せなくて大丈夫なんだよ。それが夢”なんだから。あの時も、私のことたくさん考えてくれてたのかなぁ?」


 まるで俺のことをもてあそぶかのように、ニヒヒとおどけて笑って見せる。


「ちょっと待ってくれ。ってことは今日、またこうして会えたことも起きてしまったら忘れるのか?」

「うん。さっきも言ったけど本当にここは夢の世界だからね」

「そんな……。折角会えたのに、俺はもっと星川さんと話したい。まだまだ、話し足りないんだ。あの夏のこと、もっと話したいよ」

「もう、ヒロって全然成長していないね。成長したのは見た目だけかな? 私がいなくても、ヒロはしっかり生きていけてるじゃない」

「違うんだ……。星川さんは俺にとって特別で……」


 特別で……、なんだ? その先の言葉が出てこなかった。

 星川さんは俺にとってどんな存在なのであろうか。


 友達? 師匠? 友人? 小説オタク?


 違う。そんなものではない。


「あっ、ヒロ。そろそろ朝になるみたいだよ。悲しいけど、これでお別れだね」


 星川さんはその場でくるっと方向転換をし、俺に背を向ける。長い髪がゆらゆらと揺れた。


「待って!」


 俺はとっさに走り出す。そしてしっかりと掴んだ。もう、2度と離してはいけない人の手を。


「俺は、星川さんのことを尊敬している。だけどっ! 同じ年齢の友達として、1人の人間として、大好きなんだ‼」


 目一杯の声を張り上げてそう叫ぶ。辺りに壁がないため、声が遠くまで突き抜けていく。

 俺の方を少しだけ見た星川さんの表情は、心底驚いたような目をしていた。だが、すぐにその表情は見えなくなる。


「うん、ありがとうヒロ。私嬉しいな。初めてそんなこと言われたから……なんて答えればいいか、迷っちゃうな」


 微笑んだ笑顔からは頬を伝う涙が、零れ落ちていった。この涙が、一体何の涙なのかは、言うまでもない。


「けどね、ヒロ。いつまでも過去にとらわれていたらダメ。あなたには今、全身全霊で自分の人生をささげるくらいの覚悟で、小説を教えないといけない人がいるんでしょ?」

「……けどっ!」

「大丈夫。ヒロならきっと1番すごい小説家になれる。そしてその子も、ヒロに引けを取らないくらいすごい小説家になる。私が言うんだもん。信用できない?」

「……」


 その時、気持ちが変わった。そうだ。星川さんもあの時、俺のことをまるで家族のように温かく、付き添っていてくれた。今度はそれが俺の役目だ。果たさなければいけない責務だ。


「さて、本当にお別れの時間が迫ってるからヒロ、私から最後の言葉だよ」


 星川さんは俺の手を振り払ってさらに前へ、前へと進んでいった。


「この先辛いことがたくさんあるかもしれない。もう、嫌になってどうにでもなりたい時が来るかもしれない。そんな時はこの言葉を思い出してくれると嬉しいな」


 ゆっくりと振り返った。その横顔は、あの時見た横顔と寸分の狂いもなかった。


「ヒロ、あなたは天才だよ。ヒロに出会えて私はすっごく楽しかった。ありがとう」


 それだけ告げると、さらに一歩足を踏み出した。


「星川さん!」


 俺も追いかけるようにして、走り出す。だが、その距離が埋まることはなく、どんどん離されていった。


「俺も、出会えて嬉しかった! ありがとう!」


 必死の思いを込めてそう叫んだ。俺が叫んだ時にはもう、彼女の姿はそこにはなかった。


 ・

 ・

 ・

 ・

 ・


「夢……?」


 ゆっくりと瞼を開ける。すると、頬を伝うようにして雫が1つ、流れ落ちていった。


「星川さん……?」


 その時俺は、今まで抱えていた靄のかかった気持ちはどこにもなく、清々しい気持ちで満ち溢れていた。


「ありがとう」


 そう言ってまたぎゅっと、目を閉じる。再び、頬を伝う雫が今度はたくさん流れ落ちていった。



 朝


「おはようございます! 月守先生!」


 玄関の前には昨日まで見ていた、星川さんの顔があった。


「おはよう。今日は小説の基本的な書き方についての知識を勉強していこうか」

「はい! よろしくお願いします!」


 そう言って俺は玄関から普段執筆している部屋に招き入れる。


「じゃぁ、まずは……ってどうした?」


 椅子に座った星川さんは、一点だけをじっと見つめて微動だにしない。


「あっ、すみません、実は昨日あの作品をもう一度読み返してて、ちょっとノスタルジックになっちゃってるんですよね」

「もしかして遅くまで読んでた?」

「あ……はい。でも、しっかり7時間は睡眠とったので!」


 そんな星川さんを見かねて、俺は本棚から1冊の本を取り出した。


「じゃぁ、この作品を見ながら小説の基礎を学んでいこうか。といっても、デビュー作だからあんまりあてにはならないんだけど……あれ」


 本をパラパラと最後までめくっていると、最後らへんのページに1枚の紙が挟まっているのに気づいた。


「これは……」


 俺はゆっくりとその紙をめくる。そう、その紙は20年前、星川さんに添削をしてもらった紙だったのだ。


「これ、何なんですか?」


 星川さんが興味津々に紙の内容を見ようとしてきた。


「秘密の特訓の計画書かな」


 俺は悪戯っぽくそう言った。そこには99点と点数が書かれていた。思い出した。自信満々で提出したら99点といわれ、残り1点は自分で見つけてと言われたのだ。

 その1点はもはや、自然と浮かび上がってきた。星川さんも同じことを考えていただろう。それを俺に気付かせるとは、教え方が上手いというか、策士だ。


「じゃぁ、始めようか。この作品、俺のデビュー作……」


 迷いは断ち切れた。今は目の前のこの子を一人前の小説家に育てることが俺の役目だ。もう迷いはしない。


『私は天才』


 8月の厳しい日差しが照りつける季節、俺と星川さんは大きな一歩を踏み出していた。

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