【書籍化】5/15発売 バツ3の看取り夫人と呼ばれていますので捨て置いて下さいませ

夢見るライオン

バツ3の看取り夫人と呼ばれていますので捨て置いて下さいませ

 クロネリア・ローセンブラート男爵令嬢の最初の結婚は十三歳の時だった。


 琥珀色の豊かな巻き毛と、鳶色とびいろの落ち着いた瞳色を持つクロネリアは、華やかな美人というわけではないが、幼少時から少し大人びて慎ましやかな印象を感じさせる魅力的な少女だった。


 当時クロネリアには文を交わすだけだけれど、想い合う相手がいた。

 二歳年上の男爵子息、ハンスだ。

 同じ男爵家同士、家柄の釣り合いも良く、玉の輿というわけではないけれどまずまずの相手だと両家の公認でもあった。


『中庭にアネモネの白い花が咲き乱れています。ハンス様にも見せてあげたいわ』

『僕の家には真っ赤なアネモネが咲いています。結婚したら庭にたくさんのアネモネを植えよう。楽しみだね、愛しいクロネリア』


 社交界を騒がすほどの華やかな結婚ではないけれど、ハンスと二人で慎ましやかに幸せに暮らしていこうと夢を膨らませていた。


 しかしそのささやかな夢は、十三歳のある日、突如として砕け散ることになった。


 母と二人で、父が世話になっているバリトン伯爵のお見舞いに行くことになった。

 高齢のバリトン伯爵は、病のとこせ、余命いくばくもないと言われていた。

 王都にいる父に代わって、クロネリアと母が見舞いの品を渡しに行ったのだ。


 そして、あろうことか、クロネリアは病床のバリトン伯爵に見初められたのだ。

 残り少ない日々を溌剌はつらつとした若い女性と過ごしたいという伯爵の最後の願いということだった。後日、破格の結納金を払うので、最後の夢を叶えて欲しいという申し出があったのだ。


 もちろんクロネリアと母は断った。

 しかし事業の失敗で多額の負債を抱えていた父は、勝手に結婚話を進めてしまった。なによりクロネリアの母は父の第三夫人で、ローセンブラート家での立場が弱かった。


「お父様はひどいわ。私はハンス様と結婚するつもりだったのよ。それなのに! ううう」

 結婚前夜、クロネリアは部屋で泣き明かした。


「ごめんね、ごめんね、クロネリア。私が第三夫人という弱い立場のせいで、あなたにこんな苦労を背負わせてしまうなんて。ううう。ごめんね」

 母はクロネリア以上に泣きじゃくっていた。


「お母様のせいではないわ。泣かないで、お母様」

 母の立場を考えると、受け入れるしかなかった。

 そんなクロネリアに第一夫人の娘であるガーベラは結婚祝いを持ってきて言った。


「心配しなくとも大丈夫よ。バリトン伯爵は三か月ももたないという噂よ。がっぽり結納金をもらって看取みとったら、さっさと出戻ってくればいいのよ。それから充分な持参金を持ってハンス様に嫁げば喜んでもらえるわ。そうでしょう、クロネリア?」

 ガーベラはなんでもないことのように言った。


 クロネリアは涙をぬぐって顔を上げた。


「ハンス様はバツいちになった私と結婚して下さるかしら?」

「心配ないわ。相手は寝たきりの老人なのよ。初婚と同じよ」


 その言葉を信じて、クロネリアはバリトン伯爵の元に嫁いだ。


 バリトン伯爵は言葉通り、破格の結納金を払ってくれ、寝たきりだけれどとても紳士的で優しい人だった。クロネリアがすべきことは身の回りの世話と、伯爵の話し相手になることだ。

 クロネリアは心を込めてバリトン伯爵の世話をした。


 そんなクロネリアと過ごす日々から元気を得たのか、バリトン伯爵は周囲の予想を裏切り、その後二年も長生きした。


 予想外に長く嫁ぐことになったが、クロネリア自身もバリトン伯爵の優しさにいやされ、最後の看取りでは「私を置いてかないでください」と泣きじゃくっていた。


 それほどまで心を尽くして看取ったクロネリアだったが、伯爵が亡くなると同時にその妻子達から追い出されるように実家に戻された。

「充分過ぎる結納金を渡してあるのだから、遺産までもらおうと思わないでちょうだい」


 そう言って病床のバリトン伯爵の世話など何もしなかった妻子達は、クロネリアをに服す暇もなく追い出したのだ。


 そして傷心のまま戻ってきたローセンブラート家で、クロネリアはさらにショックを受けることになった。


 クロネリアがバリトン伯爵にもらった結納金は、父の負債と第一夫人の散財で、すべて無くなっていたのだ。その上、ハンスもどこかよそよそしい。手紙を送ってもそっけない返事しか返ってこなかった。


「どういうことなの、お母様。ひどいわ。私の結婚の持参金になるはずだったのに」

「ごめんね。ごめんね、クロネリア。私の立場が弱いばかりに」


 クロネリアが問いただしても、母は泣きじゃくるばかりだ。

 

 そうして再び恐ろしい命令が下された。


「クロネリア。お前がバリトン伯爵を甲斐甲斐しく世話したおかげで、伯爵は二年も余命を伸ばし幸せな最後を過ごしたと王宮でも噂になるほどだ。よくやった」


 父は最初そう言ってクロネリアをねぎらってくれた。しかし。


「その噂を聞いて、今度はブラント侯爵がお前を是非にとご所望なのだ」

「そ、そんな、まさか! 嫌です! 嫌よ、お父様! 私はハリス様と結婚の約束が……」

「ああ、ハリスならガーベラと先日婚約したよ。二年は待てなかったようだ。すまぬな」

「ガーベラと……。そんな……」


 クロネリアは絶望した。

 そしてその夜、クロネリアの部屋にガーベラがやってきた。


「ごめんなさいね、クロネリア。あなたが結婚して寂しがるハリス様をなぐさめていたら、私のことを好きになってしまわれたみたいなの。私はクロネリアに悪いわと断ったのだけれど、どうしても私と結婚したいとおっしゃるものだから」

「ガーベラ……」


 その言葉にさらに傷ついた。


「でも、あなたもブラント侯爵様に嫁ぎ先が決まって良かったじゃない。バリトン伯爵よりもさらに身分も高いし結納金も倍だとお父様が言っていたわ。しかも今度も寝たきりで余命いくばくもないという噂よ。今度こそ遺産をたっぷりもらって、出戻ってから良家に嫁げばいいわ。あなたはついているわ」


「あなたという人は……」


 少しもクロネリアの気持ちなど分かっていない。

 以前から少しわがままで自分勝手なところのある人だと思っていたけれど、ここまで人を思いやる心を持たない人だとは思わなかった。


 ハリスに振られた今となっては、もう誰と結婚してもどうでもよかった。

 そうして実家に戻って十日も経たないうちに、クロネリアはブラント侯爵に嫁ぐことになった。結納金はクロネリアの母が管理するように、何度も頼んで家を出た。


 ブラント侯爵はとても気難しく、他に五人も夫人がいたが誰も寄り付かず孤独に過ごしていた。

 クロネリアも最初は怒鳴られたり物を投げつけられたりしたが、誠心誠意お世話をするうちに少しずつ心を開くようになり、穏やかな老人へと変貌していった。


 その変わりようには、見舞いにきた貴族達も驚くばかりで、クロネリアの評判はますます高まっていった。


 そうしてブラント侯爵は、三年も長生きをしておだやかな死を迎えた。

 ブラント侯爵は最後までクロネリアに感謝の言葉を繰り返し、遺産のすべてをクロネリアに渡すようにと言い残して旅立っていった。


 クロネリアもまた、ブラント侯爵の死を深く悲しんだ。


 しかしここでもまた、クロネリアが深い悲しみの中にいるうちに、少しも世話をしなかった五人の夫人達によって追い出されてしまった。

 ブラント侯爵の遺言は五人の夫人達によって握りつぶされ、クロネリアは実家に戻された。


「よくやったぞ。クロネリア。王宮でもお前の評判でもちきりだ。あの気難しいブラント侯爵を手なずけたのだ。王様からも素晴らしい娘を持ったとお褒めの言葉を頂いたぞ」


 クロネリアは父の称賛を淡々と受け止めた。

 調子のいい父のことは、すでに前回で学習している。

 二人の老人と毎日いろんな話をして、クロネリアは年の割に世間を知るようになった。

 世の中の理不尽も虚しさも、身に染みて悟るほどに聡明な女性に育っていた。

 身勝手な大人達が、欲に溺れた未熟な幼な子のように見える。


「そんなことよりもお父様。ブラント侯爵様の結納金は私の母に渡すようにお願いしましたが、どうなっているのですか? 大金を手にした割に母の暮らしぶりは質素なようですね」


 出迎えに立つ母のドレスは、クロネリアを見送る時に着ていたものと同じだ。

 それに比べて、第一夫人とガーベラのドレスは贅を尽くしている。

 第二夫人も母よりはいいドレスを着ていた。

 父もまた、やけに高そうな金刺繍のジャケットを着ている。


 そして屋敷の調度品が高価なものになっていて、贅沢な暮らしをしているのが分かった。


「いや、実は新たな事業に投資してしまったのだよ。すまない、クロネリア。だが、事業が成功したらお前に何倍にもして返すつもりだ。もう少し待ってくれ」


 そんなことだと思った。


「それにガーベラの結婚式で物入りが多くてな。済まない、クロネリア」


 昨年ガーベラはハンスとめでたく結婚したらしい。

 そのためにずいぶん散財したらしいのが感じ取れた。

 今日はクロネリアを出迎えるため、ガーベラはわざわざ婚家から実家に戻ってきたそうだ。


「ごめんなさいね、クロネリア。少ない持参金だと嫁いでから立場が弱くなるでしょう? お父様の事業が軌道に乗るまで貸してもらうことになったの。許してね」


 父とガーベラは悪びれた様子もなく、当たり前のように言った。

 母は父の後ろで今にも泣きそうな顔でうつむいている。


 クロネリアはもう腹も立たなかった。

 これが自分の人生なのだと淡々と受け止めていた。

 死に逝く人を立て続けに二人看取って、人生を達観してしまったのかもしれない。


「それでだな、クロネリア。実はお前の評判が広がって、すでに何件か妻に欲しいという申し出が来ているんだ」


 父はクロネリアの顔色を窺うように切り出した。


「今回はすごいぞ。伯爵や侯爵もいるが、なんとスペンサー公爵様から申し出があった」


 嬉しそうに告げる父に、クロネリアは冷ややかな視線を返す。


「公爵様と結婚なんてすごいじゃない、クロネリア。あなたったら社交界でも『看取みとり夫人』の異名をつけられて話題になっているのよ」


 ガーベラは嬉々として、そんなことを言った。


「看取り夫人……」


 それを伝えて、クロネリアが喜ぶと思ったのだろうか。

 父もガーベラも、クロネリアのことを結納金を稼ぎ出す便利な召使いのようにしか思っていないのだ。

 そして母は、こんな人達の言いなりになって泣くことしか出来ない。

 たまらなく惨めだった。


 こんな家には一時もいたくない。


「では次はスペンサー公爵様に嫁げばよいのですね?」


 クロネリアは自分から言った。


「おお! さすがクロネリアだ。察しがいいな。その通りだ。嫁いでくれるか?」


 父は大喜びでクロネリアの手を取った。

 その手を振りほどいてやりたかったが、それすらもバカバカしい。


 そうしてクロネリアは再び十日と経たないうちにスペンサー公爵家に嫁ぐことになった。



「お初にお目にかかります。クロネリア・ローセンブラートと申します」


 クロネリアは、公爵の嫡男ちゃくなんであるイリスの出迎えを受け、完璧な挨拶で応じた。

 すでに二度も嫁ぎ、伯爵家と侯爵家で叩き込まれた礼儀作法は身についていた。


「君が……噂の看取り夫人か……」


 イリスは少し驚いたようにクロネリアをジロジロと見た。

 公爵の息子という割にずいぶん若い。

 二十代後半ぐらいだろうか。

 そしてクロネリアが今までの人生で見た中で、一番美しい男性だった。

 黒髪を編んで片側におろし、藍色の深く澄んだ瞳をしている。

 鼻筋は嫌みなくすっきりと通り、品のある顔つきをしていた。


 なるほど、公爵家というのは別格の人種なのだなとクロネリアは感じた。

 お屋敷も今までの嫁ぎ先と比べ物にならないほどの大きなお城で、室内の装飾も重厚感が違う。エントランスでは大勢の執事とメイドが並び立って出迎え、この謁見室まで案内された。


「看取り夫人などと呼ばれているから、もっと年配の女性かと思っていた。ずいぶん若いようだが……」

 そのことに驚いて、先ほどからジロジロ見ていたらしい。


「年は十八でございます。ですが、すでに二度夫に先立たれ今回が三度目の結婚になります」


「三度目……」

 イリスは目を見開いた。


 この年で三度目の結婚ということに呆れているのだろう。

 そういう好奇の目にはもう慣れた。


「ところで公爵様のご夫人方はどこにいらっしゃるのでしょう? 公爵様にお会いする前にご挨拶をしようと思いますが」


「父は私の母上一人としか結婚していない。その母上も昨年病で亡くなった」


「左様でございましたか」

 いつもなら夫人方が値踏みするように新妻となるクロネリアの出迎えをするのに、嫡男だけとはおかしいと思った。

 夫人が一人しかいない貴族は珍しい。

 貴族はみんな父のように節操せっそう甲斐性かいしょうもなく妻を何人もめとるものと思っていた。

 そういう部分も公爵という身分の、別格の品のように感じた。


「先に伝えておくが、父上が今回の結婚を望んだわけではない。母を失った傷心でどんどん弱っていき余命少ないと言われたゆえに、残り少ない日々を少しでも穏やかに過ごして欲しいと、私がローセンブラート男爵にお願いしたのだ」


「では、公爵様は私をお望みではないのでございますか」


 これはまた厄介やっかいな相手だった。父はそんなことを何も言っていない。


「父上は母上を深く愛しておられたので、生きる気力を失っている。その心労を病がむしばんだようだ。そなたに多くを望んではいない。ただ、あの気難しいブラント侯爵が穏やかに死んでいったと聞き、父上も心休まる日々が少しでも過ごせればいいと思ったのだ」


 だが本人が望んでないなら、同じような結果が得られるかどうか分からない。

 これは一番難しい看取りになるかもしれない。


「それから、公爵家という立場上、本妻の扱いにはできない。我が家の系譜に書き加える婚姻となると手続きが難しい。ゆえに非正規の妻という形になるが良いですね?」


 クロネリアは今初めて聞いたが、どうやら父にはそのように打診していたようだ。

 もう今更なににも驚かない。


「分かりました」


「あなたのような若い女性に無茶なお願いだと分かっています。ゆえに思うような結果にならずとも、あなたを責めるつもりはない。出来る限り尽力じんりょくして頂ければそれでいい」


かしこまりました。努力致します」


 クロネリアは、慣れた仕事を請け負うように淡々と答えた。

 こんな事務的な会話で始まる結婚など、クロネリアしか経験しないだろう。


(これが私の永遠に繰り返される結婚なのだわ)


 もう涙も出なかった。

 自分にできることは運命を受け入れ、哀しい老人を少しでも穏やかに看取ることだけだ。


「ところで君は……結婚に侍女も連れてきていないのか?」


 イリスは身一つで現れたクロネリアにも驚いていたらしい。

 公爵家での婚姻には侍女を引きつれてくるのが当たり前らしい。


「私はスペンサー公爵様のように身分の高い生まれではございませんので……」


 借金まみれの男爵令嬢だ。連れていけるような専属侍女などいるはずもない。

 低い身分のクロネリアをあざ笑って言っているのだろうか、とイリスの顔を見つめた。

 そのクロネリアの表情を読み取ったのか、イリスは慌てて弁解する。


「い、いや、侍女がいなければ不便があるだろうと思っただけだ。ならば、専属侍女を二人、そなたに付けよう。身の回りの世話などは侍女達に頼むがいい」


「……」


 まさかそんなことを言われると思っていなかったのでクロネリアは驚いた。

 今までの嫁ぎ先では、夫人達が屋敷を取り仕切っていて、クロネリアに気遣いをしてくれる人など誰もいなかった。夫となった伯爵も侯爵もいい人達だったが、家のことは夫人達に任せっきりでクロネリアがどういう扱いを受けているかも気付かなかった。


 そしてクロネリアもまた、どのような扱いを受けようとも、余命いくばくもない夫に告げ口するようなことはしなかった。


 夫達は、もしかしたら明日死ぬかもしれない老人だった。

 今日が最後の日になるかもしれないのに、新妻と他の夫人達とのいざこざに心を痛めさせるわけにはいかない。そう思うと、言い出せる日がなかった。


「たいていのことは一人で出来ますが、お屋敷に慣れるまでは侍女がいると助かります。ありがとうございます」


 クロネリアは、公爵家のしきたりに従おうとこころよく受け入れた。


「では父上に紹介しよう。来るがいい」

 

 こうしてクロネリアは、夫となる公爵の元に連れていかれた。



 公爵は今までの夫達の中で一番弱っているように見えた。

 年は一番若く五十九歳と言われたが、弱々しくベッドに横たわる姿は七十を過ぎた老人のようだった。


「余計なことをするな、イリス。私のことは放っておいてくれればいい」


 開口一番、公爵は消え入りそうな声でそう言った。


「そんなことを言わず、父上、この新妻クロネリアともっと豊かな日々を過ごしてください」


「愚かなことを。私は再婚などしない。私の妻はアマンダだけだ」


 アマンダというのが去年亡くなった妻の名らしい。


「私のことよりも、イリス、お前こそ早く妻を娶るがいい」


 驚いたことにイリスはまだ結婚していないらしい。

 後継ぎが必要な嫡男は早婚が一般的だというのに。


「長く国外を外遊していて婚期を逃していますが、私のことは心配いりません。今の事業が軌道に乗れば、ちゃんと結婚しますから」


 新たな事業を始めて結婚する暇がなかったようだ。

 クロネリアは、事業という言葉に父を連想した。

 この品のいい公爵子息も父のように負債を抱えているのだろうかとうかがい見る。

 クロネリアには、事業を起こす人などろくでもないという先入観があった。


「なんだ?」


 イリスは自分を見つめるクロネリアの視線に気付いて尋ねた。


「いえ。イリス様はお仕事がお忙しいようですので……後はお任せくださいませ」


 父はいつも事業の進捗しんちょくに頭を悩ませ、資金繰りにいらいらしていた。

 出来ればそういう人とあまり関わりたくない。


「うむ。では……後は任せることにする。何かあれば外の執事に伝えてくれ」

「畏まりました」


 イリスは少し不安を浮かべながらも、クロネリアを残して部屋を出ていった。


 イリスが部屋を出ると、公爵は品のある穏やかな口調で言った。


「お嬢さん。あなたのような若く美しい女性が、この老いぼれの世話をする必要などない。イリスが何を言ったか知らないが、私が許可するから家に帰りなさい」


 クロネリアは思慮深い鳶色とびいろの瞳で、やせ細った公爵を見つめた。

 その言葉を五年前、父が、母が、バリトン伯爵が言ってくれたならどれほど嬉しかっただろう。


 けれど、もうあれから五年が過ぎて、なにもかも手遅れだった。


「家に帰ったとしても、別のご老人の元に嫁ぐことになるだけです。お慈悲があるなら、どうかここに置いてくださいませ。侍女の一人と思ってくださって構いませんので」


 クロネリアの言葉に公爵は少し驚いたように、しわがれた目を見開いた。


「何か事情があるようだが、私はこの通り話すことも辛い余命少ない老人だ。残りの日々をアマンダの思い出と共に穏やかに過ごしたいだけなのだ。お嬢さんと話すことは何もない。だが……帰る場所がないなら、追い出すつもりもない。好きに過ごしなさい」


 公爵は慈悲深い目でそう告げた後、もう疲れたように眠ってしまった。


 そうして日がな一日、公爵の部屋の壁際の椅子に座って過ごすだけの日々が始まった。


 最初の三日間は一言も話さず、ただ座っていた。

 侍女達が体を拭いたり、食事を食べさせたりするのを見ているぐらいだった。


 前夫二人の屋敷では、侍女達に押し付けられる形でほとんどの世話をしていたが、公爵家の侍女達はさすがに質が良く、非正規の妻であるクロネリアに対しても「私達がしますので奥様はお休みください」と言って世話を押し付けることもなかった。


 専属の侍女二人も優秀で、クロネリアの世話を甲斐甲斐しくしてくれた。

 実際、クローゼットに入っていた衣装はどれも最先端の流行のドレスばかりで、クロネリアには着付け方も分からなかったのでずいぶん助かった。

 髪も自分では簡単に編むぐらいしか出来なかったが、公爵夫人というのは普段から高く結い上げるのが一般的らしい。とてもじゃないが一人では出来なかった。


 そういえば嫁いで二日目にイリスに声をかけられた。


「ドレスは気に入ったか? よく分からないので適当に注文したのだが、希望があるならデザイナーを呼んでオーダードレスを作らせるので言ってくれ」


「……」


 クロネリアはしばし無言でイリスを見つめた。

 部屋にあった華やかなドレスはクロネリア専用に買ってくれたらしい。

 しかもこのイリスが自分で選んで注文してくれたのだ。

 亡きアマンダ夫人のお下がりにしては流行ものばかりだと思った。

 おまけに非正規の妻にオーダードレスを作ってくれるとまで言っている。

 改めて公爵家とは、他の貴族と比べて別格なのだなと驚いた。


「なんだ?」

「いえ……。とても素敵なドレスばかりでございます。気に入っていますのでお気遣いなく」

「うむ。なら良かった。他に不便はないか?」

「はい。二人の侍女がよくしてくれています。ありがとうございます」

「そうか」


 そんな会話だっただろうか。

 こんな男性がいるのだな、とクロネリアは珍しい人種を見る気分だった。

 出来れば公爵が長生きをして、ここで暮らせればいいのにな、と初めて思った。


 ローセンブラートの家に帰るより数十倍居心地がいい。


 けれど人の寿命がままならないことはクロネリアが一番よく知っている。

 ならばせめて、僅かな日々を心を込めて尽くそうと思った。

 今までもずっとそうやって二人の夫を看取ってきたのだ。


「今日はよい天気ですよ。雲一つない空が広がっています」

「この窓から見える中庭は素敵ですね。大きな噴水の水に虹がかかっていますわ」

「あら、お客様がみえたようです。シルクハットを被った男性ですわ」

「今日は小鳥が騒がしいですね。ヒナがかえったのかしら」


 クロネリアは窓の外に見える景色を、独り言のように毎日呟き続けた。


 公爵は起きているのか寝ているのか、聞いているのかいないのか、黙ったままの日々がまた数日続いた。


 そんなある日、ふと中庭の花壇に白い花が咲いていることに気付いた。


「白いアネモネがたくさん咲いていますわ。私の家の庭にもたくさん咲いていました」

 そして幸せな未来を思い描いていた日々を思い出した。


「最初の結婚の前、私には文を交わす方がいました。その方と結婚したら庭にアネモネを植えようと約束しました。今となっては永遠に叶わぬ夢となってしまいましたが……」


 呟くように告げるクロネリアに、初めて返事が返ってきた。


「そのアネモネは……アマンダが嫁入りに連れてきた……。白いアネモネが好きだと言って、自分で花壇に植えていた……」


 公爵は懐かしむように呟いた。


「アマンダ様が……。白いアネモネの花言葉をご存じですか? 『真実』『期待』『希望』です。きっとアマンダ様はそんな気持ちで嫁いで来られたのでしょうね」


「花言葉か……。アマンダとそんな話はしなかった……。私は毎日忙しくて、晩年はゆっくり話を聞いてやることさえしなかった。失って初めて、アマンダがどれほど大切な存在だったか気付いたのだ。もっと早く気付いていれば……」


 公爵は嗚咽おえつをこらえるように言葉を途切れさせた。


「アマンダ様は……公爵様のお心を分かっていらっしゃったと思いますよ。手入れの行き届いたアネモネの花壇を見れば、嫁いだ頃と遜色そんしょくないアマンダ様の愛情を感じます」


「そうだろうか。私は仕事に行きづまった時には、ついアマンダに八つ当たりしてきつい言葉を投げかけたこともあった。アマンダは何も悪くないのに……」


「長く一緒に暮らしていれば、時にはつい心無い言葉を投げかけてしまうこともあるでしょう。どんな聖人であっても、そのような失態はあるものです。それ以上に愛ある言葉をかけられていたのなら、すべて帳消しになりますわ」


「アマンダは帳消しにしてくれているだろうか?」


「ええ。私はそう思います」


「そうか……。そなたはそう思うか……」


 それから公爵はぽつりぽつりと亡き妻アマンダの話をしてくれるようになった。

 そんな日々を過ごしたある日、公爵は尋ねた。


「そなたは、なぜ想い合った人と結婚しなかったのだ?」


 クロネリアは問われて、包み隠すことなく今までの人生を話した。

 今さら隠すことも、取りつくろうこともない。

『看取り夫人』と呼ばれる自分が、今さら見栄を張ったところで何が変わるわけでもない。


 すべてを聞き終えた公爵は静かにつぶやいた。


「なんと無体むたいなことを……」


 そんな風に言ってくれる人がいるだけで、クロネリアは救われる気がした。


「バリトン伯爵もなんと残酷な申し出をしたことか。さぞうらんでいるだろう?」


 公爵に問われ、クロネリアは首を振った。


「確かに……結婚当初は恨んだ日もありました。けれど、共に過ごすうちに、バリトン伯爵は私にあやまるようになりました。死に向かう恐ろしさと寂しさに耐え切れず、わらを掴むような気持ちでとんでもない申し出をしてしまったと。間もなく死ぬから許してくれと」


「謝られても今さら遅いだろう。愚かな……」


「ですが、そのうち……今日も生きていて済まないと謝るようになったのです」


 クロネリアは当時を思い出すように、くすりと笑った。


「毎朝、目を覚ますたびに、また生きてしまった、済まないと謝るのです。そのうち、なんだか私は可笑おかしくなってしまって。生きていたことを謝らないでくださいまし、と言いました。どうかもう気にせず長生きしてくださいませ、と」


 くすくすと笑いながら話すクロネリアに、公爵は目を見開いた。


「恨んでいないのか? バリトン伯爵のことを。そなたの幸せな結婚を台無しにした張本人だというのに」


「ええ。伯爵は最後までお優しい方でした。私も……ある意味……本当の父のように愛していたのかもしれません……」


 公爵は驚いた様子でさらに尋ねた。


「しかし……次のブラント侯爵のことは恨んだだろう? ブラント侯爵は、私も知っているが気難しくて面倒な男だった。社交界に敵も多く、女性にはさらに辛辣しんらつな態度だった」


「はい。最初は私のすることがすべて気に入らないようで、怒鳴られてばかりでした」


「うむ。そうだろう」


 公爵は納得したように肯いた。


「ですが、ブラント侯爵様はおびえておいででした」


「怯える? あの威張ってばかりの男が?」


「はい。自分は人に酷いことばかりしてしまったから間違いなく地獄に堕ちるだろうと」

「は! 自覚はあったのだな。だが今さら悔いても遅いだろう」

「いいえ。私はまだ遅くはないと申しました」

「遅くはない?」


 クロネリアはうなずいた。


「はい。まだ生きているではないですか、と。命ある限り遅いことなど何もないのだと。悔いているのなら、一人一人お呼びになって謝ればいいと申しました」


「なんと。そのようなことを……」


「ブラント侯爵はそれから毎日のように親交のあった方々を呼んで謝り続けました。そうして二年が過ぎた頃にようやく謝り終えたようです。その後はひたすら私に謝っておいででした。ですので私は『済まない』という言葉は聞き飽きたと申し上げました。どうせなら『ありがとう』と言って欲しいと。それからは、私が何かするたびにありがとうと言って下さいました」


「うーむ……」


 公爵は唸るように呟いてから、再び尋ねた。


「そなたのような女性なら、妻に欲しいという男も大勢いるだろう? このような老いぼれのところにおらず、良家に嫁げばいい。そなたの父上はなぜ、こんなところに嫁がせたのだ」


 そんな風に考えてくれる父ならば、最初からバリトン伯爵と結婚させなかっただろう。それに。


「私は社交界で『看取り夫人』と呼ばれているのです。そんな縁起でもない俗称のある女性と結婚したがる若い男性がいるはずもございません。数多あまたの結婚の申し込みは、看取りを希望する方たちばかりでございます。この家から追い出されたら、私はまた次の看取り貴族に嫁ぐことになるでしょう。だからどうか、私のために長生きしてくださいませ、公爵様」


「……」


 淡々と告げるクロネリアに公爵は黙り込んだ。

 あわれな娘だと思っているのだろう。


 クロネリアは本当に公爵が長生きして欲しいと願っていた。

 なぜなら、公爵もイリスも、とても親切で優しかったからだ。


 イリスは公爵の顔つきが穏やかになったと喜んでくれた。

 病気は相変わらず体を蝕んでいるが、以前のように無気力ではなくなったと。

 イリスにもアマンダの思い出話を聞かせ、穏やかに笑うようになったと。


 イリスはクロネリアをねぎらって、たまには気晴らしが必要だと馬車で教会や観劇に連れ出してくれることもあった。仕事で王都に出向いた時には、いつも趣味のいいお土産を買ってきてくれたりもした。


 この穏やかな幸せがずっと続けばいいのに、とクロネリアはいつしか願っていた。


 しかし、世界はいつもクロネリアの願いと反対の出来事を連れてくる。


 公爵は一年も経たないうちに衰弱していった。


 看取りが近くなると、毎日のように公爵は言った。


「クロネリア。そなたに最後のプレゼントを用意した。私が死んだら受け取るがいい。だがもし気に入らなかったら受け取らないでもいい。だが、出来れば受け取って欲しい」


 クロネリアは、この時期がきてしまったのだと悲しんだ。

 前夫二人も死ぬ間際になると、同じようなことを言った。


 バリトン伯爵は自分の宝飾品のすべてを。

 ステンド侯爵は自分の遺産のすべてを。


 クロネリアに渡すと遺言して逝ってしまった。


 けれど、二人が死んだあとそれらは残った家族たちにうやむやにされて追い出された。

 イリスは……どうするだろうか。

 イリスもうやむやにしてクロネリアを追い出すのだろうか。


 そんなイリスの姿を見るぐらいなら何も遺言しないまま実家に帰して欲しい。

 けれど、死期が迫った公爵にそんなことを言えるはずもなかった。

 クロネリアは静かに微笑んで答えることしかできない。


「必ず受け取りますわ。ありがとうございます。だから安心なさってください」


 それを聞き届けると安堵あんどしたように、その二日後、公爵は静かに息をひきとった。


 クロネリアは心から悲しんだ。とうとうバツ3の未亡人だ。

 わずかの時間だったけれど、本当の父のように慕っていた。


 イリスは今までと違い、クロネリアをすぐに追い出すようなことはしなかった。

 葬儀にも家族として出席し、一か月もの間、喪に服して屋敷に残ることを許してくれた。

 共に生前の公爵について語り合い、慰め合った。


 そうして公爵の死から一か月が過ぎたある日、クロネリアはイリスの部屋に呼ばれた。


「ここに父上の遺言状がある。あなたのことも書かれている」


 イリスは神妙な面持ちで告げた。

 今までと違い、イリスは遺言を握りつぶすようなことはしないようだ。

 それだけでクロネリアには充分だった。

 最後まで誠実な人で良かったと、遺産分けを惜しんで汚い本性をさらすような人でなくて本当に良かったと、そのことが分かっただけでもう満足だった。


「公爵様から最後にプレゼントがあるとおっしゃって頂きました。けれど、私は非正規の妻でもあり、遺産を受け取るような身ではないことは分かっております。どうぞその遺言は破棄してくださいませ」


 最初から断るつもりだった。

 多少の金品を受け取ったところで、実家に帰って父に奪われるだけだ。

 受け取るのはイリスの誠意だけで充分だった。


 しかし、クロネリアの言葉を聞いて、イリスは困ったような表情になった。


「も、もちろん、受け取るかどうかは、あなたの自由です。けれど、出来れば私は受け取って欲しいと思っているのですが……」


「?」


 クロネリアは首を傾げた。

 もしかして金品ではなく、公爵の形見のようなものなのだろうか?


「イリス様がいらない物なら頂いてもよいですが……」


「いらないというか……あなたにとっては迷惑な代物かもしれませんが、出来れば受け取ってくれれば嬉しい」


 迷惑な代物とは何だろう。

 借金まみれの事業でも渡されるのだろうかとクロネリアは怪しんだ。


「公爵様は……いったい何を私に残されたのでしょうか?」


 イリスは決心したように口を開いた。


「遺言を読み上げよう。こう書いてある。『愛すべくクロネリア嬢に、我が愚息イリスを是非とも受け取ってもらいたい』」


「……」


 クロネリアはしばし呆然として考え込んだ。


「え?」


「いや、だから……。私の妻になってくれないかということだ」

 イリスは少し照れたように目をそらして答えた。


 クロネリアはその言葉の意味を吟味ぎんみして尋ねた。


「イリス様は看取りにはまだ早いのではありませんか? それとも病で余命が短いと言われているのでございますか?」


 自分を妻にと請う人は看取り希望の人しかいないと思い込んでいた。


「いや、この通り元気だ。まだまだ長生きするつもりだ。そういうことではなく……」


 イリスはしばし躊躇ためらったあと、思い切ったように告げた。


「あなたと結婚したいのです、クロネリア。この一年、父上の世話をするあなたの誠実な姿を見ていて、あなたのような人と人生を共に過ごしたいと思うようになったのです」


「な!」


 クロネリアはあまりに思いがけない言葉に驚いた。


「迷惑でしょうか? クロネリア」


「ば、ばかなことを……。私は社交界では『看取り夫人』と呼ばれているのですよ? しかもバツ3です。イリス様のような方に相応ふさわしい相手ではありません。今は公爵様が亡くなられたばかりで動転していらっしゃるのですわ。よく考えて正気になってくださいませ」


 クロネリアは慌てて答えた。


「充分考えた。生前の父上とも話し合った。クロネリアを欲しいと申し出たのは私の方なのだ。非正規とはいえ、父上の妻ゆえに許可が欲しかった。父上は快く受け入れて下さった。あなたが妻として私を支えてくれるなら、安心して死ねると言って下さった」


「まさか、そんな……」


 クロネリアの目から涙が溢れた。

 看取り以外の結婚など、自分にはもうないと思っていたのに……。


「どうか父の遺言を受け取ると言ってくれないか、クロネリア」


 イリスは片膝をつき、請うようにクロネリアを見上げた。


「私などで……本当にいいのですか? バツ3なのですよ?」


「これまでの経緯は父上からすべて聞いています。誇らしいバツ3です」


「社交界では看取り夫人と呼ばれているのですよ? いいのですか?」


「あなたに看取ってもらえるのは私が最後です。みんなに羨ましがられることでしょう」


「看取るなんて……何年先のことだと思っているのですか……」


 ぽろぽろと涙がこぼれる。


「ずっとずっと先です。まずは父上を穏やかに看取ってくれた恩返しをさせて下さい。あなたが今まで出来なかったこと、したかったこと、全部叶えてあげたい。新婚旅行にも行きましょう。社交界にも私がエスコートしましょう」


「社交界に私などを連れていったら、イリス様の評判が落ちますわ……」

「私の自慢の妻を悪く言う者がいたら、らしめてやります」


 イリスはクロネリアがどれほど自分を卑下ひげしても、動じることもなく反論して微笑んだ。


「本当に私などで……いいのですか?」


「あなたがいいのです。クロネリア」


「イリス様……」


 クロネリアはイリスの手を取った。

 イリスは立ち上がり、クロネリアをぎゅっと抱き締める。

 バツ3にして、初めて愛すべき相手の抱擁ほうようというものを知った。

 自分の生涯にはないものと諦めていた、温かなぬくもりを。


「これから二人でたくさんの思い出を作りましょう。そしていつかあなたと、可愛い子供や孫達に囲まれて看取られる人生であれば、私は世界一幸福な男でしょう」


 そのイリスの呟きは、数十年の後に、言葉通り成就されるのであった。



                          END

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【書籍化】5/15発売 バツ3の看取り夫人と呼ばれていますので捨て置いて下さいませ 夢見るライオン @yumemiru1117

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