死すら二人を分かてない

今迫直弥

死すら二人を分かてない

 深間靖章が殺人鬼に妻を殺された時、彼の妻はまだ一五歳にもなっていなかった。

 民法上から婚姻適齢という概念が消え、当人らの責任能力に問題さえなければ幼稚園児だろうと乳児だろうと親の同意無く入籍出来るようになった未曾有の大変革、有識者の言を借りれば『モラル・クライシス』が起こった時、靖章は都内の私立校に通う高校二年生で、まさか数ヵ月後に自らがその恩恵を受けることになろうとは予想だにしていなかった。重婚の禁止を除き、婚姻を妨げるあらゆる規制が撤廃されたのだ。所謂、『結婚の完全自由化』である。改正法が施行された四月一日には、前民法では婚姻出来なかったカップルが役所に続々と駆けつけ、それらの案件だけで全国四〇七件に上り、最年少は千葉県柏市役所に届出があった一一歳の女性だった。その相手が三二歳の男性教諭だったことはワイドショーの格好の標的となったが、何分合法であるので文句のつけようも無い。尤も、刑法とのすりあわせがまだ上手くいっていないため、この夫婦間で性的交渉があった場合、親告の有無に関わらず、夫は一三歳未満の婦女を姦淫したかどで刑法第一七七条に抵触し、強姦罪が適用される。この歪みを、日本のモラルの最後の砦と見る向きもあるが、そもそも結婚と強姦という、性関係において対極に位置するような二つの概念を同一線上で扱うようになった時点で、語るに落ちたと言わざるを得ない。

 このような法改正が、一体どんな政策の一環であり、またその変革がどれほどの痛みを伴ったのか、一筋縄では行かない裏事情があったのだが、政治に疎い理系の靖章にとっては異国の文字を突きつけられたに等しくまるで理解の埒外であったので、彼と目線を合わせるためにもここでは説明を省くことにしよう。参政権を得てからでさえ国政に参加しているという意識が生まれにくく、誰が政権を握ろうと不平不満をたれ、一丁前な国家批判をぶつのが関の山の我々にとって、それは結局手の届かない領域の話に過ぎない。あくまで与えられた枠組みの中で、対症療法的にことに当たっていくしかないのである。

 ただ、だからと言って殺人鬼の跋扈を素直に受け入れるのは愚の骨頂と言うものだ。正義も悪も恣意的で、法が勝手に決め付けたものだと息巻いたところで、埼玉県内だけで無差別に数十人を殺害した異常者を擁護する向きは、少なくとも靖章の周りにはなかった。援助交際や慈悲殺、未成年の飲酒の是非を問うのとは根本的に別の次元に、議論の余地なくヤバい行為というのもあるのであり、最低限シンパシーを感じてはならぬ輩というのもいるのである。


 靖章が出会った順を言えば、彼の妻よりも殺人鬼の方が出番が早い。忘れもしない中学三年の二月三日、改正民法施行のおよそ一年二ヶ月前、それは雪のちらつく寒い日の出来事だった。公立高校の受験を控えて追い込み時期に入って焦る同級生を後目に、課外活動のサッカー推薦で一足先に進学先を決めていた靖章は、『消化試合』としか表現のしようのない学校生活を送っていた。夏に引退したサッカー部の部室に暇つぶしがてら顔を出してから、マネージャーに追い立てられるように学校を後にした。帰宅の途中でガードの甘い本屋に立ち寄って、売り出されたばかりのグラビアアイドルの写真集を万引きする。店を出る時、言い知れぬ不安感に襲われたが、無事成功した。コンビニで週刊誌を立ち読みしてから家路に着き、絵に描いた様な庭付き一戸建ての、何の変哲もない玄関扉を開け、そこで凶器を持った鬼と対峙する。靖章はノブに手をかけた姿勢で思わず硬直し、その一瞬後に頬を緩めた。

「おお、びっくりした」

 と、当たり前の感想を口に出して相好を崩す。鬼は、上背があって体格が良く、黄色と黒の横縞柄のセーターに黒いスラックスを身につけている。どちらかといえば上下の柄が逆じゃないのか、と靖章はこの時思った。黒い皮手袋を嵌めた右手に肉切り用の刃の大きな包丁を握っており、節分用の鬼のお面さえしていなければ、靖章はもっと警戒を露わにしていたはずだった。冗談で済まされる扮装ではない。

「ただいま。なあ、それ、鬼って言うよりなまはげになってない?」

 鬼は微動だにせず、それを家族の悪戯だと決め込んでいる靖章もネタ晴らしの一言を待って玄関で突っ立っている。時刻は間もなく七時。帰りの早かった父が、反抗期の息子を驚かせようと節分に絡めて画策したドッキリ企画と言ったところか。現に、派手な虎柄のセーターには見覚えがあり、それが父の物であることは疑いようがなかった。出会い頭のインパクトは強烈だったので、その点ではドッキリは成功だよ、父さん。「悪い子はいねえがあ」とでも言ってくれれば、ここにいるよ、と答えて挙手でもしてやろう。鞄に仕舞いこんだ不正入手の写真集が、しこりとなって靖章の心を重くする。今更、罪悪感も何もあったものでは無いはずだったが。

 鬼が、一歩を踏み出した。その足が黒い靴下のまま沓脱ぎに下りた時ようやく、靖章は自分の愚かさを知った。鬼の右手が振り上げられ、振り下ろされる直前に、靖章は瞬間的に沸騰した脳の後押しに身を任せ、さっと踵を返し、扉を開けて外に転び出た。迷い無く門柱まで走り、そこで一旦待機。おそばせながら爆発するように脈動を始める心臓を律し、じっと我が家を見据える。

靖章が触れたのは、生まれて初めて感じる本当の殺意だった。鬼の全身から滲み出る自家製の狂気だった。靖章の知る限り、悪夢の中であってさえ、父はこれほどまでの邪気を纏えない平凡な人間のはずだった。だからこそ、逃げた。

 鬼は、いつまで経っても靖章を追って来ない。靖章も門前から離れない。家族が心配で離れられないと言えば格好もつくが、要するに靖章は逃げるタイミングを逸したのだ。すぐさま鬼が追って出てくれば、助けて、と大声を上げながら道路を走ることが出来たろうし、全速力で交番に駆け込むことも出来た。ドラスティックな行動を起こすためには、そういう劇的なきっかけが必要なのだ。家から放っぽり出されたという体の靖章は、たった一人で絶妙な均衡状態の中に置かれ、踏み出す一歩の足先を見失っている。

 どれくらい悩んでいただろうか。かじかんだ指先に白い息を吐きつつ、靖章は恐る恐る庭先を回り込み、ダイニングルームに面した大きな窓を見に行った。正面から戻る気にはなれなかった。室内は電気が点いておらず、窓はぼんやりと自分を映す出来の悪い鏡となって、靖章を拒んだ。中の様子は見えなかったが、誰かしら人がいるのに居間に灯りが点いていないことが既に不自然だった。

 近所に異状を伝えるために、その窓に向かって拳大の石を投げつけた。耐震設計で強化ガラスが用いられているためか、罅一つ入らない。ドスン、というような大きな音が辺りに響いた。頼むから誰か気付いてくれ。他人事のように祈りながら、何度も何度も石をぶつけた。隣の家の玄関から誰かが出て来る気配があり、靖章は咄嗟に身を隠した。

 その人影は、靖章の家の門扉に回る。靖章は、そろそろと腰を屈めながらそれに付いて移動し、隣家の住人が門前のインターホンを押すのを塀の影から窺った。

 呼び鈴への返答は無かったが、靖章の耳はその逆側、たった今自分が離れて来た方向に、窓がサッシを走る微かな音を捉えた。隣人は首を傾げながら自分の家に戻ろうとしている。思わず声をかけようとしたが、その目付きを思い出したら喉が上手く動かなくなった。

 靖章は玄関に回り、ゆっくりノブを引いた。鍵はかかっていない。室内の電気は消えている。先の音からして鬼はダイニングの方から表へ逃げたはず。だとすれば中はもう安全だ。

 そこまで考えた時、悲鳴が聞こえた。絹を裂くような、と表現するには濁り過ぎた中年女性の声。すぐにあの隣人のものだとわかった。鬼が庭を抜け、垣根を越えて隣家に至ったところに、丁度鉢合わせたのだろう。

 靖章は逃げた。

 咄嗟に家に入り、内側から鍵をかけた。鼓動が高鳴る。警察に電話をかけるため居間に向かう。足が竦んでいる。軋む全身をがくがく動かし、どうにか歩いた。寒い。

 居間の電灯のスイッチを手探りで押して、そこに広がる惨劇を目の当たりにした。あまりのことに心が凍り付いてむしろ冷静でいられた。確かめることなど何一つ無かったので、そのままコードレスフォンを手にとった。窓が開け放しになって、血染めのカーテンが冷たい風に揺らいでいる。

 電話線は切られていた。靖章はその場にしゃがみこんだ。開いている窓を閉めに行く気力さえ無かった。鬼が戻って来て今度自分に包丁を振り上げたら、その時は黙って刃先を受け入れようと思った。

 救急車とパトカーのサイレンが両方聞こえてくるまで、靖章はそうやってじっとしていた。二つの死体と同じ空間に蹲っていた。生まれてからずっと一緒に暮らしてきた、二人に対する精一杯の餞だった。

 隣人も殺されたらしい。包丁で喉を一突きにされたと後で聞いた。それは靖章のせいだ。靖章が自宅の窓に石を投げつけたりしなければ、隣の奥さんは殺されずに済んだ。靖章が真っ直ぐ交番にでも駆け込んでいれば、被害者を増やさず、犯人を捕まえられたかもしれない。残念ながらそれだけは事実だ。

 靖章の家は荒らされていた。金目の物は何一つ減っておらず、ただ、父親の洋服箪笥から着衣一式が盗まれていた。それから、二つの命が無惨に奪われた。靖章の母。そして、妹。二人とも左手の薬指が見つからなかった。キッチンの床に豆が散らばっていたのが滑稽だった。殺人鬼に豆を撒いても効果が無いことが実証されていた。

 事情聴取には正直に応じた。隣人が殺される原因を作ったことも隠さずに話した。気が動転していた、と説明した。父親は会社から直接警察署に呼ばれた。あれはやはり父ではなかった。父の服を着た鬼だったのだ。絶対に犯人を見つけて下さい。父が刑事に詰め寄っていた。靖章はそれを半ば諦めの気持ちと共に眺めた。正面から対峙した自分にはわかる。あれは、日本の警察より遥かに格上だ。

 現場には、証拠が山のように残されていた。死亡推定時刻は二人とも午後五時半頃。大量の返り血を浴びたらしい犯人は、殺害を終えてから靖章が帰って来るまでの間、図々しくもバスルームでシャワーを浴び、父の衣服に着替え、凶器の包丁をシンクで綺麗に洗い、缶ビールを三本開け、トイレに寄っていた。そして、二人の遺体を見ながら冒涜的な行為に耽った後、鬼の仮面を着けて玄関先で待ち構えたらしい。十指の指紋、掌紋、唇紋、体液、毛髪。続々と手掛かりが見つかる。

 ただ、靖章は鬼が手袋をしているのを見ている。にも拘らず、どうしてこれ見よがしに指紋や掌紋が発見されるのか解せなかった。犯人による偽装工作の可能性を示唆したが、警察はまるで耳を傾けなかった。そうでなくても、行きずりの犯行の場合犯人を挙げにくい。大事な手掛かりを失うわけにはいかなかったのであろう。

 だが、現場の指紋やDNAは前科者のデータベースに該当しなかった。一般人に偽装した狂人を捜さねばならず、捜査は当然難航した。一人の容疑者の名前も浮かび上がらない。靖章の元にも刑事が何度も足を運んだ。

 そんな警察を嘲笑うかのように、靖章の事件の一ヵ月後、三月三日に同一犯による殺傷事件が発生する。二つの事件は奇妙なほどに類似しており、現場の指紋も一致。被害者同士に何の接点も無く、強盗目的でも無いことから、殺人快楽症の変質者による犯行が考えられた。残された大量の手掛かりが、警察を挑発でもしているかのようだった。

 以降、一ヶ月に一度。決まってその月の最初の週に、埼玉県内で誰かしらが殺人鬼に殺された。毎回、凶器は被害者の住居にあった刃物が使われる。被害者は左手薬指を失した惨殺死体となって見つかり、凶器はその近辺で誰かの喉に突き刺さって発見された。その誰かは、奇跡的に息を吹き返すことがあり、「鬼の面を被った怪しい男に襲われた」と揃って証言した。家からは犯人の指紋や体液など証拠が幾つも検出され、それによると血液型はA型。マスコミは、『現代の切り裂きジャック』などと過激なキャッチフレーズでこの事件を煽り、どれだけ警戒しても被害を食い止められない警察を強くなじった。

 靖章の家には、事件のたびに記者が取材にやって来る。父はコメントを求められても、「一刻も早く犯人を捕まえて欲しい」以外のことを言わなくなった。他の被害者の遺族に対するお悔やみの言葉すら。靖章も、自分の感情が鈍磨して来るのを感じた。何をしていても、薄膜を一枚隔てたようにどこか他人事で、自分だけが世界から取り残されているように感じる。五月に入ってから高校のスクールカウンセラーに診てもらったところ、離人症という鬱病の一症状とのこと。勿論、それを聞いても何とも思わなかった。父と二人、淡々とした日々を愚直に過ごして行った。夏休みに入るまで、笑顔を忘れていた。

 友人達も靖章を持て余していた。最初の内こそ、中学三年の夏まで付き合っていた鹿角美紗を始め、クラスメイトやサッカー部の仲間達が気を遣ってたびたび家を訪れてくれたが、四月から高校に通い始め、自らの新生活にも順応する必要に駆られた彼らの足は、自然鈍った。高校では、事情を知る級友達が皆同情してくれたが、靖章が腑抜けのようになって会話すらままならないのを知ると、調子外れの励ましを口にすることしか出来ず、友情を育むことなど夢のまた夢だった。当然、サッカーに打ち込めるはずも無く、二、三度退屈な基礎練習に参加しただけで、以降はサボタージュを続けた。

 担任の教師の勧めで週に一度のカウンセリングを受けていたが、投薬治療の甲斐も無く、症状は改善しなかった。考査試験の点数も壊滅的だったが、苦境に際した靖章に苦言を呈する教師は当然いなかった。父も、特に何も言わなかった。靖章は学校に通っているだけましであり、父は四月から休職願いを出して職場を休んでいた。何もしていないようで、実は父なりに殺人鬼の正体を追っていたのだということは、後々知ることになる。

 夏休みが始まった途端、体を包み込んでいたぶよぶよした膜が割れ弾けたように、突然感覚がクリアになった。これまでの数ヶ月がまるで夢であったかのように、鮮明な世界が戻って来た。きっかけらしいきっかけは特に無い。朝、目が覚めると芋虫になっていたような唐突さで、いっそ理不尽とも言える快癒だった。麻痺していた哀しみがどっと襲い掛かり、靖章は遺影の前で号泣した。二人が死んだという実感が、今更湧いて来た。物々しく正座している自分の隣に、もう妹の姿は無い。そんな当たり前のことを理解して、胸に孔の開くような寂寞を感じる。仏壇に供えられた花は干からびている。線香は湿気て火が点かない。そして二人は写真の向こう側に鎖されてしまった。

 何かをしていなければ落ち着かない。靖章は、益体もない夏期休暇中の課題を早々に片付けると、殺人鬼の手掛かりを追って県内各地を奔走した。八月の四日、七件目の事件が隣の市で発生するや、ニュース速報のテロップが流れてすぐに、靖章は自転車で現場に向かった。父は家で新聞を眺めていた。行ってきます、の一言に返事は上の空だった。

 暑さに負けて飛び込んだコンビニで、ペットボトルと地図を買う。冷涼の誘惑は甘く、居座りたい気持ちが膨れ上がるのを感じたが、瞼の裏側に焼き付いた惨状が靖章を叱咤した。扉を抜けると、蝉の声がひと際高くなる。清涼飲料水で喉を潤して、燃え上がりそうな暑気の中、無心にペダルを漕ぎ続ける。

 現場は警察関係者と報道陣と野次馬でごった返していた。住宅街の一角が封鎖されており、レポーターがマイク片手に現状の説明を行っている。死者は三名。鬼の面を着けた怪しい男の目撃証言。殺人鬼。不謹慎を承知で言うなら、『いつも通り』だった。カメラに向かってVサインを送る不届きな若者に殺意を向けてから、靖章は当ても無く周囲を散策した。自転車で路地を一つずつ走ってみる。今更、犯人が現場近くをうろついているはずも無い。むしろ、近くを巡回していた制服警官に二度呼び止められた。適当にはぐらかしてその場を誤魔化す。現場から数百メートルの距離にあった狭い公園のベンチで休憩。ふと、公衆トイレの入り口から周囲を窺っている人影に目が止まった。ここに来て一番挙動の怪しい人間だった。背が低く、可愛らしいと表現するに足る顔つきをしていた。そのせいか、年齢はわかりにくい。

 それが、靖章の妻との出会いだった。

 靖章と目が合うと、すかさずちょこまかと駆け寄ってきた。靖章は当然警戒する。自分よりも年下であろう子供に何が出来るとも思えなかったが、携えた肩掛けの小さなバッグに何を隠しているともしれない。ピストル、ナイフ、あるいは鬼の面。……まさか。

「不躾に申し訳ないのですが」

 靖章の予想よりも幾分幼い声だったが、口調は馬鹿丁寧だった。

「そのバイクを少しの間貸して下さい」

 バイク? 靖章は一瞬訝った。

「この自転車のこと?」

「そうです。お願いします。必ず返します」

 靖章は、相手の小さな身体を上から下まで眺め、運動に適した服装ではあるけれど丈が足りないから自分の自転車に乗るのは無理じゃないかな、と思った。

「少しの間ってどれくらい?」

「わかりません。出来れば今日中、遅くても夏休みが終わるまでにはお返しします」

 全然少しの間ではない。長くて二時間くらいを予想していた靖章は度肝を抜かれた。

「理由如何かな。僕にとっても必需品だから」

「追われてるんです」

「誰に?」

 靖章の目が鋭くなる。事件に関わっていて警察に追われているのではないか、と邪推したのだ。その場合、逃亡を幇助するなどもってのほかだ。

 案の定、相手は視線を逸らして口を噤んだ。眉根を寄せて一瞬の逡巡を示した後、顔を上げる。

「怖い人達。今はこれしか言えません」

 微妙なところだ。何とも言い難い。靖章はさらに詳細を突っ込もうとした。だが、きょろきょろと周囲に不安そうな顔を向けている様子を見て、折れる。

 よくわからないが、当人の一大事が自分の自転車如きで解決するなら安いものだ。そう考えた。

「何か身分を証明する物ある?」

「はい」

 ぱっと顔を輝かせ、バッグの中から革製のしっかりした財布を取り出す。靖章に一枚の名刺を手渡してきた。花柄のフレームに、丸っこいフォントで『横江鶫』と書かれている。

「よこえ……何?」

 靖章は、その苗字に聞き覚えがあることに気付いた。どこでだったかは思い出せない。

「つぐみです、つぐみ。いつでも良いので、自宅の方に連絡を下さい。わたくしが不在の時は、取次ぎの執事に事情を説明して下さい。お願いします」

 執事? 靖章は少し引っ掛かりを感じたが、あえて黙っていた。名刺には住所と電話番号が併記されているが、電話番号は二つ載っている。どうやら片方は、進行形で普及しつつある携帯電話のものらしい。……やり手のサラリーマンならまだしも、こんな子供がさらっと持っていて良い物ではないと思う。

「携帯電話の方にはかけないで下さい。電源を切っていますから」

「携帯の意味ないじゃん」

「追っ手から逃げるためなんです」

 靖章は、半ば以上どうでもよくなって、横江鶫に自転車の鍵を投げ渡した。それから、小柄な相手の身長に合うよう、サドルを一番下まで下げてやる。

「壊したりしないでな」

「はい。ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」

「そんなオーバーな」

「差し支えなければ、お名前教えて下さい」

「深間。深間靖章」

「深間さん……覚えました。良い名前ですね」

 苗字を誉められてもちっとも嬉しくない。靖章は、コンビニの袋を片手に頬を掻いた。

「近い内にまたお会いすると思いますが、それまでお元気で」

「はあ」

 横江鶫は、サドルを下げてなお爪先ぎりぎりの自転車に跨り、颯爽とは程遠いよろよろ運転で走り去った。公園から出る時に、こちらを振り向いて手を振ろうとして大きくバランスを崩し、手すりにぶつかった。僕の自転車なのに、と靖章はハラハラする。

 わけのわからないアクシデントで足を失った靖章は、狐に化かされたような心地で以降も徒歩で散策を続けようとしたが、かんかん照りの太陽に負けた。またしてもコンビニで涼をとり、自宅まで数時間の行軍を考えてげっそりする。殺人鬼も、何もこんな白昼から殺さなくても良いのに。

 見るとも無しに雑誌コーナーをふらついていると、二台しか停まれない狭い駐車場に、黒塗りのいかにも怪しげな車が入って来た。サングラスをしたスーツ姿の女性が後部座席から降りて来て、店内の様子を軽く探り、それからようやく中に入る。

「いらっしゃいませ」

 女性は、おざなりに挨拶した店員の元に真っ直ぐ進み、小声で何かを尋ねた。内ポケットから写真を取り出して店員に見せ、店員は首を振る。サングラスの女性は店内を一瞥すると、無言の内に立ち去った。一瞬だけ、目が合ったように思う。女が車に乗り込むと、すぐさま出発してしまった。

 これほどまでにわかりやすい人捜しも無い。靖章は直感する。奴らが、横江鶫の追っ手に違いない。いかにも悪そうな格好に黒塗りの高級車とあっては、不審に思うなという方が無理だ。……あの子は、一体何故あんな連中に追われているのだろうか。そして、それは殺人鬼の事件と何ら関係ないのだろうか。

 謎は膨れ上がったが、何せ相手は車である。徒歩の靖章にこれ以上出来ることも無い。

 行きで買った地図を繰り、何となく、横江鶫の名刺に書いてある住所を探す。近かったら行ってみようと思ったのだ。鶫の家はかろうじて市内だったが、少し高台に位置する上、靖章の市とは真逆の方向だったのでやめておいた。肌に突き刺さるような日差しの中、汗だくになりながら帰宅の途に着く。帰ったらこれまでの犯行現場に印でも付けてみるか、と何となく思った。

 殺人鬼の出没パターンに何らかの規則性があるのではないか、なんてミステリーオタクでなくとも誰だって考える。実際、ワイドショーでも×印が幾つも付けられた埼玉県の地図を、何度もフリップにして紹介していた。現場を線で繋ぐとオリオン座になる、とかそういうドラマみたいなことは決して無く、多少南東側に偏っているものの、これといった法則は認められない。

 これまでの現場で黒塗りの車が目撃されたことは無かっただろうか。これは調べるまでも無く、不審な車の目撃例が今のところ皆無だったのを思い出した。だとすると、あの連中は殺人鬼とは無関係かもしれない。最低でも、ナンバーを覚えておくべきだった。靖章は少し後悔した。

 夜になってから、横江鶫の自宅に電話をかけることにした。電話での会話が苦手な靖章は多分に躊躇したが、自分の自転車をいつまでもわけありの人間に預けたままというのも落ち着かない。不思議と、騙されたのではないか、という懸念は無かった。意を決してダイヤルをプッシュする。

『はい、横江でございます』

 電話口の向こうから聴こえて来た声は、間違いなく執事のものだった。靖章は執事などというものと出会ったことは一度も無かったが、それでもわかった。老成した落ち着きと熟練した応対が滲み出ていた。へどもどしながら名を名乗ると、鶫の存否を確認する前に、

『はい、お話は伺っております。どうもご迷惑をおかけしました。少々お待ち下さい』

 となって、保留音が流れた。一体何が起こるのだろう。初恋相手に告白した時よりも波立っている心臓の鼓動を抑え、汗ばむ両手を拭いながら待っていると、

『もしもし、お電話代わりました。鶫です』

 何とあっけなく本人が出た。

「え、あ、あれ? 昼間に自転車を貸した深間ですけど」

『はい。その節は本当にありがとうございました。おかげで助かりました。明日にでもバイクはお返ししますね』

「もういいの?」

『はい。もう終わりましたので』

「終わった?」

 無事、悪漢から逃げ切ったということだろうか。

『はい。あの後、都内まで出ようかと一路南に向かったのですが』

「うん」

『変装用のサングラスとキャップを買ったら、カードから足がつきまして』

「うん?」

『県境で捕まりました』

「……誰に?」

『昼間も言った、怖い人達に、です』

 だったら何を呑気なことを言っているんだ、と思う一方で、ようやくからくりが見えた気がした。執事、で気付くべきだった。

「そう。で、怒られた?」

『はい。もしものことがあったらどうするのか、と』

「人騒がせなことをするな、と」

『……ええ』

 脱力する。そして今頃、思い当たる。

「横江って、もしかして横江グループの横江か。あの多角経営の」

『あ、ご存知でしたか。そうです。その多角経営の横江です』

「……黒塗りの車でお迎えってか? そんなベタな金持ち、漫画以外で初めて見た」

『そうですか? 私は毎日見てますけど』

 横江グループは、芸能プロダクションから蟹カマボコ工場まで手広く経営するコングロマリット企業で、その全てをオーナーの一族が経営している。古参の財閥ではあるが、バブル期に二桁総資産を増し、一挙に台頭した新興勢力でもある。この間、昼のワイドショーで社長の特集をやっていた。そういえば子沢山が自慢だとか言っていたが、鶫はその内の一人ということだろうか。

「何で逃げたわけ?」

『面白そうだったからです』

「スーツ着てサングラスかけた護衛みたいな女の人が、血相変えて君のことを捜してたよ」

『それは溝内さんです。彼女は護衛ではありません。弁護士さんです』

「弁護士?」

『はい。特許について、相談にのってもらっているところなんです』

「特許?」

『はい。サイコメト郎君の』

「……サイコメト郎君?」

 いつまで経っても要領を得ない。靖章は早々に会話を切り上げて、自転車を返してもらう段取りを整えた。次の日、最寄りのファミリーレストランで会うことになった。

 当日、待ち合わせの時刻よりも少し早めに現地に向かったら、駐車場には既にひと際目立つ黒塗りの自動車があった。見間違えようが無い。店内に入ると、横江鶫が隅の席で手を振った。やはり、温室育ちであることを感じさせない活動的なスタイルだ。一見そこらの小中学生と変わりないが、シャツの襟元に昨日買ったとかいう高級そうなサングラスが引っ掛かっていた。二つほど離れたテーブルに、三人の黒ずくめの男女が座っているが、それは見て見ない振りをする。

 鶫は、昨日のお礼です、と言いながら分厚い封筒を手渡してきた。中身は当然のように札束である。三百万はあった。本気か。思わず硬直する。どうにか我に返り、男らしく全部突き返した。本音を言えば、一枚か二枚はくすねたかったが、自転車が戻ればそれだけでいいよ、とだけ告げた。鶫はくすくす笑いながら、すみません、冗談です、と封筒を鞄に仕舞う。お礼としてこの場は奢らせてもらいますけど、それだけです。大金持ちほど吝嗇なんですよ。

 とりあえず少し、お話しませんか?

 話は思いのほか弾んだ。しばらくまともな対人関係を断っていた靖章にとって、他愛の無いお喋りは新鮮で楽しかったのである。横江鶫は一三歳、中学一年生とのことで、外見からして意外なのかどうか靖章には判断がつきかねた。予想の範囲内だったことは確かだ。鶫は昨日、市内で起きた殺人事件の現場を見物に行きたいとごね、反対する教育係を泣き落とし、十分間だけという約束で、護衛やら何やらを伴って出かけ、隙を見て人ごみに紛れ逃げ出したのだという。殺人者がまだうろついているかもしれない場所で、一体何を考えているのか。

「君の家は、普段から外出も許されないほど厳しいの?」

「いいえ。基本的に外出は自由です。でも、だからこそ一度で良いから、仰々しくガードされている中を逃げ出してみたかったんです。漫画の世界のおてんばなお姫様みたいに。狙い通り、大騒ぎになりました」

「……それだけのために、殺人現場に行きたいと申し出たわけか」

 ちっぽけな夢を叶える為、危険を冒して暴挙に出たと言える。また、その為に不謹慎にも実在の死亡事件を利用したとも言える。身近でありながら、究極的に他人事としての死。関連事件の遺族としてはその態度に怒りを覚えてもおかしくなかったが、もしかすると、鶫の方が正しいのかもしれない。靖章はそうも思った。少なくとも、鶫は被害者の死を無駄にしなかったのだから。何の手掛かりも得られずにすごすご引き返した自分と違い、鶫はその機会を活かして自らの小さな冒険物語を演出してのけた。見ず知らずの誰かの死を、見事に役立てているのだ。

 まさかそれが動機で、今回の事件の犯人はこいつなんじゃないだろうな、と疑うほど靖章は単純でも愚かでもなかった。

「事件に興味があったのも本当です。……だから、深間さんという苗字、凄く気になっていたんです」

「……気付いてたのか」

「はい。今更ですが、この度はご愁傷様です」

「いや、いいよ。もう」

「これ、見舞金です」

「……おい」

「すみません。冗談にしても不謹慎でした」

 靖章は苦笑するしかない。ただ、こんな時に上手く切り返せない自分が、少し歯痒かった。過去の自分なら、膨らませてもっと大きな笑いに変えるくらいはしていた気がする。まだ、本調子ではない。しかし、本調子に戻ってはいけない気もする。靖章は、母と、そして妹の死を風化させて、人生を楽しんでしまうことを恐れていた。

 あの二人の笑顔は、もう取り返せない。殺人鬼に奪われた。そしてあの二人の笑顔を、何故か靖章は思い出せない。それもきっと、あの鬼に奪われた。せめて後者だけでも取り戻す。幸福な笑顔を思い出す。そのために靖章は事件を追っている。敵討ちや法の裁きなどが目的でない。そう強く意識している。

 なのに、その前に自分が平穏な日常だけを奪還したら、二人の存在は何だったのか、それがわからなくなる。圧倒的な虚無を突きつけられる気がする。二人の死を冒涜している気がする。それがひどく恐ろしい。

「事件の解決のため、私も出来る限り力になります」

 ありがとう。

 自然と笑みが零れることを、靖章は止められない。一瞬だけ、血塗れの妹の姿が脳裡にちらついて、消えた。

 楽しい時間というのはあっと言う間に過ぎる。気がつけば数時間に渡って喋っており、その間、黒ずくめの護衛達は律儀にこちらをずっと見張っていた。昨日のことがあるから、今日は鶫から離れられないのであろう。ご苦労なことである。途中でサングラスを外して寛いでいたのは仕方ない。彼らだって疲れもする。

 別れ際、何かあったらいつでも携帯電話へ連絡下さい、と鶫は言う。何があったら連絡すれば良いのか靖章にはよくわからない。とりあえずそちらからもかけてくれ、と自宅の電話番号を教えておいた。また時々会ってくれますか、と鶫は訊く。どうして会ってくれないと思ったのか靖章にはよくわからない。勿論、と答えたら、破顔した。たぶんその笑顔に惚れた。後に靖章はそう回想する。

 鶫から返してもらった自転車のキーには、見覚えの無いキーホルダーが付いている。透明な緑色のビーズが数珠繋ぎになっていて、中に一つだけピンクのハートが挟まっている。何これ、と靖章は尋ねる。所沢のデパートで買ったお土産です、と鶫は答える。大金持ちの割に、安っぽい買い物だな。はい、それなら深間さんに合うかと思って。

 こうして、靖章と鶫の不思議な交流が始まった。

 横江家の力を使ったのか、鶫は時折マスコミに流れていない情報を平然と寄越してきた。曰く、犯人は複数で、さらに県内の在住者でない可能性が高いとのこと。前者は、滅多矢鱈に証拠を残す犯人とは別の誰かがいた痕跡が見つかったことから判明し、後者は、現場が交通の便不便を問わず露骨に埼玉県内に絞られていることから、土地鑑の有無とは無関係に捜査の攪乱を狙っているだけではないか、と推察されたためらしい。だとしたら、良い迷惑である。わざわざ埼玉くんだりまで出向いて人を殺すな、と言いたい。首都圏の人間全員が容疑者となると、素人探偵ではさすがに手が出せない。

 靖章が望んでいたのは、木の葉を隠すなら森に隠せ、のケースである。犯人は、本当に殺したいたった一人の相手を、無差別殺人の中に紛れて殺したのだ。何番目かの被害者に動機を持っている人間の内に、実は殺人鬼が隠れている、という黄金パターンである。

「馬鹿ですか?」

 鶫に披露したら、真顔で罵倒された。

「被害者回りの人間関係は警察が真っ先に調べます。殺人鬼の仕業に見せかけた模倣犯の可能性がありますし、何より深間さんとおんなじことを考える人が五万といるからです。警察は基本的に、人間が人間を殺すことに理由を求めたがります。まあ、これは警察に限ったことではありませんが。怨恨、痴情の縺れ、脅迫、敵討ち、何でも良いですが、とにかく尤もらしい理由に縋りつきたがるのです。殺人を肯定し得る真っ当な動機なんてありはしないというのに。被害者同士に繋がりが無いのなら、今度は個別に殺される動機が無いか調べるのは当然。警察だって手を拱いているわけではないのですから、そんな基本捜査は怠り得ません。これは、間違いなく殺人のための殺人です」

 年下の子供にこんなことを一息で言われるとさすがに堪える。靖章が、ああ、とか、うん、とかしか言わなくなったのを見た鶫は、溜息を吐いてからこう呟いた。

「まあ、こんな言い方しか出来ない私はもっと駄目ですけどね」

 秋を過ぎて冬が来ても連続殺人は滞りなく月一で執行され続けた。永田町は民法改正案の決議で大揺れに揺れていたけれども、そんなこととは無関係に靖章は相変わらず殺人鬼の影を追い続けていた。ただ、人並みに明るく振る舞えるようになっていたので、どうにか学校に溶け込んでいた。サッカーを続ける気になれず正式に退部したことが、サッカー推薦枠での入学だったために色々と学内で問題になりかけたが、保健医の働きかけのおかげで沈静化した。その分学業で取り返せと言われ、必死になって授業に食い下がった。すると、二学期の期末試験の頃には、勉強が面白く感じるようになっているから不思議だ。落ちこぼれだったのが嘘のように、悠々学年トップ一〇に名を連ね、朗らかな気分で試験休みを迎えられた。街はクリスマスムード一色に染まっている。淡い白雪など望むべくも無く、肌を貫くような木枯らしだけが、裸になった街路樹をざわざわと揺さぶった。

 プレゼントがあるんです。

 いつものファミリーレストランに呼び出された靖章を迎えたのは、鶫のそんな第一声だった。プレゼント? クリスマスにはまだちょっと早いけど。いいんです。深間さんには一番に見てもらわないと。

 そう言って鶫が差し出してきたのは、卵型のプラスチック製品だった。液晶画面とボタンが付いているところは、数年前に一世を風靡した携帯ゲームに似ていなくも無いが、それより二回りほど大きい。先端に、つるつるした銀色の板が露出している。……何これ?

「サイコメト郎君です」

「……ああ、これが。ついに完成したんだ」

「年末商戦に乗せるために、クリスマス・イヴに一般発売です。販促用のを無理言って貰って来ました」

 靖章には信じられないことに、鶫はアイデア一つで一攫千金を企む発明家であるらしい。これまで、『日射病予防用の帽子』と『絶対に手を切らないピーラー』の二つに関連する特許を取っているとのこと。帽子は元々日射病予防用だし、ピーラーなんて放っておいても手は切らないと思うが。ともかく、そんな若き発明家が現在特許出願中の『残留思念を検知するシステム』に、横江グループ総帥が目をつけた。システムが嘘か真かは二の次として、そのアイデアを子供向け玩具に応用出来ると考えたのだ。かくして、特許に強い弁護士の溝内さんを招き、出願中の技術の盗難や他の意匠登録への抵触に注意を払い、『物に託された想いがわかっちゃう! 不思議に素敵なサイコメト郎君』といううすら寒いコピーで玩具の原案が練られた。何度か改良が加えられた後、正式な企画書が作られ、製作自体は下請け企業に回された。そこまでは聴き知っていたが、既に現物が組み上がっており、もう市場に出回るとは思ってもいなかった。

「幾らで売るの?」

「税別三九八〇円の予定です」

「微妙な値段だね」

「いえ、随分安いですよ。本当は一桁高く設定したいくらいです」

「それじゃ絶対に売れないよ」

「売れますよ。だって、サイコメトリー出来るんですよ。皆欲しがるに決まってます」

 靖章には良くわからないのだが、鶫によると人間の気持ちというのは、外に向かって実際に発散されているものらしい。そして、その放出された感情は残留思念としてしばらくその場に滞留しており、彼女はその検出法を開発したとのことだ。ちなみに、物体に触れることでその思念を読み取る超能力を、サイコメトリー(接触感応)という。サイコメト郎君は、このシステムを中核に備えており、センサー部を当てただけで、その物体を最後に持っていた人間がどんな気持ちでいたか、的中させるという玩具だ。結果は液晶部分に言葉として表示されるらしい。「楽しいな」とか「悲しいわ」とか「寂しいの」とか、ありきたりなコメントでお茶を濁すに違いない。

 システムが本物かどうかに関わらず、これが玩具として優秀なのは確かだ。結果が当たっていてもいなくても、大勢でわいわい盛り上がれるだろうから。その辺り、どこか占いやおまじないと通ずるところがあって巧妙だ。

「そういえば、名前結局そのままなんだね」

 サイコメト郎君は語呂が悪いからやめた方が良い。靖章は、そう度々忠告したのだが。

「もう、商標登録しましたから」

 弁護士のおかげで、権利関係は全て卒がないのだった。嬉しそうな鶫にこれ以上水を差すのも無粋だし、せっかくなので早速試して遊んでみることにした。

「鶫ちゃん、ちょっと携帯電話貸して」

「……まさか、サイコメトる気ですか?」

 ちなみに最初の頃、鶫は自分が『ちゃん』付けで呼ばれることに不快を示していたが、靖章が執拗に呼び続ける内、文句を言わなくなった。面倒になったのだろう。

「うん。サイコメトる気だけど」

「駄目です。そんなの、プライバシーの侵害ですよ」

「身も蓋もないこと言うね。何のための道具なんだ、これ。そんなに本格的に当たるわけじゃないんだろ?」

「的中率は九〇パーセントを超えます。それは私が保証します」

「だからほら、試してみないと」

「自分の物でやられたらどうですか?」

「それじゃ面白くないもの。ほら、早く」

 靖章が急かすと、鶫は渋々ながら携帯電話をテーブルに置いた。それを持ち上げようと手を伸ばすと、

「待って下さい。ここで深間さんが触ったらデータが狂います。ビニール手袋で皮膚を遮断するか、直接サイコメト郎君を当てて計測して下さい」

「……結構本格的なんだ」

「当然です」

「鶫ちゃんが今触ったから、その思念が読めるってことになるね」

「どうでしょう。さっき電話した時の思念の方が強く残っているかもしれません」

 靖章は、玩具の先端のセンサーを電話機に当てて、判定ボタンを押した。鶫はどこか不安そうにこちらの手元を見ている。白黒の液晶に『ちょっと待ってね』という文字が点滅し、数秒後にバックライトがぱっと輝いた。サイコメトリーの結果が表示される。

『あなたが大好きです。早く会いたい!』

 画面には小さなハートマークがいっぱい乱舞している。見ている靖章さえ気恥ずかしくなる程の浮かれぶりが伝わって来た。ちなみに、鶫が携帯電話で最後に会話していた相手は誰あろう靖章だった。

 見られた鶫の行動は迅速だった。見事なまでに一瞬で耳まで桜色に変わった。携帯電話を鞄にすかさず仕舞い込み、そのまま何も言わずに俯いてしまう。泣いているのかと心配しようにも、靖章にはかける言葉が見つからない。鶫は彫像にでもなったように動かない。

 とにかく気まずい。

 靖章はしばらく手元の卵型玩具を弄び、戯れにウェイトレスが運んで来たグラスを判定してみた。

『あー、かったるい。早くバイト時間終わらないかな』

 画面全体も文面を反映してか、どんよりと曇っている。しかしこれ、リアル過ぎないか? 汎用に用意された文にしては、状況に即し過ぎている。あたかも本当に相手の心を覗いているかのようだ。空恐ろしいような気分で、自分が触れていたテーブルの一角にセンサーを当ててみる。

『こんなに当たると気持ち悪いな。つうか、現実逃避してる場合じゃないし』

 実際、こんなに的中すると気味が悪いし、いつまでも鶫の問題を棚上げしておく訳にはいかない。

「嘘ですから」

「うん?」

 かろうじて普段の調子に戻り、平常心を取り繕って鶫が顔を上げた。まだ頬が赤いし、瞳も潤みがちだったが、大事無いようだ。靖章は少しだけ安堵した。

「嘘なんです。九割も当たりません。良くて五、六割、いや、四割くらいですから。本当です」

 嘘と言ったり本当と言ったり何だか慌しい。

「だから、そんなの嘘なんです」

「わかってるわかってる。大丈夫だから」

「全然大丈夫じゃないです。深間さんはわかってません」

 必死になって何かを言い募ろうとする鶫を見ていると、無性にからかいたくなったが、大人気ないので止めておいた。

「僕は何も見なかった。それで良いんだろ?」

「……良いです。でも、本当は見たじゃないですか」

「そうだね」

「アンフェアです」

「なら、僕の気持ちも見せようか? ほら」

「そんな、サイコメト郎君への感想とかはどうでもいいです」

「アンフェアだね」

「……深間さんがそんなに意地悪な人だとは思ってませんでした」

 鶫は拗ねたようにそっぽを向く。

「身に余る光栄だね。一度で良いから、顔を赤くした子にそんなセリフを言わせてみたかったんだ」

「極端に偏向した夢をお持ちなんですね」

「剥き出しの欲望に見え隠れする歪みこそがその人間の本質なのだよ、ワトソン様」

「馬鹿ですか? ホームズはそんなこと一度も言ってませんし、ワトソンに様付けなんて絶対しません」

「彼はもう少しワトソンに敬意を払った方が良いと思う」

「そういうことは、私でなく、アーサー・コナン・ドイルに直接言って下さい」

「えー、でもドイルって日本語わかるの?」

 弾ける様に鶫が笑い出し、靖章もそれを見てようやく笑顔に変わる。サイコメト郎君だけが、机に残存していた靖章の困惑を顔いっぱいに浮かべている。それはリセットボタン一つで掻き消える刹那的な儚い悩みごとであり、ある意味羨ましくもあった。

 計らずも鶫の本音らしきものに触れてしまった靖章には、リセットボタンが付いていない。いくら目を逸らしてみても、微妙な蟠りが胸の奥に燻り続けている。

 正直、靖章も鶫のことを憎からず想っている。だが、だからこそ対応に困るのだ。今更こちらから自身の心情を吐露するのはフェアでない。いくら靖章が今日のことを気にしていない素振りをしたとして、お互いどこか引っ掛かりを覚えることだろう。生殺しに近い。

 いっそ恥ずかしがらずに正面からカミングアウトして欲しい。靖章はそう思ったが、初心な中学一年生にそれを望むのも酷な話だ。

 態度を決めかねて悶々としつつ、それでも表面上は何事もないかのように振る舞って、あっと言う間に迎えたクリスマス・イヴ。靖章は鶫にチョーカーをプレゼントした。富豪相手に値段で無理をしたところで詮無いので、デザインの方を重視した。要するに安物だったわけだが、貰った鶫は大層喜び、早速その場で着けてくれた。ああ、よく似合うよ、と等閑に言ったものの、本当によく似合っていて驚いたのが靖章だった。一年前、『MAI』という刻印入りのペンダントを妹にプレゼントしたことを思い出し、少し胸が痛んだ。

 鶫は靖章に会う度にチョーカーを着けて来た。靖章も毎回サイコメト郎君を持ち歩いていたが、これはたちの悪い冗談に近い。

 サイコメト郎君は市場に出回る直前、土壇場で少々の手直しが施され、その診断精度を著しく落としたらしい。理由は訊くまでもなかった。靖章の手持ちの物は、高品質品の最後の生き残りである。そう考えると何だか愛着も湧いて来た。丸っこくて可愛い奴である。ちなみに、様々な私物の残留思念を読み取ってみたら、その大半で靖章は殺人鬼について思いを巡らせていた。グラビア写真集を眺めている時くらいもっとリラックスすれば良いのに、と他人事みたく思う。また、殺人鬼という非日常的な言葉が表示された時点で、そのシステムが完璧であることは疑いようもなかった。子供騙しの領域を遥かに越えている。

 靖章の予想に反し、サイコメト郎君は馬鹿売れした。各地で品切れが相次ぎ、テレビニュースでも取り上げられ、サイコメト郎君を巡る詐欺や恐喝事件まで起こる始末で、年が明けるや早くも粗悪な偽物が出回り始めた。よくやるもんだ。プロトタイプということで希少性も高いことだし、盗難には気をつけよう。靖章は呑気にそんなことを考えていた。

 二月の被害者が状況を一変させた。事件が起こったのは、靖章の母と妹の一周忌の前日であった。

「現場にサイコメト郎君が残されていた?」

 鶫が、マスコミに伏せられている情報を持って飄々とやって来た。

「そうなんです。被害者の所持品らしいです。犯人はそれを持ち去らなかったんですね。何を読み取ったのかわからないんですが、液晶に言葉が残されていました」

『こんな時にイチャつくんじゃねえ。気持ち悪い』

「は?」

「これは、被害者のダイイングメッセージと見て良いでしょう」

「事件に関係ない言葉かもしれないし、逆に、殺人鬼が犯行時に残した思念かもしれない」

「被害者は一人暮らしの女性で、イチャつくような相手はいませんでした。それに、サイコメト郎君はベッドの下に投げ込まれていたんです。これは、犯人から隠したかったためだと考えられます」

「まあ、そうかもしれないけど……。市販品は診断精度が下がってるから、コメントの信憑性にも疑問が残るね」

 鶫は静かに首を横に振った。

「死ぬ直前の強い思念だったとしたら、まず間違いないです」

「……警察の見解は?」

「所詮玩具ですから。見向きもしてません。嘘発見器と違って非科学的な領域に少し踏み込んでいるんですよ、このシステムは。そのせいで、正式な証拠になり得ないみたいです。まあ、占いで犯人捜すわけにいかないのも道理ですが」

 鶫の作成したシステムがオカルト扱いなのは不当だと思った。靖章の持っている高性能版のサイコメト郎君で、殺害直後の現場に残留している思念を読み取れば、革新的な手掛かりが得られるに違いないというのに。

「けど、イチャつくって何だ?」

「イチャつくを知らないんですか? そんなに難しい言葉じゃないと思いますが」

「そうじゃなくて。殺される直前の人間が考えることとして、相応しくないだろう」

「いえ、十分妥当ですよ。イチャつけ、ではなく、イチャつくなって言ってるわけですから。犯人が場を弁えずにイチャついていたから腹が立ったんでしょう」

「は?」

「殺人鬼は複数犯です。つまり、イチャつくだけの人員は揃っているわけですよ。考えられることはただ一つ、ラブラブ状態のカップルが犯人だということです」

「そんな馬鹿な」

「本気です。左手薬指を切り取って行くのも、そう考えると暗示的です。この指は、結婚指輪を嵌める指ですからね。もしかしたら、犯人は夫婦なのかもしれません」

 ずっと後になって、この時の鶫の仮説が大体正鵠を射ていたことが判明するのだが、それは靖章にとって何の救いにもならない。

「殺人鬼が、自らの正体を示唆するヒントを残していたというわけ? 何のためにそんな真似を」

「馬鹿ですか? 何のために、を考えるのはナンセンスです。何にでも理由があると思わないで下さい。仮にあったとしても、私達の理屈で納得出来るとは限らないですしね」

「言いたいことはわかるけど」

「けど何です?」

「それじゃ警察だって信じてくれないだろう」

「信じるも何も、真実は真実としてそこにあるだけです。警察が無理なら、私達で捕まえれば良いんです」

 警察でも持て余している相手を自分達で捕まえるなど、そもそも無茶な話だ。けれども、鶫が口にすると違和感なく受け止められる。本当に実現してしまいそうだった。

 とはいえ、靖章は母と、妹の死が風化さえしなければそれで構わない。そう、少し消極的になり始めていた。二人の笑顔は相変わらず思い出せないが、写真の中にある表情だけで満足しても良いのではないか。鬼が捕まっても記憶の中の笑顔が取り戻せなかったら、と考えると胸がきりきりと痛んだ。あの薄膜に包まれた浮遊生活の間に、靖章の中から二人の笑顔はすっかり散逸してしまったのではないか。そう思うと居たたまれなくなった。

 再び、桜の季節が巡る。

 四月一日。靖章は高校二年生になり、改正民法が施行され、殺人鬼が僅かながら手口を変えた。被害者の左手薬指が切り取られずに残っていたのだ。

「これが、今回の『結婚の完全自由化』と関連があると考えるのは穿ち過ぎかな?」

「その可能性は確かにあります。発想が安直だと言わざるを得ないですが」

「四月一日付けで結婚したカップルの中に犯人がいたりして」

「あえて否定しませんが、もしそうなら若干嫌な気分になりますね」

 ニュアンスは何となく伝わった。靖章は曖昧に頷いておいた。これを境に、以降の全ての殺人で左手薬指は持ち去られなくなった。

 その一方、結婚ブームに列島中が沸いた。国民は、結婚そのものの価値観の見直しを迫られた。中学生カップルがその場のノリで婚姻届を提出しても、両者が同意してさえいれば、精神鑑定で問題が出ない限り誰一人文句を言えない時代である。実際、戯れに結婚する少年少女達はかなりの数に上った。PTAがこれを問題視し、多くの学校で結婚の禁止を謳ったことから、反体制に組する不良どもはこぞって婚姻届を提出した。愚かである。まるで中身の無い、反抗のための反抗である。ワイドショーに出ていたコメンテーターが「今度は校則で勉強を禁止してみれば良いんじゃないですか」と皮肉げに笑っていたのが印象的だ。援助交際や買春において、警察の摘発を避けるため、婚姻届を盾にする手口が横行し始めた。各都道府県は迷惑防止条例の条文を巧妙に書き換えるなどしてこれに対応したが、今度は犯罪と無関係な若夫婦から多数のクレームが入り、事態は混迷を極めた。『冗談結婚』の煽りを受けて離婚件数も激増する。離婚後の再婚禁止期間も撤廃された。結果、立て続けに過ちを繰り返す少女達……。

「日本人の半分は馬鹿ですね」

 と、これは鶫。クラスメイトが担任の教師と結婚して、全国的な注目を浴びているらしい。連日学校近辺で取材を試みる記者達を、相当疎ましく思っているようだ。

「あの法案は、政府の仕掛けた罠です。合法化という免罪符を与える代わりに、恋愛や結婚、ひいては異常性愛を巡るデリケートな問題を表沙汰にしやすくしただけのことです。なのに自らそれに嵌りに行くなんて」

「うん。デリケートな問題という鶫ちゃんの言い方は良いと思う」

「光栄です。今は夫婦の年齢問題ばかりがクローズアップされてますが、これはまだましな方です。このままではさらに深刻化します」

「そうだね。恋愛と結婚は別だとか言う人も多いけど、ここまで来るとそうも言ってられないよね」

「……話、噛み合ってます?」

「ごめん。鶫ちゃんの本質的な主張には全然着いていけてない」

「……馬鹿ですか?」

「誰かが言ってたけど、日本人の半分は馬鹿だそうだよ。確率的に、僕と鶫ちゃんのどちらかは馬鹿だ。鶫ちゃんは違うみたいだし、僕がそうだろうな」

「それ、本気で確率を論じているつもりなら本当に馬鹿ですけど」

 何度となく馬鹿呼ばわりされている靖章としては、今更そこに同じレッテルを貼られたところで痛くも痒くもないが。

「鶫ちゃんは結婚したくないの?」

「何ですか、藪から棒に」

「こんな喩えはどうかと思うけど、ブームに乗りたがらない人っているじゃん。売れてるアイドルの歌を『どこが良いのかぜんぜんわからん』とかけなして、名前も知らないようなマイナーなバンドばっか聴いてる奴とか。そういう天邪鬼な人は、たぶん今婚姻届出しにくいんだろうな、と思って。出したとしても、『俺はブームに乗って結婚したわけじゃなくて、前々から気になってたんだ』とか言い訳しそう」

「さりげなく私のこと馬鹿にしてます?」

「いや。僕自身、結構そうでさ。もし今本当に結婚したいと思っても、絶対に恥ずかしくて婚姻届出せないと思うから」

「それはわからないでもないです。でも、そもそも私には結婚したいと思う意味がわからないんです。恋愛の要素に社会的責任としがらみが圧し掛かるだけ、余分じゃないですか。そういうの、鬱陶しいです」

「社会的な責任、束縛ってのはありがたいように僕は思うけどね」

「どうしてですか?」

「中一の頃、初恋相手に六股かけられた。もし結婚してたら、慰謝料取れただろ?」

「……考え方が貧困ですね」

「金満家にはわからない庶民の考えかな?」

「誰にもわからない深間靖章個人の考えですよ」

 靖章と鶫は二週間に一度ほどの頻度で顔を合わせた。殺人鬼の話をすることもあれば、新たな発明品の話をすることもあった。あるいは、サイコメト郎君のおかげで鶫の懐に毎月幾らの額が転がり込んでくるか聞いて、靖章が大声を上げたりもした。五月一日、鶫の一四歳の誕生日には二人きりで遊園地に出掛けた。欲しがっていたCDをプレゼントした。八月中旬の靖章の誕生日は、鶫が家族で長期の海外旅行に行ったためうやむやになった。後から、高級そうなライターを貰った。せっかくだから喫煙に手を染めるか、と冗談めかしたら、鶫に睨まれた。結局使い道の無いまま、しかし靖章はそれをいつも持ち歩いた。

 殺人鬼の犯行は勿論止まらない。犯人は二人組だという発表が正式になされた。鶫は俄然犯人カップル説を強く押したが、それを裏付ける証拠はどこにも無かった。ただ、犯人の片方が女性であるという説は、被害者が犯人の来訪に際し警戒なくドアを開けている点を上手く説明した。鬼の面を付けた大柄な男が毎回目撃されるのも、女性共犯者の存在から目を逸らさせる工作であるとも考えられる。なるほど男女による犯行というのは悪くない。

「カップルとなると、現場に残された精液の意味が変わってくるな。犯人は死体愛好者なのではなく、殺害現場で情交に耽っているだけなのかもしれない」

「まあ、どちらにしろ変態ですけどね。あと、ファミリーレストランでは出来ればそういう話は控えて下さい」

「じゃ、カラオケでも行く?」

「……個室で、屍姦がどうとか話し合うのも気持ち悪いのでやめておきます」

「なるほど、それもそうだ。ただ、僕は屍姦なんて言葉は一度も使ってないからね」

「言ってないならわざわざ蒸し返さないで下さい。そもそも、生前死後問わず犯人に暴行を受けた形跡のある被害者はいないですよ」

「……じゃあ尚更、なんで屍姦なんて言葉を出してきたの?」

「……忘れて下さい」

「またか」

「あんまり苛めないで下さい」

「え?」

「何でもないです」

 このような微笑ましい光景の一方で、靖章の家は崩壊の危機に見舞われていた。

 早い段階で我を取り戻した靖章に対し、父親はいつまで経っても元に戻らなかったのだ。半年の休職を経てどうにか職場復帰したものの、その三ヵ月後には閑職に追われ、さらにその半年後にリストラの憂き目にあった。出世街道を走っていたはずの父の、それは悲惨な末路だった。マイホームのローンは既に完済しており、靖章と二人で平穏に生きていくだけなら数年は賄えるだろう貯金があった。しかし、大学進学を視野に入れていた靖章にとってこれは十分な額とは言えない。にも拘らず、父はドロップアウトした。殺人鬼が、父を壊してしまったのだ。

 親戚一同は当然心配し、父を半ば無理矢理精神科に入院させた。靖章の一人暮らしが始まった。母方の祖父母が幾らか仕送りを送ってくれたし、時折様子を見にわざわざやって来てくれた。だが、決定的に何かがおかしかった。何かが足りなかった。掴みどころの無い焦燥感が募る。学費の心配はするなと皆が言う。靖章は何の心配もせずに学校に行けば良い、と。確かに自分は安寧の中生きている。今はそうやって生きている。

 だが、父はどうなるのだ。

 どうして面会に行ってはいけないのだ。

 父はあの薄膜に捕らわれているだけで、いつかは自分のように何事もなく復帰出来るはずなのだ。バラバラに壊された心が、不意に再構築される時が来る。父のやりたいようにやらせれば良いのだ。これは、投薬や作業療法で太刀打ちできる問題と違うはずだった。

 入院などもってのほかだ。

 靖章は、そうわかっていた。ただ致命的なことに、経済的に未熟な子供だった。最も血縁が近いからと言って、父の処遇に関して親戚中で満足な発言権を持つはずが無いのだ。

 鶫にはこのことは黙っておいた。極めて個人的なことで、鶫には無関係だからだ。身内の恥を隠しておきたい、などという浅ましい考えでは決して無かった。母や、妹のこともあって、靖章と鶫の間で家族の話題はそもそも好まれなかったのだ。

 そして一一月一四日。

 父が死んだ。

 自殺だったと聞いた。状況的にどこか不審な点があるらしいが、結局自殺だったということに落ち着いた。何にせよ、病院側に落ち度があったことに相違ない。ほら見ろ、言わんこっちゃない。靖章は悔いた。一族全てを敵に回してでも入院を止めさせるべきだった。そうすれば父は、虚無を抱えたまま泡の中で生き続けたに違いなかった。そして殺人鬼さえ捕まれば、現実にピントを合わせ、こちらの世界に舞い戻って来たはずだ。それどころか以前のように、落ち着いた笑顔で力強く、靖章のことを励ましてくれるに決まっていた。

 だが、それももう叶わない。靖章は父を永遠に失った。家族は自分一人きりになった。

 突然、四人で食卓を囲んでいた頃を思い出した。口喧嘩ばかりしていた両親が、その実どれだけお互いを想い合っていたことか。愚痴一つとっても、そこにどれだけの信頼が込められていたことか。回想の中で痛感する。抑え込んでいた妹との思い出までもが芋蔓式に脳裡をよぎる。年子だったので仲が良かった妹。背の低いことをからかうと、本気で怒った妹。妙な名前にコンプレックスを持っていた妹。それを出発点にした稚拙な戯れ。……波乱はあったが、靖章はそんな家族が大好きだった。深間家は愛に溢れていたのだ。心なしかあの頃は、窓辺から差し込む光さえ穏やかだった。それが普通だと思っていた。

 だが幻想は現実の前に脆く崩れ去る。靖章は、ダイニングルームのソファで独り、電気も点けずに座り込んでいた。もう、家族の声が行き交うことも無い。あの惨劇が全てを奪っていった。ひっきりなしに電話が鳴った。

 鶫は、何を聞いても驚かなかった。靖章は乾いていた。あの時と異なる、もっと分厚い膜が自分を覆うのを感じた。一通りお悔やみの言葉を述べた後、鶫が言った。マスコミに圧力をかけておきます。記者は近付けさせません。その言葉が、靖章の心に深く響いた。温かく鮮烈だった。氷河に撃ち込まれた火山弾にも似ていた。ありがとう。目が覚めた。

 これから忙しくなる。べろりと皮を剥くように、現実へ向き直った。涙が頬を伝い、今回は大丈夫だと悟った。靖章は殺人鬼より先に戦わねばならぬ卑近な戦地を前にした。

 通夜、葬儀、納骨の一通りを、親類のサポートを受けながら喪主として立派に務め上げた。鶫の言葉通り、カメラマンの一人もいなかった。顔見知りの刑事が来ていた。遺産相続や財産管理の問題に、他の親族が口を挟もうとした。靖章はそれを全て突っぱねた。鶫を通じて、溝内さんに代理人を頼んだ。親戚中に反感を買ったが、望むところだった。父を死地へ追いやった連中にこれ以上干渉されたくない。後一年少し遺産で食い繋ぎ、高校を卒業したら働きに出る。経済的に自立する。誰にも文句を言わせるつもりは無かった。

 駄目です。

 意外なことに、鶫が猛反発した。雑務に追われて一二月になっていた。

「行きたいという意志があるのなら、大学に行って下さい」

「状況が許さないんだから、仕方ないさ」

「深間さんは意地になってるだけです」

「意地を通したいから、大学に行かない。これも立派な意志じゃないか」

「ご親族にお金を頼るのが嫌なら、奨学金という手もあるじゃないですか。何なら、私が貸して差し上げても良いです」

「いや、そうまでして行きたいか、と言われると微妙なんだ。やりたいことがわからないけど、モラトリアムのために大学に行くくらいなら、早く世間に出た方が良いだろ」

 白々しいセリフだな、と靖章は我がことながら思う。

「駄目です。そんなの駄目です。深間さんは大学に行くべきです」

「それは君が決めることじゃない」

「私が決めます」

「どうして? 僕のためを思って、なんて陳腐なことは言わないでくれよ」

 鶫は、ぐっと押し黙って目に涙を浮かべた。靖章は胸の痛むのを感じたが、今更後には引けない。険しい表情で答えを待った。

「深間さんは」

 言葉を選ぶための、間が開いた。

「私のことが嫌いですか?」

「そんなことは今関係無い」

「関係無くないです」

「関係無い」

「あるんです。あります。答えて下さい」

「嫌いじゃないよ」

 それを受けて鶫は、俯き加減にぽつりと漏らした。心なしか、声が震えていた。

「私は、深間さんのこと大好きです」

 靖章は敢えて冷たくあしらう。

「それで?」

「……それじゃ駄目ですか」

「何が」

「理由にならないですか」

「何の」

「心配する理由にならないですか!」

 靖章は、自分の中に湧き上がる感情に名前を与えられなかった。ただ、放っておいたら涙が頬を伝いそうだとだけ感じた。

「溝内さんも心配してました」

「それは関係無い」

「そうですね」

「ありがとうって言った方がいいのかな」

「出来れば」

「……ありがとう。でも、」

「でも、は要らないです」

 鶫が上目遣いでこちらを睨んでいる。

「深間さんはアンフェアです」

「何が」

「私ばっかり喋ってます」

「僕の言葉を遮ったのは君だろ」

「違うんです。深間さんは気付いてないんです」

「何に」

「私、重要なこと言いましたよ」

「そうだね」

「そうですよ」

「それで?」

「深間さんのお返事が聴きたいです」

「返事? 何の?」

「馬鹿ですか?」

「よく言われる」

「私は、そんな深間さんのことが好きです。全部ひっくるめて、愛してます」

「ありがとう」

「そこが違います。私は返事が欲しいんです」

「……どんな?」

「あんまり苛めないで下さい」

「苛めてるつもりは無い」

 鶫は、耳まで赤くしながら半泣きになっている。前にもこんなようなことがあった。靖章はぼんやり考える。

「僕は天邪鬼なんだ」

「知ってます」

「だったら、君のことは嫌いじゃないって時点で答えは出てるじゃないか」

「……嫌いってことですか?」

「違うよ。でもこれ以上は言わない」

「卑怯です」

「知ってる」

「私で遊ぶのは金輪際止めて下さい」

「そんなつもりは無いって」

「私がそう捉えたことが問題なんです」

 いじめ問題みたいなことを言って、鶫は憤慨している。嘆息して宥めにかかった。

「気に障ったなら謝るけど、これが僕なんだから仕方ないだろ」

「じゃあ、責任とってくれますか」

「責任?」

「そうです。辱めに対する社会的責任です」

「は?」

 私と結婚して下さい。

 一笑に付すには真剣に過ぎる物言いには、気迫すら篭っていた。靖章は絶句する。にじり寄る鶫から視線を逸らした。

「……飛躍のし過ぎじゃないかな」

「それは否定しません。でも、私達が結婚すれば、全てが丸く収まります。夫婦は財産を共有出来ますから深間さんは何の気兼ねなく私のお金で進学すれば良いわけですし、何より、好き合ってる二人が社会的にその関係を認知されるようになるんですよ」

 要するに、鶫はこの提案を持ち出したかったのだな、と靖章は得心した。

「……君は結婚に反対の立場だったんじゃないのか? 鬱陶しいとか言って」

「鬱陶しいですよ」

「じゃあやめようよ」

「でも、私が鬱陶しいのを我慢すれば、愛する人を助けられるんです」

「だから、そんなにまでして大学行きたくないんだって、僕は」

「深間さんが天邪鬼なのは知ってます」

「いや、これは殆ど本音」

「それもわかってます。だからこそ、結婚したくない振りしながら私と結婚して下さい」

 無茶苦茶だ。靖章は頬を引き攣らせた。

「タイミング的に、今が乾坤一擲なんです。深間さん個人に横江の家と繋がりが出来たら、親戚連中は絶対何も言えなくなりますよ」

「表立ってはね。陰では、お金欲しさに籍を入れた卑怯者と罵られるわけだ」

「天邪鬼にとっては良い隠れ蓑じゃないですか。本当は私と結婚したかったんですから」

「勝手に決め付けないでくれ」

「自惚れじゃないですよ。明確な根拠があります」

「何だ。まさか、サイコメト郎君で思念を読んだとか?」

 鶫は、ゆっくり首を横に振った。

 私の勘です。

 人間心理に関して、それに優る物はなかなかないだろうな、と靖章は思った。何故か心が軽くなり、涙より先に笑みがこぼれる。

 それが、答えだった。

 鶫がはにかむ。ちょっと芝居がかり過ぎましたね。靖章は嘯く。そうだね、でもそういうのも悪くない。プロポーズなんて、そんなもんだろ? 鶫は、少し口を尖らせた。

「靖章さんの方からして欲しかったです」

「悪いな。何せ、天邪鬼なもんでね」

「せっかくだから何か言って下さいよ。たまには、私を喜ばせて下さい」

「たまにはって何だ。僕と会えるだけで君は喜んでくれてるとばかり思ってたが」

「それじゃ足りないです。大金持ちほど強欲なんです。何だって欲しがるんです」

「なるほど。勉強になるよ」

 そして深間靖章はにやつきながら、横江鶫にプロポーズした。僕を吝嗇で強欲な連中の仲間に入れてもらえないか?

 鶫も大体同じような表情で、深間靖章に返事した。ええ、その代わり私に天邪鬼のコツを教えて下さいね。

 カラオケボックスの中で、二人は衒い無く誓いのキスをした。熱を帯びた身体で抱き締め合うと、安息の沼地に心が溶け出すようだ。

「……深間さんの匂い、すごく落ち着きます」

「そう? 制汗スプレーのデオドラントだと思うけど」

「そういうこと言ってるんじゃないです。真冬に何でそんなの付けてるんですか」

「常時携帯。最低限の身だしなみだよ」

「……あの、今日、深間さんの家に泊まっちゃ駄目ですか?」

「うん、駄目。子供は帰って寝ろ」

「……空気を読んで下さい」

「僕は婚前交渉を悪しき風習だと思っている古風な人間でね」

「……嘘つき」

 クリスマス・イヴに二人は入籍した。

 靖章の親族から当然反対意見が出たが、ごり押しで封じ込めた。意外に横江家からはクレームがつかなかった。鶫に兄弟が極めて多いことから、後継ぎや政略結婚の手駒には事欠かないらしい。富豪には富豪の結婚観念があるようだ。祝福の言葉は一つも無かったが、そのドライな目線はある意味で気楽だった。

 鶫は、結婚するや早速靖章の家に転がり込んできた。私立中学に通っており、引越しによる転校を気にする必要が無いので、二人暮しを始める気だと言うのだ。

「わざわざ入籍したんですから、これくらいの役得はあってもいいじゃないですか」

 と、普通の夫婦とはだいぶ異なる論旨で靖章を説得した鶫は、続々と荷物を運び込む。私物のごく一部だと申告した分だけで、八畳の和室が天井まで埋まった。いずれはもっと広い家を買いましょう、とにこにこする。

 いつかは豪邸でも何でも建てれば良いが、当面はこの家で暮らさねばならないのだ。最低でも、鶫のために部屋を一つ開放する必要があった。靖章は鶫と協力し、年末いっぱいを使って大掃除がてら家中を片付けて行った。

 遺品の整理は気が重かった。何気なく見つかるゴミのようなメモ書きすら哀切を誘う。果たされることの無かった予定表の書き込み。父の、母の、妹の筆跡が、靖章に何かを訴えかける。アルバムは、直視するのが恐くて開く気にもなれない。妹の部屋はあの日のままで、今にも主が帰って来そうだ。何かを思い出しそうになるたび、靖章はそれを堪える。泣いたら座り込んでしまいそうだった。

 父の書斎に入った時、靖章は空気が変わるのを感じた。ぼんやりと身体の感覚が遠くなる。その離人感は、どうやら鶫にも共通のようで、怪訝な顔をして部屋からすぐに出てしまった。靖章もそれを追う。

「サイコメト郎君を持って来て下さい」

 鶫は真剣な顔付きで靖章に催促した。靖章は自室まで取りに行った。ここしばらく、まともに使った覚えは無かった。

 鶫は、書斎の中に片手だけ突っ込み、空中で判定ボタンを押す。

「これだけ濃ければ、空気中に滞留している残留思念も読み取れるはずです」

 靖章には妻の意図が理解出来なかったが、液晶に表示された文字を見て絶句した。

『ヤスアキ、私のパソコンを立ち上げろ。パスワードは私の名前だ』

 思わず身震いした。背中が粟立つように感じるのは、二日前から関東を直撃している寒波のせいでは無さそうだ。鶫もサイコメト郎君の画面を神妙に見詰めている。

「……どういうことだ」

 掠れた声で靖章は呟く。書斎に父の残留思念が充満しているのだろうか。しかし、父は入院先の病院で死んだ。最後にこの部屋に入った時の思念など、とっくに霧散していて然るべきだ。鶫がこれを解説した。

「死の直前に放出された思念が強過ぎると、そこに生前の意識が仮託され、一つの人格が形成されることが稀にあるようです。つまり、軽蔑を覚悟で言うなら、靖章さんのお父様の幽霊がここにいるということです」

「馬鹿な……」

 ぐらり、と足元が揺れた気がした。

「気味悪がられると思って黙っていましたが、本来私が特許を取ったシステムは、そもそも霊との対話がコンセプトだったんですよ」

「これを使えば父さんと話せるのか?」

「はい、可能です。しかし許可出来ません」

「どうして」

「つかれるからです」

「疲れるから?」

「そう、憑かれるから。憑依されるんです。ぼおっとなって、何をするにも自分が遠く感じてしまう。そんな経験無いですか? 今、書斎の中で感じたはずです。あれは、他者の思念、幽霊が取り憑いたという証拠なんです。深みに嵌ると魂ごと持って行かれますよ」

「……まさか」

「お義父様の残したかった思念は確かに受け取りました。これ以上の干渉は、辛いでしょうが避けるべきです」

 靖章が考えていたのは、そんなことではなかった。鶫の話には思い当たる節があった。母と妹が殺人鬼に殺されて、しばらく靖章が悩まされた症状が、鶫の話す憑依の症状に該当するではないか。

 靖章は、家族に取り憑かれていたのだ。

 そしておそらくは、生前の父も。

 ゾッとなって、靖章はこのことを妻に説明した。離人症状について、これまで鶫に話したことはなかったのだ。鶫は何度も頷きながら、仮に憑依現象だったとしても悪意があったわけじゃないと思います、と言った。

「靖章さんが、亡くなった家族のことを気にかけていて、死者と互いに強く惹き合ったのでしょう。憑依は大抵一方的には起こりません。家族が深い絆で結ばれていた証でしょう。靖章さんの場合、仲の良かった妹さんですかね、取り憑いていたのは」

 ショックだった。だが、靖章は何に衝撃を受ければ良いのか今一つわからなかった。死が自分と妹の関係を引き裂いてくれなかったらしいという事実が、無性に靖章を落ち着かなくさせた。劣情は失せ、想いは断ち切ったはずだった。二人の関係はもはや単なるきょうだい以外の何物でもないはずだったのだ。

 事件以来、自分には妹の霊が憑いていた。それを勿体無いと思っている醜い自分が嫌だった。当時サイコメト郎君さえあれば会話出来たのに、と浅ましく考える自分がグロテスクでさえあった。離人感が消失した日のことを思い出す。悲しみがどっと襲い掛かって来たのは、それまでいつも近くにいた妹を感じられなくなったからかもしれない。だとすれば皮肉な話だ。おそらくあの日、妹は靖章を見切ったのだから。無意識下で依存を続ける靖章に呆れ、自分から愛想を尽かした。それが妹なりのけじめのつけ方だったのだろう。

 一方で父は、母の愛の中に飲まれて鎖された。そしてそのまま、あの世まで連れて行かれてしまった。過去に負け、思い出に惹かれ、苦しい現実でなく、美しい幻影に靡いた。

 ……いや、そうではないのかもしれない。相手を破滅させるほどの過剰な愛情を、あの父ならば懐深く受け入れたに違いない。父は残留思念の膜の中で、納得ずくの死を迎えたのだと、靖章はそう願いたかった。いくら美化したところで自殺という事実は動かず、美談は虚しく響くだけだとしても。それでも。死んでこそ願える平穏があるのだと、祈る。

「靖章さん」

 迷妄の念に縛られ沈降していく意識を、鶫が掬い上げてくれた。靖章はそう思って油断した。

「妹さんを、愛していたんですね?」

 ドリルを耳元で鳴らされたような不快が、靖章の心を掻き乱した。

「君は、何を知ってるんだ?」

「……すみません。忘れて下さい」

「またか。アンフェアだね」

「怒らないで下さい」

 鶫の哀願に、かろうじて息を整える。

「……そうだね。ここで怒ったら、たぶん僕の負けだろう。勝者無き戦いだけれども」

「靖章さんのことは、事件の折に詳しく調べてあります。そこで、鹿角美紗さんに話を聴きました」

 中学三年の夏、一年と少しの間交際していた美紗と別れた。妹が原因で。

「美紗は何て言ってた?」

「靖章さんと妹さんが、きょうだいと言うには過剰なくらい仲良くしていたので、その、引いた、と」

「そうか。お喋りな奴だな」

「美紗さんがお手洗いに行っている隙に二人でキスしていた、と」

「あれも見られてたか。……僕はやめろって言ったんだけどね」

「妹さんが靖章さんを『お兄ちゃん』と呼んでいるのも気持ち悪かった、と」

「言いたい放題だな。あれは、妹がそう呼びたがったんだ」

「それは何となくわかります」

 靖章は、舌の根にひりつく罪の味を思い出していた。今なら、鶫になら全て吐き出せそうな気がした。懺悔には程遠い告白だったが。

「どこまでわかってる?」

「何もわかってはいません。ただ、勘に基づく憶測があるだけです」

「じゃあ、それで当たりだ」

「そうですか。でも別に、靖章さんを非難する気は殆ど無いです」

「殆ど、ね」

「殆ど、です」

 善か悪かで人類を二分した場合、靖章は自分が後者に属する自覚があった。

「いつから気付いていたんだい、ワトソン様」

「最初からです。靖章さんの、事件当日の行動を聞いた時から」

「あの時は、本当に必死だったんだ。でも、どうしても殺意は止められなかった」

「靖章さんの場合、何かしら動機があるんでしょう? 脅されていた、とか」

「脅されてはいなかったけれど、弱みを握られていた。民法が改正されるって知ってれば、あんなことはしなかったが……」

 今更、何の言い訳にもならない。

「……もし、妹さんが生きていれば、結婚していたと思いますか?」

「勿論。近親結婚の規制がなくなるなんて、本当に吃驚した。今なら、僕と妹の関係も社会的に認められていたはずなんだ。少し残念だよ。まあ、妹の死があったおかげで君と出会えたんだと思うと、複雑な気分だけどね」

「靖章さんって、色んな意味で普通じゃ無いですよね。天邪鬼とかの次元を超えています」

「誉め言葉として受け取っておくよ」

 靖章は、鶫に全てを述懐した。

 隣家の主婦を殺害する企図があったことを。直接手を汚すつもりはなく、確実に殺せる保証もない、プロバビリティの殺人。鬼が家の中から出て来ないために思い付いた、犯罪。

 庭のガラス窓に何度も石をぶつければ、異状に気付いた隣人がうちを訪ねて来ることは容易に予測出来た。隣人がインターホンを押せば、鬼は何かしらのリアクションを起こさざるを得ない。律儀に応対に出て来て玄関先で凶行に及ぶことは無いにしても、投石の音と合わせて危機を感じ、逃げ出そうとする可能性は高い。もしも鬼に何の反応も無ければ、隣人が通報でもするまで何度も投石を繰り返せば良いだけの話だ。その内、他の近隣住民も不審に思い始めるだろう。鬼は、迷えば迷った分だけ追い詰められる。篭城事件になればこちらのものだった。そしてもし逃げ出すとすれば、インターホンを鳴らした人間に目撃されないよう、勝手口か、居間の大窓を通るはず。どちらから出るにせよ、表道路を避け、庭側の隣家か裏手の家を通って逃げようとするはずだ。庭側の垣根を越えた場合、タイミング次第で戻って来た隣人と出くわすことになる。これが狙いだ。一方、裏手の家を通れば鬼は無事に逃げ仰せてしまうだろうが、そうなった場合、「深間家での不審な物音を聞いていたのに通報を怠った」と隣人を非難出来る。負い目を負わせられれば、それはそれで良い。変質者を、私怨のために利用する。

 室内で何が起こっているのかわからない段階で、靖章はこれを考え、実行した。しかし、鬼が本当に隣人を殺してくれたのは、計算通りというより偶然による部分が大きい。所詮は机上の空論の積み重ねであり、一歩間違えれば現場に残っていた靖章が殺されていた。

 動機は、以前隣人に窓から靖章と妹の行為を盗み見られたこと。靖章の中には、行為自体に対する罪悪感は無い。愛し合う二人が当然の営みをしていただけだ。だが、それが露見した時、自分達がどのような視線に晒されるかは十分理解していた。事実、その隣人が靖章達を見る眼には侮蔑の色が混じるように感じたし、妹はそれが元で情緒の安定を欠いた。他の近隣住民にはまだリークしていないようだったが、不安はどうしても消えない。どうにかしなければならない、と思っていた。

「他人にどう思われようと、毅然としていれば良かったんじゃないですか?」

「そうだね。でも、両親に知られるのは嫌だった。実の親から異常のレッテルを貼られて、二人の仲を引き裂かれたら、もう死ぬしかないだろう? 自分が死ぬくらいなら、誰かを殺した方がましだ」

「視野の狭窄を起こしています」

「それが愛の存在証明じゃないか」

「その割に、妹さんの仇である殺人鬼を追う姿勢は淡白ですよね」

 靖章は腕を組んで鼻から息を吐いた。

「妹が死んだ時に、全て終わったんだ。というより、愛はその先生きるために切り捨てなければならない情だった。僕は既に妹を愛する資格を失していたから。内臓をぶちまけられた裂傷だらけの肉塊に愛を囁くことが出来なかった以上、妹への想いはそこで潰えた。尤も、これは色々と弊害もあった上、自分で思っていたより徹底出来なかったみたいだけど。取り憑かれるくらいだしね」

「死後の想いは、純粋な家族愛でしょう?」

「さあ、どうだろう。家族愛という概念にどれほどの意味があるのか僕にはよくわからない。だって、家族愛の延長で肉体関係が結ばれることはないんだろうか。近親相姦が異常だと皆は言うけど、そもそもそれを罰する法律はこの国には無い。きょうだい間の情愛はどこからが異常なんだ? しかも血縁者の結婚までもが解禁された今、社会的に近親愛を抑止する術はもうない。モラルを盾に近親者間の恋愛を攻撃するのは純然たる差別だ。単なる偏見だよ。僕の妹への愛情は、血縁から来る背徳感や禁忌故の昂奮を理由にせず、互いの本質と精神性に基づいていた、と言っておきたい。少なくともそう信じたい」

「……じゃあ、どうして『お兄ちゃん』なんて呼ばれ方をしてたんですか? 妹さんは靖章さんを家族として見なしていたはずです」

 鶫の口調には咎めるような色は無かった。

「……僕には妹が何を考えていたかよくわからない。ただ、最初はほんの戯れだったんだ。愛し合うようになるよりずっと前だ。妹が急に僕を『お兄ちゃん』と呼んだ。だから僕はそれに答えた。名前を呼び捨てにして。深い関係になっても、お互いに呼称は変わらなかった。それだけだ」

「靖章さんは、妹さんのお兄さんを演じられてたんですか?」

「頼られる役柄を演じていたのは確かだね。妹は背も低かったし、外では本当に妹だと思われていたかもしれない」

「そういう趣味があったということは?」

「残念。そこまで生臭い性的嗜好は無いつもりだ」

「私がお兄ちゃん、と呼んでも嬉しくないんですか?」

 鶫の申し出に、靖章は自然、頬を緩めた。

「嬉しくないよ。妹が僕を兄と呼ぶことは、何というか、二人だけにわかる符丁のような、秘密めいた可笑しさがあった。それが僕の心をくすぐっていただけさ」

「二人だけの符丁……。妹さんが……いえ、が少し羨ましいです」

「少し、ね」

「はい。ほんの少し、です」

 どうして靖章のが、のかと言えば、本当はもう一人上に姉がいたからである。彼女は生まれて間もなく亡くなってしまった。その姉の死を託す形で、次に生まれた女児に『妹』という名前が付けられたのだ。

 これは、思いのほか残酷だった。幼少時からことあるごとに、姉か兄がいるのかと尋ねられる。その度に首を横に振る。怪訝な顔をされる。どこまで行っても姉の死が付き纏う。妹にとってそれは苦痛だったに違いない。

 そんな妹が、ある時戯れとはいえ弟を『お兄ちゃん』と呼んだ。靖章は、これに応じるべきだと考えた。どこまで本気だったかはわからないが、妹は名前通り妹として甘えられる誰かを欲していた。頼るべき身近なよすがに飢えていた。兄妹という仮初の関係が、妹の心を支えるなら、それで構わないはずだ。

 その関係が思春期の訪れとともに恋愛関係にまで発展したのは、どちらにとっても誤算だった。全くの成り行きでしかない。倒錯的だと思ったことも一度も無い。

 それでも靖章は、最初は血縁を理由に我慢していたのだ。妹から目を逸らすため、初恋の相手に告白し、六股をかけられつつ交際したし、その後、幼馴染の美紗と真っ当な恋愛も楽しんだ。だが、いくら避けても、妹は一つ屋根の下で暮らしている。それが全てだ。

 結局、流されるように関係を結んだ。後悔は一切無かった。あったのは、美紗と二股をかけていることへの後ろめたさだけだった。

 美紗と別れてからは、吹っ切れた。妹を愛することに決めた。隣人に覗き見られるアクシデントや、殺人鬼の襲来さえなければ、二人は今頃仲睦まじい夫婦になっていたはずだった。……両親にそれを申告する勇気があったかどうかはわからないが。

「気付いていないかもしれませんが、靖章さんと妹さんの愛は、数多くの死を招きました」

 鶫が、少し躊躇した後に言った。

「殺人鬼は、以降の犯行に際しても例外無く、逃亡中に居合わせたらしき人を襲撃しています。それも、その場に凶器を残す形で。……わかりますか? これは偽装工作でなくて、おそらく『ジンクス』なんです。最初の犯行で逃げ切れたから、験を担いで同じ逃亡作法に固執しているんです」

「……つまり、最初の隣人殺しさえなければ、以降の目撃者殺しは起こらなかった、と?」

「おそらくは。勿論、一番悪いのは殺人鬼に違いないわけですが、遠因は……」

 自分と姉を守るはずだった靖章の行動は、妹の死によって全くの無駄骨に終わり、それどころか無差別な死を誘引した。

 誰一人守ってなどいない。この世に害しか為していない。これでは快楽殺人鬼の仲間も同じだった。……自分も殺人鬼。忌まわしい響きだが、どことなく軽い。

 不思議と、他人事のように認識した。何かの思念に取り憑かれたかのようだった。

「とにかく、他の被害者に報いるためにも、犯人探しを頑張りましょう」

 まあとりあえず当面はお家のお片付けですけど、と急に世俗的な物言いをし、鶫は書斎に入っててきぱきと遺品の整理を始めた。父の幽霊は成仏したのか、違和感は消えていた。

 サイコメト郎君の画面をもう一度見遣って、父の遺言ともとれる言葉を消去する。メッセージは確かに受け取った。それ以上の感傷を、おそらく父は望まないだろう。後は、言葉通りパソコンの中を見れば良いだけだ。

 一通りの整頓を終えてから、書斎のパソコンを立ち上げる。パスワードを入力しログオンすると、デスクトップ画面に『連続殺人事件詳細』というフォルダがあった。意外だった。父なりに、思う所があったのだろう。妻と娘を失い、残留思念に束縛されて現実からドロップアウトした男の悲哀がそこにあった。

「刑事さんの話を纏めた文書と、友人の記者さんから手に入れた情報が主のようですね」

 そこには残念ながら、横江財閥という強力なバックのある靖章達にとって、特筆すべき内容は含まれていなかった。だが、同じフォルダの中に無題の文書ファイルを見つけた靖章は、少し逡巡し、それを開いた。殆ど散文に近く、日付も何も無い。改行と共に脈絡が変わっていて、ひどく読みにくかった。日記などという高尚なものでなく、何かを書き付けてどうにか現世との繋がりを維持しようとしたのだろう。哀惜の中で拾い読みする。

『感覚が遠い。何を食べても味がしない。Tからメールが来た。返事が億劫。無視することに決めた』

『四件目の殺人。証拠は過剰。早く逮捕を。警察は愚鈍か。それとも検挙出来ない理由があるのか』

『家の外に記者。向こうも仕事だからと許せる範囲を逸脱している。かろうじて憤る。感情は消えてはいない』

『他人事のように発声する。靖章が頷いているから、会話になっているようだ。自分ではよくわからない』

『結婚記念日。虚しい。あまり考えたくない。久しぶりに指輪を取り出す。指に入らない』

『何もしていないことが心地良い』

『七件目。靖章は復調したようだ』

『妹が産まれた日を思い出す。妹という名に決めた時のことも。思えば可哀相なことをした。妹は私を恨んでいただろうか』

『幸せを返せ。私達の幸せを返せ』

『職場復帰。皆の視線が同情的。業務はどうにかこなしているようだ。やりがいのやの字も見出せない』

『疲れない。倦怠感が常態化している。仕事に精を出す。そのつもりになる。実感はなく、やはり能率も上がっていないようだ』

『何のために生きるか。思春期の子供みたいなことを考える。この歳になっても割り切れない。進むべき方向がわからない』

『幻聴。誰かの声に似ているが思い出せない。そのため不眠』

 この幻聴のくだり辺りから、無味乾燥な日常を綴ったものの他に、怪しげな記述が混ざってくる。聞き書きらしきものや、意味不明な一言が散見する。

『五月蝿い。声が出ないので放っておく』

『ミユキが犯人。ありがたく書き付けておく』

『普段は何をしている』

『中肉中背。髪が長い』

『ちょっと頑張らないと切れないけどむかつくから持って帰ることにした。むかつくからというだけの理由で』

『ネットワークがあってやり取りが行われているため新しい情報ももたらされるそうだ』

『誰か来たらしい。玄関に。宅配便を装った二人組。職場でなく自宅の』

『夢を見た。ターゲットをダーツで決める。次は越谷』

『もう一人はケンちゃん。鬼役。大きい』

『会話は出来ない。意思疎通は出来ない。しかし本当にいるかもしれない』

『撤回。妄想に過ぎない。ミユキは一人で先に抜け出す。ケンちゃんは他にもまた殺す』

『見える。その次は飯能』

『後ろから思いっきり突いて!』

『下見は前の月の中旬から下旬に行う』

『鬼の面は三代目に入りました』

『ミユキはもうミユキじゃないとのこと』

『普通のプレイじゃ満足出来ない』

『薬指はもういい』

『二クールで終了。その次からは再放送となります。ご了承下さい』

『皆で呪いをかけているんだけれどもしぶとい。まだ足りない』

『池袋に住んでいる。警察はまだ全然マークしていない』

 そして、最後は以下の文章で途切れる。

『暇に飽かせて現地に行ってみると、情報通りのアパートが存在した。来月頭には見張りを立て、もしクロならば匿名で通報』

 この直後に入院させられてしまったに違いない。靖章は絶句した。傍から見ている分にはわからなかったが、父は膜の内側で錯乱していたのだろうか。常軌を逸したとしか思えない叙述が乱発していた。

「……もしかするとお義父様は、無意識に誰かの残留思念を感じ取っていたんじゃないでしょうか」

 鶫の眼は真剣に、その文字面を追っていた。

「まさか。これは妄想じゃないってこと?」

「はい。お義母様の霊に憑かれる内に、その思念を幻聴として聴くようになり、徐々にエスカレートしていったと考えられます」

「仮にそうだとしても、エスカレートする内に妄想になった可能性もあるんじゃないか」

「確かにそれは否めませんが、死してなお息子に伝えたかっただろう文章が全くの夢物語では、あまりに切な過ぎませんか?」

 ここで感情論はフェアじゃないだろう、と靖章は思ったが、口には出さなかった。

 もしもこれを書いた時の父が、狂気に囚われたわけでも譫妄状態にあったわけでもないのだとしたら。一連の錯乱した雑文は、事件の鍵を握る手掛かりになるかもしれない。父の執念も実を結ぶと言えるだろう。

 だが。果たしてこれをどこまで信じて良いものか。情に負けて、狂人の戯言に踊らされては元も子もない。

「とりあえず詳しく読んでみて、分析してみましょう。サイコメト郎君は肌身離さず持っていて下さい。もしかしたらお義父様の霊がまた現れるかもしれませんし」

 そろそろ夕飯にしましょう、今日は私が作りますから。鶫はそう言い残して台所に向かった。母を亡くしてからコンビニ弁当と外食が主だった靖章に、どうにか手料理を食べさせたいと奮起した幼妻は、しかし調理への適性を全く欠いていた。慣れない手つきで包丁を握って指を三箇所も切り、ピーラーでも手の薄皮を剥く不器用さで、ここに来てようやく靖章は鶫の特許『絶対に手を切らないピーラー』の存在理由を察した。

「次は『絶対に指を切らない包丁』の発明に着手した方が良いんじゃないか」

 靖章が茶化すと、鶫はしれっと、実はそれならもう出来てるんです、と答えた。二、三日の内に実家から妙なアタッチメントが取り寄せられ、靖章の家にあった包丁は軒並み改造された。刃の部分を丸ごと白い覆いで包まれたそれらでは、指どころか何一つ満足に切れそうにない。

「コツさえ掴めば、理論上普通の包丁と遜色ない切れ味が保証されます」

「それより、普通の包丁の使い方を学んだ方が早いんじゃないか?」

「私の指を何本犠牲にするおつもりですか」

 発明とは、概してこういうものなのかもしれない。靖章は自分を無理矢理納得させ、簡単には取り外しの利かないアタッチメントを半笑いで眺めるしかなかった。鶫が自分のために料理を作ってくれるのは嬉しかった。そこに込められた想いが伝わって来る。たとえそれが、どれだけ焦げ付いていたとしても。

 父の幽霊らしきものはあれ以来現れる様子が無かった。靖章はもどかしい思いに駆られた。メモの真偽をはっきりさせるためには、追加情報が不可欠だからだ。父の遺志を無駄にはしたくない。とりあえず、幾つかの考察は為された。

「一二件目と一三件目の現場が、越谷と飯能でした。メモの記述と合致しています。犯人は二人組。メモを信じるなら、ミユキとケンちゃんという呼称でお互いを呼び合っているのでしょう。ただ、これは本名とは限りません。ミユキはもうミユキじゃない、との記述は、途中で源氏名が変わったのかもしれません。ケンちゃんがパートナーを変えたとも考えられますが。二人は、宅配便を装ってドアを開けさせ、住民を殺害。死体を前に性行為を行い、時間差をつけて離脱。ケンちゃんはその際に目撃者を襲います」

「池袋に在住。これは一緒に住んでるのかな。ターゲットは前もってダーツで決め、下見もする。アバウトに場所だけ決めて、近隣に住む殺し易そうな人を捜すのかもしれないね。生活サイクルや家族構成も把握した上で」

「一方、何のことだかわからない、ネットワークや呪いというのは、幽霊の話でしょうか」

「霊体の被害者がコミュニティを作ってるのかな? 何なら訴訟も起こしてくれれば良いのに。そうなると、『二クールで終了』っていうのは、幽霊達が作る番組か何かのことかな」

「それはどうでしょう。もしそんなものがあったとして、一体何を媒体にしてるんですか」

「恐怖新聞」

「……馬鹿ですか?」

 このメモを元に、池袋界隈を警察が徹底的に洗ってくれれば、何らかの展開を見せそうな気はする。だが、肝心の情報は信憑性に乏しく、国家機関を動かすには決定打に欠いた。

 年が明けて一月。

 三が日の平穏を打ち破るように二四件目の事件が起こる。靖章と鶫は、サイコメト郎君を持って現場に急行した。これまでにも都合がつけば同じようなことを試みていたが、今回は父の遺したメモの分、被害者の残留思念でなく、霊のネットワークに出会えるかもしれないという期待があった。だが、警察の包囲を掻い潜って現場に侵入することは出来ず、周囲はマスコミや記者の昂奮した思念で溢れかえっている。付近の怪しげな場所を散策して粘ったが、目ぼしい幽霊は見つからない。……諦めて引き上げることにした。

「ほとぼりが冷めた、二番目以降の事件現場に行ってみればいいんじゃないの? 被害者に取り憑かれた遺族がいるかもしれないし、話が聞けるかもよ」

「それは、もうやっています。遣いをやって、思念を読み取らせました。靖章さんに提供していた独自情報のソースの一つです」

「幽霊ネットワークの存在を示唆するようなものは無かったの?」

「遺族に憑いた霊の思念は大概、相手の思念と混交していて不透明で、解読が難しいんです。深入りするとこちらにも余波が来ますから、それも出来ませんし。感応に都合の良い浮遊霊は放浪していて何処にいるかわからないですし、怨霊となった思念は犯人に殺到しているでしょうからやはり現場にはいません。事故でないので地縛霊になりにくいのがネックですね」

「何だかいきなりオカルトじみて来たな。本気で言ってたら正気を疑われるぞ」

「残留思念の概念が広まれば、いずれ警察の聞き込みは、犠牲者と、遺留品と、付近を彷徨う亡霊が対象になりますよ。何せ、人間は嘘をつきますからね。死は常に正直であり、正直は美徳です。よって死は常に美徳です」

「暴論だね。そもそも正直は美徳じゃない。嘘だけが生者の特権なんだから、人間の価値は嘘のつき方でこそ決まる」

「嘘つきは泥棒の始まりですよ」

「そして同時に少年期の終わりでもある。泥棒にならなかった嘘つきが一番格好良い」

「結婚詐欺師は理想的ですね」

 すっかり話も逸れてしまい、和やかなムードで帰宅の途につく。繋いだ手の温もりだけが、小さな希望の灯火のように感じられる。事件発生から、まもなく丸二年が経とうとしていた。

 靖章の母と、妹の三回忌が済み、その日の深夜に二五番目の殺人が起こった。警察は切歯扼腕するばかり。「その内、殺人鬼の方から飽きて自首してくるんじゃないか」と、楽観的に妄想してみるも、空しくなるばかりだ。「来年の受験のために、そろそろ本格的に勉強を始めた方が良いかもしれませんよ」と、大学進学の機会を与えてくれた鶫が言うし、殺人鬼ばかりに拘っているわけにもいかない。何なら私一人で調べますけど、という鶫の申し出はさすがに遠慮したが、実質的にそれで不足のないことも確かだ。自分の未来と天秤にかけられている家族の思い出が、日に日に軽くなっていく気がする。このままではいつしか恐れていたように、家族の死を虚無に貶め、平穏を暮らし始めるようになるかもしれない。靖章は、『死を乗り越える』ことの本質を見誤りたくなかった。

 三月。殺人鬼は春のように音も無く忍び寄る。事件が報道されたところで、それが国民に与えた衝撃は皆無に近かった。交通事故にも似て、最早多くの人にとっては、見知らぬ場所で普遍的に発生している些末な出来事の一つに過ぎなかったのだ。飽きっぽい聴衆の前では、歴史的な殺戮事件すらマンネリ化する。犯人逮捕という劇的な展開でも無い限り、離れた興味を取り戻すことは難しいだろう。

「殺人鬼なんて天災みたいなものだ、なんて皆が思い始めたら、もうお終いですよ」

 確かに、もしも靖章がそういう割り切りをしたら、家族の死は急速に風化するだろう。人災であることを意識し、加害者と被害者の構図を崩さないことが肝要だ。

 転機は思いも寄らぬ方向から訪れる。ホワイトデーの日、駅からの帰り道を歩いていた靖章は、突然の悪寒に襲われ、咄嗟にサイコメト郎君の判定ボタンを押した。離人感こそ無かったが、強烈な思念の塊がそこにあるのを感じたのだ。

『彼らが本気でやるつもりなら、五月には必ず捕まるでしょ』

 内容は漠然としていたが、殺人鬼被害者の幽霊ネットワークの尻尾を掴んだ気がした。立て続けに何度も感応を行う。ブームの過ぎ去った玩具を懸命に操る靖章は、多くの冷たい視線に晒された。

『警察と我々、どちらが先か微妙なところだ』

『とにかく死をもって償わせるべし』

『悪いことは言わない。早く逃げた方が良い』

『彼らも我々の存在を持て余し始めている』

『ここまで来たんだから間違いなくやる気だろう』

 靖章はその全てを走り書きし、大急ぎで家に帰った。鶫はそれを読んで首を傾げた。

「五月に何か劇的なことが起こるんでしょうか? もしかすると、被害者達の呪詛が完了するのかもしれませんね」

「呪いで殺人鬼を殺すつもりなのかな。こんなこと真面目に論じるのも微妙だけど」

「でも、それだけじゃしっくり来ないですね。もう一つ平行して別の何かについて語っているような感じがしますけど」

「主語と目的語が曖昧だからな。とりあえず五月に何が起こるか、注目していよう」

 この判断が誤りであったことは、半月後に証明される。

鶫が寒気を訴えて寝込んでいたエイプリルフール。靖章は予備校の春期講習に参加するため、朝から家を出た。それが、生きている鶫との最後の別れとなった。

 仮初の平穏が流れ、講習が終了する。参考書を選びに本屋に入った時、靖章は五感が遠ざかるのを感覚した。絶望的な離人感に苛まれ、憑かれたことを知る。その意味を察する。悲しみも今は遥か彼方、おかげで冷静さを失わずに済んだ。嘘だ。四月馬鹿に望みを託す。

 目を閉じて、ぬるま湯のような闇に浸る。手を伸ばせば触れられそうな位置に、存在を感じた。靖章はうっそりと本屋を出る。何重にも防護されたような玩具を虚ろの中で取り出し、ボタンを押す。自分の足音が地平線の向こうから聞こえる。

『あなたが帰って来るのを今か今かと待っています』

 それだけで十分だった。靖章は、敢えて自分を包む膜をべろりと引き剥がし、剥き出しの現実に踊り出た。号泣。そして、疾走。時を駆けることの叶わない彼には、それが精一杯だった。何をしたところで間に合うわけが無いが、それでも鶫のために走った。

 迂闊だった。

 気付くチャンスはあった。『二クールで終了』。これは殺人鬼側の言葉だったのだ。テレビドラマの一クールは四半期、一三話。二クールで二六話。先月、三月の犯行は二六件目でこれに該当する。つまり、最終話。そして、『その次からは再放送』。再び、第一話から繰り返される。一件目、深間家の事件から。

 ホワイトデーの思念もそれで説明される。四月に深間家で再犯が起これば、五月の頭に警察は、二件目の現場を間違いなく警戒する。犯人が再放送を本気でやるつもりなら、五月に捕まるのは目に見えている。そもそも、そんな思念を近所で知覚したこと自体に違和感を覚えるべきだった。そんな偶然があるわけは無い。あれは三月中旬、殺人鬼は次の月に襲う深間家の下見に来ていたのだ。そして靖章は、殺人鬼を取り殺すために憑き纏っている怨霊を感応したのである。

『悪いことは言わない。早く逃げた方が良い』

 このメッセージは、靖章に向けられていた。深間家に迫りつつある危機を伝えてくれた霊がいたのに、靖章はそれを見逃した。

 鶫の死を、看過した。

 靖章にはわかる。玄関先では鬼が待っている。靖章が帰って来るのを今か今かと待っている。あの日のように、刃物を下げて。ケンちゃんが待っている。殺人鬼が待っている。

 涙を拭く。今度は逃げるわけにはいかない。殺すか殺されるかする。靖章は決着を望む。

 門前に立ち、ポケットを漁った。使い道の無かったライター。去年の誕生日プレゼントのそれに、火が灯ることを確認した。炎を見詰め、感傷に浸る。取るべき行動を思い描く。

 鶫の笑顔が、何故か思い出せない。

 気負い無く足を進める。心臓の音は聞こえない。耳を聾するのは闇だ。鎖された未来が見える。肌に触れる温い空気が苦味を纏う。今、全てが一つに収斂していく。

 ドアノブを捻り、玄関扉を開け、凶器を持った鬼と対峙する。

 再び……!

 だが、あの時と決定的に違う点が命運を分ける。生死を分ける。

 靖章は鬼の存在を完全に予期していた。覚悟を決めていた。虚を突かれることは無い。

 鬼は、律儀に凶器片手に突っ立っている。あの日と同じ服装、同じ体勢。盗んだ服をわざわざ持って来たのだろう。お面は若干異なっている。父のメモを信じるなら、三代目。

 だが、今回の鬼の凶器は。自明だった。深間家の包丁は今全て『絶対に指を切らない』仕様。コツがわからなければ使えない。何物をも傷つけられない。自然、家にある刃物を凶器に選ぶなら、果物ナイフかカッターにランクダウンする。以前鬼が繰り出した、切りつけるような攻撃方法では、深い傷を負わせることは出来ない。再放送のつもりならば、恐れることは何もない。

 実際に果物ナイフを持った鬼を目にした時、靖章は勝利を確信した。左手のライターに着火。そこに、制汗スプレーを至近距離から吹き付ける。火気厳禁のスプレーはその途端簡易式の火炎放射器と化し、炎の吐息を鬼の顔面に浴びせ掛けた。鬼は咄嗟に両手で頭を庇い、顔を背ける。靖章は手を緩めない。徹底的に炎を吹き掛ける。顔面に留まらず、体中にスプレーを向ける。繊維の焦げ付く匂いに、僅かに清涼感漂う芳香が混じっている。痛みには馴化出来ても、熱には中々抵抗出来ない。一時的なパニックにも陥る。靖章は一方的に攻撃を続けた。剥き出しの殺意を向けた。

 ナイフが落ちた。それが鬼の最期だ。

 靖章はライターとスプレー缶を鬼の顔面目掛けて投げつけ、怯んだ隙にナイフを拾い上げる。後の手順は簡単だった。渾身の力を込めて喉首に突き立てる。火傷で赤黒く変色したそこへ、神経も血管も筋肉も、何もかも断裂する気で滅茶苦茶な角度から突く。ぐぐっと抵抗があって、刃が止まった。お面の向こうから、こひゅう、という妙な呼吸音が聞こえる。致命傷を負っても意外と倒れない。

 ナイフを抉りながら引き抜いた時、吹き上がった液体の色を靖章は美しいと思った。だから笑った。靖章も、そして靖章の中の母も、妹も、父も、勿論鶫も。皆で笑った。

 鬼が動かなくなっても、靖章は玄関先で座り込んでいた。ほわりと、優しい膜が身体を包み込むのを感じた。全身に浴びた温い血潮の気色悪さが意識から遠ざかる。ありがとう。ありがとう、鶫。玩具のスイッチを探る。

『私はずっと、傍にいますから。だから私を愛して下さい』

 一つずつ、自分を囲む部屋の鍵を閉じていく。内側へ、内側へ。幾つもの扉を越え、何重もの密室を形成する。望遠鏡を覗き込んだ先に、世界が見える。そこでは靖章がふらつきながら居間に向かっている。廊下の隅からビデオカメラが回っていたことに気付き、叩き壊す。ドアを開け、電気を点け、惨劇を目の当たりにする。内臓をぶちまけられた裂傷だらけの肉塊が転がっている。左手の薬指が無い。共犯者が持ち去ったのだろう。

 だが、それも今や関係無い。靖章は密室の中で鶫を愛すことが出来る。いつも傍にいる妻と睦み合うことが出来る。肉体の束縛を受けない、真の営みを享受出来る。

 外の世界の靖章には、サイコメト郎君がある。そしてそれによって築かれた一財産が遺産として転がり込む。鬼を退治した人間として英雄視もされる。ああ、これ以上、何を望むことがあるだろうか。

 靖章の通報を受けて警察が駆けつけた。鬼は惨い死に様を晒していたが、すぐさま身元が確認された。豊島区在住の四津崎謙造二六歳。大学院生だった。幼少時の事故で、左手の薬指を欠損していた。黒手袋は、それを隠すために内側に詰め物がされていた。被害者の左手薬指を切断したこととの関連は不明。

 すぐさま容疑者の自宅に捜査員が踏み込んだが、同居中の妻の姿は既に無かった。穴だらけの埼玉県地図、スナッフムービー、魔除けの札などが見つかり、残された指紋は現場の指紋と完全に一致した。未成年であるため指名手配は出来ないが、捜査本部は近隣の県警に通達した上で懸命にその行方を追った。

 ワイドショーは俄然盛り上がった。埼玉連続殺人の決着。異常犯罪に走った大学院生。犯人を返り討ちにし、家族の仇を討った少年。未だ逃亡を続ける未成年の共犯者。話題は腐るほどあった。外の世界の靖章は、何度もインタビューを受けた。衝撃を隠し切れない機械的な応答は、逆に好感を持って受け入れられた。激励の投書が毎日のように送られた。

 勿論、そんなことは靖章にとって今やどうでも良いことだ。

 四津崎容疑者の死亡から一週間後。手配中の彼の妻が山林で首を吊って発見された。痩せ細って人相が変わっていた。遺書らしきものが残されていたため、追い詰められた果ての自殺と考えられた。四津崎と雑誌の出会いコーナーで知り合ったこと、事件を自分から四津崎に持ちかけたこと、惨殺死体を見ると昂奮する性的嗜好があることなどが錯乱した文体で告白されており、薬指を持ち去ったのは結婚出来ない不遇を呪っての当て付けであり、民法改正によって入籍して以降は満足してやめたと説明されていた。締めくくりに一文。

『死すら 二人を 分かてない』。

 こうして、主犯である四津崎(旧姓・)清五郎一九歳が被疑者死亡のまま送検され、事件は幕を下ろした。


 深間靖章の隣では、今も妻が屈託無く笑っている。愛すべき妻は身体を持たないので像を結ばない。何物にも囚われない。年齢も血縁も性別も無く、本質だけが存在している。一四歳であったことも、大富豪の家に生まれついたことも、男性であったことも、今の鶫には何一つ関係がない。靖章は、このまま行けば自分も同じ境地に達するのではないかと、密かにそんなことを期待している。


『あなたが大好きです。早く会いたい』


 五月一日。それでも靖章は生きる。新たな殺人鬼は現れない。



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死すら二人を分かてない 今迫直弥 @hatohatoyama

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