第7話 休日の山登り
先日行われた得体の知れない存在が主催した集まりから数日後、灰崎は山に来ていた。傷ついた精神を少しでも癒せればと思ってのことである。訪れたのは過去には水銀の原料である朱砂がとれたことからその名がついたといわれる朱舞山に訪れていた。
「もしもし、あなたもこの山に登るのですか」
灰崎の背後から声がした。振り返ると中年の男性が立っていた。
「えぇ登りますよ。あなたもですか」
灰崎の言葉に男はうなずく。
「はい。登山は初めてなので不安なんですよ」
「私も初めてなんですよ。よろしかったら一緒にのぼりませんか」
「こちらからお願いしたいくらいですよ」
そんなやりとりが終わり、二人がいざ一歩目を踏み出そうとした時、二人の背後からまた声がした。
「おいお前さんら。この山に登るつもりか」
二人が振り返ってみると地元の人らしく野良着姿の老婆がいた。
「そのつもりですが」
「ふーん。そうか」
老婆は二人を無遠慮に観察する。
「雨には気をつけるんだぞ」
老婆はそう言い残して去っていった
「なんだったんでしょうあの人」
男は灰崎へ訝しげに問いかける。言われずとも二人は雨具を持ってきて雨には備えているし今日は快晴だ。
「まぁまぁ。助言をくださったのですから。ありがたいじゃないですか。さっ、気を取り直して行きましょう」
灰崎はそう返して男と共に山頂に向かって登り始めた。二人は自己紹介を兼ねた雑談をしながら登った。自己紹介によると男は帝都のある大会社の重役を務めているいるらしい。灰崎は自分のことをしがない会社員だと名乗ることにした。そして二人は世間話をしながら山を登っていく。五合目まで来るとぽつぽつと雨が降り出した。
「おっと雨が降り始めましたね。えーと雨具はどこに入れたかな」
しかし男の雨具はなかなか見つからず、雨はどんどん強くなっていく。
「ここまで強くなっては雨宿りしましょう。灰崎さんもそうしましょう」
男の提案に灰崎もうなずく。あたりを見回すと、さっきまでは木と草しかないと思っていたが木造の小さな家があった。
「はて、あそこにあんなものがありましたか」
男は首をかしげる。しかしその間にも雨は強さを増し、風も出てきた。
「これはたまらん。あそこでお世話になりましょう」
男はそう言いながら灰崎と一緒に家へと急ぐ。戸の前に立って家の中へと男が声をかける。
「もし、だれかおられますかな。この雨でずぶぬれなのです。雨宿りをさせていただけませんか」
戸を開けて出てきたのは柔和な顔つきをした老婆だった。
「はいはい。それはお困りでしょう。どうぞ、こんなあばら家ですがお役立てください」
「ありがとうございます」
老婆は快く家に上げ、囲炉裏にまきをくべて二人の服が乾かし、体が温まるようにしてくれた。
「温かいお茶までありがとうございます」
「なあに困ったときはお互い様ですよ。ついでに今日は泊っていってください」
「そこまでお世話になるわけには」
「それが、この辺りは雨が降ると森がとても暗くなるんです。暗いときに下山しようものならすぐに遭難するでしょう。それに最近は熊も出るんですよ。雨が上がっても道はぬかるんだまま。せめて明るいときにしてください」
「たしかにそれだと今日はお世話になったほうがよさそうですね。灰崎さんもいいですね」
男が灰崎に声をかけるが灰崎はあらぬほうを見つめている。男がもう一度声をかけると灰崎は驚いてうなずく。
「え、あぁはい。泊めていただきましょう」
「ほっほ。お兄さんはあれが気になるようですね」
老婆は灰崎の視線の先にあった神棚に祀られているものを持ってくる。
「これは近くのご神木様の枝です」
老婆が持ってきたのは黒い木の枝だった。
「ほう。なんとも歴史のありそうな木ですね。いったい何の木なのですか」
男が興味深げに聞く。
「それがわからないのですよ。ずっと昔からご神木様の木の枝としか伝わってないんです」
「それは面白いですね」
灰崎は言葉少なに話す。
老婆は説明を終えると神棚に枝を戻す。
「さあて、いい時間ですね。そろそろご飯の支度をしましょうか。もちろん二人にも手伝っていただきますよ」
男と灰崎が手伝い、山の幸中心の料理が出来上がり、三人で食べた。その後三人は食後のお茶を飲みながら雑談をしている。灰崎は猫舌らしく盛んに湯呑に息を送って冷ましている。
「このお茶もおいしいですね。なんていうお茶ですか」
「さあ、何の茶葉かは分からないですね。この辺でお茶といったらこれしかないので」
男が問いかけるが老婆は申し訳なさそうに答える。
「そうですか。帰ってからも買えるといいのですが」
そういいながら男はお茶を飲み干す。すると老婆の口がにやりと笑う。それに気づいたのは灰崎だけだった。それからもしばらく雑談した後、男と灰崎は山歩きの疲れが出て眠くなり、床に就くことにした。老婆はこまごましたことがまだ残っているのでまだ起きているそうだ。
二人が床に就いてから数分後、灰崎は音をたてないようにゆっくりと布団から出た。物音は台所からしているので老婆は台所にいるようだ。灰崎は神棚から木の枝を持ちだして懐に隠す。そのまま足音を殺して台所まで進む。どうやら老婆は包丁の手入れをしているようで包丁を研いでいる。灰崎はぞのままゆっくりと老婆の背後へ近づいていく。
そのとき不意に老婆が研ぎ具合を見るために包丁を目線の高さまで上げた。そして包丁に背後から近づいてくる灰崎の姿が映った。老婆は素早く振り返り包丁を構える。
その顔はさっきまでの柔和な顔つきとは似ても似つかぬ般若のような恐ろしい形相だった。老婆は包丁を振り上げ灰崎に襲い掛かる。灰崎は包丁を持つ腕をつかむ。老婆の腕は見た目に反して力強く灰崎では両手で包丁を持つ腕を抑えるのが精いっぱいだった。
「おとなしく寝ておれば痛い思いをしなくて済んだのに。なぜ眠り草がきかない」
「あいにくと薬には強くて」
「まあいい。さっさとご神木様への贄にしてくれるわ」
老婆は空いている腕で灰崎の腹部を強く殴りつける。
灰崎はこらえきれず壁まで吹き飛ばされる。
「動くなよ。へんなところに当たって苦しむことになるぞ」
老婆は再度包丁を振り上げる。
「あなたが祀っている木の枝、あなたが思っているものじゃないですよ」
「命の危機だからってでまかせを」
「あなたがいうご神木様とはヤドリギの木ですよ。ヤドリギの木は常緑樹で一年中葉を落とさないため、生命の象徴ともいわれています。そのためあなたのような存在とは真逆だ」
「嘘だ嘘だ黙れ黙れ黙れ」
老婆は取り乱して叫ぶ。
「ご神木様を祀ったからこのように不死になれた。ご神木様に贄をささげたから力を得た。そうだそうだそうだ。ご神木様の力だ」
「あなたがそのような存在になったのにご神木は関係ないですよ。そんな行為ばかりしたせいでそんな化け物になったんですよ」
「うるさいうるさいうるさい」
老婆は今まで信じてきたことが揺るがされ、否定されたことで包丁で周囲をめちゃくちゃに切りつける。
灰崎が懐から取り出した木の枝にも気づかない様子だ。暴れ疲れ、肩で息をしている老婆の目にはもう灰崎は映っていない。灰崎は抱擁を交わすように木の枝を老婆へと突き刺す。老婆は一瞬震えて消えていった。
そして朝になった。昨日とはうって変わって、黒ずんでいた空も雲が晴れて明るくなっている。二人はふもとまでの道をゆっくりと下っていた。
「それにしても残念です。おばあさんは親戚が危篤で夜のうちに親戚の家へ向かわなきゃいけないなんて。最後に挨拶もできませんでした」
「おばあさんもそれを残念がってましたよ。またここに来ることがあったら歓迎するとも言ってました」
「灰崎さん。絶対またこの山に来ましょうね。それでおばあさんに会いましょう」
「ええ。絶対に会いに来ましょうね」
鏡の青年 紫藤 楚妖 @masukarupo-ne
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