第1話
レンガ造りの外壁をきれいな
皇帝陛下より賜ったリージェンシー屋敷だ。
そのときあたしは暖炉の上にある
これがあたし。あたし、アイオンはアナグマの獣人なのだ。
間抜けな顔をしているとよく言われるけど、お嬢様にお勉強を教えてもらっているので自分じゃそこそこ賢いと思っている。得意なのは料理と掃除で、技術の高さに関してはお嬢様も褒めてくださっている。
鏡の向こう側には、お嬢様も写っていた。
両サイドでまとめた銀糸の髪、純銅色の肌、あたしよりも年下にしか見えない矮躯の少女。まるで触れれば折れてしまう、繊細な金属の細工物を彷彿とさせる美姫。
まあ、実年齢は長寿のドワーフらしく齢五〇を超えているはずだけれど。
あたしが仕える主人、ハイドラルギュルム家のシンシャお嬢様だ。
本当は姫様とお呼びしたいけれど、帝国で王たる血を引く存在はただひとり。だから、あたしはシンシャ様をお嬢様と呼んでいる。
お嬢様は
あたしには目眩がするほど細かい作業だ。作っているのはどこかの金持ちに納品する、天然石製のオーダーメイド品。ドワーフは繊細な作業な得意なのだ。青い駒は
帝国ではポピュラーなゲームだけど、臣民たちは自らをどちらの陣営に重ねているのだろうか。
鉄と蒸気で征服戦争を繰り返した帝国は、あたしたち
もっとも、いまだ熱狂的建国神話のただなかにある帝国でそれを口に出して言う勇気はない。
帝国は皇帝そのものであり、侮辱すれば一級民であるところのお嬢様はともかく、あたしなんぞは邏卒隊――帝都の治安を預かる組織――にしょっぴかれてしまう。
お嬢様が顔を上げる。駒とヤスリを置き、拡大鏡を外す。左目があったところに黒い眼帯を嵌めたお嬢様は、残った右目だけをアーチ窓に向ける。
外には夏枯れ時を健気に耐えたハナミズキが静かに佇んでいる。シンボルツリーが植わっている裏庭だ。
「客人じゃな」
「え!? ぜんぜんわかりませんでした」
「細石を踏む音がの」
耳も鼻も人間より優れている獣人が気が付かなかったなんて。お嬢様の感覚器は獣人以上に鋭敏なのだ。
あたしが振り向くと、ドアベルがちりりんと鳴る。玄関からでなく作業場の勝手口から断りなく入ってくる、そんな人物はひとりしかいない。
背の高い痩せぎすで、髪と同じ砂色の口髭が特徴の男が姿を現した。居丈高にみえる黒と赤の制服。ひねこびた葦のような人物は、秩序を守る邏卒のダレス・ブラスシティ。階級は部下を束ねる邏卒長だそう。亜人嫌いのくせになにかあるとお嬢様に助言を求めてくる不躾なやつだ。
ずかずか屋敷に侵入するとダレスは開口一番こういった。
「じゃましてもいいかね」
「もうお邪魔してますけれど?」
あたしが半眼で睨んでもダレスは気にもとめない。うるさいなあとばかりに嘆息するだけだ。
「わしは悩み事がある人物ならば遠慮なく請じ入れますぞ」
お嬢様がいう。あたしは遅れて気がついた。ダレスは老紳士を連れていた。たかが邏卒とは釣り合わない、上流階級の貴人だ。テーラーメイドの上等なジャケットに身を包んでいる。蒸気機械による大量生産品でないのが見るだけでわかった。
思慮深い紳士然とした人物だが、なにやら困っているのが眉間に寄せた皺からうかがえる。
こうした人たちは、ときおりお嬢様の知恵を借りにやってくる。たいがい口外も相談も迂闊にできない悩みを抱えているのだ。だから表玄関からではなく、勝手口からこっそりやって来る。
あたしは下賤の出なのでお近付きになれないけれど、もてなすのはもはや慣れっこだった。
お嬢様が礼儀正しく言う。
「こちらは作業場ですじゃ、お見苦しいかと。よろしければ応接間にどうぞ」
「ここでかまわん。来たのを知られたくないのだ」
ダレスのぶっきらぼうな一言にお嬢様が頷く。
内密ごとのようだ。お嬢様は相談料は受け取らない。だから来る人がそれなりにいるのだろう。
まあ、本音を言うのなら謝礼金ぐらいほしい。お嬢様は気前が良いけれど、暮らしに余裕があるわけではない。家計を預かっているあたしは
「客人に椅子をな、アイオン」
命じられあたしは隣室からいそいそと椅子を運んでくる。アナグマだけど獣人らしく力持ちなので、椅子の二脚程度いっぺんに持ってくるのはらくしょうだった。
お嬢様にすすめられ、客人とダレスは着席する。気の利くあたしは言われる前にお茶を淹れてあげることにする。厨房に向かう。茶葉は来客用のとっておきだ。ダレスには出涸らしを淹れてやるけれど。
できるだけ音を鳴らさないようにカップとソーサーを盆に載せ運ぶ。あたしがお茶を持ってもどると、見計らったようにお嬢様が口を開いた。
「御仁のガーネットの販売は上手くいっておられるようじゃの。しかも、たいへん貴重な原石を見つけられたようじゃ」
老紳士が目を見開く。お嬢様の洞察力には誰でも舌を巻く。はじめて会うのに、いきなり商売を言い当てられて驚いたのだろう。
「よくおわかりで。私はロナルド・ニューベリーと申します、たしかに宝石を商っております」
ダレスはまた始まったよ、という顔をしているが、信じられぬようにロナルドと名乗った老紳士は続ける。
「しかし、なぜわかったのですか?」
ふむ、とお嬢様。床を指差す。なんてことだ、あたしがついさっき掃き掃除したばかりなのにきらめくゴミが落ちている。このゴミをばら撒いたのはだれだあ!
あたしはお茶を並べ終えると、いそいそとゴミを摘んだ。
小首をかしげる。なにかの石片だ、こんなものなんでここにあるんだろう。お嬢様は気を使って作業してくださる、こんなふうにゴミを落としたりしない。
お嬢様はすぐに答えをくれた。
「大理石の剥離片ですな。御仁のズボンから落ちましての。床の木目が二重に見える複屈折をおこしている。これは半透明の大理石に発生する現象ですじゃ」
あたしは納得した。ドワーフは宝石と金属に詳しい。お嬢様はそんなドワーフたちのなかでも抜きん出た知識をお持ちだ。
さすがお嬢様、よく見てらっしゃる。
だされたお茶をお嬢様はふたりにどうぞという。ダレスは厚かましく飲み始めた。お茶請けはないの? という表情をしている。ないよ。お嬢様の香りでも嗅いでろ、あたしはそれでご飯を何杯も食べれるぞ。
ロナルドは遠慮がちにだが礼儀正しく口をつける。身なりから察するとふだんはもっといい茶葉で飲んでいるように思うけれど、少なくとも傍目からはおいしく味わってくれていた。
礼を失しないていどにお茶を飲みおえ、手を止める。説明の続きを興味深げに待っているのだ。
ふむ、とお嬢様。客人が一息ついたのち、言葉を再開する。
「欠片を落としましたが、御仁の出で立ちは採掘現場に携わっているようには思えませぬ。お召し物も立派ですからな。なら経営側かと。実はちとズルをしましての、石切場を所有している人間はすべて存じておりますじゃ。だがそのいずれでもない」
いたずらっぽく微笑む。見た目通り、少女の無邪気な笑みに思えるがとんでもない。お嬢様はいつだって話し相手を観察し、素性を見抜いているのだ。
お嬢様に隠しきれることなぞない。
「大理石はですの、石灰岩の一種ですじゃ。石灰岩、つまりは炭酸塩岩中に高温のマグマが貫入してくると、触れた部分に熱による化学反応で
「いかにも、いかにもその通りです。すばらしい彗眼だ」
感嘆しながらロナルドが首肯する。
「ここに立ち寄る前に、ガーネットを石灰岩から取り出す工房に立ち寄りました。通常、宝石は採掘地である程度の加工を行います。ですが、今回発見された原石はひじょうに珍しく高価なものでした。現地従業員には任せておけず、私が立ち会い帝都の工房まで運ばせたのです。おそらくは、そこで大理石の欠片が付着したのでしょう」
ロナルドは嬉しげだ。自分のメガネに叶う人物がいてくれて喜ばしいのだろう。いつだってお嬢様の洞察力は秘密を暴いてきたのだ。あたしも、主人が褒められるのは悪い気はしない。
「なんでお前が誇らしげなんだよ」というダレスにあたしは胸を張る。お嬢様の誉れはあたしの誉れなのだ。
「それで、ご足労いただいたわけはなんですかな。細工物で食べている亜人のふたり暮らし、役に立つことは少ないですじゃ」
「実は、ここにいるブラスシティ邏卒長から伺いまして。帝都に騒乱をもたらしたサラマンドル社の不正義を暴いたのは貴女だと」
お嬢様はゆったりと頷いた。
サラマンドル社とは、製法が秘匿されていた『燃えない布』を独占的に製造販売していた企業だ。同社の工場従業員と周辺住民には奇妙な肺病が流行っていた。会社と病気の関連性を暴き出し、原因が燃えない布の材料である鉱物性繊維にあるとお嬢様は看破した。
燃えない布がいかに危険かを、白日のもとに曝け出したのだ。
大企業の醜聞による混乱と、捜査の手柄が邏卒隊の手に渡ったことでお嬢様の名が広まることはなかったが、知っている人は知っている、というやつだ。
「ぜひ、類まれなその洞察力をお借りしたいのです」
「
ロナルドは身をかがめ、秘密を共有するように声を潜める。
「実は、工房の共同経営者、ラナマン・ニューベリー商会のパット・ラナマンについてご相談があります」
「名前だけは存じておりますじゃ。商業連合幹部のおひとりですな。大富豪だ」
「はい。私とラナマン、ふたりでネズミ駆除から会社を始めたのですが、幸い事業も軌道にのり帝都有数の企業まで成長しました。今では宝石を商うなど手広くやっていました」
いました、ですかじゃ。お嬢様が過去形の言い回しを気にかけたように呟く。
「たしか、ラナマン氏は病を患い半引退と聞いておりましたがの」
「ええ、そうです。年齢の割に丈夫な男だったのですが、突然の発作に倒れたあと、予後がよろしくありませんで。闘病むなしく先月に亡くなりました」
「ほう」
お嬢様が目を細めた。犯罪の臭いを嗅ぎつけたときの表情だ。こうなると、闘犬のように喰い付いて離さないのをあたしは知っている。
真紅の瞳が秘密を穿つように鋭さを増す。まるで竜の視線だ。ドワーフたちが宝石と金属への飽くなき探究心をもって坑道を掘り進めていったときも、こんな熱意と偏執に満ちた眼差しをしていたにちがいない。
「パット・ラナマンは長年の友人でした。彼は――殺されたのではないか、私はそう疑っています」
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