竜血の姫
うぉーけん
序章
もし左目を失くしてしまったのなら、世界を半分しか理解できなくなるのだろうか。そうなってしまうとしたら、とても残念なことだとシンシャは思う。
玉座で頬杖をつき、皇帝バルトロレイドが睥睨している。底冷えする視線はまとった黒衣と同じ邪悪な気配を漂わせていた。
謁見の間は、まるで魔獣の腹じみている。喰らった獲物たちの血に塗れているのだ。伏魔殿とは、ここを指すのだろう。
バルトロレイドが不遜な声音で訊く。
「それで、ドワーフの姫君よ。お前は和睦の証に、私になにを捧げるのだ?」
呼びかけられたシンシャは片膝をついたまま頭を上げた。真紅の瞳がバルトロレイドの漆黒の双眸と虚空で交わった。
およそ人間性を感じられぬ視線に、シンシャは息を呑む。これが覇道の只中にある男の眼。まるで深淵を覗き込んだような錯覚すらする。薔薇と翼獅子を象徴とする帝国皇帝らしく、バルトロレイドもまた豊かなたてがみの偉丈夫だった。
武人としてのカリスマが、炎のゆらぎを思わせるほど発散されていた。
臆するな。シンシャは覚悟を決め、アダマン鋼製の短刀を鞘走らせた。照明に刃が反射しぎらりと輝く。
ためらえば、苦しみは長くなる。手早く終えるつもりだった。
傅いていた家臣たちが短刀にどよめきの声をあげる。
小銃があまねく普及し、機関銃が歩兵を薙ぎ倒し、戦車と装甲列車が戦場を席巻し鉄甲艦が海原を走破する時代に剣とは。はなはだ時代錯誤だとシンシャは内心思う。
騎士のごとし近衛兵をわざとらしく皇室警護として配置すること自体が、セプタードアイル帝国の威容と威信を証明しているのだ。
謁見の間には、シャンデリア球が光の粒を降り注がせていた。シンシャの銀糸の髪は光を反射し、鱗粉めいて輝く。蒸気発電により生み出されたランプの灯りが、人々の影を引き伸ばす。
火に頼らぬ人工照明は帝国の象徴だ。西方に浮かぶ島国にしかすぎなかった帝国は四大元素のどれにも属さない『電力』により大陸をたいらげた。人工の光が闇を打ち払うように、鋼鉄と蒸気発電の力で敵対者を駆逐していったのだ。
無論、穴ぐらに暮らすドワーフも例外ではなかった。
バルトロレイドは片手をあげ一同を制した。短刀は鋭く磨き抜かれているが、刃は小さい。人を殺すことは困難だと冷静に見抜いた動きだった。
無論、皇帝に一矢報いる考えなぞシンシャにはない。刃を自分の顔面に向け、凛として口を開く。
「美しく大であり、徳が天に合すほど
シンシャは躊躇なく自身の左目に短刀を突き立てる。度し難い痛みが脳天まで突き抜ける。刃が眼底を貫き、血が溢れ出す。バルトロレイドはおもしろがるように目を眇めてみせた。
血液が涙のように頬を伝う。それは顎にそって流れ落ち、鏡面のように磨き抜かれた床を汚す。さらに短刀を押し込む。全身から脂汗が吹き出した。刀身の根本まで突き入れる。
刃は冷え冷えとしているのに、傷口はひどく熱い。
「わしの名前であるシンシャとは、東方語で竜の血を意味しますじゃ」
最後までやり遂げるにはなにより意志の力が必要だった。
もう進めぬ位置まで刃を潜り込ませ、眼骨に刀身を支えさせ梃子にする。こじり、眼球を抉り出す。頭蓋の奥で視神経がひきちぎれる不吉な音が木霊する。いまや感じるのは痛み、痛み、痛みだ。
闇は唐突に訪れた。世界の半分が暗がりに閉ざされたのだ。
苦痛に意識をとられぬように、シンシャは言葉を続ける。
「わしの一族はかつて、グラン・フォールの大坑道を掘り進めていくうちに黄金を守る竜と遭遇しましたのじゃ」
「極彩色の鱗を持つ、悪竜エルレクトール。エンシェント・ドラゴンの一柱であり、創世の彼方より生き続けているとされた。ドワーフとの戦いは世紀をまたぐ長きに渡り続いたそうだな」
「そのとおりですじゃ。だが勝利したのはドワーフじゃった。わしらは戦いの過程で悪竜の血を浴び、同時に呪いを受けた。滅び逝く竜の怨嗟。以来、もっとも豪胆に戦ったドワーフの王族はエルフを超える呪われた永遠の生を得た。これは肉体に竜の血が流れることになったから、とされておりますじゃ」
眼球がまろび落ちる。シンシャは短刀を捨て、両手を椀状にする。自分に属していたはずの目玉を受け止めた。純銅色の掌に置かれた真紅の瞳が、血濡れながら自身を見上げている。
いとわしい流血の香り。
シンシャは眼球を頭上に捧げ持つ。一族の宝物を押し戴くように。
ふとさみしさがこみ上げる――さようなら、わしの左眼。
「もっとも色濃く竜の血が顕現しているのが、王族の眼球とされておりますじゃ」
いざり寄り、シンシャはうやうやしく頭を垂れる。
「世界にいまやふたつのみ存在する
バルトロレイドは受け取らなかった。
「ドワーフの姫、シンシャよ」
「はい」
温かい声音だった。投げつけられる言葉は詰問調だというのに、たしかな父性を感じさせる。なんとおぞましいのか。虚ろな眼窩から血を
「ときにシンシャとは鉱物の辰砂、つまりは
ドワーフは宝石と金属に精通している。当然シンシャもバルトロレイドが言わんと欲していることは理解できた。
もとより嘘が通用する男ではないことも承知している。
「存じておりますのじゃ」
「答えよ」
一呼吸の間を置きシンシャは言葉を継いだ。
「水銀です」
「いかにも、水銀だ。辰砂の別名は賢者の石とも言われる。東方の古代皇帝は水銀を不老不死の霊薬として飲み、白痴となった。そうだな?」
「然り、そのとおりでございますじゃ」
声が震えたのは痛みからか、それとも竜の血の伝説を尋ねられたからか。自分の声なのにシンシャには判断がつかなかった。
家臣たちがまたもどよめく。大臣が「謀りごとを。陛下、それは賤民の血です。触れてはなりません!」と叫ぶ。
忠臣たちの声を聞くとも聞かぬともせず、バルトロレイドは片頬を釣り上げる。破顔。これよりおもしろいものなどない、そう言いたげに磊落に笑った。
「贈り物を受け取ろう。これにて和睦となす。皇帝バルトロレイドの名において帝国臣民に先の戦争の遺恨はなしだ。ドワーフの姫、シンシャを今日より帝都に迎え入れる。皆、客人と心得よ!」
◆ ◇ ◆
ドワーフの姫が眼球を捧げてから十余年。
帝国はますます版図を広げ、歴史上最大の国家となった。宗教的戒律を骨子とするのではなく、皇帝を頂く法体系を規範とするまったく新しい帝国。大陸の王国連合を征し、さらに辺境にある氷都を峻厳な山脈の向こう側に放逐したあと、敵となる者たちはもういなかった。
宮中の人々は噂し合う。セプタードアイル帝国の皇帝バルトロレイドは、征服戦争を終えた今ですらまったく年をとっていないようにみえる。
果たして皇帝は、ドワーフの姫君の眼球をどうしたのだろうか? 竜の血の伝説は本当だったのか? 皇帝は竜の血を我が身に宿し、不老不死を得たのだろうか?
――従者であるあたし、アイオン・アイオライトがなんどか聞いてみても答えはない。シンシャお嬢様は眼帯を嵌めた顔で微苦笑し、あいまいにごまかすだけだった。
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