魔眼

在雅

前編


1

 小学3年生の夏まで、私はいたって普通の少女だった。読書が好きで、話の合う友達が数人いて、勉強も運動も苦手で絵を描くのが好きだった。これからずっと変わることのない日々が続くと思っていた。

 思惑は大きく外れ、私には大きな変化が訪れた。とある蒸し暑い日、私の右目が変化したのだ。

 最初はひどい充血程度だった。白目がなくなるほどの充血が収まった後、黒目が3つに分裂した。3つの黒目は鮮やかな光を放ち、私の意志とは関係なしに結膜(目の白い部分)の上を動き回り始めた。

 白かった結膜は墨を落としたように黒く染まり、細く浮き出ていた血管も見えなくなってしまった。

 さらに眼球を一周する線のようなものが浮き出た。線にはルーンのような紋様がびっしりと刻まれており、黒目と共に絶え間なく動き続けている。

 黒目が分裂し始めた辺りで病院に行ったが、原因不明、と診断された。大学病院で行った精密な検査によると、虹彩、水晶体、硝子体、その他諸々の部位が見当たらず、分裂した黒目も、肉体とは別の物質に変化しているらしい。

 その後、半年近く各地の眼科病院を転々としたが、どの名医も専門家も、原因不明としか診断しなかった。最終的に今は胡散臭い研究所に通っているが原因解明の進展はない。


 幸い、痛みはなかったしウイルスによる感染の可能性も低く、即座に体に悪い影響を及ぼす危険性は低いだろう、と言われた。問題は変質した眼球が映し出す視界だった。

 まず、私の視界は充血と共に赤く染まった。充血が収まり黒目が分裂する頃には右目の視界は今までとは全く別の世界を映し出していた。

 輪郭を描く線が何重にもぶれ、歪み、他の線と絡まり合う。昼夜を問わず秒単位で明暗を繰り返したかと思えば、目が焼けるほどの激しい極光が照らしたり、宇宙よりも深い暗闇に沈んだりする。

 人や物は全く別の物体に見える。形も大きさも違う。人はだいたい化け物に見えるし、学校の校舎は天に伸びる摩天楼に見える。同じ物体でも日に日に別のモノに見えたりする。

 見え始めた当初は本当に困惑したし、気が狂いそうになった。しかし、目を閉じれば見えないことに気づいて以降、右目を眼帯で覆うと共に私の精神がそれ以上荒れることはなくなった。

 

中学2年生になった現在、割と健康的に過ごせている。学校には病気を患っているとしか言っていないし、母親と医者以外にはこの眼球を見せていない。

 父は私の目を気味悪がって蒸発したが、母は私のことを献身的に助けてくれた。病院を転々とした時も、右目が映し出す異界に悩まされた時も。お陰で身体は元気だ。

 だが、右目が変化したことによる障害はあった。小学5年生の時、親しかった友人がいたずらで私の眼帯を外したのだ。私も驚いた拍子に目を開いてしまい……異形の眼球を見て気味悪く思った上位カーストの数人が私のことをいじめたのだ。徹底的な無視に始まり、陰口、暴力、最終的には教科書をびりびりに破かれてトイレに打ち捨てられた。

 たった1人の親しかった友人は責任を感じたのだろう、いじめを止めようとしたが……逆にいじめの対象になって転校してしまった。いじめの癖にかなり慎重にやっていたらしく、友人がいじめられていたことは周りの大人はおろか私でさえ知らなかった。友人がいじめられていたことを知ったのは友人が転校した後のことだった。

 そして、私も後追うように転校した。

 それから私は周りとの交流を絶つようになった。あれほど嫌だった眼帯も、周囲が気味悪がって近寄って来ないのでありがたく思えてしまう。とにかく不愛想に、できるだけ会話をしないように。たまに私のことを馬鹿にするような笑いが聞こえてくるが、気にしない。

 気が付けば、私はクラスの中でも腫物のような存在になっていた。勉強も運動もできない、不愛想で、右目が謎の病におかされている。好かれるはずもない。正当な評価だ。


2

 そんなんで学校は全く楽しくないし、できれば行きたくないのだが、母を困らせたくないのでしぶしぶ行っている。

 だけどやっぱり勉強は苦手だ。特に数学は何を言っているかさっぱりわからない。あと純粋にやる気がない。私の成績は常にギリギリを保っている。

 今は社会の授業だ。もちろん、真面目に受けるわけもなく、話も聞かずに落書きをしている。先生も先生で我関せずに授業を続けている。他に寝ている生徒もいるので特別に私のことを無視しているわけではない。

 先生がする私に対して取る態度は主に3タイプ。露骨に気味悪がる、他の生徒と平等に接してくる、そもそも生徒に興味がない。割合的には2:4:4だ。露骨に気味悪がるタイプは希少で、女子中学生と戯れるのが好きでなんなら手を出してしまいそうな男性教師や他人に厳しく自分に甘い理不尽系女性教師に多い。そういった輩は私を見ると露骨に嫌悪感を表す、たまに小言を言ってくるが、いじめてくるほどではないので気にしていない。

 一番面倒なのは他の生徒と平等に接してくるタイプ。人と関わりたくない人の気持ちがわからないのだろうか。グループ学習でだんまりを決め込むとキレてくるから厄介だ。

 逆に一番楽なのは生徒に興味ないタイプ。害はないが徳もない。相手も自分も不干渉を決め込んでいるのでとてつもなく楽だ。

 だが、社会の授業は楽な分、退屈だ。この社会の時間でかなり落書きの腕が上がってしまった。興味のない話をBGMとして聞くことで集中力が上がっているのだろう。なんなら家のペンタブを持ってきたいところだ。


「え~桶狭間の戦いでは織田信長は少数の軍勢で今川義元を——」


 空は曇っており、外は肌寒いが、窓を締め切っているので教室内は入眠にほど良い温度に保たれている。この時間は昼休み後だ。睡魔に負け、船をこぐ者は多い。

 例に漏れず私にも睡魔が訪れた。落書きがひと段落したこともあって集中力が切れてしまったようだ。こういう時、私はすぐに机に突っ伏して入眠の体勢を取る。元々、授業は聞いていないし、ためらうことなど何もない。

 両腕を机に置き、顔を左横に向けて両腕の上に置く。これが入眠に適したいつものスタイルだ。


 顔を左横に向けた時、隣の席の女子と目が合った。

 ショートボブの髪型に可愛げのある顔立ち。そして、ネコみたいな鋭い眼光を持つ少女が私と目を合わせていたずらっぽく笑っていた。おしゃべり好きの女子が話の種に私を馬鹿にするような笑みではない。新しいおもちゃを見つけた子供のような溌剌とした笑みだ。

 反射的に目を閉じ、ゆっくりと再び開ける。彼女は私を見て笑ったままだ。私は居眠りを諦め、誰にも聞こえないように舌打ちをしてから正面を向いた。眺められながら眠れるほど図太くはない。それにあの目からは嫌な悪寒がする。

 しかし、まだ視線を感じる。私に何か思う所があるのだろうか?あるなら早く言ってほしい。会話が苦手な人間は会話をする可能性を考えるだけでも疲れてしまうのだ。

 しばらく身構えていたが、声がかかってくることはなく、ただ視線を感じるだけだ。

 嫌な奴に目をつけられてしまった。彼女の名前は深羽田(みはねだ)てる子。私がこのクラスの腫物なら、深羽田はクラスの嫌われ者だ。なんとなく避けられているのではなく、はっきりと忌避されている。私のように体面が悪いのではない。顔は良いし、テレビに出るほど有名な探偵であるという中学生にあるまじき謎のスペックを持っているので初対面で深羽田と話す奴はだいたい好意的だ。そして一度話した奴はだいたい深羽田のことを嫌うか、露骨に避けるようになる。


 とりあえず具体的にどんな嫌な奴なのか。実例を見てみよう。

 これは半年ほど前、2年に上がりクラス替え直後でコミニティがまだ安定していない頃のことだ。現在は学級委員長を務め、誰でも平等に優しく扱うことで評判なザ・聖母と評判の女子が深羽田に話しかけた時のことだ。

 あの時、委員長は「深羽田さんって探偵なの?すごいね」と深羽田からすれば100回はされているであろうオーソドックスな質問をした。ザ・聖母な委員長はクラスに馴染めていない人を中心にこうやって話しかけ回っていた。もちろん、私にも話しかけてきた。私も私で最悪な対応をしてしまったが、それは割愛しよう。

 深羽田は委員長の質問に対して笑みを浮かべながらこう返した。


「そうだね。ボクは君の知っている深羽田テルンだよ。本名はてる子だけどダサいから探偵やる時はテルンって名乗ってるんだ。呼ぶときはテルンの方で頼むよ。それにしても、君はボクのことをネットで知ったのかい?それともテレビ特集?あ、週刊雑誌かな?反応を見る感じネットとテレビみたいだね。まさに頭の悪い中学生って感じの情報収集手段だよねネットって。それも君はアレだろう?見たのは広告だらけの嘘くさいまとめサイトだろう?図星かな。一番最悪だ。ボク嫌いなんだああいうの。薄っぺらい内容な上にデマだらけの情報をコピペして、よく稼げるよね。勝手に話題にするのは良いんだけどさ。デマだけはやめてほしいよ。本当に。カスみたいなデマのせいで捜査に参加できなかったこともあるんだからね。薄っぺらいと言えば……話は変わるけど君は家族との仲は良好かい?ああ、言わなくてもいい。実は中身がない癖に他人に優しい君のことが少し気になってね。調べさせてもらったんだ。君は大変だね。両親は険悪で離婚寸前。ちなみに君のお父さん、浮気してるよ。お母さんも薄々気付いてるんじゃないかな。ああ、これは個人的にやったことだから料金はいらないよ。それよりも——」


 マシンガントークは委員長の様子を見かねた他の女子が止めにくるまで行われた。その後、委員長はしばらく学校を休んだ。戻ってくる頃にはいつもの調子を戻していたが、私を含めたクラスで浮いている人間に話しかけてくることはなくなった。

 深羽田はこのことに限らず話しかけた相手に対してマシンガントークで返すのだ。会話の内容は全て自己中心、当たり前のように相手を小馬鹿にし、ひどいときには勝手に身辺調査をして結果を本人に伝えてくる。

 趣味の悪いマシンガントークは相手や話の内容は関係なく、話しかけた相手に等しく行われる。先生に対しても容赦なくするし、親切で落とし物を渡した時に一言かけてもする。だから、学校で彼女に話しかける者は誰一人としていない。

 逆に深羽田から話しかけることはない。そもそも深羽田は学校に来ることがあんまりない。月に1、2回来る程度だ。来たとしても授業は聞かずにいつも本を読んでいる。こちらから話しかけさえしなければ害はない。


 今みたいに、にやついてこちらを眺めてくるのは初めての反応だ。クラスでも不愛想で無関心なことで腫物扱いされている私が、深羽田に話しかけることは絶対にないハズ。もし、何らかの間違いがあるなら正したいところだが、そのために話しかけるなんて愚の骨頂だ。

 今は耐えるしかない。そして、その後どうなるかは祈るしかない。願わくば身辺調査されてないで欲しい。天才中学生探偵、深羽田テルンの捜査力は本物だ。既に捜査が難航している未解決事件をいくつも解決している。しかもたった1人で。彼女にかかれば私が奇病にかかっていることなんてすぐにわかってしまう。そして、例のマシンガントークで晒されてしまうのだ。

 そうなったら私の中学校生活は終わりだ。またいじめられてしまう。元から終わってるようなものだし、その時は普通に不登校になるが。

 だが、散々悩んでいる右目のことを嬉々として語られるのは不快だ。やめてほしい。

 考えれば考えるほど不安が積もっていく。積もり積もった不安が過去のトラウマを刺激する。右目が晒された時の奇異の目。暴力と差別を受ける日々。助けられなかった友人。

 視界が揺らいで気持ちが悪い。

 

 思案しているとチャイムが鳴った。どうにか乗り切れたようだ。

 私はすぐさま帰りの支度をして、席を立った。一刻も早くこの空間から逃げ出したい。

 これから掃除とホームルームがあるが知ったことではない。後から平等タイプの担任教師に怒られるかもしれないが、どうでも良い。調子が悪かったとでも言っておけばいいだろう。

 実際に調子が悪い。嫌な思い出に入り浸ったからだろう。

 視界が安定しない。蜃気楼のように物体の輪郭が歪んでいる。歪みは次第に大きくなり、大きな不定形となる。常に流動していて、右回りに渦を巻いている。渦は何重に重なり、幾何学的な形に成す。学校全体の状態を表しているのだろう。なんとなくだが理解できる。

 色彩もおかしい。赤、青、緑の光が屈折しては婉曲し、衝突しては黒い花火を散らしている。

 歪んだ輪郭はいつしか黒い粘液となって体に纏わりつく。体に張り付く感覚が気持ち悪いはずなのに温かくて、愛おしい。

 見渡せば黒い海が広がっていた。見渡す限り全てが粘液だ。学校も深羽田も見当たらない。見当たらないだけで、そこにはいることは理解できる。

 よく見れば粘液を構成する細胞、粒子、細胞の1つ1つがこの世界を表している。超人的な推理をする深羽田も粘液として見てしまえばなんのことはない。ただの油汚れだ。

 粘液が私を包み、全てを無に還し……


「……谷君。白谷君。大丈夫かい?」


 名前を呼ぶ声が聞こえた。知性に溢れる快活な少女の声だ。頭がくらくらする。右目が熱い。

 気付けば床に倒れていた。深羽田テルンが覗き込むようにが私を見降ろしている。

 右目の眼帯は……ちゃんと右目を塞いでいる。右目も開いていないようだ。

 常識が全てひっくり返るような感覚。忘れもしない、右目を開かなければ見えないはずの世界。あれは、右目の視界だ。

 なぜ?右目は閉じていればあの異界は見えないはず。

 ふらつきながら立ち上がる。周りを見渡すと奇異の目が集まっていた。大半が私を見ながらひそひそと話している。

 もう半分は心配そうな目で私を見ている。きっとこの場に居続ければ先生を呼ばれるだろう。委員長辺りが既に呼びに行っているかもしれない。

 こっちはさっさと帰りたいし、誰とも話したくないのでそれは困る。

 私は深羽田テルンには特に何も言わず、ふらついた足で教室を後にした。

 玄関に向かいながら右目の眼帯を触る。異常はない。眼帯もずれていない。

 今までこんなことはなかった。眼帯を外されたとしても右目を閉じてさえいればあの視界は見えない。

 焼石に水かもしれないし、あんまり行く気にはなれないが、検査の必要がある。帰りにあそこに寄ってみようか。


3

 何度も吐きそうになりながら歩いている内に、体調はいくらかマシになった。

 私は今、古びた建物の前に立っている。白い壁面に大量の蔦が絡まっているその様は一見、誰もいない廃墟に見えるが駐車場には一台の車が停車してある。この建物には誰かがいるのだ。

 学校から一時間ほど歩いた場所にある街はずれの研究所。それが廃墟の正体だ。

 病院を転々とした後にたどり着いた最後の拠り所でもある。少年少女の超能力を研究しているらしいが、私以外に研究所に訪れている人を見たことないし、具体的に何の研究をしているかは知らない。そもそも研究者が1人と助手が1人しかいない。怪しい上に胡散臭いが……わからないと匙を投げてしまう病院よりマシだ。

 中に入ると、エントランスが広がっており、古ぼけたソファーや本棚、その他諸々の家具が置かれている。人気がない割には掃除が行き届いるため、古いという印象はあまりしない。

 向かう先はエントランスから廊下に抜けたとある一室。扉には「宮地令斗」と書かれたネームプレートがかけてある。


「失礼します」


 一声かけてに軽くノックをする。

 

「はーい。どうぞー」


 扉から気の抜けた返事がするのを確認して引き戸を開ける。

 眼鏡をかけた白衣の男が鉄製のスツールに座っている。お面のように張り付いた笑顔が印象的だ。部屋の内装と男の風体だけを見れば内科医に見えなくもない。

 ネームプレートの通り、この男の名前は宮地令斗(みやじ れいと)。この研究所のたった1人の研究員だ。当たり前だが、1人しかいないので所長でもある。

 

「やあ、白谷夏美さん。こんにちは」

「……こんにちは」

「検査からまだ1カ月経ってないけど、何か用かな?」


 検査と言っているが、行っていることは研究のための調査だ。

 私は右目を治すために最終的に行きついたのがこの研究所。と言っても、この胡散臭い研究所も解決方法は全く出せていない。

 ただ、宮地が月に一度の調査によって解決方法を導き出す可能性がある。可能性は低い上に宮地の予想では早くても20年はかかるらしい。それも副作用とかコストとかを考えると生きている内に右目が完全に元に戻ることはない、と言われた。

 調査に協力すれば定期的にお金が入るため、現在は月一で研究に協力している。協力と言っても私は睡眠薬で寝ているだけだが。父が蒸発し、母の負担を少しでも軽くしたいから、現状助かってはいる。


「実は……今日、目を開いてないのに右目の視界が見えてしまって」

「ほうほう。なるほど?」


 宮地は懐からメモ用紙とペンを取り出した。


「それで?何が見えたんだい?」

「え?ああ、いつもみたいに輪郭がブレた後に、今回は黒い粘液の海みたいなのが見えました」

「へー、過去に同じやつを見たことある?」

「……ない、ですね、多分」

「その黒い海について何か心当たりとかあるかな?」

「……ぇ、な、う……ないです」

「そっかそっか」


 宮地は汚い文字でメモを取るとこちらに向き直った。張り付いたような笑顔が機械的で不気味だ。

 知り合ってから2年ほど経つが、私はこの男が苦手だ。こっちは話すのが得意じゃないのにずけずけ質問してくるし、何より張り付いた笑顔が何を考えているかわからなくて気持ち悪い。

 素性は研究員ということ以外謎。研究内容も若者の超能力を調べることらしいが詳しいことは不明。「宮地令斗」という名前もネットで調べても一切出てこない。ともかく謎が多く、胡散臭い。当時は必死でどんなに怪しくても気にならなかったが、今になってみるとお金が貰えるとはいえよくこんなのに協力してるなと思う。


「じゃあ、さっそくだけど検査してみようか。いつも通り睡眠薬飲んでもらって、目を見るやつね」

「……はい」

「よいしょっと。ゆいさーん。今から夏美さんの検査するから睡眠薬持って来てもらえるー?」


 宮地がやや大きな声で助手の名前を呼ぶ。返事はない。

 しばらくして背の高い女性が紙コップを持って部屋に入って来た。パーカーにジーンズという研究所で働いているとは思えないほどラフな格好だ。宮地とは対照的に無表情で話しているところを見たことがない。

 彼女はゆいさん、と呼ばれている。おそらくこの研究所の助手だ。年齢は目算で20代前半。女性にしては身長が高い。180cm以上はあるだろう。

 ゆいさんは宮地以上に謎が多い。というか情報が少ない。一応、検査に必要な睡眠薬だったり、エントランスの掃除をしているから研究所に勤務しているんだろうけど……それ以外はどこで何をしているか全く不明。助手、よりかは使い走りの方が正しいのかもしれない。

 ゆいさんは私に紙コップを差し出すとそのまま部屋を出て行った。検査を手伝うことはしない。出て行った後は何をしているのだろう。研究所を一日中掃除しているのだろうか。

 私は受け取った紙コップの中にある液体を飲み干す。少量しかない液体だが、苦くて薬っぽい甘さがある。薬は口から喉にかけて広がっていき、胃に流れ落ちていく。


「よし。飲んだね。じゃあ、そこのベッドで横になっててね。僕は機材の準備してくるから。あ、ゆいさーん!機材の準備手伝ってー!」


 宮地はまたやや大きな声でゆいさんを呼んだ。さっき来た時に引き留めておけばよかったのに。

 そういえば、今日は検査用ベッドの近くにある大きな顕微鏡みたいな機械が見当たらない。連絡をいれずに来たから準備ができていないのだろう。

 部屋の奥にあるベッドに横たわり、目を閉じる。

 右目の検査をするだけならば、わざわざ私が寝る必要はない。睡眠中に検査をしてもらうというのは、右目の視界を見たくない私の要望だ。意識のない状態であれば右目を開いてもあの視界を見ることはないらしい。

 この考えを提案したのは宮地だ。初めて会って、私が右目を開きたくないと言った時に提案されたのを覚えている。出会って間もない研究者に眠らされるのは怖かったが、右目の視界を見る方が嫌だったので仕方なく受け入れた。

 宮地はなぜ、意識がなければ右目の視界が見えないことがわかったのだろう。あの時、宮地は初めから効果があることを知っていたかのように提案していた。考える素振りも全く見せなかった。もしかしたら、過去に私と似たような人を対処したことがあるのかもしれない。そう考えると宮地は少しだけ期待できる。少なくとも匙を投げた他の眼科医よりかは。

 目をつむると色々なことが浮かんでくる。直近だと、深羽田テルン、黒い粘液、クラスメイト達の視線。今日のことを母に言った方がいいだろうか?きっと母は心配するだろう。これ以上余計な心配はかけたくない。ああ、でも、心配をかけたくないなら勉強しなくては。他人に対する態度もこのままでは良くない。

 思考の速度が遅くなる。睡眠薬の影響だ。

 訪れた睡魔に抗うことなく、私の意識は闇へと沈んだ。

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