残夏懺悔

十余一

残夏懺悔

 これは罪の告白でございます。私は大変に業の深い行いをしてしまったのです。どうか懺悔ざんげを聞いてくださいまし。


 それは暑い夏の日でございました。不意の来客があったのです。茶褐色の衣を身に纏った、卑しく、おぞましい招かれざる客人でございます。家々の裏手をうごめい回り、勝手口から忍び込んでは残飯を漁るのです。見目だけではなく、立てる音を聞くだけでも寒気がいたしました。


 何度追い払っても訪れるその方に困り果てた私は、夫に相談いたしました。


「旦那様、相談がございます。今年もあの方がお見えになってしまったのです。何か手を打ちませんと――」

「台所はお前の領分だろう。自分でなんとかしなさい」


 日々の勤めでお疲れだったのでしょう。旦那様は面倒くさそうにあしらい寝入ってしまわれました。


 その後も私の孤独な戦いは続いてゆくのです。お引き取りいただくために様々な対策を講じましたが実を結ばず。最早打つ手なしかと絶望していた折、再び不意の来客がありました。今度は烏羽色からすばいろの山高帽を被った紳士的な方でございます。


「ごめんください。私、地球製薬の森村と申します」

「何の御用でしょうか。富山の常備薬がありますので、薬なら結構でございます」

「まあ、そう仰らずに。奥方様がお困りだと伺ったのです」


 森村様はそこで一旦区切り、右手を口元に添え、声を潜めて続けたのです。


「あの方が現れたのでしょう。名前を言うのもおぞましい、あの方が」


 ハッと息をのむ私に、口元だけで笑みを浮かべる紳士。いったいどこから聞きつけたのでしょうか。全てを見透かすようなその両眼から、私は目を逸らすことが出来ませんでした。


「こちらの商品は如何でしょうか」


 鞄から取り出したのは山高帽と同じ烏羽色の半胴瓶。蓋を開けてもいないのに、決してかぐわしいとは言えない香りが鼻をき、思わず眉間に皴が寄ってしまいました。糖蜜を煮詰めたような、それでいて甘みの中に何ともいえない不快感が漂っているような……。


「これは、もしかして――」

「きっとあなたのお役に立ちましょう。お代は、効果を実感してからで結構でございます」


 森村様は私の言葉を遮って瓶を押し付け、止める間もなくお帰りになってしまいました。



 暫くの葛藤の後、私はあの方が好んで徘徊しているあたりに瓶を置いたのでございます。以来、お姿を拝見しておりません。恐らく瓶の中身を啜り、どこか私の知らぬところで息絶えたのでしょう。

 そして私は安堵の溜息をついてしまったのです。自責の念や良心の呵責かしゃくよりも先に安堵を感じてしまったことが、罪悪感を更に増幅させました。他者の命を奪い安心するなど、なんて罪深いのでしょう。倫理に背く行いでございます。



 五日ほどして、再び森村様が訪ねていらっしゃいました。


「どうです? 効果は覿面てきめんでございましょう?」

「ええ、まあ……」

「そうでしょう、そうでしょう」


 自社の商品が好評だったことに気をよくしたのか、森村様の声は弾んでおられます。私は後ろめたさで顔を上げることもできません。代金をお支払いしたあと、意図せず言葉が零れ落ちてしまいました。


「殺生という過ちを犯してしまった私は、極楽に行くことは叶わないのでしょうか……」


 この負い目を自分一人の中に閉じ込めておくなど、到底無理なことでございました。誰でもいい、私を裁き、罰してほしい。そんな思いから滔々とうとうと懺悔の言葉が溢れ出てくるのです。


「死後の幸福より今生の安寧を選び取ってしまったのです。俗世のことしか考えられない私は何と浅慮なのでございましょう」


「それは違います」

 森村様は強く明確に否定なさいました。


「あなたは手など下していません。あの方が、勝手に、自分の欲に負けただけなのです」


 蝉がやかましく鳴く中で、そのよく通る声だけが鮮明に耳に入ってくるようでございました。

 真に顧客の心を思い遣ってのことなのか、それともただ商品を売るための方便なのか、私には判断がつきません。しかし、森村様が仰ることを信じたくて堪らないのです。そうすることで己の罪深い所業から目を逸らしたくて仕方がないのです。犯した罪への罪悪感、更にそれを誤魔化そうとする自身の卑しさ、清く正しくありたいという道徳心、それらがぜになって思うように返答ができません。口を開いては閉じ、閉じては開き。


 私が言いあぐねていると、紳士は最後に一言残して立ち去って行きました。


「では、また一年後に」



 ◇



 そんな脳内妄想を繰り広げながら今年の夏を振り返った。


 アース製薬のブラックキャップは本当によく効く。置いたその日から見かけなくなったのだ。何をって、その、なんというか黒いヤツを。または黒い彗星を、もしくは闇の使者を。

 有効期限は一年間。また来年もお世話になろうと思う。

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