解語の花

川原実

第1話

「コウヅキスミレ、覚えてる?」

 その名前が耳に入った瞬間、僕は酒のジョッキに伸ばそうとした手を止めてしまった。それくらい、僕は動揺を隠せなかった。


 今僕は居酒屋にいる。なんてことはない、庶民的なチェーン店だ。その庶民的な居酒屋で僕は、高校の同窓会の二次会に参加している。人数でいえば、15人程度だろうか。二次会の割には集まった方かもしれない。貸し切りの座敷で昔話をしながら飲み食いをしている最中に、クラスメートだった女の一人がとある人物の名前を口にした。

 神月菫、という女子生徒がいた。僕が高校3年生の18歳の時……20年前だろうか、3年1組に同じく在籍していた。

「びっくりしちゃったよねー。だってさーあの子」

「やめろよ」

 とある男の声が女の言葉をすかさず遮った。その男は、3年1組時代の学級委員長で、生徒会長でもあった藤本だ。

「こんな席でする話じゃない」

 藤本は険しい表情で話を終わらせようとした。場の空気が凍り付いた。

「あ……そうだよね。ごめん。別の話しよっか」

藤本の警告から、女は別のバカな話へと切り替えた。それ以降は、思い出話やみんなの近況などを酔っ払い特有のテンションで全員騒ぎ出した。 正直、僕は今までの酔いが一気に冷めるくらい、絶望的な感情に陥った。

これから話をしよう。ここからは僕の独り言だ。誰にも語ることはない、神月菫という女子生徒について。


 20年前、高校3年生の4月が事の始まりだった。例の神月菫と初めて同じクラスになった。しかし、彼女の存在自体は知っていた。何故なら、学年全体で噂になっていたからだ。

「手首にリストカット痕があり、時々体に怪我もしている。親に虐待されているのかも」

 こんな噂が、いつもなんとなく飛び交っていた。それを僕は風の噂程度で聞いていた。正直、神月菫がどんな姿かも把握してないぐらいだった。ただ名前だけが独り歩きをしていた。そんな彼女と、初めて同じクラスになったのだ。

 神月菫の姿を初めて見たとき、率直な感想を述べると

「特別美人でもなく可愛くもなく、かといって不細工でもない。どこにでもいる背が低めの、長い黒髪の女子高生」

 外見的にはそんな印象だった。そして、彼女が教室内で笑っている顔を一度も見たことがない。それどころか、クラスメートと挨拶や雑談すらしない。誰に対しても必要最低限の受け答えしかしない、その姿勢を徹底しているようにも見えた。なので、僕自身も敢えて関わりたいとは思っていなかった。だが、後々そんな彼女とうっかり関わってしまうことになるとは、4月の段階では想像も付かなかった。


 その当時、僕の家の近所にある公園で「猫殺し」と呼ばれている動物虐待事件が頻発していた。ターゲットは決まって野良猫で、発見された猫は説明するのも憚るぐらい気分を害するレベルの状態だそうだ。それも風の噂でしか知らなかった。その事件は、中央公園という名称の規模の大きい公園で行われていたらしい。そこには無数の野良猫が住みついており、犯人にとっては格好の的だったのかもしれない。僕は塾の帰り道、夜にその中央公園を通り抜けて帰っていた。そのことを母はとても気にしており、塾に向かう度に

「帰りは中央公園通っちゃダメだよ。安全な道から帰ってね」

 と過度に心配をしていた。僕は苦笑しながら

「男なんだし、大丈夫だよ」

 とあまり気にせず近道として中央公園を通り抜けていた。よく考えたら、母の忠告を聞いていれば、僕は今こんなことになってなかったかもしれない。


 ある日の晩、またも母の忠告を無視して、塾の帰りに中央公園を自転車で通り抜けようとしていた。その日は塾の終わりに仲間とバカな雑談をしてしまったので、いつもより帰りが遅くなってしまった。案の定、人気は全く無かった。

 木が鬱蒼とした場所を通りがかろうとした時、何かの悲鳴みたいな声が聞こえた。人間か動物かは分からなかったが、とにかく心がざわついた。木が生い茂った場所の奥の方から、小さい物音が聞こえた。僕は思わず自転車を停めて降りた。

「もしかしたら女性が乱暴されているのか……?」

 ふとそんな嫌な予感がよぎった。僕は迷った。奥へ行って助けに行くか、それとも見過ごすか。

 断言する。僕は決して善人や正義のヒーローではない。ただ、僕は偽善者の真面目系クズなのでここで見過ごしたら明日目覚めが悪いのでは、という保身の心から迷いが生じたのだ。なので、僕は覚悟を決めて茂みの奥へ行く事にした。

 茂みの奥に灯りはない。なので、僕はスマートフォンのライト機能で辺りを照らし歩き回った。しばらく歩き回ったが何の気配もなく、もしかしたら僕の杞憂だったかもしれないとまで思えてきた。その時だった。ガサガサ、といういかにも何かが草木を踏み動いたような音がした。心拍数が急上昇した。音の方向にスマートフォンのライトを向けると、黒づくめの女らしき人物がいた。フードを被っていたが、顔はハッキリと見えた。というか、見てしまった。

「え……」

 僕は絶句した。その人物は神月菫だった。神月が驚愕の表情をした。僕は衝撃のあまり呆然と立ち尽くしていた。すると神月は一目散に逃げ出した。僕は追いかけることができなかった。足元をライトで照らすと、そこには血だらけの金槌や鋸にナイフ、あと文字での説明を憚るほど無残な姿になった猫の遺体が散らばっていた。胃の内容物が全部吐き出そうになるぐらい、地獄絵図のような光景だった。


 翌朝、登校時刻ギリギリに教室に入った。僕は真っ先に目視で神月が居るかどうか確認した。神月は何事もなかったかのような表情で自分の席に座っていた。どんな精神をしたら平気な顔で翌日学校に来れるのかが理解に苦しむ。サイコパスなのか?

「お前ら席につけー」

 担任の北野が入ってきたので、僕は誰にも何も言葉を発することなく席に着いた。北野が今日の連絡事項をペラペラ喋っていたが、僕は平然と席に座っている神月を横目で見ることに必死だった。北野の話の内容など上の空だった。

 そして今日僕が取るべき行動とは何か。

「昨晩は何も見ていない。中央公園で神月菫と遭遇してもないし、猫の散らばった遺体など何も知らない」

 知らぬ存ぜぬ見て見ぬフリを決め込もう、そう思いクラスメートには普段通り接した。僕も何事もなかったかのように振る舞った。それが自衛のための最善だと思っていた。


 放課後になり、僕はスマートフォンを操作しながら階段に向かっていた。スケジュールのアプリから通知が来た。今日は夜から塾の日だった。家に帰って一休みでもしようかと思いながら階段を降りていたら、踊り場で立ち尽くす女子生徒が居た。神月だった。心臓が悲鳴を上げそうだった。

「どういうつもり?」

 神月が無表情で僕に問いかけてきた。僕は必死で平静を保ちつつ

「何が?」

 と問い返した。

「白々しい。見たでしょ? 昨日のアレ。何故黙ってるの?」

 相変わらず無表情を貫いたまま、僕を詰問してきた。正直な話、僕は善人でもなければ正義漢でもないので、サイコパス女と関わり合いになりたくない気持ちが勝っていたので黙っていただけなのだが、何かが気に入らないような態度だった。

「何故って……面倒だからに決まってるだろ。関わりたくないだけだ」

 なるべく、端的に素気なく答えた。

「ああ、平和主義ってやつ? これだから平和ボケしてる奴は……幸せな頭してるわね」

 神月が初めて表情を豹変させた。侮蔑の笑みを浮かべながら僕を「平和ボケ」と嘲笑してきたのだ。僕は初めて「今目の前にいる奴を殴りたい」という、攻撃的で衝動的な感覚を体験した。確かに僕は常に事なかれ主義の平和ボケした人間で、子どもの頃から他人とのトラブルを極力避けて生きてきた。なので、こんな風に対面で直接攻撃的な発言をされることはほぼ無かった。しかも女子の方から。僕は激しい怒りに右手が震えた。

「塾があるから」

 そう一言残して立ち去った。その時はそれが精一杯だった。こんなサイコパス女をこれ以上構って殴って今後の人生を棒に振るより、大学受験に向けての今夜の塾を最優先事項にした。

――人を殴りたい。

 経験をしたことがない感情だった。案の定、僕はその日の塾の授業内容が全然頭に入ってこなかった。それぐらい、僕は怒りを感じていた。いや、単なる怒りより憤怒に近いかもしれない。思い出したくないのに、神月のあの侮蔑の笑みが繰り返し脳内でよぎるのだ。結局、その日の晩眠れないぐらい最低な気分に陥った。そして眠れない真っ暗な自室の中で、僕はある決意をする。


「一体何なの?」

 翌日、今度は僕の方から放課後に階段の踊り場で神月を待ち伏せた。今回の彼女は、嫌悪の表情を浮かべていた。

「話がある」

 僕はなるべく目立たないように、小声でそう言った。

「お前こそ一体何のつもりだ? あんな事をしておいて、よく平気で学校に顔を出せるな。しかも僕を『平和ボケ』と侮辱までして」

 できるだけ感情を抑えつつ、周囲に気付かれないように細心の注意を払った。自分の感情の処理を、穏便に済ませたかった。

「何よ、今度は正義のナントカごっこみたいなのがしたいの? というか、貴方プライベートでは自分のこと『僕』って言うんだ」

 また侮蔑の笑みを浮かべられ、尚且つ自分の一人称についてまで揶揄してきた。これはもう殴ってもいいのでは? とまで思えてきたが、とりあえずここは「自分の方が大人である」という姿勢を貫くことにした。

「猫の件はどういうつもりなんだ? 返答次第では、お前を通報する」

 単刀直入に切り込んだ。彼女の表情がすぐさまいつもの無表情に戻った。

「そんなに知りたい? 私がどういった人間なのか」

 逆に問われた。予想外の展開だった。僕の予想では、不意に待ち伏せて言い返すことで怯んだ神月を見物するつもりでいたからだ。

「どういった人間……って」

 僕が知っている神月菫は、風の噂通りしか知らない。何度でも言う、

「手首にリストカット痕があり、時々体に怪我もしている。親に虐待されているのかも」

 僕の知っている、神月菫の情報はそれくらいしか知らない。その噂自体も真実か嘘か分からない。そもそも彼女に、関心も興味も無かった。むしろ自分からは話しかけたくない部類の人間だった。

「知りたかったら着いてきたらいい……教えてあげるわよ、私がどういう人間なのか。本気で知りたかったら来ればいい」

 無表情のまま、僕に選択肢を迫ってきた。「知りたいか、知りたくないのか」という究極の二択だった。

「……分かった。着いて行くよ」

 後々、この選択肢の前者を選んでしまったことを激しく後悔する。ここで前者を選択した時点で、僕は大人ではなかった。まだまだ未熟な子どもだった。


 神月の後を着いていくと、行き先は例の猫殺しの現場である中央公園だった。中央公園の、人目に付きにくい奥まった場所を案内された。そこは、簡易的な遊具はあるものの子ども一人遊んでいない、閑散とした場所だった。

「何だこんな人気のない場所に連れて来て……殺す気かよ」

 僕は半ばヤケクソ気味に呟いた。神月は生き物を殺して毎日平然と生きている女だ、僕も猫と同じ目に遭うのではと若干恐怖感を抱いた。

「あら、逆だってあるでしょ。貴方の方がうっかり私を殺す可能性もある」

 ああ言えばこう言う、逐一腹の立つ女だ。しかしいちいち怒り出してたらキリがないので、もうこれからはスルーしよう。とりあえず僕達はベンチに座った。神月は数十秒黙っていたが、突如立ち上がった。

「百聞は一見にしかず、という言葉の通りかもしれない。見た方が早い」

 いきなり制服のセーラー服の前ボタンを外し始めた。

「やめろ!」

 そう叫んだ時には遅かった。セーラー服の内側には、想像を絶する事象の痕がたくさんあった。

 無数の痣と、性的虐待を匂わせるような痕。うっかり女子の下着姿を見てしまった興奮より、今目に映っている絶望の数々に僕の精神はちょっとした鬱病状態寸前だった。素直に感想を述べると、萎えた。恐ろしく気分が滅入った。そして彼女は左袖を捲った。そこにも無数の傷跡があり、僕は精神が破壊されるかもと思い始めた。

「貴方も何となく知ってるでしょ、私の噂。その通りよ。いや、噂の内容より酷いかもしれないわね」

 神月はまたも無表情のまま、淡々と喋り出した。

「小学生の頃から、両親に虐待されてる。どういう仕打ちかは、今見た通りよ。ちなみに私の両親は実の親、生みの親よ」

 僕は気が遠くなった。僕の両親からは到底想像付かないような仕打ちや日常が、神月家では日々繰り広げられているのだ。しかも小学生の時から。

 僕の両親は、絵に描いたような普通の人達だ。父は平凡な製造業のサラリーマンで、母は兼業主婦。ただ、母とは血が繋がっていない。実の母は、僕が小学校4年生の時にガンで亡くなっている。今の母は父の後妻で、僕にとっては義母だ。しかし、懸命に僕と家族になろうとしていた義母の誠意に応えるために、僕は後に義母を「母さん」と呼ぶようになった。義母もまた、僕を実の息子のように日々愛情と心配をしてくれている。その義母の想いに、僕は応えている。なので今は本当に母親だと思っている。

「貴方みたいな普通の人には、理解できないでしょ。当然だと思うわ。別に理解しなくていい。要するに、猫殺しもリスカも私にとってはストレス発散みたいなものよ。だから、通報したりどこかに告げ口したいなら、いくらでもすればいい」

 表情を崩さぬまま、神月は自分の動機について説明をした。僕はそれに何の返答もできず、黙り込んでしまった。

「これで分かったでしょう……これ以上私に関わらない方がいいわよ。貴方に何のメリットもないでしょ。だからこの件は今日で終わりにしましょう。貴方も明日から、また私を無視し続けたらいい」

 神月は視線を逸らして、話を終わらせようとした。その空気を読み、僕も今日は大人しく黙って帰ることにした。


 神月と中央公園で会話をした日の夜、僕は塾を休んだ。自宅に帰るなり、母が「顔色が悪い」と心配し出したので、頭痛がしていることにして塾を休ませてもらった。僕は自室に籠もって、一連の出来事について回想していた。そして神月の体にある壮絶な虐待の痕跡と、彼女の最後の一言が頭から離れなかった。

「明日からまた私を無視し続けたらいい」

 それが頭から離れなかった。いや、正確に言えば違うか。猫殺しの現場を目撃した日から、僕は神月菫のことばかり考えていた。何故だか、脳裏をよぎる。僕にとってはよく分からない感覚だった。こんなに他人のことを考えるのは、生まれて初めてだった。そう思うと、実は今までの僕という人間はなかなか無関心で薄情なのかもしれない。そんな僕が、3日間連続で同じ人間のことばかり考えている。何とも説明し難い感情が芽生えていた。恐らく、このままではしばらく眠れない日々が続くだろう。それは学校生活を送る上でも、精神衛生上にも良くない。では、どうするか?


 そのまた翌日、懲りずにまた僕は学校の敷地の外で神月を待ち伏せた。さすがの彼女も呆れた顔をした。

「また……今度は何なの」

 面倒臭そうな言い草だった。

「話がある。昨日の場所で話をしよう」

 前置きをすっ飛ばして、用件だけを伝えた。了承したのか、神月は黙って僕のいう通り中央公園の例の場所まで一緒に来た。

「で、言われた通り来たけど。何の話なのかな。私の言うべきことは昨日話したはずだけど」

 神月は「これ以上話すことはない」と言いたげな顔だった。

「率直に言う。僕はここ数日、神月のことばかり考えてる」

 彼女は表情を曇らせた。だが、僕はこう続けた。

「自分が気持ち悪いのは分かってる……でも上手く説明ができない。僕は学年上位の君と違って頭が悪い。ただ、不眠症になりそうなぐらい神月のことばかり考えてる」

 何をストーカーじみたことを喋ってるんだ、と我ながら気持ち悪い男だなと内心自虐しつつも、真剣にそう伝えた。

「もしかして私を可哀想とか思ってるわけ?」

 神月は険しい顔付きになった。その発言について、「それは違う」と僕は即時に否定した。

「決して君を可哀想とか、憐れんでるわけじゃない。誤解させたのならごめん。ただ何と説明したらいいのか……とにかく君のことが頭から離れないんだ。神月は昨日『今日で終わりにしろ』と言ったけど、僕の中では終われないんだ」

 神月はまた無表情に戻った。すると、こう返ってきた。

「貴方の中で、私のような人間は珍しいだけでは? しばらく時間が経てば忘れるわよ」

 時間薬では、みたいなことを神月は言った。

「忘れないと思う」

 僕はまた即答した。

「神月が最初に言ってた通り、僕は事なかれ主義の平和ボケなんだと思う。だけど、正直今までこんなに他人のことを考える機会が無かった。だから僕は昨日決めた」

 神月は黙ったまま僕の話を聞いていた。そして僕は今日最大の結論を口にする。

「君と関わっていたい。これからも話がしたい」

 神月は一瞬目を見開いたが、すぐ無表情に戻った。

「私に関わってもロクなことはないわよ」

「例えロクでもない出来事が起こったとしても、それは僕の自己責任だ」

 僕は断言した。ここは一歩も譲る気は無かった。

「はぁ? 何考えてるの貴方……バカなの?」

 彼女はまた呆れた顔をした。

「そうかもな、バカなのかもしれない。だから、僕のバカに付き合って欲しい」

 笑いながら、僕はそう伝えた。神月は溜息をついた。

「はぁ……好きにすればいいわ」

 彼女は、心底面倒臭そうにそう吐き捨てた。

「うん、好きにするよ。ありがとう」

 こうして、本日をもって僕と神月菫の奇妙な関係が開始された。


 神月菫との友人でも恋人でもない奇妙な関係が始まり、数日が経った。僕達は一体どうやって会話をしているのか。僕はこう提案していた。

「神月は学年全体で悪目立ちをしている。なので、人目につかない場所で話をしよう」

 ということで、僕達は今神月が時々顔を出しているという喫茶店に来ている。店の外観は、正直言うと古ぼけている。中に入ると客は全くいない。店の主人らしき初老の男性だけだった。写真映えとか、女子高生が好むような店ではないのはすぐ分かったが、彼女の性格上こういう店の方が落ち着くのだろう。

「やあ、君が誰かを連れてくるなんて珍しいね」

 ご主人らしき人が、神月と僕を見て驚いたような表情をした。

「ええ……まぁ」

 神月には触れられたくない話題なのか、口ごもっていた。そして何も言わずに一番奥のテーブルに座った。僕もそのテーブルに座り、僕らはやっと落ち着いて座りながら話ができる状態になった。とりあえず、お互いホットコーヒーを一杯ずつ注文した。

「喫茶店なんて行くのか」

「ただの息抜きよ。あと何かに集中したい時とか」

 素っ気ない答えだった。この店に思い入れがあるとか、そういった感じには見えなかった。

「ファーストフードとかの方が安いのは分かってるけど、客が騒がしいし落ち着かないのよ」

 あくまで客層と自分のストレス緩和を意識している、みたいな説明をされた。確かに、ハンバーガー屋やファミレス系の店は騒がしい。僕自身も、声は大きい方ではない。こういった静かな店の方が助かる。

「あの人はここのご主人?」

 コーヒーをハンドドリップで入れる初老の男性を見ながら、僕は神月に尋ねた。

「そうらしいわね。ずっと一人で店番をしているみたい。バイトの類は見たことがない」

 確かにこの閑古鳥が鳴く状態の店では、アルバイトは必要ないだろう。

「で、何を話したいの?」

 神月は本題に入ろうとした。

「何を……うーん……そうだな、まず訊きたいのは、何故標的は猫だけなんだ? 猫が嫌いなのか?」

 僕の純粋な疑問を伝えた。すると、また予想外な言葉が返ってきた。

「いや、好きだけど」

 平然とした表情で答えた。僕は驚きを隠せなかった。

「は? じゃあ何で……」

「嫌い、憎い相手だから殺したい、というのは思い込みよ。好きだからこそ、愛してるからこそ殺したくなるものもある」

 神月はどこの国の言語を喋ってるのか? というレベルで訳が分からなかった。そして黙り込んでしまった僕に向かって、皮肉混じりに彼女がとんでもない発言をしだした。

「もしかして、貴方童貞なの?」

 嫌な笑みで、僕をじっと見ていた。

「お前なぁ……」

 ふざけるのもいい加減にしろ、と言おうとした時、彼女がまた口を開いた。

「冗談が過ぎたわね。童貞かどうかはさておき、貴方まともに恋愛したことがない、そもそも他人を好きになったことがないんじゃないの?」

 無表情で淡々と、僕の急所を突いてきた。そうだ、僕はまだ彼女ができたことが一度もない。仰る通りの童貞だ。だが、敢えてその事実は伏せておこう。神月の指摘通り、僕はまだ他人を好きになったり、恋愛をしたことがない。今まで学校生活に問題はなかったが、だが女子とは個人的に遊びに行ったり密に関わったことがなかった。

「正直に言うわ、貴方すごくつまらない人間よね。平和主義で事勿れを貫いて。常に保身に走ってる。そんな人間もてないでしょ、男女問わず」

 つまらない人間、というパワーワードが炸裂した。いや、強いメンタルの人にはなんてことはない言葉なのかもしれないが、実は僕は打たれ弱い、メンタルが弱い男なのだ。幸いなことに、このタイミングでコーヒーが来た。

「彼は同級生……それともボーイフレンドってやつかな? あ、ボーイフレンドなんて言葉は死語か」

 店主が笑いながら声をかけるも、神月は無言でコーヒーを啜っていた。

「いやあの、同級生ですよ」

 僕はすかさず否定したが、店主はこう続けた。

「そうか、まだ付き合ってないのか。じゃあデートってやつか」

 店主は含み笑いをしながら、僕ら二人をまじまじと見ながら冷やかしてきた。だが、神月はひたすら無言でコーヒーを啜っていた。僕と店主の会話に一切参加しなかった。それどころか、彼女は「ボーイフレンド」や「デート」という単語に対して、否定も肯定もしなかった。ただ、ひたすら無言だった。そしてコーヒーは無駄に美味しかった。


 喫茶店の後、自宅に帰り自室で受験勉強をしていた時、ふと僕と店主とのやりとりが蘇った。店主の「まだ付き合ってない、デートなのか」という発言を思い出した。僕は全く自覚が無かったが、世間一般から見たら、男女が喫茶店でお茶をしている光景はデートに見えるらしい。僕は無自覚にデートと呼ばれる行動をしていたのか。少々羞恥心が出てきたが、とある疑問も浮上した。

――何故あの時、神月は否定も肯定もしなかったのか?

 僕を「童貞」と揶揄する、あの好戦的で毒舌な神月が何故僕との関係性について否定しなかったのだろうか。それが不思議で仕方がなかった。そして、僕の中でおかしな理屈が出来上がっていた。

「もしかしたら、神月の中で僕は異性として意識されているのかも」

 というとんでもない発想が浮かんだ。そして、それを喜んでいる自分がいた。喜んでいることを自覚した時、僕はふと独り言を言っていた。

「僕は神月のことが好きなのかもしれない」

 こんな妄言を、独り言で口走っていた。かなり危ない人間になっていた。しかし、それくらい僕は気分的に舞い上がっていた。


 数日後、神月からの誘いで放課後に高校から少し離れた場所にある本屋に一緒に行くことになった。僕と彼女は喫茶店の日、メッセージアプリで連絡先を交換していた。連絡先を交換した理由は「お互い学校内では話しづらい」の一言に尽きた。メッセージで、「明日の放課後、本屋に行かないか」という旨の誘いを受けた。会話のついでに買いたい本があるらしい。彼女にとっては人目を避ける目的もあるのだろうが、僕は単純バカなので誘われたことに喜びを感じていた。しかし、本人の前ではあくまで平静を保っていた。

 本屋に着くと、神月は新刊のコーナーに向かった。とあるミステリー小説を手に取った。

「ミステリーが好きなのか?」

 僕が問いかけると、彼女はしれっとした態度でこう答えた。

「いや、別に。こだわりはないけど」

 相変わらず愛想のない女だな、と内心呆れつつもその本を手に取った理由を尋ねた。

「ミステリーが、というよりこの作者が好きなのよ」

 その本の著者名を見ると、『安達誄』という名前が記載されていた。

「アダチ……ごめん何て読むのこの漢字」

「ルイよ。アダチルイ」

 僕はいかに自分の偏差値が神月の下かを再認識した。

「珍しい漢字だな。本名なのか?」

「違う。ペンネームらしい。作者の素性は一切非公開。本人の意思で非公開にしてるみたい。だから、男か女かも分からない」

 自分の情報を一切明かさない、ミステリアスな人物だなと思った。ミステリアスを徹底しすぎて、中二病を疑ってしまいそうになる。

「作者曰く、『自分の素性を明かすと作品に変な先入観を持たれる可能性がある。それが嫌だ』というのが理由らしい」

 作者のことを語る神月を目の当たりにして、今日はやけに素直だなと感じた。

「神月は読書というか、本が好きなのか?」

 本に目を落とす彼女を眺めながら僕は問いかけた。

「最初はそうでもなかった。小学生の時に、暇潰しを兼ねて周りの人間に『話しかけるな』という無言の圧力をかけたかっただけ。読書を趣味としたのは後々よ」

 納得がいった。そもそも教室内の神月菫はどんな日常を過ごしているのか、という話をしよう。彼女は基本的に他人と必要最低限の会話しかしない。雑談以前に、朝の挨拶すらしない。やむを得ず言葉を発する用事でしか喋らない。そんな彼女が休み時間に何をしているのか。大体読書をしていた。

 クラス替えのあった4月、善かれと思って神月に話しかける生徒が一部いた。しかし、彼女はその生徒たち全員を拒絶していた。話しかけられても、必要最低限の返事しかしなかった。意思疎通が成り立たない相手と会話をし続けたくないのは人間として自然な感情なので、そして誰も用事以外で彼女に話しかけることはなくなった。

「周りと会話する、という選択肢は無かったのか?」

 相変わらず本にしか視線を向けない神月に問いかけた。

「会話したら終わりじゃない」

 やっと視線だけを僕に向けた。彼女は僕より大分背が低い。若干上目遣いみたいになってしまい、変にドキドキしてしまった。僕はその変な動揺を必死で隠した。

「会話するようになったら、友達ができたら、私の秘密がばれるじゃない」

 その目つきは、男でも少し恐怖を感じるぐらい怖かった。そうだ、その通りだ。下手に友人を作ってしまったら、彼女の家庭の秘密、神月家の虐待が明るみになる可能性がある。彼女が他人との関係を絶つ最大の理由は、自分の家庭の秘密を守るためだった。普通の家庭に育った僕には、他人と関係を絶つという発想はまるでなかった。友達がいて当たり前の学校生活だった。でも、僕にとって「普通」とカテゴリーしている日常は、彼女には叶え難い日常であった。

「……君の両親、そこまでして庇う価値があるのか?」

 僕は、平和ボケ代表として意見した。いや、冗談を言っている場合ではない。僕は虐待を容認できるほど、メンタルが強くない。自分がそんな仕打ちを日常的に受けていたら、精神がおかしくなるか、最悪自殺だろう。それとも殺人等の犯罪に走るか。

「ハッキリ言う。君は親に支配されている。そんなのは正常な親子じゃない」

 神月にとって耳が痛くなるだろうが、正論しか僕には言えなかった。

「親ってのはね、子どもの生殺与奪を握ってるのよ」

 神月が顔を上げて、僕に面と向かって言い放った。

「話を聞いただけの貴方にとってはただの虐待親、クズ親かもしれない。でも私にとっては実の両親なの」

 いつもの神月の無表情が、悲しげに見えた。これが、神月菫の本心なのか。虐待をされても、家族関係を維持するために親の仕打ちに耐え続ける。彼女は自分なりに、自分の生活と人生を守ろうとしているのだ。

「いや……そうだとしても」

「それに、私はお父さんに愛されてるの」

 僕は耳を疑った。お父さんに愛されている? 実の娘への性的虐待を、神月は「愛情」と受け取るのか?

「そう、私はお父さんに求められてる、愛されてるの。アイツとは違う」

 到底理解し難い次元の話になってきた。ちなみに、神月が今家でどうしているかは敢えて訊いていない。「父親のそういう仕打ちが現在進行形で続いているのか?」と尋ねたところで、その行為を事細かに教えられたら今度こそ僕の精神は死ぬ。死ぬのが目に見えている。なので何も訊かないでいた。

「アイツ、とは……」

「私の母よ」

 神月は急に冷めた声色になった。

「小学6年生の時に父からのそういう行為が始まった。あの頃のお父さんは、仕事とか色んなことで病んでる感じだった。もちろん、当時の私は真っ先に母に相談した。お父さんに変なことをされた、と。すると母から返ってきた言葉はこうだった」

 一呼吸おいて、絶望的な台詞を僕は聞いてしまうことになる。

「あんたがいるから私が女として見てもらえないんだ!」

 と、神月は母親に言われたらしい。しかも血の繋がった実の母親に。

「それからよ、母が私に日常的に暴力を振るうようになったのは」

 神月は視線を下に落とし、元々小さい声が余計に小さくなった。

「あの家では、誰も私を助けてくれない」 僕の家庭では想像を絶する行為が、神月家では日常的に行われている――

実の父からは性の捌け口にされ、また実の母もそれを知りながら娘を庇うどころか嫉妬心から暴力を振るう。神月菫は身体的虐待だけじゃない、精神的虐待も受けている。神月家に彼女の人権はない。それでもなお、彼女はそんな親を「両親」と呼び、家族で居続けようとしている。必死で耐えることで、家族でいることを維持している。それは何故か。

 きっと神月菫の根底にあるものは、「両親に愛されたい」という願望だと思う。他の誰でもない、血の繋がった実の両親に。どんなに親がクズだろうが、それでも実の親に変わりはない。「お父さんお母さんに愛されたい」という願望は、子どもとして当然な感情だ。僕は簡単に当たり前のように両親から得られている「愛情」が、彼女には当たり前ではない。神月自身がどう頑張っても、願っても叶わない出来事なのだ。僕は今の話を聞いて、本屋の中で大宇宙に一人放り出されたような感覚になった。


 本屋から自宅に帰ってきた。またも僕は顔色が悪かったらしい、母から「体調悪いの?」と心配をされた。なので、僕は「大丈夫、勉強のしすぎで頭が痛いだけだよ」とヘラヘラしながら自室へ入った。実際は、全然大丈夫ではなかった。神月の深く重い闇を聞き、僕は本屋に誘われたことに浮かれていた自分が情けなくなった。

「自分のような平和ボケの人間が、神月菫に好意を持つ資格などない。僕みたいなメンタルの弱いヘタレでは、彼女を深い闇から救えない。好きな女の子を救えない、守れないのなら、『好きだ』と思う資格がないのだ」

 頭の中ではそう分かっていた。分かっているのだが、僕はとある感情を抑えきれなかった。

やっぱり僕は、神月菫のことが好きだ。


 数日後、僕と神月は放課後に例の中央公園へ行った。話す場所は決まってて、彼女の下着姿をうっかり見てしまった閑散とした広場だ。二人でベンチに座った。今は夏で、放課後といえど昼間の外はさすがに蒸し暑かった。学校で衣替えが始まったので、お互い夏服になった。彼女はこの蒸し暑い中、敢えて半袖のセーラー服の上から学校指定のカーディガンを羽織っていた。

「それ、暑くないのか?」

 僕はカーディガンを指差して訊いた。

「人様からしたら、傷だらけの手首なんて見えたら気分悪いでしょ」

 神月は相変わらず無表情のままそう答えた。

「学校の中ではそうかもしれないけど……僕の前で気兼ねする必要ないだろ」

 今日はとても暑い、神月の体調面を心配していたつもりだった。ところが、また彼女の悪趣味が始まった。

「何でそんなに上着を脱がせたいの……ああもしかして貴方、女子の夏服から透けて見える下着を見物して興奮するタイプの人?」

 神月はまた嫌な笑みを浮かべながら、僕を揶揄してきた。

「は? お前なぁ」

 僕はムキになってしまった。

「ねぇ、やっぱり貴方って本当に童貞なの?」

 含み笑いをしながら、僕をからかってきた。逐一僕の劣等感を刺激する、というか神月は相手が困ったり嫌がったりしている姿を見て喜ぶ、一種のサディストなのかもしれない。

「そういう神月はサドだろ」

 僕は不貞腐れたように呟いた。

「そうかしら……まぁでも貴方の怒ったり嫌がったりしてる姿を見るのは、純粋に面白いわね」

 フフッ、と神月が少し笑った。彼女の一瞬の笑みに、僕はドキッとした。「可愛い」と思ってしまった。神月はふと立ち上がり、黒いカーディガンを脱ぎ始めた。彼女の腕は、白くて細かった。左手首の無数の傷痕がハッキリ見え、僕は胸の辺りがズキッとした。

「それ、痛いだろ」

 傷痕を指してそう言った。僕はなるべく見ないようにした。

「そうね。痛いわね」

 痛い、という割にはまたも無表情だった。

「リストカットをしている人の中に『痛みを感じない』という人も居るらしいわね。私もそのレベルになれたら、死ねるのかもしれない」

 とんでもない発言をし出した。

「バカなこというなよ。神月、お前やっぱり両親のことが苦痛で堪らないんだろ」

 神月の急所を突いた。彼女は視線を落とした。

「僕は神月に死んでほしくない」

 僕は真っ直ぐ神月を見つめた。でも彼女は地面ばかり見て僕を見ようとしない。それでも、こう続けた。

「いくらストレスで病んだといえど、血の繋がりとか関係なく我が子にそんな仕打ちをする親は正常じゃない、異常だ。神月、君は自分次第でもっと自由に生きられるよ」

 何を道徳の教科書みたいな文言を口走っているのか、と内心自虐しつつも僕は言わずにはいられなかった。

「手首切らなくても、猫を殺さなくても、君は生きていける」

 この言葉を、ずっと言いたかった。神月を「好きだ」と自覚した日から、ずっとそう思っていた。言いたかった。この時、いつも毒舌嫌味を炸裂させる神月はめずらしく黙り込んでいた。視線は地面を見つめたままだった。そしてお互い、何分も無言が続いた。沈黙を破ったのは僕からだった。

「そうだ、今度二人で街へ出よう」

 神月はさすがに顔を上げ、驚愕の表情をした。

「街に? 何しに行くのよ」

 怪訝な顔をされた。しかし僕は怯まなかった。

「都会に出たら、大きな本屋があるだろ? この辺は田舎だから本屋の規模も小さいし……君本好きだろ。蔵書量の多い大型書店の方が、見て回るの楽しいよ」

 そう、僕は大型書店を口実に神月とデートをしようと企んでいたのだ。それは何故か。彼女が気にしている人目を度外視でき、気兼ねなく二人で行動ができる場所に行きたかった。誰も僕達のことを知らない場所に行って、本当の意味でデートがしたかった。でもその真意は決して口にしない。

「もうすぐ夏休みだから授業も短縮になるし、学校の帰りにそのまま電車で街まで出よう。神月が嫌だったら、断ってくれていいよ」

 神月は無言になった。これは断られるフラグ立ったな。

「分かった。行くわ」

 逆に僕の方が驚愕した。まさか了承するとは思わなかった。

「えっ……本気?」

「貴方、自分から誘っといて一体何なの」

 神月は呆れた顔をした。

「いや、まさかOKしてくれるとは思わなかったから」

 僕はしどろもどろになった。動揺した僕を見ながら、神月はまた嫌な笑みを浮かべていた。

「貴方、本当に女慣れしてないわね。可愛いわねぇ」

 神月は僕をジロジロ見ながら、新しい玩具を見つけたかのようにニヤニヤし始めた。

「そういうお前は男慣れしてるのかよ」

 僕のこういう言動が、彼女からすればガキなのだろう。でも女慣れしていないのは事実だ。

「さぁ……どうでしょう」

「どういう意味だよ」

 僕は文字通り、言葉の意図が理解できなかった。

「今の言葉通りよ。関係を持った相手が父親だけじゃないかも、ということ」

 神月は意味深で嫌な笑顔をしながら、度が過ぎるからかいをしてきた。

「お前、いくらなんでもそういう冗談はやめろよ」

 僕は本気で怒ってしまった。自覚するぐらい怒りを露わにしてしまった。

「何そんな怖い顔して……ちょっと落ち着いてよ」

 初めて神月の慌てた表情を見た。そんなに今の僕の顔は怖かったのだろうか。予想以上に険しい表情だったらしい。

「ごめん。とにかく、女の子がそういうことを言うなよ」

 無意識とはいえ女子を威嚇してしまったことに、僕は罪悪感でいっぱいになった。

「いや……私の方が不謹慎だったわね。申し訳ない」

 神月は素直に自分の非を認めた。驚きだった。彼女がこんなに素直な発言をするのは、本屋以来だろうか。

「まぁいいよ。とにかく来週の金曜、学校帰りに街へ行こう。金曜日の方が、土曜日休みだしお互い助かるだろ」

 僕は話題を明るい方向に無理矢理シフトさせた。神月も、日時を来週の金曜日で了承した。今日の会話はこの辺りでお開きにした。


 自宅に一旦帰り、塾を終えて自室でゴロゴロしていた。塾で受験勉強に根を詰めてしまったのか、結構疲れていた。スマートフォンを操作していたのだが、誰からも連絡など来ていないのにメッセージアプリを起動させて、また無意味に神月とのやりとりを読み返していた。年頃の女の子が、絵文字一つも付けない。句読点と、必要最低限の受け答えしかない。僕も絵文字や顔文字を多用するような類ではないが、女子高生のやりとりとしてはあまりにも簡素すぎる気がする。塾の仲間で一部の女子の連絡先を少し知っているが、皆それなりに絵文字や顔文字を使ったりしている。神月のような文面は、女子の割には珍しいというか、かなりの不愛想さを感じる。僕は横になっていた体を起こして、アプリに文字を打ち始めた。神月宛てだ。

『来週の金曜、本屋の他に行きたい所ある?』

 なるべく不自然じゃない、気持ち悪くないような理由を必死で考えて送った。すると、数分後に神月から返信が来た。

『特にない』

 スマートフォンの画面でも相変わらず、愛想のない女だな。僕は何故か苦笑してしまった。

『じゃあ適当に街を見て回ろう。電車賃もったいないし』

 なんてせこい男なんだと思われそうだが、他に返す言葉が見付からなかった。

『分かった』

 神月からは、この一言だけしか返ってこなかった。彼女は会話を終わらせたいような雰囲気を出してきた。なので、僕もそれ以上返信をしなかった。ここでアプリ上の会話が終わったことに、僕は何とも言えない孤独感を感じた。塾の女子とのやりとりでは、一切感じたことのない気持ちだった。

 好きの反対は嫌いではない、みたいな話を聞いたことがある。要するにその人が何を言いたかったかというと、『好きの反対は無関心』という理論らしい。嫌い、という感情を持つことは、それだけその人物に時間や感情を費やしている。嫌いな人間がたくさんいるということは、それだけ自分にとって疲労が増える、という事だ。ここで考える、そもそも僕は神月にどう思われたいのか? 僕の方は勝手に彼女のことが好きだが、向こうは何を考えているのか全く予想が付かない。今の関係をズルズル続けていると、一生「自分は神月に好かれているのか、違うのか」という机上の空論ばかりを繰り返す予感しかない。でも、この関係を打破する方法もキッカケも今の僕には分からない。こんな話を人様にすれば、こう返って来るだろう。

「そんなに好きなら告白すればいい」

 という定型文みたいな返答しかないだろう。現実的にはその手段しかないと思う。しかし、実際の僕は神月本人から異性として意識される以前に、「女慣れしてないからかいやすい童貞」ぐらいにしか思われてないだろう。ふと、中央公園での彼女の発言を思い出した。

「関係を持った相手が父親だけじゃないかも」

 この言葉が、異様に頭の中を占めてきた。そしてまたおかしなことを考え始めた。

「父親以外にもそういう関係の男が居るのか、そしてその男はどんな人間なのだろうか」

 非常に不味い思考にシフトしていた。考えたくないが、嫌でも頭から離れない。どんな男だったら神月菫の心身を思い通りにできるのか。彼女を押し倒して、あの小さい細い体を好き勝手できるのか。いや落ち着け僕、体はさておき、どうしたら彼女に好きになってもらえるのか。

「僕ではダメなのか?」

 この境地にまで至った。病んでいる、確実に精神が病んでいる。これはとてもよろしくない。だって、神月に

「僕を好きになってほしい」

 と要求することは絶対にやってはいけない。「好きになれ」と言われて好かれるのは、意味が違う。全く嬉しくない。そんなことは、僕は全く嬉しくないし望んでない。じゃあどうしたらいいのか。そして僕は、懲りずにまた神月にとって無益な決意を固めた。


 例の金曜日がやってきた。僕と神月は、待ち合わせ場所を周囲にバレないように現地集合にした。学校の最寄り駅も、電車通学の生徒に目撃される恐れがあるからだ。実を言うと僕は自転車通学なので、学校帰りに電車に乗ること自体同じクラスの人間から疑問を持たれる可能性がある。だからクラス内の友人には「今日は用事がある」とだけ伝えて、足早に教室を去った。という段取りを経て、今僕は神月と街にいる。

 神月の目下の行きたい場所は大型書店なので、真っ先に書店へ連れて行った。ビル全体が書店になっている大型店舗だ。

「へぇ……すごいわね」

 ビルを見上げながら神月がボソッと呟いた。

「都会にはあまり行かないのか?」

 純粋な疑問を投げかけた。

「そうね……行く機会が無い。友達もいないし、一人でわざわざ都会に行く用も無いというか」

 とても空虚な返答に、僕は若干血の気が下がった気がした。

「とりあえず入ろうか」

 店内に促すしかなかった。時間はまだあるのでとりあえず最上階まで行き、最上階から見回りながら一階ずつ下って行く、というコースを提案した。神月はそれに了承した。お互い関心の無さそうなコーナーはサッと見終わって、2階にある小説のコーナーで彼女が真剣に何かを探し始めた。例の好きな作家、安達誄の本でも探しているのだろうか。意外なことに、恋愛小説ばかりが置かれている特設コーナー的な場所で足を止めた。そして一冊の本を手に取った。

「誰の本?」

 僕には全く分からないタイトルだし著者名だった。神月は無言でその本を僕に手渡した。そこには著者名に『樋口真夜』という人物の名前が記載されていた。

「ヒグチ……マヤかな。この前の作者と違うな。女性?」

 表紙を見終えて神月に返した。

「同じよ、同一人物」

 神月はまた理解不能な発言をし出した。疑問符しか浮かんでいない僕を横目に、彼女が説明した。 

「安達誄の別名義。この作者は、作品のジャンルごとにペンネームを使い分けてるの。だから恋愛系なら『樋口真夜』だし、ミステリーなら『安達誄』ということ」

 僕にはあまりよく分からない世界が展開されていた。ちょっと脳の処理速度が追いつかなかったが、よくよく考えたら理解できた。さすが学年上位の神月菫、学年で中の下の僕でも理解できるように説明してくれた。

「なるほど。何だか面倒なことやってるなぁ、その作者」

 僕はその本を冷やかし程度に試し読みした。

「貴方って本当につまらない奴ね」

 冷めた顔をしながら、僕への精神攻撃を仕掛けてきた。神月の毒舌攻撃はもう何度目だろうか。数えるのも気が滅入る。

「面倒な人間ほど、見聞きして面白いんじゃない。何事もない、フラットな人間なんか見ても面白くないでしょ。人ってそういうものじゃないの?」

 本を試読しながら、神月はサラッと当たり前のように喋った。

――フラットな人間を見ても面白くない。

 またまた史上最強のパワーワードを炸裂させ、僕のメンタルはもはや瀕死状態だった。何度も繰り返し治りかけた傷口を血が出るまで無理矢理抉じ開けられ、泣いてのたうち回っている僕を見て神月は喜んでいるのではないか、そこまでの被害妄想を起こしていた。もう精神科の門を叩いた方が良いのかもしれない。そのレベルで、非常にショックを受けた。彼女にとって僕という男は、どうしても「つまらない人間」のジャンルにカテゴリーされているみたいだ。それは、彼女にとって「つまらない奴は魅力的な人間ではない、未だにこの男を異性として意識できない」ということと同義だろう。

「何落ち込んでるのよ……貴方って本当にすぐ顔に出るわね」

 神月はそう言いながら僕を横目で見たが、すぐ視線を本に向けた。

「どうせ僕は無個性ですよ」

 こういう不貞腐れた発言が、神月にとっては「女慣れしてないガキ」に見えるのだろう。つくづく女々しい男だと痛感する。僕は自然と頭が下がり、床を見ていた。

「いいんじゃない? 貴方みたいな『普通』と呼ばれる人間が居ても」

 その発言に、僕は咄嗟に頭を上げて神月の方を見た。相変わらず本に目を向けていた。

「貴方みたいにフラットな、普通な人間もいないと世の中成り立たないでしょ。地球上の人間が全員私みたいなタイプだったら、第三次世界大戦にでもなって人類は滅んでるかもしれないし。世の中はそういう風に、上手い具合に差し引きされてるのよ。だから、貴方が『正常』なのも、私が『異常』なのも、何故だかバランスが取れているの。だから、普通でもいいじゃない」

 あくまで本に目を向けていたが、あの無口で愛想のない神月がペラペラと捲し立てる様子に、僕は驚きを隠せなかった。そして、今夏だというのに「明日雪でも降るのか」というぐらい、僕を肯定する空前絶後の言葉が彼女の口から出た。それ以後、僕は何も話をせず本屋を出た。当の神月は、買いたい本を買えて少々ご満悦な様子に見えた。


 何度も繰り返すが、僕は彼女ができたことがない。なので、女性が喜ぶようなデートコースを知らない。行く当てに困ってしまい、僕達は本屋を出てから無意味に街を彷徨ってしまった。僕から誘った手前、とてつもない気まずさを感じていた。

「ねえ」

 そんな時、沈黙を先に破ったのは神月だった。

「どうした?」

「いや、意味も無く歩きまわされたら疲れるんだけど。暑いし」

 そうだった、神月は女の子だった。男のペースで歩き回っていたら、疲労を感じて当たり前だろう。しかも真夏に。僕は配慮に欠けていた。

「そうだな……ごめん。どっかで休憩しよう。お茶でもしようか」

 神月の表情に若干疲れが見えたので、店を選ばず近くの喫茶店に入った。

「とりあえず入っちゃったから、味とか評判は全然分からないんだけど」

 僕達の現在地から一番近い、雑居ビルの一階にあるお洒落な喫茶店に二人で入った。都会なので、やはり写真映え目的のようなメニューがたくさんあるお店だった。客層も、若い女性同士やカップルが多かった。神月の嫌そうな場所だったかもしれない。

「まあいいんじゃない。とにかく疲れたから休憩しましょう」

 神月は特に何も気にしていない様子だった。店の客層や雰囲気より、彼女は自分の疲労回復を優先させたいみたいだった。とにかく飲み物を頼む必要があるので、何を注文するかを尋ねた。

「アイスコーヒー」

 せっかく都会のお洒落な喫茶店に来たのに、写真映えや女の子が好きそうな甘い物をすっ飛ばし、またコーヒーを頼むのかと僕は内心呆れていた。

「街まで出てきてまたコーヒーかよ」

 僕はさすがに言わずにはいられなかった。

「何でもいいじゃない、休めたら」

 相変わらず愛想のない女だな、とやれやれしつつも僕はちょっとだけ勇気を出してみた。

「地元じゃ飲み食いできないような物を頼んだら? 甘い物とかどう?」

 僕はいかにも写真映えのようなパフェを指差した。

「えー……」

 神月は少々渋い表情をした。

「せっかくなんだから、いつもと違う物頼もうよ。俺も頼むし。女の子が居ないと男はこういうの食べづらいからさ」

 僕は半ば強引にパフェを二つ頼んだ。神月は何も意見しなかった。程なくしてパフェが運ばれた。

「貴方、甘い物好きなの?」

 食べながら神月が質問してきた。

「ああ、普通に好きだよ。ただ男だけじゃ、店に行っても頼みづらいじゃん」

 僕は彼女に変な勘繰りを起こされないよう、足りない頭をフル回転させて返す言葉を考えた。

「そうね、確かに男だけじゃ頼みにくいかも」

 神月はあまり気に留めてなさそうだった。ホッとした。

「私友達いないから、女の子ともこういう甘い物を一緒に食べたりしたことがなかった」

 神月がボソッと小声で打ち明けた。僕はハッとなった。今まで他人との関わりを絶っていた彼女からしたら、こういう一般的な若者の付き合いをしたことがないのだ。彼女の本音を耳にした瞬間、僕は今しかないと思った。

「神月」

 僕はパフェを食べる手を止めて、神月を真っ直ぐ見つめた。彼女は僕の異変を察知したのか、同じく食べる手を止めた。

「僕、君が好きなんだと思う。いや、違う。好きなんだ」

 猫殺しの件ぐらいに、神月は驚愕の表情をした。それでも、構わず僕は話し続けた。

「神月が僕を好きじゃなくてもいい。僕が勝手に君のことが好きなだけだ。僕の気持ちにいちいち応えなくていい。迷惑ならもう僕と関わらなくてもいい。ただ迷惑じゃないなら、好きでいさせて欲しい。そして、君がリスカしたり猫を殺したりしなくても、こうやって遊びに行ったりいつもみたいにくだらない話をして、ストレスが発散できたらいい。君を普通の女の子にしたい」

 今日、どうしても神月に伝えたかったこと。やっと言えた。僕は人生最大の勇気を振り絞った。生まれて初めて、女の子に告白をした。

「それは……」

 神月の声は、本当に弱々しかった。そして、俯いて黙り出した。

「僕の気持ちに無理して返事しなくていい。ただ、迷惑ならハッキリ言ってくれ。でも本当に迷惑じゃないのなら、勝手に好きでいさせて欲しい。そして、君が普通の女の子になれるように、協力がしたい」

 嘘だ。本当は神月に好きになってもらいたい。ちゃんと付き合って、恋人・彼女になってもらいたい。「好きじゃなくてもいい」なんてのは、真っ赤な嘘で僕の強がりだ。だけど、それは僕のエゴだ。僕がすべき最優先事項は、

ーー神月菫を普通の女の子にしたい。

 この一言に尽きるのだ。神月に好きになってもらう、恋人同士になるなんていう目的は、優先すべき事項ではない。神月菫が普通に楽しく笑顔で生きていけること、それが僕の一番の願いだ。偽善者だのエゴだのバカにされても構わない、僕が自分の意志で決めたことだ。

「とにかく、約束して欲しい。もう二度と手首を切ったり、猫を殺したりしないでくれ。どうしてもそんなことがしたくなったら、僕に八つ当たりしたらいい。僕をストレス発散に使ったらいいんだよ」

 僕の存在が、神月の避難所になればいい。そういう意図で彼女に伝えた。彼女は無表情になり、何も喋らなかった。ただただ無言で、残りのパフェを食べていた。


 喫茶店を出た後、もういい時間だったので帰ることにした。女の子をあまり暗くなる前に帰す、そのくらいはいくら僕でも分かっていた。駅までの道中、人混みの中一瞬だけ神月を見失った。僕の歩くペースが早すぎたのかもしれない。後ろを振り返って待っていると、彼女が現れた。

「貴方、足が早いわね」

 神月の言葉には若干皮肉がこもっていた。彼女は僕より大分背が低い。別に僕がずば抜けた高身長というわけでもないが、彼女が平均女子より小柄なのだと思う。

「ああ……ごめん、気が利かなかった」

 僕は神月の手を握った。手を引いて歩き出した。

「ちょっと」

 神月は慌て出した。それは慌てるだろう、女慣れしてない童貞のガキがいきなり女の子の手を握ったら。

「嫌なの?」

「……」

 また神月は否定も肯定もしなかった。何も言わないなら、嫌ではないと見做そう。僕は構わず彼女の手を引いて、人混みの中を歩いた。真夏だというのに、彼女の手は冷たかった。そして、細くて小さい手だった。僕達は、手を繋いで無言のまま駅まで向かった。さすがに駅では手を離し、お互い同じ方向の電車に乗った。電車内でも、お互い無言だった。僕は勢いで手を繋いでしまったことに強烈な恥ずかしさに内心悶絶していたが、表に出さないように必死だった。神月は相変わらず無表情だった。結局彼女が何を考えているのか全く分からないまま、僕達はお互いの最寄り駅で降りて解散した。


 翌週の月曜日、僕はまた登校時刻ギリギリに教室に入った。神月も居たが、相変わらず無表情と無口を貫いていた。その姿を横目に僕は自分の席に着いた。僕達は、教室内では何事も無かったかのように振舞っていた。

 昼休み、同じクラスの友達と雑談をしていた。その最中にスマートフォンにメッセージの通知が来た。神月からだった。

『今日の放課後、中央公園の例の場所で話をしましょう』

 簡潔にその一文だけ書かれていた。僕は友達に「ごめん親から連絡来た」と誤魔化し、教室を出て人目に付かない場所に異動した。チラッと神月の方を見たら、ただただ無言でスマートフォンを操作していた。僕のことは全く見ていなかった。そして中庭に移動して、僕は返信の文章を打っていた。

『どうした?』

 まず僕は異変が起こっていないかの確認をした。

『別に』

 あいつは一体何がしたいんだ、と僕は内心毒づいた。その時だ。

『ただの雑談のつもりだったんだけど』

 神月の方から続けてメッセージが来た。彼女の方から「雑談」という単語が出てきたことに、僕は驚きを隠せなかった。人目を避けて良かった。

『分かった。今日は僕が先に教室を出るから。待ってる』

 とにかく詳しい話は例の場所で聞こうと思ったので、待ち合わせの段取りだけを決めた。本当に僕は単純バカだと思う。「神月が雑談を申し出た」、たったこれだけのことで僕はかなり嬉しかった。人を好きになる、というのはこういう感覚なのだなと実感した。 


 放課後、僕は中央公園の例の場所で神月を待っていた。そして5分ぐらい後だろうか、彼女がやってきた。お互いベンチに座った。

「何でまた場所がここなんだ。暑いだろ?」

 神月も夏服だが、常に薄手のカーディガンを着ている。自分の左手首を隠すためだ。

「まあ、一番気兼ねなく話せるから」

 相変わらずの素っ気ない返事だった。

「僕は別にいいんだけどさ……とにかく、何か言いたいことがあったのか?」

 早速僕は本題に入った。

「だから、雑談って言ったでしょ」

 そう言いながら、神月は僕の顔を見た。不意にこちらを向かれて、また僕はドキドキしてしまった。

「貴方が『自分をストレス発散に使え』と言ったんでしょ。それよ」

 神月は淡々とした口調だった。

「ああ……そうだったな。ごめん。何の話する?」

 情けないことに、自分からパッと雑談が浮かばなかった。

「何で私のことが好きなの?」

 神月がダイレクトアタックで核心に迫ってきた。僕は気絶するかと思った。

「何で……と訊かれるとなぁ」

 僕はしばらく黙り込んだが、神月は僕から話すのを待っている姿勢を崩さなかった。数十秒考えた後、僕は本心を暴露した。

「正直、猫殺しの現場を見た時は真剣に引いたし、初めて階段で僕に話しかけて来てバカにされた時は、かなりムカついてた。『平和ボケ』と言われた時は殴りたいぐらい怒ってた」

 神月は黙って聞いていた。自分から話し出すような気配が無かったので、構わず僕は話し続けた。

「それ以後、何故だか君のことが頭から離れなくなった。神月の家の事情や自傷、猫殺しの理由を知って、君が『今日で終わりにしろ』と言った後、僕はどうしても終わりにできなかった。納得がいかなかった。しかも、君から『父親以外にも関係があるかも』みたいなからかいを受けて、僕は『神月にとって相手は自分ではダメなのか?』って考えてしまって、君のことが好きだと思い始めた」

 何を言ってるんだ僕は。もう言い逃れができないレベルで気持ちが悪い。それでも続けた。

「神月の言う通り、僕はつまらない人間なんだよ。だから、今まで平和に生きてこれた。でも偶然君と関わる羽目になって、怒ったり傷ついたりして僕の価値観が一変したというか……。君は自分を『異常』だと言ってたけど、それは違う。個性的、魅力的なんだよ。ぼくみたいな平凡でつまらない人間からしてみたら」

 神月はただただ、僕の話をひたすら聞いていた。

「僕は君を魅力的だと思うけど、それでも自分を『異常』だと言い切るのなら、それでもいいよ。君が話してた通り僕が『普通』なら、バランスが取れるじゃないか。差し引きできて、ちょうどいい。でも、僕は君にもっと他の女子みたいに、放課後遊びに行ったり街へ出たり、楽しく生きて欲しい。普通というか、幸せになってもらいたいんだ」

 何をドラマか少女漫画みたいなクサい台詞を言ってるんだ、と内心自虐した。

「僕は、神月が心から笑ってる顔が見たいんだよ」

 しっかり神月の顔を見て、堂々と伝えた。僕は緊張のあまり少し手が震えていたが、悟られないように必死で臆病な自分を隠していた。この場面では、男でいなければならない。自分が他人をどうこうできる、幸せにできるなんて思い上がったことは決して考えていない。ただ、僕が生半可な気持ちで告白したわけではないことを、どうしても理解してもらいたかった。自己満足でも結構だ。彼女が僕のことを異性として見れない、好きじゃなくても、彼女に笑顔になってもらいたいことに嘘偽りは無い。

「……」

 神月はずっと黙っていたが、しばらくして口を開いた。

「貴方、本当にバカなんじゃないの……」

 そんな悪態をつきつつも、神月は言葉に反して優しい笑顔を僕に向けた。嫌味や侮蔑のない、本当の笑顔だった。僕の心の中で、何かが臨界を突破したような気がした。

「何泣いてるの?」

 神月に指摘されるまで、僕は分からなかった。涙が出ている。泣いているらしい。自覚した途端、僕は自分が男であることを忘れるぐらい号泣してしまった。嬉しかった。彼女が本心から笑っている顔を見られたことが、心底嬉しかった。僕はできるだけ顔を見られたくなくて、頭を極限まで下げて泣いた。すると、頭に何かが乗った気がした。少し頭を上げて確認したら、彼女が僕の頭を撫でていた。僕の嫌がる顔を見て喜ぶ、毒舌マシーンのサディスティック女である神月菫が、僕の頭を撫でている。相変わらず無表情だが僕の頭を撫で続ける彼女を見て、僕はしばらく泣き続けベンチから動けなかった。女子の前で号泣するなんて、生まれて初めてだった。泣いて動けなくなるぐらい、僕は嬉しかった。


 好きな女の子の前で号泣するという醜態を晒した後、僕は自転車を押しながら歩いて神月と二人で帰路についた。彼女は電車通学なので、駅まで送ろうと思ったのだ。人目を気にする彼女は「そんなことしなくていい」と断ってきたのだが、夏と言えどもう夕方なので僕は「防犯上駅まで送る」と強引について来た。いや、防犯上というのは真実でもあるが、嘘も混じっていて。彼女を守る意味合いもあったが、本当は少しでも長く一緒に居たかったのだ。

「誰かに見られたらどうするのよ」

 案の定、駅に着くと神月は人目を気にしていた。

「まあ、いいんじゃない? 僕はどう思われてもいいよ」

 僕がヘラヘラしていると、神月は明らかにこちらを睨んでいた。そんな表情すら、「可愛い」とさえ思えた。

「神月、お前って本当は可愛いんだな」

「は?」

 珍しく神月が怒りを露わにした。誰が見ても分かるぐらい、ムキになっていた。「漫画やアニメで言えばツンデレってやつ? そういう感じに思ったけど」

 今度は僕の方がニヤニヤする側に回った。

「ちょっと、いい加減にしなさいよ……」

 神月を本気で怒らせたら真剣に手足が無くなるかもしれないので、僕はこれ以上からかうのを止めた。彼女に前科があるのを僕は知っているので。  

「ごめん冗談だよ。でも、よく見たら顔も可愛いし、そういうツンデレみたいな性格も可愛いよ」

 僕は少し屈んで、できるだけ神月と目線を合わせながら伝えた。すると、彼女が動揺したのか赤面し出した。何も言わず、ただ顔を赤くしていた。そんな姿すら、微笑ましくなった。愛しく思えた。こんな日々がずっと続けばいい、そう思った。


 神月を駅まで送り届けて、僕は自転車で自宅に帰った。自室に向かおうとした時、廊下に出てきた母が僕に気が付いた。

「おかえり、今日は遅かったじゃない。もしかして外で夕飯食べた? 要らなかったらお父さんと二人で食べるけど」

 そういえば、もう夕飯でもおかしくない時間だった。

「ただいま。いや、何も食べてないよ。父さん帰ってから一緒に食べる」

 そう言い残して部屋に入ろうとした時、母がふと零した。

「今日は、顔色良さそうね」

 僕はギクっとした。

「俺、最近何か変だった?」

 僕は恐る恐る母に尋ねた。

「変というか……顔色悪い日が度々あったから、もしかしたら何か悩んでるのかなって密かに思ってたのよ。受験控えてるのもあるけど、学校で何かあったんじゃないかって」

 女の勘とは鋭すぎるのか、それとも僕が単純バカすぎて表情に丸出しなのか、母には見事に僕の最近の異変を見抜かれていた。

「ああ、ちょっと受験勉強に行き詰まってただけだよ。大丈夫」

 僕は、母を安心させるためにヘラヘラ振る舞った。

「それならいいんだけど……勉強もあまり無理しちゃダメよ」

 そう言って母は台所に向かって行った。その後ろ姿を見送って、僕は自室に入った。


 僕と母は、血の繋がった実の親子ではない。実の母が病死した後、ショックで長期間立ち直れなかった父を見兼ねた友人が紹介してきた女性、それが今の母だ。父と交際しているのを知ったのは、僕が中学1年生の時だった。父から「お前に紹介したい人がいる」と言われ、家に現れたのが今の母だ。

「深川真理です。仕事は幼稚園の先生をしています。よろしくね」

 屈託ない、真っ直ぐな笑顔で自己紹介をされた。僕の方が緊張してしまっていた。その後、テーブルに3人で座ったのはいいが、父の方がモジモジしてなかなか肝心な話を切り出せなかった。そこにぶち込んで来たのは、真理さんの方だった。

「私、お父さんと結婚を前提にお付き合いしてるの」

 男性側が騒然とした。珍しく、父が慌てていた。

「いや、それは俺から説明しようかと」

「いいえ、私から話します」

 真理さんは父を押し退けて話を続けた。ちなみに真理さんは父より5歳も年下だ。父より男らしいな、と僕は子どもながらに自分の父親を情けなく感じた。

「君もお父さんも、お母さんを亡くして辛いよね。私みたいな女がいきなり現れても納得いかないと思うの。だからハッキリ伝えたくて」

 真理さんは僕を見詰めてこう言った。

「君のお父さんのことが大好きだし、真剣に結婚したいと思ってる。でも、私のことを息子さんに納得してもらえないなら、私はお父さんと結婚する資格が無いと思う」

 僕は黙って話を聞き続けるしかなかった。

「つまり、私は君のお父さんと結婚して奥さんになりたいけど、君のお母さんにもなりたい。3人で家族になりたいの」

 真理さんは、堂々と断言した。僕は何も言えず、黙り込んでしまった。だけど、決してふざけてなどいない、誠心誠意の気持ちで僕と向き合っている。それだけは子どもの僕でも理解できた。

「もし私の存在を認めてくれるなら、一緒に家族になって欲しい。私を無理して『お母さん』と呼ばなくてもいい。でも、いつか気が向いたら『お母さん』と呼んでくれると、嬉しいな」

 真理さんはそう言い終えた後、また僕に屈託のない笑顔を向けた。僕は何と返事をすればいいのか分からなかった。

「ごめんね、一方的に話しちゃって。でも、どうしても伝えたくて」

 僕は終始黙っていたが、やっと口を開けるようになった。

「父さんは、真理さんのことが本気で好きなの?」

 僕は父に向かって尋ねた。

「当たり前だろ。じゃなかったらお前に紹介しない」

 父はやっと落ち着きを取り戻した。

「じゃあ、結婚したらいいよ」

 僕がそう言うと、今度は二人が慌て出した。

「え! あの、今がどうこうとか、そんなすぐ決めることじゃないのよ?」

 さすがに真理さんまで慌てていた。だが、僕はこう続けた。

「確かに、僕はまだ真理さんがどんな人かよく分からないです。でも、父さんにとって真理さんは必要な人なのが分かった。僕は、父さんには真理さんみたいな人が必要だと思う。今の真理さんの話を聞いて、そう思いました」

 二人を見ながら、僕も断言した。真理さんは真剣な表情で

「ありがとう」

 と言った。その直後、真理さんは気が緩んだのか泣き出してしまった。今までずっと気を張っていたのだと思う。手で顔を覆いながら泣く真理さんの肩に、父が手を添えていた。二人の姿を見て、僕は心から「父さんには真理さんみたいな人が必要だ」と思った。紹介の一件からしばらくして、父さんと真理さんは入籍した。僕らは3人家族になった。それと同時に、僕は真理さんのことを「母さん」と呼ぶことにした。そして、今に至っている。


 僕は両親と夕飯を食べ終えた後、自室に戻って受験勉強をしていた。家なので、気の緩みからすぐスマートフォンを触ってしまっていた。そしてまた、意味もなく神月とのメッセージのやりとりを見ていた。何となく、彼女の名前が気になった。神月の下の名前は「菫」だ。そういえば花の名前だな、と今更ながら気が付いた。花には確か花言葉があったはず、と僕は菫の花言葉をインターネットで検索した。好きな女の子の名前が偶然花の名前だとはいえ、その花言葉をネットで検索までしている自分は同情の余地が無いぐらいに気持ちが悪い。我ながら不気味だと思う。だが、検索することを決行した。すると、ネット上にはこんなことが書かれていた。

「スミレ(菫)の花言葉は、謙虚・誠実」

 どこが謙虚で誠実だよ、と僕は苦笑した。しかし色別に意味があるらしいので、続けて読んだ。僕が気になったのは、紫色のスミレの花言葉だった。

「紫のスミレの花言葉は、貞節・愛」

 貞節、の意味が情弱の僕には分からなかったので、ネットで更に調べた。出た検索結果を見て、僕は目を疑った。

ーー女性が夫以外の男性に身や心を許さないこと。また、そのさま。

 神月の「菫」という名前は、一体どんな意図で名付けられたのだろうか。もしこの名前を父親が名付けたとしたら、紫色のスミレの花言葉、ここまでの意図があって名付けたのだろうか。だとしたら、その父親は相当狂っている。実の娘に欲情するとか、狂っているとしか形容できない。だが、神月本人は父親からの仕打ちを

「愛されている」

と言い切っていた。いや、そうでも思わないとやってられない、生きていられないんだ。そうでも思わないと自我が保てない、神月家では生きていけない。僕はいかに自分が恵まれた環境下にいるかを自覚した。そして、神月は毎日虐待親に囲まれ狭い深い闇の中、誰にもその秘密を言わずに生きてきた。今の僕では、彼女の闇は計り知れないのだろう。現実は残酷だった。僕は非力だ。


 数日後の放課後、僕と神月は彼女が行きつけの閑古鳥が鳴く寂れた喫茶店に行った。さすがに真夏に公園ばかりで会話をしていたら暑いので、涼める場所に行きたかった。僕らを見た店主が「やあ」と声をかけてきた。神月は何も言わずに奥のテーブルに向かっていった。ここでも愛想がないのか、と僕は内心思いつつも店主に会釈だけして席に着いた。

「何にする?」

 店主が注文を聞いてきた。

「アイスで」

 神月が素っ気なく答えた。恐らくアイスコーヒーのことだろう。なので「僕も同じもので」と言い、注文を終えた。そしてアイスコーヒーなので、すぐコーヒーが運ばれて来た。

「初めて来た時に思ったんですが、こちらのコーヒーすごく美味しいですね」

 今日は僕の方から店主に声をかけた。

「そうかな、ありがとう。でも君達みたいな若い子には、全然面白くない店だと思うんだけどね」

 店主は優しい笑顔を僕に向けながら、雑談をし始めた。

「いや、面白いかどうかはさておき、コーヒーはとても美味しいですよ。お店の雰囲気も落ち着いてるし、この子が気に入る気持ちも分かるというか」

 僕は神月を指しながら、店主にそう話をした。

「ああ、確かにこの子物静かだよね」

 店主の感想は正直だった。そして、当の神月はまた無言だった。

「というか、君達はもう付き合ってるの?」

 店主がぶっ飛んだ質問を投げかけてきた。僕は動揺したが、こう答えることにした。

「そう見えます?」

 僕は敢えて質問した。否定も肯定もしなかった。

「ちょっと!」

 神月は慌て出した。彼女の慌てる姿を見て、店主は笑っていた。

「ははっ、君そういう顔もできるんだ」

 店主に指摘され、神月はいつもの無表情に戻った。きっと彼女なりのプライドがそうさせるのであろう。

「いや、いいじゃないか。二人とも若いんだから。もっと人生を楽しまなきゃ。君も彼のこと嫌いじゃないから、こうやって二人で話してるんだろ?」

 さすが人生の大先輩、神月の考えていることはお見通しといった感じだった。彼女は少し不服そうな表情をした。

「からかってるとか冷やかしじゃなくて、本当に二人ともお似合いだよ」

 店主は笑顔でそう言い切った。

「はは、そうですかねぇ。彼女にとって、僕は分不相応な気がしますが」

 僕はまたヘラヘラ自虐をしてしまった。「お似合い」という言葉に喜びと照れが生じ、それを表に出さないように何とか誤魔化していた。

「なるほど、君の方がこの子のこと好きなんだね」

 人生の大先輩である店主はすぐ察した。

「そうですね。僕は好きです」

 僕は肯定の意思表示をした。神月を見ると、彼女は黙ってコーヒーを飲んでいた。「私はこれ以上会話に参加しない」というオーラが丸出しだった。

「これ以上若者の邪魔をするのはやめておこうかな。じゃあごゆっくり」

 店主はカウンターの方に戻っていった。途端に、神月が不機嫌な顔で僕にクレームを言い出した。

「何をふざけたこと言ってるのよ」

 神月は明らかに機嫌を損ねていた。

「何が? 僕は何もふざけてないよ」

 僕はしれっと言い返した。

「僕は自分が思ってることを、正直に言っただけだよ」

 僕は頬杖をつきながら、神月の顔を見てそう言った。そして、まじまじと彼女を眺めながらこう続けた。

「神月、君って本当に可愛いよ。外見だけじゃなくて、全部が」

 神月と関わらなかったら、今までの僕には絶対に言えない台詞だった。

「ほんと……貴方頭悪いわね、偏差値どうなってんの?」

 フフッ、と含み笑いをしながら神月はまた嫌味を言い出した。この悪態が、彼女なりの精一杯の気持ちなのだろう。それすらも、僕は愛おしく思えた。

 別に神月が僕を好きになれなくてもいい、ただこうやって関わることを許してくれるだけでも僕は満足だ。彼女が少しでも普通の女の子になれたら、僕はそれでいい。彼女の闇を解決できなくても、こういうバカなやりとりをして彼女の日常が少しでも楽しくなればいい。それが僕の真の願いだ。僕は密かにそんなことを考えながら、神月と二人でコーヒーを飲んだ。


 喫茶店を出た後、僕はまた自転車を押しながら歩いて神月を駅まで送った。もちろん彼女は拒否するのだが、頭の悪い気持ち悪い男である僕はまた強引に送っていくことを決行した。そして駅までの道中で会話が始まった。

「貴方、最近調子に乗ってるんじゃないの?」

 神月は冷めた目で僕を見ながらそう言った。

「え?」 

 僕はびっくりしてしまった。

「いや最近の貴方、やけに饒舌じゃない。生意気だし」

 神月は何だか不機嫌そうな物言いだった。

「え、何か不快だった? だったらごめん」

 僕は神月を怒らせてしまったかと思い、焦ってしまった。

「何でそこで謝るのよ、ただの冗談じゃない。これだからガキは」

 彼女いない歴=年齢である僕には、女性の冗談を見極められる能力は乏しかった。

「ガキですみませんね……」

 僕はもう自虐に走るしかなかった。

「まあそんな貴方をからかってるのが、私は面白いんだけど」

 神月はニヤニヤしながら僕を覗き込んできた。急に覗き込まれたので、僕は挙動不審になってしまった。いや、好きな女の子が急に自分の顔を見るために覗き込んできたら、どんな男でも動揺するだろ。別に僕はおかしくないはず、と自分自身に言い聞かせていた。そんな僕の様子をジロジロ見ながら、彼女は終始ニヤニヤしていた。どこまでサディスティックを極めているんだこの女は。


 駅前に着いた。とりあえず自転車を停めて、駅の中に入った。通勤通学の時間帯なので、人気が多かった。神月は人目を気にするので、なるべく早く解散しなければならない。

「それじゃあ」

 神月が改札に向かおうとした。それを僕は思わず咄嗟に引き止めた。彼女は振り向いた。「何?」と言いたげな表情だった。

「今日は楽しかった。ありがとう、また明日」

 この前の駅でのやりとりと同じく、僕はできるだけ屈んで神月の目線に合うようにし、そう伝えた。そして彼女は、また下を向いて赤面していた。何か言いたげな顔でもあったが、それでも無言を貫いていた。そんな彼女を見ながら、本当に可愛く愛おしく思えた。そんな時だった。

「菫」

 男性の声で、神月の下の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、背の高い、スーツ姿の中年男性が僕達を見ていた。僕には全く身に覚えが無い人物だった。外見年齢的には40代後半か50歳すぎぐらいだろうか、僕の父より少し年上に見えた。

「お父さん」

 神月はその人物を「お父さん」と呼んだ。その声は弱々しかった。表情も萎縮しているように見えた。こいつが、例のクズ父親か。僕は頭に血が上りそうだった。

「偶然だな、こんな所で会うなんて。たまたま仕事でこの辺に来る用事があったんだ。そちらの男の子は同級生?」

 僕の方を見て、質問をしてきた。僕はこの父親を殴りたい衝動を必死で抑えながら「はい」と平静を装って返事をした。

「初めまして、菫の父です。いつも菫がお世話になってるのかな? この子、無口だから何考えてるかよく分からないだろう。僕もよく分からない時があるからさ。こんな性格だからあまり友達もいないみたいだし、良かったらこれからも娘と仲良くしてあげて」

 非の打ち所がないぐらい、「普通のお父さん」といった対応だった。頼む、お願いだからそんな対応はやめてくれ。もっと僕を怒らせてくれ。僕が勢いで「このクズが!」と殴り飛ばせるぐらい、僕を激昂させてくれ。僕の右手は自然と握り拳状態になっていた。

「俺もうこのまま直帰だし、菫も一緒に帰ろう。いい時間だし、君も帰りなさい。親御さんが心配するよ」

 一体何なんだこの外面の良さは。反吐が出るぐらいクズじゃないか。神月が誰にも打ち明けられないのも納得がいった。

「行こうか、菫」

 クズな父親に促されて、神月は改札に向かっていった。一瞬、振り返って僕の方を見た。その時の彼女の目が

「たすけて」

 と訴えているように見えた。だけど僕は、立ち尽くしながら改札を通っていく二人の姿を見ているだけしかできなかった。

「また明日、明日会って話を聞こう」

 そう無理矢理自分を納得させて、僕はその日黙って帰った。


 翌日、学校に登校すると神月の姿は無かった。まだ時間に余裕があるし、後々来るかもしれない。しばらく様子を見ることにした。だが、登校時刻の8時半を過ぎても、彼女は現れなかった。すると、担任の北野が怖い顔をしながら教室に入ってきた。明らかにいつもと様子が違った。

「今から校長先生が大事な話をするので、緊急の全校集会が始まる。全校生徒が集まる。だからお前らも今から俺と一緒に体育館に行くぞ」

 有無を言わさぬ北野の態度に、クラス一同黙って体育館に行くしかなかった。その時も、神月はまだ教室に姿を現していなかった。

 予定外の全校集会に、生徒全員は動揺を隠せなかった。体育館の壇上に、校長が神妙な面持ちで立った。そしてマイクに向かって、話を始めた。

「急な集会で皆さん混乱していると思いますが、どうしてもお知らせしなければならない出来事があります」

 生徒のざわつきは収まる気配が無かった。

「昨晩、3年1組の神月菫さんが亡くなりました。詳しいことは皆さんにお話できません。ですが、神月菫さんのご冥福をお祈りするために、皆さん全員黙祷してください」

 神月菫が亡くなった? 僕は校長が何を言ってるのか、理解不能だった。だって昨日の夕方まで、生きてたじゃないか。僕と喫茶店に行ったり、駅で立ち話したりしたじゃないか。その後に何かあったのか? 僕は目の前が真っ暗になった。

 生徒全員が騒然とした。校長が「静かにしなさい」と注意しても、生徒は全く聞く耳を持たなかった。その時だった。

「お前らいい加減にしろ! 黙祷って文字の意味が分からんのか!!」

 あの普段生徒に舐められてもヘラヘラしている野暮ったい中年男性の北野が、体育館中に響き渡るぐらいの怒号を生徒全員に浴びせた。それぐらいに、怒っていた。キレていた。怒り狂った北野の姿を見て、生徒全員もさすがに黙らざるを得なかった。そして、ようやく黙祷が始まった。僕は黙っていたが、何も考えられなかった。


 その日の終礼後、教室を出た僕にある人物が声をかけてきた。

「一色」

 僕は自分の苗字を呼ばれて振り向いた。担任の北野だった。

「話がある。お前にしか話せない。一緒に面談室まで来てくれ」

 その時の表情も、朝見た時と同じく怖い顔だった。僕は「はい」とだけ返事をして着いて行った。面談室に入り、僕と北野は席に着いて対面しながら話が始まった。

「細かい前置きは無しにしよう。単刀直入に言う。一色、お前と神月は仲が良かっただろ」

 僕は非常に驚いた。あの呑気で昼行灯な教師のイメージしかなかった北野が、そこまで生徒のことを見抜いていたとは。僕は動揺を隠せなかった。

「偶然、お前らが階段で立ち話をしているのを見てしまったことがあった。あの神月が、わざわざ特定の誰かと話をするぐらいだから、それなりの仲なのだろうと思った。どの程度の付き合いだったのかはさておき、お前を呼び出したのはどうしても聞きたい事があるからだ。もちろん、神月の件で」

 僕は黙って話の続きを聞いた。

「絶対口外するなよ。この話は、俺とお前二人だけの秘密だ」

 聞くのが怖くなってきたが、今更逃げ出すわけにはいかない。神月菫の事なのだ。この僕が、逃げるわけにはいかない。

「神月がなぜ亡くなったのか。警察の話によると、昨晩自分の部屋で首を吊って死んでいたのを親が発見したらしい。そして警察はそれを『自殺』と判断したそうだ」

 あのタイミングで神月が自殺? 僕はますます混乱と恐怖しかなかった。そして北野はこう続けた。

「俺は神月が2年の時から担任で受け持っていた生徒だ。当然、俺はあいつの手首の傷や体の怪我に気が付いてて、本人を個人的に呼び出して何度も問い詰めた。それでも神月は『全部自分でやった』としか話さない。両親にも三者面談や電話で問いただしたが、『何も知らない』の一点張りだ。実の両親が娘のあれだけの異変を『何も知らない』なんて、おかしいだろ?」

 北野は話しながら少し感情的になっていた。しかし、それだけ神月家の問題を担任として何とかしようと考えていたのだと僕は察した。

「ここからは俺個人的な見解なんだが……俺は警察の『自殺』という判断がどうしても納得がいかない」

 北野が思い詰めたような表情になった。

「どういう意味ですか?」

 僕は恐る恐る尋ねた。

「正直に話そう。正確に説明すると、警察の業界用語みたいなもんらしいが、神月の死因は『推定自殺』と呼ばれるそうだ」

「推定……自殺?」

 僕は北野が何を言ってるのか全く理解できなかった。

「難しい話になるんだが、要するに『状況証拠的に自殺であろう』という事件を、警察関係者は推定自殺と呼ぶらしい。俺も初めて知った。当然、神月の遺体を司法解剖の際に見たら、警察というか誰が見ても体の怪我は虐待の痕跡だと分かるだろう。警察も両親からの虐待によって死んだ、殺人かもしれないと疑った。しかし、その直接的な死因、首吊りが本人の意思による自殺なのか、それとも親の虐待による殺人なのか。司法解剖の結果、両親の犯行だという決定的な証拠が無かった。だから『推定自殺』と判断された」

 北野はとても苦しい表情をしながら、僕に神月の本当の死因を説明した。

「だから、お前に聞きたいんだ。神月から、親の虐待について何か決定的な事実を見聞きしたりしてないか? もし知っているなら、正直に教えてくれ、頼む」

 神月が亡くなった真実を聞き、僕はすぐさま「親による殺人」が思い浮かんだ。僕が彼女を駅まで見送った日、僕は例のクズ父親と出会ってしまった。それどころか、あの父親は目撃してしまったのだ。自分が性的虐待を繰り返す程執着している娘が、他の男と楽しそうに会話をしている姿を目の当たりにしてしまった。実の娘に欲情する精神異常者だ、家に帰ったら何をされるか。嫉妬に怒り狂った父親が、娘を絞め殺したのでは。それを隠すために両親で共謀し、自分達が疑われないように殺した娘の死体を自殺に見えるように仕組んだのでは……あの日の僕は本当に愚かだった。本当に頭が悪かった。

 何故、改札を通る前に神月が振り返って僕を見た時、神月菫をクズ父親から引き離せなかったのかーー

 あの時、神月の目が口ほどに物を言ってたじゃないか。

「たすけて」

 僕は神月菫のSOSを、見過ごしてしまったのだ。彼女に「好きだ」だの「笑顔になって欲しい」だの言いながら、僕は彼女を見殺しにしてしまった。僕が、彼女を死に追いやった。間接的に神月菫を殺してしまったのだ。

 しかし、今神月の秘密を北野に正直に打ち明けたとして、どうなる? 彼女が今まで他者との関係を絶ち、無言で秘密を守ってきた意味とは何なのか。今更両親の虐待が明るみになったところで、神月菫は帰って来ない。帰って来ないだけじゃない、今までの彼女の努力や苦労が全て無駄になる。もし彼女と今話ができるのなら、きっとこう言うだろう。

「今更それを話したところで、何も意味は無い」

 そう断言するだろう。僕には分かる。神月菫なら、きっとそう言うだろう。彼女の死を少しでも無駄にしないために、僕がすべきことは何か。

「僕は……確かに家で色々ストレスを感じているとは聞いてましたが、具体的に親にどうこうされてる、みたいな話は聞いたことは無いです」

 僕は、北野に嘘をつくしかなかった。それが、神月菫の死を無駄にしない、僕にできる最大限の事だと思った。苦し紛れの嘘だった。

「そうか……」

 北野も肩を落とした。

「そうだな……いや、例え一色の証言があったとしても確実な証拠、物的証拠がないと警察も両親を疑えないよな。こんな辛い話を聞かせて悪かった。俺はお前に話を聞いてもらいたかったのかもしれない。自分が教師として一人の生徒の命すら守れなかったことを、懺悔したかっただけかもしれない。俺は教師として情けないよな」

 北野は下を向きながら、僕に謝っていた。その姿は、教師として神月菫の死を防げなかった自分を責めているように見えた。僕は北野に「それは違う」と言いたかった。本当に情けなかったのは北野ではない、僕だ。あの日、駅で神月の手を引き、強引だろうがなんだろうがクズ父親から奪って助けられなかった僕が、一番悪かった。

「とにかく、この件については一切口外するなよ。いいな。お前もショックが大きいとは思うが、受験を控えてるんだ。ある程度落ち着いたら、気持ちを切り替えよう。今すぐ切り替えろとは言わんが、お前には将来があるんだから、切り替えて生きる必要がある」

 僕を真っ直ぐ見つめながら、北野は強い口調で僕に警告した。

「遅くまで悪かったな。気を付けて帰れよ」

 そう言って、僕と北野は面談室を出て別れた。

 

 自宅に帰ると母の姿は無かった。今日はまだ仕事なのかもしれない。ちょうど良かった。今の顔色を見られたら、母にはきっと勘付かれる。僕はすぐ自室に入った。鞄を放り出した後、ベッドに横になった。こんな非常事態が起こっているにも関わらず、僕は無意味にスマートフォンを触っていた。メッセージのアプリを開き、神月菫とのやりとりを眺めていた。もう二度と、彼女からメッセージが来ることはない。それどころか、会って話をすることもできない。そういえば、彼女の写真を一枚も撮ったことがなかった。彼女の本当の笑顔、せめてそれを写真に残しておけば良かった。きっと彼女は写真を嫌がるだろうが。中央公園で僕が号泣した日、一瞬だけ見せてくれた神月菫の本当の笑顔。

 気が付いたら、僕はまた泣いていた。声に出して、喚きながら泣いていた。18歳の男とは思えないぐらい、号泣していた。こんなに泣いてても、僕の頭を無言で撫でてくれていた神月菫はもういない。もう彼女に触ってもらうことも、僕が触ることもできない。今の僕には絶望しかなかった。今、母が家に居なくて本当に良かった。それだけが救いだった。

 結局、神月菫が本当は僕をどう思ってくれていたのか分からぬまま、何もかもが終わった。僕の初恋は、失恋も何もなく終わった。


 翌年の春、僕は大学に進学した。神月菫との交流があったおかげか、幸か不幸か女性と付き合う機会が何度かあった。しかし、決まっていつも相手の方から振られていた。大学2回生の時、とある女性が別れ際に僕の核心を突いてきたことがあった。

「一色くんってさ、私のことそんなに好きじゃないでしょ。本当は他に好きな女が居るんじゃないの?」

 その人は大学の同じ学部の女子だった。向こうから告白されて付き合い出したのがキッカケだった。

「え、なんで……」

 僕はその女子が何を怒っていて、別れ話を切り出しているのか分からなかった。

「だって、いつも心ここに在らずみたいな感じじゃん。私にあんまり関心ないというか……それにセックスだって私が誘うからする、みたいな感じじゃない。そういうのすごく気分悪いのよ」

 嫌悪に満ちた表情でそう捨て台詞を吐かれ、別れた。その日、僕は今まで付き合った女性を回想しながら、ある事実に気が付いた。

「そうだった。僕は今まで付き合った女性全員に、心底欲情できてない。神月菫のように執着できない。神月菫にはあれほど思い通りにしたいと思っていたのに、別の女性にはその感情が持てない」

 僕はまた絶望した。どうしたらいいのか分からなかった。だって、生きている人間が死んだ人間を上回ることなんてできないじゃないか。じゃあ僕は一生このまま一人で生きていくのか。両親がそんな僕を知ったら、真剣に心配するだろう。一人息子が一生独身だったら、普通の親なら心配する。では、神月菫を上回る女性をひたすら待ち続けるのか? そんなことを待ち続けていたら、恐らく自然に死んでいるだろう。ここで僕はどうするべきか?


 大学卒業後、僕は25歳の時に結婚した。相手は、大学4回生の時に付き合い出した、同じサークルの同学年の女子だった。僕は「就職活動の手前何かのサークルに所属しておこう」ぐらいの気持ちで、楽そうな手話サークルに入っていた。その手話サークルで部長をしていた女子が、今の妻だ。妻と付き合ったキッカケも、向こうから告白されたからだった。

 当時の妻は部長を任されるだけあって、サークル内でも周囲からも人望が厚かった。サークル活動のボランティア先でも、彼女の評判は高かった。明朗な性格の持ち主で、このサークルに入った志望動機も至って前向きだった。

「小学生の時、聴覚障害を持つ女の子と友達になり、その子と話をしたくて手話を独学で覚えました。将来は社会福祉士になって、障害を抱える方々の力になりたいと思っています」

 サークル入部の自己紹介の時、彼女はメンバー全員の前で堂々とそんな話をした。なので、当然周りから慕われるような存在だった。そんな彼女がある日、何を思ったのか思い詰めた表情で僕に告白をしてきた。

「私、一色くんのことが好きなの」

 決して冗談や遊びでそんな発言をする人ではないのだが、あれだけ皆から慕われている彼女が何故僕みたいな奴を好きになるのか、理解し難い部分だった。しかし、この告白を受けて、僕は人生最後の覚悟を決めることにした。

「分かった。付き合おう」

「え?」

 彼女の方が驚いていた。

「本当にいいの?」

 改めて意思確認をされた。だが、僕はこの告白を受け入れる姿勢を崩さなかった。

「君はサークルの中でも人一倍努力してるし、みんなから慕われてるし、前から良い子だなって思ってた。だけど、僕みたいな奴相手にされるとは思ってなかったから、何も言わなかった」

 この言葉に、嘘偽りは無かった。だが、「神月菫を上回るほどの存在か?」と問われたら、それは肯定できない。彼女には本当に申し訳ないが、そこまでの執着心は持てそうになかった。

「本当に!? ありがとう、嬉しい」

 彼女はそう言いながら満面の笑みを向けた。こうして、僕は騙すような形で今の妻と付き合いだし、後に結婚した。

 26歳の時、娘を授かった。妻のお腹の子が女の子だと分かった時、娘の名前の話になった。

「名前、何にする? 女の子だし、可愛い名前が良いよね」

 妻は名付けの本を読みながら、大きくなったお腹に手を当てていた。妻の持っていた本を借り、パラパラと流し読みをした。その時、男女別の名前のランキングが載っているページを偶然発見し、参考程度に読んでみた。女の子のランキングを上から順に見た時、「桜」や「葵」という植物に関する名前を見た瞬間、僕は思わず口に出してしまった。

「花の名前がいい」

 僕は強い口調で主張してしまった。

「急にどうしたの?」

 妻が不思議そうな顔をした。しまった、と僕は激しく後悔をした。

「いや、花の名前って可愛いらしいだろ? ここにも桜とか載ってるし。ほら、『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花』的なものというか……」

 妻に怪しまれぬよう、本当に苦し紛れの言い訳をペラペラ捲し立てていた。

「ああ、良いわね。花の名前、可愛いじゃない。貴方が考えてよ」

 妻はお腹を撫でながら、微笑んでいた。僕は本当に酷い人間だ。こんなに素敵で純粋な妻を騙して結婚し、尚且つ娘に花の名前、神月菫に関連する名前を付けようとしているのだ。

「分かった。よく考えるよ」

 僕は内心妻に懺悔しながら、娘の名前について数日思い悩んだ。何日もかけてインターネットで花の名前を検索し、納得のいく名前を探していた。どれにしようか決めかねていた時、ふと花言葉のことを思い出した。花言葉のジャンルで名前を探してみようと思い付いた。「恋愛・好意」というカテゴリーの中で名付けに使えそうな花の名前を探してみた。その中に、僕の目に留まる名前があった。その花の詳細を読んで、僕は娘の名前を決めた。

「名前、決めたよ」

 僕は妻に報告した。

「なになに?」

 妻はワクワクした表情で僕の顔を見ていた。

「花梨(カリン)、と名付けようと思う」

 紙に漢字を書いて見せながら、僕はこう続けた。

「花言葉が、優雅・可能性で、海外では『限りない可能性』とも言われているらしい。だから、未来ある子に育って欲しいと思ってこれに決めた」

 花梨の花言葉と名付けの理由を、妻は黙って聞いていた。すると、表情がパッと明るくなった。

「花梨、良いじゃない!」

 妻は素直に喜んでいた。僕に対して、何も疑っていなかった。当たり前だ、何も知らないのだから。僕は神月菫の話を誰にもしたことがない。だから、誰も知るわけがないのだ。そして僕は、この名付けの理由に一つ隠し事がある。

 妻に説明した花梨の花言葉は、白色の花言葉だった。実はもう一つ別の色があり、それにはまた違う花言葉がある。

「ピンク色の花言葉は、豊穣・唯一の恋」

 僕は娘の名前に花の名前を敢えて付けることで、神月菫を一生忘れないと約束する意味、彼女を守れなかった自分の情けなさの戒めと贖罪、そしてこれから生まれてくる娘を一生守るという誓いの意味で「花梨」と名付けた。

 

 僕にとって神月菫は「唯一の恋」だ。これは他の誰でも代わりなどできないし、「神月菫」という人間はたった一人しかいない。既にこの世にいない、死んでしまった彼女を、生きた他の女性が上回ることは無いと僕は思っている。実際、何度か他の女性と交際したが、全部上手くいかなかった。これは女性が悪いのではなく、僕が悪い。僕は今まで交際した女性に対して、とても失礼なことをしてきたのだ。

 今の妻に対してもそうだ。僕が純粋で素敵な妻を騙して付き合って結婚したようなものだ、と自分の中で思っている。現に本音を言えば、妻に対しても神月菫のように「自分の思い通りにしたい」といった、性的欲求や願望はあまりない。妻に対しても、本気で欲情したことが無いのだ。なので、年齢の割には夜の営み的な行為が少ないと僕は自覚している。しかし、妻はその件についてあまり気に留めていないので、お互いそれで揉め事や別れ話に発展することは無かった。でも、勘が鋭かったり疑い深い女性なら、すぐ気付くだろう。

「他に好きな女がいるんでしょ」

 大学2回生の時に付き合っていた元彼女の別れ際の言葉、あれは元彼女の被害妄想や嫉妬深さでもなく、真実なのだ。僕は神月菫のことを想ったまま、別の女性と付き合っていたのだ。それを、何度も繰り返していた。だから僕は、この負のループに終止符を打つために、今の妻との結婚を決意した。本当は、妻は僕に関わった人間の中で一番の被害者だ。妻は何も知らないし、全く非の打ち所がない。むしろ娘に至っては、花の名前を付けた時点で「父親失格だ」と罵られてもおかしくないレベルで、僕は気持ち悪い人間なのだ。

 妻と娘は何も悪くない。全て僕が悪い。なので、二人に対して僕は一生をかけて償いをしなければならない。そのためだけに、僕は生き続けている。

 

 僕の独り言はこの辺で終わりにして、話は冒頭に戻る。居酒屋での同窓会の二次会は、終電の時間もあるのでお開きになった。女性はもちろん帰るのだが、男連中にはまだ「もう一軒行くか」と騒いでいる奴もいた。気持ちが若いな、僕らはもう38だぞ。いい歳したオッサンじゃないか。

「一色も行くか?」

 僕も藤本から誘いを受けたが、「嫁がうるさいからさー」的な差し障りない言い訳をし、家に帰ることにした。あんな絶望的なことを回想してしまったら、さすがに高校の同級生とこれ以上会話したいとは思えなかった。早く一人になりたかった。


 家の最寄り駅に着いて、自宅まで夜道を歩いていた。道中、僕はまた神月菫のことを思い出してしまった。精神衛生上、思い出してはいけないのに嫌でも脳裏に浮かぶ。酒が回っているせいか、今外だと頭で分かっていても、泣いてしまいそうだった。

「貴方、本当にバカなんじゃないの……」

 神月菫があの時中央公園で僕に見せた本当の笑顔、一生忘れられない。彼女より美しいと思える女性は、二度と現れないと思う。そんな彼女を何と例えたらいいのだろうか。さすが僕だ、頭が悪くてバカでガキみたいな比喩しか思い付かなかった。

「ことわざで言うなら『解語の花』かな。菫という名前だけに」

 女々しくて情けない独り言を語り出したらキリが無いので、この話は本当にもう終わりにする。そして、これからも誰にも話すこともない。一生、語ることはない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

解語の花 川原実 @kawahara_m

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ