第38話 昔の話①
*****
「昔の話をしないか」
やっぱり、と思いました。先輩もずっと機会を窺っていたんだなって。
だって、私もそうだったから。
いい加減けりをつけないといけないことがあるのは私も先輩もとっくに理解していたと思います。でもずっと逃げて逃げて、目を背けて、見ないふりをしてきました。ただ楽しい時間を過ごしたかったから。
けれど、このままじゃいつまでたっても前に進めない。私だけじゃなくて、先輩も。それはあってはならない。絶対に。だから私も今日でけりをつけようと思っていました。先輩に先を越されちゃいましたが。
先輩は舞台を見ていました。いたって穏やかな、なんてことのない普通の表情で。だから私も前を見て口を開く。揺れる心を抑えつけながら。
「昔の話……ですか。何について、話します?」
「3年生の劇の演目、何か知ってるか?」
「え……?」
なぜ急にそんな話を。
そう思いましたが、パンフレットを見てその意図に気づきました。
「ロミオとジュリエット……」
ぽつりと、言葉が漏れてしまいました。
「そう。中2の頃、俺のクラスがやったやつ。思い出すたびに死にたくなる話だが俺がロミオで、ジュリエットが—」
「水仙先輩、でしたよね」
先輩の言葉の先を私が引き継ぎました。
「今思えば、そういうことだったんですね。だから、あんな……」
気持ちが沈みそうになったところで、先輩が「待て待て」と言いました。
「そういう話ばっかしようっていうんじゃねぇよ。楽しかったこともあっただろ」
私に向かって、先輩がニッと笑いかけてくれました。引きつったようなとても不器用な笑顔でした。
きゅっ、と胸が締め付けられたような気がしました。
ああ……ああ!!
やっぱり優しい人だ。
震える心と声を抑えつけて、今できる精一杯の笑顔で私は
「はい!!」
と言いました。
これから語られるのは私と先輩が出会うまでの話。出会ってからの話。そして彼氏と彼女だった頃の物語。
*****
先輩とは中学で知り合ったので、小学校は別々でした。まぁ、名前はよく知るところでしたが。
中学校にあがって間もない頃。私はどの部活に入ろうかで頭を悩ませていました。今通っている高校は部活動は自由参加なので帰宅部でも構わないのですが、中学校は全員参加という決まりがありました。今思えばそれっておかしいですよね。やりたくない人に無理やりやらせてもいいことなんて一つもないのに。最近はいわゆる「ブラック校則」を見直す動きが広まっているみたいなので、もしかしたら今は変わっているかもしれません。
とりあえずいろいろな部を見て回ろうと、様々な部に仮入部しました。自分で言うのもあれですが運動はそこそこできる方でした。だからこそ悩ましかったのです。あれもしたい、これもしたい、そう思ってしまって。
ハンドボール部、ソフトテニス部、バスケットボール部、それから陸上部。部員の先輩たちや同じ仮入部の一年生とともに練習に参加させてもらいました。どの部にもいろいろ思うところはありました。けれど、一番印象に残ったのは。
陸上部でした。
どうしようもなく目に留まってしまった人がいたからです。もちろん、走ることそのものも好きでしたが。
仮入部期間も終わりが近づいていた5月の初め頃。練習を終え、帰宅しようと校門へと足を向けたところで陸上部が使っているグラウンド奥に人がいることに気が付きました。思わず足を止めていました。
「あれ……?」
日は暮れ始め、空がオレンジ色と藍色に染まりつつありました。他の部活の部員たちも練習を終えて続々とグラウンドから姿を消していましたが、彼だけは走り続けていました。スターティングブロックに足を置き、数秒制止してから勢いよく地を蹴り走り出す。
それを何度も何度も。
気づけば私は彼のことをずっと見守り続けていました。いつまで続けるのか気になったからでしょうか。いや、きっと目が吸い寄せられたんだと思います。彼の走る姿に、汗をぬぐう仕草に、膝に手を置いて肩で息をする姿に。
辺りが暗くなり始めたころにようやく私は正気を取り戻していました。
「あ……え、もうこんな時間!?」
かなり時間が経っていたことと、彼が居残り練習を切り上げてこっちへ向かってきていたことに気づいて私は大慌てで学校を飛び出しました。
なんか、すごい人だったなぁ。あの人、確か男子陸上部の2年生の先輩だったよね。いつもあんなに練習してるのかな。全国大会目指してるのかな。
その日はそんなことを思いながら帰り道を走っていたと思います。
***
仮入部期間中ずっと見ていたのですが、やはり彼は毎日のように居残り練習をしていました。こっそり男子陸上部の部長さんに訊いてみたのですが、
「ああ、あいつ?すげぇよな。俺は体力的に余裕ある日しかやらねぇのに。雨降ってない日は毎日、雨の日は校舎の中で階段ダッシュをくたばるまでやってる。体壊すまでやるんじゃねぇぞって言ったことがあるんだが、あいつなんて言ったと思う?『大丈夫ですよ。俺、風邪ひいたことねぇし。バカなんですよ』って」
その話を聞いて、私は陸上部に入ろうと心に決めました。あの人に近づきたい、あの人のことをもっと知りたい。そう思ったのです。
そうして迎えた、本入部初日。
仮入部の時よりも何倍もハードになった練習で全身が悲鳴を上げていましたがなんとか気力を振り絞って私も居残り練習をしようとスターティングブロックを持ってレーンへと向かいました。
ちなみに、一応の事男女で分かれているのですが練習は男女で同じメニューをこなします。まぁ、さすがに量に違いはありますが。
それと、入ってからは自分の専門種目を決めます。1500mなどの長距離、100m、ハードル、走り幅飛び、走高跳び、ジャベリックスローや円盤投げなどの投擲種目、と様々です。まぁ、私は最初から決まっていましたが。
彼、いやもうお分かりですよね。鬼灯先輩はとっくに居残り練習を始めていました。何か声を掛けようかとも思ったのですが、すごく集中していたので邪魔しちゃまずいと思って無言で先輩のレーンのすぐ隣を空けてその横にスターティングブロックを設置しました。いきなりすぐ隣に並ぶのは緊張するしなぁ、と思ったからです。
普通の練習で先輩方からアドバイスはもらっていました。それを思い出しながら一度目を閉じて深呼吸をし、それからスターティングブロックに足を置いてクラウチングスタートの姿勢を取りました。
風の音、近くを走る車の音、すべてが耳に入らなくなったころに走り出しました。あっという間にグラウンドの端へと辿り着き、スピードを緩めてネットに手をかけて息を整えました。
「はぁ…っ…はぁ…」
「体…ぶれてたぞ」
突然背後から声がして、びっくりしました。振り向くと、先輩がいました。彼は私に背を向けてスタート地点に目を向けていました。突然のことだったので何も言えずにいると、先輩は続けました。
「体幹鍛えないとスピードだせないぞ。それに、ただ走るだけじゃ意味がない。フォームとかいろいろあるからな。だから……俺が、見ててやるよ」
そうしてちらと先輩がこちらに顔を向けました。少し赤くなっていたような気がします。夕暮れのせいだけではなく、きっと気恥ずかしかったんだと思います。
数秒呆気に取られていましたが、すぐに気を取り直して「は、はい!お願いします」と言いました。
まぁ、その日は初日だったこともあり先輩からは「その辺にしとけ」と言われ、早めに切り上げましたが私は先輩が終わるまでずっと待ち続けていました。「帰っていいっつったのに……」とかなんとか言っていたと思います。流石に初日からいきなりプライベートなことを尋ねる勇気も度胸もなかったので、その日は校門で「じゃあ、また明日頑張りましょう」と言って別れました。
***
入部して少し経った頃。春の心地よさが薄れ始め、夏の熱気が迫ってきていた頃。
居残り練習中に先輩が言いました。
「今更だけど、お前すげぇな」
「え……?」
思わず何でもないところで転びそうになってしまいました。
すごい?
誰が?
私が?
いやいやいやいや!!
先輩との会話にも慣れてそこまで緊張しなくなっていました。私は「冗談ですよね~」とおどけた感じで言い
「先輩の方がすごいですよ。きっつい練習にも休まず出て、さらに居残りまでしてるし」
私の言葉に先輩は「いいや」と首を横に振りました。
「俺が今のような居残り練習を始めたのは入ってから一か月以上たってからのことだ。それまでは練習についていくのに必死で居残りしようだなんて一度も思ったことはない。だから、お前はすげぇよ」
私は全くすごくなんかないですよ。
そう言おうと思いましたが、さすがに言えませんでした。
だって、私が陸上部に入ったのは、こうして居残り練習を始めたのは、
先輩が懸命に走る姿に目を、心を奪われたから。先輩と近づきたい、もっと知りたいとそう思ったから。
そんなどうしようもない理由。
私とは違って、きっと先輩は全国大会を目指しているからとか、一秒でも早く走れるようになりたいとかそういう純粋な気持ちで陸上と向き合っているはず。
そう思いました。だからそのときは適当に「あはは。そう……ですかね」と適当な相槌を打っていたと思います。
この日を境に、私はもっともっと真剣に陸上と向き合っていこうとそう心に誓いました。
***
一学期も終わりを迎えようとしていた7月のある土曜日のこと。
休日の練習は朝9時からお昼の12時30分まででした。ですが、私と先輩のような居残り練習をする人はお昼を持ってきてそれから16時まで練習していいということになっていました。もちろん、顧問の先生の了承は得ていました。
平日はあまりいませんが、休日には私と先輩以外にも居残り練習をする人がいました。男子の部長さんもそうですが、それ以外にも数人いました。私がお弁当を持ってグラウンドにあるステージ(としか言いようがありません)の日陰に座ったところでふたりの人間がこっちに向かってきていることに気が付きました。よく知った顔でした。二人とも女子。一人は同じ一年生で、もう一人は二年生の先輩。
ふたりとは特段仲が悪くも良くもないという感じだったので「何の用だろう」と不思議に思いましたがその答えはすぐに分かりました。先輩の方がにこにこしながら「隣いい?」と訊いてきたので私は「はい」と答えました。その笑顔が私の目には不気味に感じました。一年生の子もにやにやと薄気味悪い笑みを浮かべていました。
「聞いたよ。タイム、縮まってるんだってね。頑張ってるじゃん」
その先輩の言葉に私はぎこちなく「は、はい。ありがとうございます…」と答えました。
しかし、そんなことが本題な訳もなく。
先輩は声音を変えて、
「ところでさ」
と言い、にこにこしたまま、けれど目は心の底を窺うような。獲物を睨むような鋭さを滲ませて続けました。
「知ってる?鬼灯君ってさ、割と人気あるんだよ」
それだけしか言いませんでしたが、言葉以上のことは十分すぎるほど伝わってきました。
これは、警告だ。
そう本能で理解しました。気温は30度近いというのに、体から体温が抜けていき寒気まで感じてきていました。
まずい、黙るのは……
そう思い何とか言葉を絞り出しました。
「あ、あはは。そうなんですね。まぁ、でも優しい人ですし、練習にも熱心な人ですし、納得です。あはは……」
我ながら下手くそすぎる切り返しです。
案の定、こんなので誤魔化せるはずもなく。
先輩が言いました。笑顔を引きつらせながら。
「あのさ、あんた意味分かってるよね?」
どうしよう、どうしよう。
追い込まれてどうしようもなくなったころに。
グラウンドへと続く階段の方から声がしました。その時の私にとっては彼はまさしくヒーローでした。
「あ、こんなとこにいた。そんなとこじゃなくて別のとこで食べようぜ苧環」
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