第36話 文化祭②—木元梨華と華畑美樹—
今、俺の目には二人の人間が映っている。一人は木元梨華。水仙乃亜の親友であり、俺と同じ中学出身の女子。髪色とか服装とか見た目はギャルっぽいんだが雰囲気や話し方は落ち着いていてあまりそういう感じがしない。
まぁ、彼女のことはいい。問題は隣にいる男の方だ。奴は無言で笑みを浮かべながら俺のことを見つめていた。殴りかかろうかと思ったがぐっと堪えた。
梨華さんは言った。
「実はね、ちょっと前まで嫌がらせを受けてたんだよね」
と。俺はただ「ああ…」とだけ返した。何を言えばいいのか分からなかったからだった。
「鬼灯くんとミスドにいるときの写真がいつの間にか机の中に入れられてあったし、帰り道で後をつけられたし、階段から突き落とされそうにもなった。でも、」
一度言葉を区切り、梨華さんは奴の方を見た。そしてそれからまた口を開いた。
「樹月くんが、助けてくれた」
・・・・・・・・・・・・・・ん?
思わず訝しげな表情になってしまった。
俺の目と耳がおかしいのか?梨華さんが奴に熱視線を向けながら湿っぽい声で「い・つ・き・くん♡」って言ってた気がするが。俺は熱があるのかもしれない。
俺の様子がおかしかったからか、梨華さんが「どうしたの?」と首を傾げた。俺はそれに「いや、何でもない」と首を振った。梨華さんは続ける。
「私も初めは信用してなかったんだよ?何か理由があって私を助けたんじゃないかって。でもさすがにあんなことがあった後だし、真剣な顔で何度も『梨華のこと、助けたいんだ』って言われたら、ね。本当にもう一度だけ樹月くんにチャンスをあげてもいいんじゃないかって、思っちゃったの」
はぁ、と思わずため息を吐いた。頬を染めながら話す梨華さんを見てると聞いてるこっちが恥ずかしくなってくる。つまりはこういうことか。
「お前ら、付き合ってんのか…?」
俺の言葉に梨華さんはぎこちなく首を縦に振り、桂樹月は笑顔でうんと返した。
あっそうですか。いいんじゃないですか梨華さんがよければ。まぁ、僕はこんなやつやめといたほうがいいと思うけどね。
桂の方に目を向けて口を開いた。
「おい、お前。梨華さん泣かせたら水仙が黙ってねぇからな?」
「あはは。そこは俺がぶん殴ってやるから覚悟しとけよ、じゃないの?」
「アホか。俺は梨華さんのことをそういう風に見たことはない」
「ああ、そうだったね。優君には他に好きな人がいるもんね?」
思わず口をつぐんでしまった。ち、と心の中で舌打ちした。見透かしたようなこと言いやがって。
俺の様子を見て桂は「あはは」と笑い、それからほんの少しだけ表情に真剣みを滲ませてから口を開いた。
「ところでさ、優君。葉菜川水樹さんって、知ってる?」
その名前には聞き覚えがあった。つい最近そいつと会ってるしな。
「ああ、うちの学校のやつだよな。よく知らんけど」
「うん。その人がうちの高校の子にけしかけて梨華にいろいろやってくれたみたいなんだけど、最近君の方でなにかおかしなことはなかったかな?」
葉菜川の言っていたことを思い出した。
『あと、他校の仲良くしてる子?白天みたいだったから知り合い経由でちょっかい出させたわ』
こんなことを言っていた。ああ、やっぱりか。梨華さんには迷惑をかけてしまった。心に消えない傷を負わせてしまったかもしれない。本当に、自分が嫌になる。
頭をぼりぼりと掻きながら言った。
「まぁ。葉菜川に絵ぐちゃぐちゃにされたわ」
「そっか。大変だったでしょ?」
「別に、大したことねぇよ」
俺が原因なんだしな。
「優君」
桂は険しい表情で俺の名を呼び、それからこう言った。
「紫音のこと、頼んだ」
は?
何でここであいつの名前が出てくるんだよ。そう思ったが、少し考えて理解した。
俺は今、どんな顔をして桂を見ているだろうか。
「頼んだ、って。俺にできることなんか、」
「何言ってるんだよ」
桂は俺の言葉を遮り、
「君にしかできないことだよ。今の彼女は君のことを最も信頼している。だから、頼む」
そう言って、頭を下げた。
あいつが、俺のことを最も信頼している?
本当にそうなんだろうか。きっと俺は彼女のことを知っているようでいてその実何も知ってはいない。あの、夏休み最終日。俺が去った後に何があったかは知らない。何かしらやりとりをしたのだろう。だがそれだけで今のあいつの全てを知った気になるのは違うだろ。まぁ、少なくとも俺よりは長い時間あいつと過ごしてきたんだろうけど。それでも、お前と別れた後、彼女が何を思ってどういう時間を過ごしてきたかはこいつが知っているはずがない。むろん、俺も。
それに、俺は自分が誰かを助ける力のある人間だなんて微塵も思っていない。俺の短い人生は失敗ばかりだ。そんな俺に何ができるっていうんだよ。
だが。
そうは思うものの、何とかしなければと、そう思っていた。人間は考える葦なんだという。ならば考えるのをやめてはならない。考えることをやめてしまったとき、人は人ではなくなるんだろう。多分、コミュニケーションにおいて何よりも大事なのは考えることなんだと思う。
俺は口の端を上げて強がりながら言った。
「は、お前に頼まれなくてもそのつもりだったわばーか」
「優君なら、そう言うと思った」
俺の言葉を聞いて桂は頭を上げ、ニヤリと笑った。
「さて、お前ら当然、と・う・ぜ・んうちのとこ寄ってくよな?」
俺が圧をかけながら言うと、二人は苦笑して「うん」「もちろん」と言うのだった。俺は席を立ち、教室の扉を開いて二人を中へ招き入れた。ちなみに二人とも私服である。まぁ、休日なので当然っちゃ当然。アニメには休日とか外出先でも制服着てないといけないみたいな校則がある学校が出てきたりするが実在するのだろうか。誰か教えて欲しい。
後は中の人間に任せ、軽く手を振って再び廊下に出た。席に座ろうとしたところでまた声を掛けられた。二人組である。そのうちの一人が恐る恐るといった感じで訊いてきた。一年生だろう。
「あ、あのージブリクイズってここですよね……」
「あー、そうです。どうぞ」
俺は再び二人を招き入れて廊下に戻った。それからは意外と退屈しなかった。ちょくちょく他校の生徒や保護者も来て本当に文化祭なんだなということを思い知らされた。去年があまりにも記憶にないせいだろう。
あっという間に時間は過ぎていき、時刻は正午を迎えた。
*****
午後は一時から始まる。その間にいろいろ済ませないといけない。まずは苧環にメッセージを送った。彼女も午前に仕事があると言っていた。俺に合わせてくれたのかもしれない。本当に、できたやつだと思う。俺が『後でそっち行く』と送ると秒で『りょーかーい☆』と返ってきた。はっや。
スマホをしまうとちょうど待っていた人物が教室に戻って来た。若干お疲れの様子である。入ってくるなりため息を吐いた。
「よう、華畑」
声を掛けると華畑は穏やかに微笑んで「ごめん、待たせちゃったね」と言った。俺はそれに「そうでもねぇよ」と返した。適当に机を借りて昼飯の準備をすると彼女も俺の向かいに机をくっつけて座った。
「一応、どうだったか訊きくてな」
何のことかは言うまでもない。前野との話である。華畑はビニール袋から取り出した紙パックのコーヒー牛乳をストローで一口吸ってから口を開いた。
「
「あ、ああ。前野と仲良さげなあの人だろ?」
金髪キラキラのあの人である。俺が言うと華畑はうんと頷いた。
「案の定、紫音ちゃんは途中でどっか行っちゃって二人きりになったんだけどね…その、彼女が」
「あの人に目撃されちまったってことか」
あの人、絶対前野のこと好きだからなぁ。きっと修羅場になったんだろうなぁ。ほんとお疲れさん。
華畑がまた「はぁ」とため息を吐いた。
「もう大変だったよ。『あたしも一緒に回ってもいいよね?』って彼女が言って、前野君も断れなくて、結果三人でいろいろなとこ回ってたんだけどね……。木佐木さんから無言の圧を掛けられまくって、もう…もう、疲れたぁぁぁ」
「うおっ…」
ばたりと倒れるようにして華畑が机に突っ伏した。びっくりするわ。まぁ、同情はするけどね。
パンを一口かじってから「お疲れ」と労ってやると、華畑は顔を上げて俺をじっと見た。なんだよその目は。他に言うことはないのかとでも言いたげだな。
仕方がないので訊いてやる。
「それで、前野の様子はどうだったんだよ。やっぱりお前に気がある感じなのか?」
「多分。でも、木佐木さんとは深い縁がありそう。だから彼女のことはあんまり無碍にはしたくないんだと思う」
「なるほど。俺も大体同じこと思ってたわ」
まぁ、大方中学とか小学校からの付き合いってところだろう。あいつもあいつで人間関係に苦労してるんだろう。人気者は人気者でいろいろと大変だということか。
「その感じだと、今日は…その、告白とか、されなかったんだよな?」
なんか告白という単語を口に出すのが気恥ずかしくて思わず口ごもってしまった。
華畑はがばりと体を起こし、赤茶の髪をさっと払ってから口を開いた。顔には真剣みが滲んでいた。
「うん‥‥今日はね」
今日は、か。ってことは。
「明日とか別の日に時間あるか、みたいなことを言われたのか」
俺の言葉に華畑は笑って「せーかい」と言った。
「うまく木佐木さんの目を盗んで『明日時間ある?」って。問題なかったから『うん』って言ったんだけど、どう応えてあげればいいのかちょっと悩んでる」
「まぁ、本心をそのまま言えばいいんじゃねぇの。お前のこともっと知りたいから友達からならいい、とか」
友達からならいい。そういえばそんなようなことを口にした奴がいたな。
「そうだね。そうしてみる」
華畑は穏やかに微笑んでそう言った。
「どうでもいいんだが前野と木佐木さんはどこ行ったんだ?」
「どっかで二人仲良く一緒にお昼食べてるんじゃないかなー」
ぶっきらぼうに言って、華畑はおにぎりをかじった。おにぎりとコーヒー牛乳か……。合うのか?
本当に華畑のこと好きならきりかさんとのことは考えた方がいいぞ、前野。
さて。
「華畑。花陽がどこ行ったか知ってるか?」
多分、知らないだろう。だが一応訊いておきたかった。
「あー……」
華畑が申し訳なさそうな顔をした。やはり知らないのだろう。別れてから音沙汰なしってことか。
俺は「構わん」と首を振った。
「自分で探すわ」
「なんか、ごめんね。メッセージ送っても返信来なくて。読んではいるみたいなんだけど。話したいこと、あるんだよね……?」
いや、まぁ、そりゃあるんだけど……
俺の心を知っているかのような華畑の話しぶりに何とも言えない気持ちになった。けれど不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。やはり親友は侮れないということか。
俺が無言でいるのをどうとったのかは分からない。華畑はただ、
「頑張ってね、いろいろと」
と言うのだった。
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