第30話 その言葉は嘘か真か
「待ってたわ」
風に揺らされる紫黒の長髪を左手で押さえながら花陽は言った。凛とした表情からは独特のオーラが発せられている。緊張しているのもあってか、少々たじろいでしまった。
俺は気持ちを落ち着かせるため、ひとつ長い息を吐いてから口を開いた。花陽の目をじっと見据えると彼女もまた見返してきた。
「それで…話ってのは?」
「…黙って、聞いてくれるかしら」
「黙ってることなら超得意だ。大好きだ。何も言わなくて済むからエネルギーを消費せずに済む。超エコ」
「……………」
おどけながら言ったのだが、真顔でスルーされてしまいました。ちょっと悲しい。
花陽はしばし瞑目し、それから俺に告げた。彼女が口を開いた瞬間、時が止まった気がした。
「私……あなたのことが嫌いよ」
………………は?
口から言葉が漏れそうになったが、堪えた。黙ってろと言われたのだ。約束を違えることはできない。
だが一体どういうことだ。なぜこんなことを?なぜ今?何の意味があって?これは嘘か。いや真顔で言っていたからそれはない…か?
頭の中は疑問で埋め尽くされていたが、とりあえず話に耳を傾けることにした。
「あの、『ショー』とやら。まったく余計なことをしてくれたものね。別に私は樹月に復讐したかったわけじゃないし、屈辱を味わわせたかったわけでもないわ」
——本当に、何を言っているんだこいつは。
少しばかり不快感が滲んできたらしい。思わず奥歯を噛み締めた。
なおも話は続く。
「分かってるわよ。私のためにやったわけじゃないってことぐらい。けれどあんな悪趣味なものを見せられる身にもなってみなさいよ」
言い終えて、花陽は「はぁ」と呆れたようなため息を吐いた。
「終わりか?」
威嚇するような低い声が出た気がする。苛立ちが漏れていたかもしれない。花陽がきっと目つきを鋭くした。
「まだよ。焦らないで」
「じゃあ、さっさと話せよ。準備のことがあるんだから」
いつまでも前野に任せておくわけにはいかない。あいつには部活があるのだから。自分から代わりを引き受けたのだから、放り出せもしない。面倒ごとは嫌いだがそこまで責任感がない人間ではないと自覚している。
花陽は再び話し始めた。淡々と。変わらぬ口調で。
「私はあなたの性格の悪さ、無駄なおせっかいを焼いてしまうところ、それから、誰にでも……優しいところが、すごく嫌い。だから、」
初めて、花陽が顔を俯かせた。そうしてそのまま彼女は言った。
「もう、私と関わらないで。分かってるでしょ。私が最近、何してるのか」
穏やかながら強い意志が感じられた。だから、本気で願っているのかと思ってしまった。頼むからどうか私には関わらないでくれと。そして最近していること。それは前野との関係について言っているのだろう。これらのことが、嘘ではない真実だと俺に訴えかけてきた。
何かを言おうとした。けれど喉まで来たところでつっかかってしまい、外には出なかった。歯がゆさに下を向いてしまった。
花陽紫音とは一体どういう人間だったか。
そう、嘘つきだ。そしてつい数か月前まで他人に対して演技をしてきた人間だ。だから相当に本音を隠すのが上手いはずだ。今、こいつが言ったことはすべて嘘なんじゃないか。そう思う自分がいなくはなかった。だが、俺は無意識のうちに花陽には平気で素を見せてしまっていた。素を見せても幻滅しないはずだと、心を許していた。
つまり、俺は花陽のことを信じていたのだ。ゆえに今彼女が言った言葉が嘘偽りないものだと認識してしまっていたのだ。させれらてしまった。
なぜだか、裏切られたような気分だった。もとよりそんな関係ではないのに。気づいたら俺は両の拳を握りしめていた。
「それじゃあ。さようなら」
俺が沈黙して何も言わずにいたので、花陽は校舎へと去って行ってしまった。長い髪が御簾のようになって顔を隠し、表情は窺えなかった。
びゅう、と冷たい風が人気の少ない渡り廊下を吹き抜けていった。俺はひとり、立ち尽くしていた。
何、考えてやがる。
*****
あまり身が入らなかった気がするが、なんとか今日の準備を終えることができた。職員室に入り、鍵を返したところでGTKこと片霧先生に声を掛けられた。
「頑張ってるようだな」
先生は自らのデスクからこちらを見ていた。俺も立ち止まって見返した。「まぁ、自分から引き受けたんで」と返すと先生は苦笑した。
「何かあったのか?お前、文化祭みたいなのは嫌いだと思ってたが」
「いや、騒がしいのが嫌いなだけですよ」
「文化祭は騒がしくないのか?」
「超騒がしい。マジ騒音」
「じゃあダメじゃないか」
俺も、先生もお互いに笑った。まぁ、分かってますよ。らしくないことしてることは。
笑いが収まったころに先生が言った。
「ほどほどでいい。水仙が来たらなんとかしてくれるから、大丈夫だ」
穏やかな表情で俺を見つめていた。どうやら本気で俺のことを案じてくれているようだった。ちくしょう、このイケメンティーチャーめ。
俺は扉に体を向け、先生に背中を向けながら言った。
「言われなくてもほどほどでいきますよ。来たらあいつに全部任せて俺は楽します」
言い終えて、俺は職員室を出た。廊下の窓からは藍色と橙色が混ざった風景が見えた。大分、闇を濃くし始めていた。
人を待たせているのだ。早く行かなければ。
俺は昇降口へと足を向けた。
*****
校舎に挟まれ職員室などから漏れる人工の光しか届かない薄暗い校庭を歩き、二階建ての駐輪場の一階にたどり着くと彼女はいた。
「あ、先輩」
苧環真理は自らの自転車に跨った状態でスマホをいじっていたが俺に気づくとこちらを向いて手を振って来た。
「悪い。待たせた」
「待ってないですよ」
「いや、嘘だろ…」
少なくとも2時間は待たせたはずなんですけど…。それまで何かやってたってことかね。あと、その返しをされると何だかむず痒くなっちゃう…
俺がじとっとした視線を向けると苧環はむっとして口を尖らせた。
「失礼ですね。先輩じゃないんですから。図書室で勉強してたんですよ」
「え…マジ?本読んでたんじゃないの?」
「勉強もしてましたよ?ちゃんと」
「ってことはやっぱ読んでたんだろ」
「はい!」
うん、素直でよろしい。
俺は苦笑し、苧環はあははと声に出して笑った。
「まぁ、帰るか」
俺が言うと、彼女は「はい」と頷いた。駐輪場から自転車を出して手で押しながら校門を出た。苧環は右隣にいる。
「………」
「………」
気づけば沈黙が流れていた。あれれーおっかしいぞーと思いちらと横目で苧環を見ると彼女もちらちらと俺のことを見ていた。顔は心なしか緊張しているように見える。薄暗いせいで分かりづらいが、頬に朱が差している気がした。
「どうか…したのか」
意を決して訊いてみると苧環の肩が軽く跳ねた。それからひとつ咳払いをしてから話を切り出した。
「先輩。私と——」
ここまで聞いた瞬間に胸の鼓動が速くなった。ああ、ドキドキする…
「文化祭一緒に回ってくれませんか?」
…………………。
「………あ、ああ」
思わず曖昧な反応をしてしまった。
なーんだそんなことか。ぼくちょっとびっくりして転びそうになっちゃったよ。っていうか、中学の時はどうしてたっけ?
今、俺は苦笑いを浮かべていると思う。
「な、なんですかその反応は!!」
今度ははっきり分かるくらい苧環が顔を赤くしていた。激おこらしいがまったく怖くない。
「悪い悪い。そのくらいのことなら構わねぇよ」
俺が宥めるようにして言うと、なぜか苧環はきょとんとした。目をぱちくりさせている。
「そのくらいって……いいんですか?」
俺は察しが悪い方ではない。だから彼女が何を案じているか感じ取ってしまった。俺、エスパーの才能があるのかも。
今日あんなことがあった手前、どう反応すればいいか迷ってしまった。俺が考えていると苧環は眉を寄せて訝しんでいた。あまりいい返し方ではないが、これしかないか。
「…じゃあ訊くが、お前は三人でも構わないのか」
問うと、一瞬だけうーむと唸っていたが「はい!」と元気よく頷いた。
「もちろん、ふたりきりが私的には理想ですが優先すべきことは先輩と一緒にいることです。それに…花陽先輩のことも別に嫌ってるわけではないので」
えへへと照れたように頬を掻きながら苧環が言った。きっと、本当に優しい人間というのはこいつのような人間のことをいうんじゃないだろうか。ふっと穏やかな笑みが零れた。
「そうか…ちょっとだけ時間をくれ。きっと悪い返事はしないから」
「はい、待ってます」
ふたりで並んで帰路を歩いた。ふと空を見上げるときらりと星が瞬いていた。星からもたらされる光は遥か遠くからのものだと聞く。近くにあるのに本当はずっと遠い。俺と、彼女たちとの関係のようだ。
俺は近いうちに決着をつけなければならない。
*****
翌日。朝から天気が悪かった。
いつものように自転車に乗って学校に行き、到着すると駐輪場に停めて昇降口へと向かった。道行く生徒たちは心なしか活気づいているような気がする。まぁ、お祭りが近いもんね。文化の祭り。そういえば何で文化祭って呼ばれるんだろうね。学校によっては独自の呼び方をしてるとこがあるみたいなことを聞いたことがあるけど総称は文化祭だよね。なぜなのか教えて下され…
靴を履き替えようとスリッパを取り出すと、紙切れのようなものがひらりと落ちてきた。やだ、ラブレター?
当然そんなわけがない。
「……はは」
拾って文面を見た瞬間、乾いた笑みが漏れた。別に、誰がやったかなんてどうでもいい。暇なやつめ。
俺はくしゃりと握りつぶしてポケットに放り、教室へと向かった。
一枚の紙に殴り書きされていたのは。
女なら誰にでもいいかっこするクソ男!!
そんな言葉だった。
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