第二章

第17話 裏切りの花

 あれは、雪の日だった。気温は0度を下回っていてとても寒かったのを覚えている。呼吸をするたび冷気で肺が凍り付きそうだった。駅前はクリスマスの装飾がそこかしこに施されていた。夕闇の中ではキラキラと輝きすぎていて少しだけ目に毒だった。ぽつんとひとりベンチに座っていたの前に、彼は現れた。


 「樹月いつき。用事って、何?」


 嫌な予感がしていた。『今から会えない?』なんてメッセージを送られてきた。一切の前触れもなく。何か良くないことがこの身に降りかかるのではないか。そう思ってしまった。


 彼の目を見た。瞳は愛する物を愛でるように細められていた。いつもはとても好ましく思うのだけれど、今日ばかりは不気味に映った。


 どくん、どくんと心臓が高鳴っている。彼の沈黙が歯がゆかった。息が詰まりそうだった。


 少しして彼は告げた。不気味な笑みを崩さずに。


 「別れよう」


 さっ、と顔から血の気が引いていったのが分かった。


 最愛の人の言葉が理解できなかった。普段は手に取るように分かったのに。


 訳を聞くため、必死の思いで言葉を紡いだ。


 「ま…待ってよ。な、何で…樹月、私の事、大好きだって…言ってたじゃない」


 抵抗むなしく、無慈悲な言葉が返って来た。


 「嘘に決まってるじゃん、そんなの」

 「ぇ……?」


 私が呆けていると、彼は「じゃあね」と踵を返して去って行ってしまった。なんとか引き留めようと伸ばした右手が彼に届くことはなかった。

 

 悪い夢?幻?


 そんな愚かなことを思っている自分がいたが、数分後には跡形もなく消え去った。途端に、現実が重くのしかかってきて体中から力が抜けた。


 人の気持ちは簡単に変わる。


 だから、人なんか信用できない。


 そう、実感した。


 この日、私は大好きだった彼に裏切られ、心をずたずた切り裂かれた。


 にもかかわらず。


 なかなか忘れさせてはくれなかった。学校で彼を見かけると話しかけたくなったし、休日にも顔を見たくなってしまった。話しかけようとして思いとどまったり、通話ボタンを押そうとしてやめたりを繰り返す、無意味で無価値な日々が過ぎていった。


 結局何もできないまま中学校を卒業し、現在の月山西つきやまにし高校へと進学した。1年ほど経過してようやく忘れられそうだった。これでいい、これで…よかったのに。


 彼が、現れてしまった。


 2年生の教室で最初に彼を見た時、また私は幻を見ているのではないかと思った。だって、どうしようもないくらいに似ていたから。


 けれど名前は違うし、何というか雰囲気も違った。やがて別人だと理解した。


 けれど厄介なことに知りたいという衝動は収まってくれなかった。ああ、馬鹿だ。また私は同じ過ちを……


 だから、あんなことをしてしまった。


 たとえ彼と仲良くなれたとしても、すぐに裏切られると分かっていたのに。


 まぁ、告白は失敗したのだけれど。友達になれたのに、結局絶縁されたし。


 最近の彼を見て分かった。彼は元カノである苧環さんのことが忘れられていない。これはほぼ確信だった。彼女と話している鬼灯の顔はすごく楽しそうだから。いつもはつまらなそうに外ばかり見ているのに。


 私がふたりを邪魔してはいけない。もう二度と傷つきたくもない。


 彼のことは気になるし、もっと知りたい。


 けれど。


 私は少し、距離を置くことに決めた。


 *****


 終業式が近い、7月の土曜日。はひとりである場所へと向かっていた。


 数日前、華畑から教えられたのは彼の住所。「なんで知ってるんだ」と思ったが、「いや当たり前だな」と思い直した。彼女は花陽の親友。多分、彼女もその男と何かしらの付き合いがあったのだろう。


 華畑は言っていた。


 『会って話を聞いてきたらいいよ。キミ、自分の目で見て聞いたこと以外は信じなさそうだしね。話は通しておいてあげる。あ、このことは紫音ちゃんには絶対内緒だよ』


 あの人には感謝しかない。あまり話したことのない俺に親友にまつわる情報を教えてくれたのだから。


 自転車を走らせる。坂を上って下り、スイミングスクールとガソリンスタンドの横を通り抜けた。なっつかしいなぁ。スイミング教室通ってたわ。俺、結構泳げるんだぜ。まぁ、球技は全般的に苦手だけど…


 それからずっと先の交差点を左に曲がり、川にかかる橋を渡った。ここの川沿いは春になると桜が綺麗に見られる名所である(俺的には)。いやいや、実際春になると花見の人たちが結構いるんだけどね…


 結構疲労が溜まってきたところで住宅街が見えてきた。確か、ここらへんだったはず。立ち止まってスマホを見る。地図で確認しながらゆっくり進み、目的の家へと辿り着いた。


 表札には、『桂』の文字。


 花陽の元カレは桂樹月かつらいつきという。中学2年の5月くらいからふたりは付き合い始め、12月某日に別れたのだという。振られた後の花陽はいろいろと危なっかしかったらしく、華畑はそんな彼女を必死に支えていたそうだ。なんとも美しい友情じゃないか。


 どうやらひどい酷い振られ方をしたそうで、華畑は桂のことを快く思っていないようだった。まぁ、当然だろう。親友を傷つけたのだから。


 桂のことが気になったのは、やはり似ているからだ。俺と。


 他人の空似というには少し度が過ぎる。花陽から写真を見せられた時、本心ではそう思っていた。


 別に、花陽にシンパシーを感じて男の面を拝みたくなったとかそういうわけではない。何より、報復など彼女が望んでないだろう。けれど、引っ掻き回すくらいのことはしてやってもいいと思っている。


 少し緊張しながらインターホンを押した。声が返ってくることはなく、代わりに玄関のドアが開いて人が現れた。話は通してあるとのことだったので、まぁおかしくはないだろう。


 「あ、俺は—」


 名乗ろうとした。だが出てきた人物を見た瞬間固まってしまった。


 出てきたのは大人の男性。おそらく桂樹月の父親だろう。けれど、俺は何か違和感を感じていた。具体的に何かは分からない、漠然とした違和感を。


 男性の方も、驚いたような表情を見せて固まっていた。


 誰だ?俺はどこかで見たことがあるのか?だとしたら一体どこで、いつ?


 まさか…


 唐突に、ひとつの可能性が浮上してきた。あり得ない話ではない。それが事実ならば——。


 恐る恐る、口を開いた。


 「あ、あの…」


 玄関が少し高いところにあるせいだろうか。彼は見下ろし、俺は見上げている。


 彼は無言だった。


 勝手に続けてもいいという意味だと解釈した。


 「もしかしてなんですけど……俺の—」

 「入れ」


 続けようとして遮られた。男性が家の中に入ってしまったので、俺も「お邪魔します」と一言添えてから足を踏み入れることにした。内装はごく普通の一軒家だった。なんてことのない普通の家。


 「悪いがお前の質問に答える気はない」


 部屋へと案内される途中、背中を向けている彼が低い声で言った。圧があったので怯んでしまった。


 知りたいような、知りたくないような。そういう感情を抱いていた。


 だから聞くべきかどうか迷った。確かに、この人が誰かなんて知らなくてもいいことかもしれない。世の中には知らなくてもいいこと、知らない方がいいことが山ほどある。


リビングに案内され、椅子に腰かけた。彼は「樹月ならそのうち帰ってくる」とだけ言って部屋を出て行ってしまった。引き留めようかとも思ったが、やめた。今日の目的はあくまで桂樹月に接触することだ。父親は関係ない。


 誰もいないのでリビングは静かだった。母親は出かけているのだろうか。


 ふと辺りを見回す。部屋にあったのは、キッチン、食卓、テレビ、本棚、ソファとローテーブル。キッチンのカウンターには家族写真らしき物が飾ってあったが、遠くだったのでよく見えなかった。ここから動く気にもなれなかった。


 数分、居心地の悪い時間を過ごした後、玄関の方から音がした。来たか。


 足音が近づいてきて、やがて彼は姿を現した。


 「ごめんごめん、待たせたね。ちょっと買い物してたんだ」


 彼はへらっと笑って買い物袋をひらひらと掲げた。軽薄そうな挙動だったが、やはり顔は俺と似ていた。


 「いや、大丈夫。それより」

 「聞いてるよ。み…華畑の友達でしょ」


 今、言い直したな。やはりこいつと華畑は深いつながりがあるのだろう。


 俺は今食卓に着いている。彼はテーブルに荷物を置き、俺の対面に座った。


 「俺は鬼灯優。よろしく」

 「僕は桂樹月。よろしくねー」


 差し出された手を握り返してやった。


 彼の調子に合わせるように、口を開いた。


 「実はさ、俺と超似てるやつがいるって聞いて『どんなやつなん』って思ったわけ。それでこうして来たんだわ」

 「なるほどねー。まぁ、確かにちょっと似てるかも」


 彼の認識では『ちょっと』らしい。雰囲気が陰陽真逆だからかもしれない。


 「そんでさー、樹月君にいろいろ聞きたいんだけどいい?」

 「いいよー。僕が答えられる範囲ならね」


 よし。いろいろ聞き出そう。


 「高校どこなん?」

 「白天はくてん。月山西からはちょっと遠いよね」

 「はは、確かに。部活はなんかやってるの?」

 「陸上だよ。中学からやってるんだ」


 陸上、か。そう言えばどこかの誰かもやっていたな。


 「優君は?」


 ちっ、なれなれしい奴め。名前呼びしやがって。別に構わんけどさ。


 「俺、部活とか入らない主義」


 苦笑いしながら言うと、彼も笑ってくれた。意外といいやつ…?


 「やっぱさ、俺ら高校生と言えば恋愛じゃん?その、樹月は好きなやつとかいたりするん?」


 へらへらしながら言い、彼の目をじっと見た。相変わらず張り付けた笑みを浮かべている。


 数秒経過した後、彼は言った。


 「いるよー」


 感情の読めない口調だった。


 「マジかー。どんな子なん?」


 俺が訊くと、彼は言った。思いがけない単語を交えて。


 「梨華。木元梨華っていうんだよ。結構可愛いなぁと思ってるんだー」


 俺は驚いたのと同時に、を思いついたのだった。

 


 


 


 


 




 

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