第15話 距離

 GTKからの指令について話し終えると、苧環はふむふむと大げさに頷いた。俺と苧環と花陽は三角を描くような位置関係になっている。俺は自席に横を向いて座っており、花陽は正面数メートル先、苧環は俺から見て右斜め数メートル先に立っている。


 「なるほどなるほど……先輩ってバカなんですね」

 「おい待て。何でそんな結論になる」


 お前は一体何を聞いていたんだよ。むしろ俺がお前の脳ミソの状態を心配したいんだけど。


 「事実じゃないですか」

 「多分、テストなら俺の方が上だぞ……数学以外は」

 「あはは。先輩、数学苦手ですもんね~」


 ニマニマ笑っていやがる。バカにしやがって。理系の仕事に就かない限りは複雑な数学の計算なんて使わないだろ。ログとかサインコサインタンジェントとか。なに、呪文か何かなの?


 「多分、苧環さんが言いたいのはそういう話ではないと思うけれど…」


 花陽が控えめに言った。相変わらず表情は硬い。


 まぁ、そうだろうなとは思ったけれど。


 「まじめですもんね…先輩。そういうところ、好きですけれど」


 そんな、我が子を慈しむような表情で言うんじゃねぇよ。思わず視線を外すと、今度は花陽の儚げな微笑が目に入り、また別の方向に目を逸らした。最終的に斜め下を見る形になった。


 苧環は続ける。


 「こういうのは、何事もなかったように振舞うのが正解なんですよ。先輩が意識してたら水仙さんだって否が応でも意識せざるを得ないじゃないですか。だから、『元気~?いつ学校こられそう?』ぐらいの軽い感じで行けばいいだけなんです」


 何事もなかったかのように。


 事実として何事かはあったというのにそれをなかったことにして振舞うなど許されることなのだろうか。自分を偽って行動することは今まで赤の他人に対してやってきたことだが好きなことではない。それに水仙は赤の他人と呼べる存在ではなくなっている気がする。


 そして俺は水仙の恋愛感情を利用して悪事を暴こうとした最低の人間だ。軽々しく声を掛ける資格などあるのだろうか。目には目を歯には歯を、とはいうがそうした方法が正しいとは限らないだろう。


 俺は苧環の方に顔を向けた。


 「けど…」

 「そうですね……先輩には、難しいかもしれません。というわけでスーパースペシャルな方法があります!!」


 俺の考えを知ってか知らずか、苧環はどや顔で言った。スーパースペシャルって…


 どんな方法なんだ、と思って疑いの眼差しで見つめると、鞄からスマホを取り出してポチポチと操作していた。そして耳に当てて話し始めた。


 「あ、もしもし梨華さんですか?ちょっとお願いしたきことがござりまして。はい。親友さんに元気かどうかと、いつ学校来られそうかを聞いて欲しいっす。家の方に出向いて直接様子が見られればベリーグッド!はい、以上です。よろしくおねがいしやす!!」


 話が終わったようだ。スマホを耳から離し、ぽちっと操作して通話を終えた。


 うーん、まぁなるほどとは思ったんだけどそれとは別の話で。


 「お前、なんだそのしゃべり方。聞いてるこっちが恥ずかしくなったんだが」

 「そうね…人にお願いをするときはもう少し丁寧にした方がいいわよ」


 見れば、花陽も額に手を当てて呆れたようにため息を吐いていた。


 「べ、別にいいじゃないですか。ちゃんと引き受けてくれましたし」


 両の拳を握りしめてぷんすか怒っていました。いや、あのな…


 「引き受けてくれたのはその…梨華さんが優しいやつだからだ。強面のやつとかにそんな口調で頼んだら『ふざけてんのかお前?』ってぶちって切られるわ」

 「…むむ。確かに、そうかもしれませんね…」


 今度はしゅんとし始めた。素直なのはいいことかもしれないが、こうも折れるのが早いと少し心配になる。すぐに折れないしなやかさを持ちたいものだ。


 「まぁ、確かにその人ならなんとかできるかもな。俺達よりずっと付き合いが長いようだし大丈夫だろ。梨華さんから連絡来たら教えてくれ。面と向かって礼を言わねぇとだし」


 水仙の親友だという梨華さんも、少しもめていたようだがこれまでにも喧嘩の一つや二つしてきたはずだ。仲直りを繰り返して現在まで関係が続いてきたのだろう。他人任せとなってしまったが、まぁこれは業務委託というやつだ。しっかりと彼女にお礼をするつもりではいる。どうしようかしら…


 俺の言葉に、苧環も水仙もうんと頷いた。


 「帰るか」


 俺の言葉を合図に、三人で教室を出た。廊下に人気はなく静かだった。


 「じゃあ、私は先に行くわね。時間があまりないから」


 時間がない、とは部活の事だろう。俺のことに付き合わせてしまう形になってしまって少々申し訳ないなと思った。


 「悪い」

 「いいのよ。それじゃあ」


 俺の言葉に微笑で返し、華麗な走りで去っていった。


 *****


 自転車を押しながら苧環と帰路についていた。この時期にしては珍しいことに太陽が顔をのぞかせており、夕日が目に染みた。


 「お前…部活とか入ってないのかよ」

 「先輩こそ…って、そういえば…」

 「あれ、お前に話したことあったか…?」


 俺の言葉に苧環は「はい」と頷いた。


 「先輩も…先輩のお母さんも、大変ですよね」


 お互い正面を見ているので表情は分からない。けれど、俺を気遣っていることは声音から伝わって来た。俺は心配ない、という風に肩をすくめておどけて見せた。


 「ま、今時は家事やらねぇ男は嫌われるからな。イケメンでも結婚してから家事のことで揉めて離婚、なんてことはあるあるだろ」

 「え、先輩もう結婚のこととか考えてるんですか…」


 苧環は両腕で体を抱き、さっ、と俺から距離を取った。いや、なんでドン引きしてんだよ…


 なんか変な空気が流れてしまった。思わず髪をぐしゃぐしゃといじる。するとなんとか言葉が出てきた。


 「い、いや…まぁ正直考えてねぇよ。現実感ない話だしな」


 明後日の方向を見ながら言う。


 「……」


 沈黙。おい、やめてくれよ。恥ずかしくなってきたじゃん。


 我慢してしばらく耐えた後、くすっという笑い声が聞こえた。ちら、と彼女の顔を窺ってみると、口元に手を当てて微笑を浮かべていた。こいつは昔から馬鹿笑いしているイメージしかなかったので少し、驚かされた。今日の、あの慈しむような微笑みにも。


 「まぁ、そうですよね。18から結婚できるとか言われてもする人の方が圧倒的に少ないですし」


 現在は民法が改正され男女ともに18歳から結婚できるようになった。けれどそれで何かが大きく変わるわけではない。社会で働き始めて自分で生計を立てられるようになるまでは結婚のことなど考えられない。少なくとも俺はそうだ。


 まぁ、世間的には非難されるような学生結婚でも本人たちが納得しているのなら誰も口出しすべきじゃないと思う。たとえ親であろうが、友達であろうが。


 その選択が正しかったのかどうかなんて結局後になってみなければ分からないのだ。


 ここにいる苧環真理は過去に愚かな選択をした。俺に打ち明けていれば、その時の俺は有無を言わさず水仙たちを咎めに向かったかもしれない。それなのに、こいつは…こいつは嘘を吐いて…


 「先輩…?」

 「え…あ、ああ」


 思考の沼にはまっていたらしい。苧環の声により現実に引き戻された。見ると、訝しげな顔で俺の様子を窺っていた。


 「いや、なんでもねぇよ」

 「…先輩、少し、変わりましたよね」

 「…そうか?自分じゃよく分からん」


 嘘だ。俺が変わってしまったことなど俺が最も分かっている。


 「私の…せい、ですよね…」


 足元を見つめ、自信なさげに言った。申し訳なさそうな顔をしている、気がする。


 いや、そのセリフずりぃだろ。これ、「そうだ」と言えば傷つけるだけだし、「そうじゃない」と言えば「嘘だろ」って言われるやつじゃない?究極クエスチョンというやつか。やれやれ…


 だったら俺らしい言葉を選ぶだけだ。


 「ああ。お前のせいだよ」


 おどけたので冗談と思ったのだろう。苧環は笑いながら「嘘ですよね」と返してくれた。


 また少し沈黙が流れた。けれど悪い沈黙ではない。無理して話さなくてもいいという、そういう沈黙だった。自転車のタイヤが回るきぃきぃという音、互いの足音、湿った風が吹き抜ける音。それらばかりが耳に届いた。


 不意に、苧環が口を開いた。彼女が足を止めたのを見て、俺も足を止めた。


 「先輩と…花陽先輩って、一体何があったんですか?」


 わざわざ聞いてきたということは花陽は話していないのだろう。なら俺も話さないべきだ。口は災いのもとっていうしな。


 けれど、本当にそれでいいのだろうか。話さないということ。それは苧環を信用していないということとイコールになる。また、なにか後ろ暗いものがあると思わせてしまう。いや、事実として後ろ暗いことなのではないだろうか。そもそも俺は、こいつのことをどう思っているのか。


 何一つ分からず、結局黙るしかなかった。それが悪い方に取られることがあると分かっていた。けれどそうするしかなかった。


 俺の様子を見てどう思ったのか。苧環は「そうですか!いやー別に答えてくれなくてもいいですよー」と明るく振舞った。それが俺には取り繕っているように見えた。


 苧環は自分の家へと足を向けたが、俺はしばらくその場に留まっていた。


 やはり、俺はまだこいつとの距離を測りかねている。



 


 

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