第10話 侵食、暗躍、そして…
何が起こっているのか分からなかった。まるで感覚が麻痺したかのように。脳に何も情報が伝わってこなかった。
数分、俺が呆けているうちに水仙はキスを済ませ、顔を遠ざけた。彼女の顔は熱に浮かされているようにほんのりと朱に染まっていた。そして、蠱惑的な瞳で俺を見た。
この期に及んでようやく、俺は自分の身に起きたことを悟った。理解した瞬間、腹の底から煮えたぎるような怒りが沸き上がってきた。自分の顔も熱くなっているのが分かる。だがこの熱は彼女のそれとは別物だ。
俺は勢いよく椅子を引いて立ち上がり、両手を机にバンと叩きつけた。
「お前…今」
猛獣が威嚇するような低い声が出た。自らの机だけを見ているので彼女がどんな表情をしているのかは分からない。だが、挑発的な態度でいることはこの目で視認せずとも感知できた。
「うん、キス…したんだよ」
キスの部分だけ強調して水仙は言った。
「……」
「どうしたの?まさか、彼女とのキスが嫌だなんて、言わないよね?」
嫌に決まってるだろ、お前なんかとは。
やはりこいつは悪魔だ。
「ちげぇよ。ただ…いきなりだったから、驚いただけだ」
「ふーん、そっか。ごめんね」
薄っぺらい謝罪だった。当然だろう。彼女は悪いとは思っていないのだから。
ただ、俺自身もなぜ怒っているのか理解できなかった。好きでもない相手からキスされたのが耐えがたい苦痛だったのか、それとも—。
「…ちょっと、トイレ行ってくる」
俺は教室を出た。水仙は何も言わなかった。放課後の人の少ない廊下を歩いていると、足音が響く。思い返せば、あのキスされた瞬間。微かな、けれど確かな足音が廊下の方から聞こえていた。
ふと足を止めた。窓の外を見る。夕日のまぶしさに目を細めた。
油断、していたのだ。俺は。
*****
うーん、付き合って1週間かそこらでキスってのはどうなんですかね。俺の感覚で言えば時期尚早だと思うんですけど。っていうかあいつ俺の事どんだけ好きなんだよごめんなさい俺はちっとも好きじゃないですアイムソーリー。
夜。自室でバカなことを考えていた。
「ちくしょう…」
俺のファーストキスを奪いやがって。許さん。
っていうわけでもない。なんでか知らんけど、ファーストをみんな価値のあるものだと思ってるよな。別に一番最初だからってなんでも特別とは限らんだろ。そりゃ、人類で初めて月に降り立ったとかならスペシャルだろうけど。
俺が思わずぼやいてしまったのは別のことが理由だ。
頭から離れないのだ。キスの、感触が。あの蠱惑的な瞳が。
どれだけ腕立て伏せをしても、どれだけ音楽を聴いても、どれだけ仮面ライダーを見ても忘れることが出来ない。まるで、あいつに心の内を侵食されているようで吐き気がした。
あんなやつに堕とされてたまるか。
俺は、あの悪魔との距離を再度測りなおさなければならない。無遠慮に、心の内に入られないように。慎重に。確実に。
決心して、俺は眠りについた。その夜、不思議な夢を見た。
二人の少女が、暗闇から俺を救い出してくれるという、不思議な夢を。
*****
私、苧環真理は夜の自室でスマホをいじっていました。
いじってるって言っても、ゲームしてるとかユーチューブ見てるとかそういうわけじゃないですからね?最近の若者はユーチューブばかり見てる印象があると思いますが、私は全然そんなことないです。
あれ、私って若者じゃないのかも…
じゃあ、何をしているのか。メッセージアプリである人と会話をしているのです。
その人とは今日、学校で出会いました。先輩です。太陽に照らされるとキラキラ光る紫っぽい黒髪ロングの綺麗な人。どこかで見たことあるなぁ、と思ったけれど思い出せませんでした。
階段でぶつかってしまって、よく見ると顔に涙の痕があって、それで恐る恐る話を聞いてみたら…という感じで今に至ります。あれ、全然説明できてないような…
私は今日、いろいろと驚きの事実を知ってしまいました。けれどそれはいずれ分かることなのでお楽しみに。
今は今後のことをどうしようかと考えていたところでした。私たちは周りから攻めようということになりました。
最後に一通、ポチポチと入力してメッセージを送りました。
『先輩を、絶対に助けましょう!!』
*****
しばらく、俺は水仙との微妙な距離を測りながら過ごした。どの程度なら怪しまれないか、どの程度なら自分が冷静でいられるか。手探りで少しずつ、自分が進むべき道を確かめるように。
あれから、彼女は何もしてこなかった。そのことがむしろ不気味に思えた。余裕をかましているだけかもしれない。
花陽や苧環とは長く連絡を取っていない。当たり前だ。できるわけがない。
それに、彼女たちを巻き込むわけにはいかない。俺が勝手にやろうと決めたことなのだから。
テストが終わり、梅雨の時期に入った。湿度が高く、どこにいても蒸し暑く感じる。特に、俺が住むまちは顕著だ。全く忌々しい。夏は暑いくせに、冬は寒い。こうなると、やはり家から出ないことが正解である。やっぱり家って最高なんじゃね?
ある日の放課後。俺は少し、踏み出してみることに決めた。
「なぁ、乃亜。今から、お前の家…行ってもいいか?」
通学路を自転車を押しながら、分厚い雲で覆われた空を見ながら、俺は何でもないことのように切り出した。
「……」
「……」
「なんか言えよ」
「…その…心の、準備が…」
「おい待て。なんか勘違いしてるだろ。そんなことをする予定なんかないぞ」
多分、ふざけたんだろうな。
ふふ、と笑う声が聞こえた。
「男子はみんなそういうものだと思ってたんだけど。まぁ、君は違うか」
なーんか、微妙にバカにされた気もするんだけど…
俺が「はは、まぁな」と乾いた笑みとともに返すと、彼女は「いいよ」と了承した。
ちらと隣を窺う。薄く笑みがたたえられている気もするが、真顔な気もする。いまいち感情が読めなかった。
敵のアジトに、死地に単身乗り込むようなものだ。俺も改めて覚悟と警戒をしておく必要がある。
正面に向き直った。
「その代わりに、」
まさか条件を提示されるとは思っていなかったので少し身構えた。
「わたしを自転車の後部座席に乗せて?」
「……あいにく、俺の自転車は座席がひとつしかないんだが」
「君、分かってて言ってるでしょ?」
張り付けた冷たい笑みが向けられていることが分かった。顔を見ずとも分かる。
はぁ、と思わずため息が漏れた。
「どうぞ、マイハニー」
「やったー、ありがとう」
水仙が横向きで荷台に座り、俺もサドルにまたがった。道路交通法違反…
「それじゃ、わたしの家までレッツゴー!」
「へいへい」
ふと見上げた空は今にも雨が降り出しそうだった。
次回、水仙家潜入。
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