海と神様
鴎
***
海は実に静かだった。
静かすぎた。波は穏やかだし、天気は晴れで絵本みたいに良い感じに雲が浮いている。
そういった穏やかな海だった。
ここは陸地から遙か彼方。大海原のど真ん中だった。
そこに小舟が浮いていた。帆もなく、オールさえない小舟。
正真正銘漂流中の小舟だった。
「なんてこった」
そこに一人の男が乗っていた。死んだ眼をした無精髭を生やした男。神はぼさぼさだった。
この男は今、乗っていた船から流されて半日が経過したところだった。
男はあまりに無能であり、食料が尽きようとしていた船から口減らしのために小舟で流されたのだ。
哀れな男であり、そして救いのない男だった。
男の脇には心ばかりの飲み水が入った瓶と、自ら命を絶つためのピストルが置かれていた。
これを渡した人間は優しかったのか残酷だったのか男には良く分からない。
とにもかくにも間違いないのは男は数日中には死ぬことになるだろうということだった。「悪くない人生だった」
男は強がりを口にした。
あらゆることが出来ない男だったが強がりだけは忘れたことがない。
男はとにかく無能であり、ポンコツであり、取り組むことの一切において人並みという言葉からほど遠い結果を生む人間だった。
いわゆる役立たずであり、人によっては社会のお荷物と言うであろう人間だった。
男はこれまでろくな定職にも就けず、流れ流れて男を流した船に乗ったのだ。
しかし、結果はこの通りで男の人生は終わろうとしていた。
なにもかもかに付いていけず、なにもかもから弾かれた男はとうとうこの世の外側で終幕を迎えようとしていた。
「やれやれ」
男は瓶の水を一口飲む。どうせ死ぬのだからせめて酒瓶のひとつも渡して欲しかったと思う男だった。しかし、船長は男を目の敵にしていたのでそんな温情を向けてはくれなかったのである。
なので男は水を飲むしかなかった。
どうせ死ぬのだから男は最後くらいゆっくり過ごすことにした。
小舟に寝っ転がり空を見る。小さな雲がいくつもゆっくりと流れていた。
「こんなところでなにをしている」
その時だった。男に声がかけられたのだ。
男はゆっくりと起き上がり声の主を確かめた。
そこに立っていたのはおっさんだった。ひげも髪も毛むくじゃらのおっさんだった。
おっさんはしかし水面に立っていた。
男にはなにがなんなのか良く分からなかった。
しかし、なんだか面白いことが起きていることは分かった。男は瓶の水を一口飲んだ。
「なんだアンタは」
「俺か? 俺は水神だ。このあたりの海を仕切ってる」
どう見ても小汚いおっさんだった。服装も浮浪者としか言いようがない。しかし、どう見ても浮浪者にしか見えないおっさんが大海原の真ん中で水面に立っている。
なるほど、返って神様というのはこういうものなのかもしれないと男には思えた。
そう考えるとどんどん信憑性が増してきたように思えた。
「神様がオレになんの用だ」
「なにって、こんなところに帆もオールもない小舟で浮いているんだから不審に思うのは当然だろう。なにが起きてるのか確かめに来たのよ」
「聞いたって面白くもない。乗ってた船の食い物が尽きたから一番お荷物のオレがまず船から降ろされたってだけだ」
「ひでぇ話だ」
男の話を聞き、神様は憐れそうに顔をしかめて言った。
神様に憐れまれるなんてことはそうあることではない。男は人生の最後に面白いことになったと思った。
「その船沈めてやろうか。憎いだろう」
「発想が怖いな。別に誰のせいでもない。嵐のせいで流されて、航路を完全に見失った結果だ。生き残るのに手段を選べなかったのさ。だからあの船は別に悪くねぇよ」
「なるほど、無能だが聖人みたいなやつだ。いっそ逆に心配になるほどだ。そんなだから騙されてばっかりなんだよお前さんは」
うんうんと神様はうなっていた。神様だけあってあっという間に男の身の上は看破されたようだ。男は驚いたが別に困ることでもないし別に良いかと思った。どうせ、これから死ぬのだ。
「なんでも良いさ。どうやらこれからオレは死ぬらしいんだ。ゆっくり過ごすさ。最後にアンタみたいな訳の分からんものを見れて良かったよ」
「諦めるのが早すぎだ。目の前に神様が居るんだから助けを請えば良いだろうが」
「なぁるほど。確かに」
男はそこで確かに神様なら願えば助かるのかもとようやく思い至った。
「だが、岸に連れてくのは無理だ。俺の管轄外だからな」
「じゃあ、どうしようもないじゃないか」
神様はこの辺の海の担当らしく、その外側にはどうしようもないらしかった。
「だが、隣の神に取り次ぐことは出来る。そうやって次々に神に取り次いでもらえば陸地にたどり着けるはずだ」
「ははぁ。でも、ただってわけにはいかないんだろう。物事はギブアンドテイクだからな」
「それはそうだ。神様に願い事をするときは貢ぎ物が要るからな。そうだな、さし当たって、お前さんの運気でも頂こうか。それでどうだ」
神様に願い事をするときは貢ぎ物が要るのは当然だ。何かを得るためには何かを失わなくてはならない。それがこの世の摂理というものだ。男は今までなんにも持っていなかったからずっとなにも得られなかったわけだが。
運気。恐らく生きていく上でのツキのようなものを目の前の神は欲しがっているらしかった。ちょっとくらいなら死ぬよりましかと男は思う。しかし、そこでふと冷静になった。
「だが待ってくれ。あんたに運気のいくらかを渡して隣の海域に行ったらまた次の神が居るんだろう? そしたら今度はそいつにも運気か何か渡すことになる。いったい陸地までどれだけあると思ってるんだ。陸が見えるころには俺はなにもかも失ってすかんぴんだ」
「それでも死ぬよりはましじゃあないか?」
「いや、そんな運気からなにからなんにもないんじゃどんな人生になるか知れたもんじゃない。ごめん被るね」
「死ぬよりましだと思うがなぁ。困ったやつだ」
「とっとと消えてくれ。俺は最後の時間を楽しむんだ」
男はヒラヒラと手を振って神を追い払おうとした。罰当たりこの上無かったが男は気にしなかった。とにかく最早男にはこの神様が邪魔で仕方なかった。せめて最後ぐらいゆっくりと何も考えずに過ごしたかったのである。
「弱ったやつだ」
神様は腕を組みながら深々と溜め息を吐いて、やがてゆらゆらとその姿は陽炎のようにゆらめいた。そして、ゆっくりとその姿は水面に消えていったのだった。
残されたのは相変わらず大海原でひとりぼっちの男だけだった。
「まったく一昨日来やがれってんだよ」
男は神様が消えていった。水面に言った。
その時だった。男の目に今までの景色になかったものが映ったのは。水平線の向こう、そこに一席の船の姿があったのだ。それはまっすぐ男の方に向かっていた。その船の甲板では旗が振られている。救難を確かめるものだ。船はどうやら男を捕らえているらしい。まさしく救いの船だった。
「なんてこったい」
男はその船に自分が無事なのを知らせるためにピストルを一発ぶっ放した。音が届くかは分からなかったが自分の存在を知らせておきたかったのだ。
絶体絶命から一転、男はどうやら助かるらしかった。
「なんだ、運気まだ残ってんじゃねぇか」
男はぼんやり言った。神様の手を借りるまでもなく、男はどうやら助かったらしい。いや、むしろ神様の手を借りた方が良くない結果だっただろう。
「さっきのは神様だったのか、それとも海の悪魔だったのか」
そして、男はうんざりした調子で言った。
海と神様 鴎 @kamome008
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