水に沈んだ町で

@mi_to

短編

まったく音のしない夜だった。世界には、わたしときみしかいなかった。白く大きな月が、小さな舟にのったわたしたちを、冷たく照らしていた。見渡す限り、水面が広がっていた。わたしの家もきみの家も、小学校も、公園も、すべて水の底だった。


月が近いね、と君は空を見上げる。君の頬は月で白く照らされていて、とても儚くみえた。わたしは、なにか言葉を、君を笑わせるような言葉を、探した。しかし、それは叶わず、結局わたしは、そうだね、ときみと一緒に月を見上げるしかなかった。こんな小さな舟にたった2人でいるのに、わたしたちは十分な言葉も交わすことができず、空を見上げていた。


 わたしは、うまれてからずっと、自分の家族よりも多くの時間を、おばあちゃんとすごした。ほとんど、おばあちゃんがわたしのお母さんだった。わたしが友達とケンカした時も、はじめて算数のテストで100点をとった時も、そばにいたのはおばあちゃんだった。そんなおばあちゃんが亡くなった。病院のしろいベットで、だんだんおばあちゃんはよわっていった。あるとき、わたしと2人きりになったおばあちゃんは、わたしに小瓶をそっとわたした。いいものをあげる、なんでも願いごとのかなう小瓶だよ。わたしはすぐ、おばあちゃんをわたしから奪わないで、と言おうとした。そんなわたしの手を、おばあちゃんはそっとにぎった。きっと、おまえがおおきくなったときに、これが役に立つから。わたしからおまえにしてやれる最後の贈りものだよ。これを見るたびに、わたしのことを思い出しておくれ。わたしは、なんどもうなづいた。ほんとうは、おばあちゃんがここにいてくれること以外に、願いごとが必要になるとは思えなかった。おばあちゃんとは、それからすぐにお別れをしなければならなくなった。


 おばあちゃんのいない日々は、ひとりぼっちではなかった。友達もいたし、なによりきみがいた。わたしは、いつしかきみに恋心を抱くようになっていた。きみが笑えば、わたしもうれしかったし、きみがないていれば、わたしもおちつかない気持ちになった。きみも合わせた友達たくさんでいつまでも遊んだ。そんな毎日がつづくことを、そのときのわたしは、こころからのぞんでいた。


 きみの秘密をしったのは、いつもの集合場所にこなかったきみを呼びにいったときだ。玄関をたたこうとして、わたしは手をとめた。中からなにかが落ちるような音がきこえたからだ。どうしたんだろう、と裏口にまわりこみ、そっと窓のすきまから中をのぞいた。きみはないていた。そしておびえていた。きみのお母さんがきみをたたいていた。まわりの様子で、お母さんがきみにものをなげていたとわかった。わたしは、ふるえがとまらなかった。きみのなみだがうつったかのように、なみだがとまらなかった。わたしは、こわくなって、その場からにげてしまった。


 わたしは、それからずっとかんがえていた。わたしは、きみがすきだった。だから、そんなきみをおびえさせるものがゆるせなかった。きっと2人なら、ずっと笑っていられる、そう思っていた。わたしなら、きみをしあわせにできる、そう思っていた。


 小瓶は、月のひかりをあびて、きらきらとひかっていた。きれい、そうおもった。わたしは、それに願った。どうかきみと2人きりにしてください、かなしい思いをさせる人たちからわたしたちをまもってください。小瓶がいっそう強くかがやいた。わたしはおどろいて、それをおとしてしまった。小瓶は、たちまち小さな舟になった。なかの液体はどんどんあふれて、ついに町を沈めてしまった。へやの窓から舟をだした。お母さんが、あせってこっちへ走ってくる音がきこえた。たぶん水圧で玄関があかなかったのだろう。わたしは、すぐに窓をぴったりしめた。なんでしめたのかはわからなかった。しめれば、彼女が助からないことはわかっていた。でも、ためらいはなかった。


 わたしが、舟をこいでいると、きみが屋根の上でぼんやりしているのが見えた。わたしがそっと手を伸ばすと、その手をとり、きみも舟にのった。夢のようだった。わたしたちのほかは、だれもいなかった。わたしがそう、願ったからだ。きみは所在なさげな顔で、わたしを見上げる。わたしは、きみを安心させたくて、手をにぎろうとした。でも、それは力なくふりはらわれて、叶わなかった。きみはうつむいていた。きみは、やっぱりふるえていた。きみは、ぽつりと、いえに母さんがいたんだといった。ぼくは母さんをおいてきたんだ、といった。わたしは、しかたないよ、とつぶやいた。それは消えそうな声だった。わたしが、そう願ったから、しかたないよ。


 きみは、だんだんこの状況になれてきたようだった。ときどき笑顔を見せるようになった。わたしは、つとめて意味のないはなしをした。わたしが、先生のモノマネをするから、きみはふきだした。わたしは、すこし救われた気持ちになった。次から次へと、思い出話やおもしろい話をした。きみは、わらいころげて、わたしがいてよかったといった。わたしに、助けてくれてありがとうといった。それは、わたしがのぞんでいた言葉のはずだった。でも、わたしは、きみの目をみられなかった。わたしのたいせつな小瓶は、わたしのわがままな願いしかかなえなかった。わたしは、平気な顔で、きみを笑わせつづけた。かなしいかおをするわけにはいかなかった。それが、わたしのわがままな罪をつぐなうための方法だとおもった。2人で、まだそこに小学校があったころの、遠足や運動会や授業のはなしをした。


 ふと話をとめて、きみはわたしをみた。わたしはどきりとしたけど、きみから目をはなせなかった。きみはじぶんの右の太ももへ目を向けた。そこは、きみがお母さんに叩かれていた場所のひとつだった。きみは、ゆっくりわたしに視線をもどして、ごめんね、とつぶやいた。時間がとまった。


「どうしたの?」


ずいぶん長い時間をかけて、聞き返したわたしの声は、ひどく掠れていた。わたしは、ほとんどきみになぐられるのをまつような気持ちで、返事をまった。


「こんなことになって、きみも大変なのに、この舟にのっちゃったから。いまも、ぼくのためにずっと話してくれてる」


それは、わたしが願ったことなのだった。きみは月にてらされながら、自分を責めるように、言葉を発した。なにもかもが水に沈み、助けられたかもしれないお母さんを見すてて、友達のたよりない小さな舟に乗せてもらっている。きみは、そんなじぶんを軽蔑するような顔をしていた。


「ぼくなんて、いなければよかったんだ」


その言葉は、いとも簡単に、わたしの身体をつらぬいた。なぐられたほうがマシだとすら思った。きみは、ずっとふるえていた。わたしが、この舟に乗せてから、いままで、ずっとふるえていた。わたしは、じぶんを呪った。この状況は、すべてわたしが願ったことだった。


 そんなことないよ、と呟いた声は、きみにとどいているかわからなかった。この状況がわたしのせいであることを、説明するすべが、わたしにはなかった。それでも、伝えなければならないことは、あるのだった。


「そんなことないよ。わたしは、きみがいてくれてうれしいよ。わたしも、お母さんをおいてきたし、きみしか助けることができなかった。でも、きみがここにいてくれて嬉しい。だれか1人だけしか助けられないなら、やっぱりきみがよかったと思う」


 きみは、じっとうつむいてわたしの声を聞いていた。わたしは、やっぱり、泣くわけにはいかないのだった。きみは、なにかをふりきるように、笑った。きみも、辛い顔をするわけにはいかなくなったのかもしれなかった。


「ありがとう。ぼくも、きみがいてくれて嬉しい」


そういうと、きみは、こわかったねと、わたしの手をにぎった。気がつかなかったが、わたしの手も、また、ふるえているのだった。


「大丈夫、大丈夫だよ」


きみは、うわごとのようにくりかえした。うん、そう答えたわたしの声は、やっぱりふるえていた。きみの手はあたたかくて、わたしが手に力をいれると、もっとつよい力でにぎり返してくれるのだった。


 小さな舟にのったわたしたちは、うつくしい月を愛でるよゆうもなく、ただ2人きりで水面を流れていった。


⭐︎最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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