エピローグ

エピローグ


 圧縮空気が抜けてプシューっと音がする。

 ドアが左右に開かれると吐き出された乗客がホームへと流れていく。

 私は雑踏に紛れながら、改札口へ向かう。久しぶりに使うICカードで改札口を出ると、川越駅東口駅前広場へと出た。

 私は人の流れを遮らない端のほうへよると、スマートフォンのナビアプリで場所を確認。どうやら一キロ近く歩かされるらしい。人混みは嫌いだが、幸いにも天気がいい。たまの散歩もいいだろう。

 やがて情緒溢れる街並みが並ぶ通りへと出た。小江戸と言われているようだが、なるほど頷ける。スマートフォンを見れば、待ち合わせ場所はこの付近のようだ。

 画面を見ながら歩き、目的の店へ。厚い土壁と豪壮な瓦屋根。圧倒的な蔵造り建物。店の名前は〈ちゃばしら〉。お茶がうまそうな名前だ。

 スマートフォンをポケットにしまうと店の中へ。待ち合わせをしている旨を店員に伝えると、「雪村ゆきむら奏多かなた様ですか?」と聞いてきた。そうだと答えると、二階へお願いしますと促された。

 二階には客用の机が四つ置いてある。その一つに料理が並べられていて、椅子に座ってこちらに背を向ける人がいた。

 その人物が振り返る。

「こちらです。虹崎……いえ、雪村さん」

「お前は――北条」間違いない。一緒に〈ジョーン・ドウ・ゲーム〉に参加した北条永遠。その人だった。「生きていたのか。それでお前が報奨金を手渡してくれるのか」

「あら。あまり驚かれないのですね。死んだはずのわたくしが生きていたことに」

「お前がここにいるということは、主催者側の人間。であればアバターが殺されても本人にまで死が及ばないよう細工することも可能だろう。驚く理由がない」

「ご名答ですわ。死ぬ寸前、意識が本人の元へ帰るように設定されていました。でも死ぬ寸前ですから、あのとき斬られた痛みは本物。もう二度と被害者役はごめんだと心底思いました」

 私は北条の真横に立つ。

「それを本当に死んだ奴らの前で言ってみろ。呪い殺されるかもな。そういえば周防は心臓麻痺で死んだことになっていたな。式場で警察のお偉方がわんわん泣いててよ。まるでこの世の終わりだったな、あれは」

「お悔み申し上げます。しかし死は突然牙を剥くものです。誰にでも平等に」

 北条が天ぷらに箸を伸ばす。

 サクッという衣のいい音がした。

「報奨金はどうした? さっさと渡せ」

「雪村さんも召し上がっていってください。お話もしましょう。お金なんてあとでいいじゃありませんか」

 しじみ汁の香ばしい匂いが鼻を撫でる。鮮度のよさそうな刺身も舌を満足させてくれそうだ。

 北条と対面するように椅子に腰を掛ける。

「デメテール社ってのはコスメ事業のほかに仮想現実事業にも携わっていたのか?」

「ええ。二足の草鞋というやつです。もうそろそろ一足脱ぎ捨てようかと思ってますけれども。もちろん前者です」

 私は水で口を潤す。

「虹崎琉花というのは誰だ? なぜ私の体を乗っ取っていたんだ? ほかのやつらの意識の異常とも違うような気がした。知っていることを教えろ」

「まず、意識の異常ではなくクオリア異常です。クオリアとは、モノを見たり、音を聴いたり、手で触れたりという感覚意識体験のことを言います」

「悪いが、意識とクオリアで何が違うのかさっぱり分からない」

 刺身を口に放り込む。上質な脂の風味ととろりと溶けていく柔らかい身。美味だった。

「視覚で例えますが、あなたはおそらくわたくしのことがこう見えているでしょう。艶がよくハリがあり肌もきれいで目鼻立ちの整った美貌の持ち主だと。でもそれは眼球からの視覚情報を元に、脳が都合よく解釈して、勝手に作り出したわたくしにすぎません」

「お前……いや、続けろ」

「その〝脳が都合よく解釈〟というのがクオリアによる働きなのです。ですので、もしもクオリアがなければ〝脚色されていない世界そのもの〟を見ることになります。わたくしの顔は、いえ、世界は電磁波の飛び交う味気ないものとなってしまうでしょう」

「なるほどね。ある意味この現実世界も脳が五感に命令して作り上げた仮想世界ってことか」

 私は天ぷらにしか見えない天ぷらに噛り付いた。天ぷらとしか思えない味がした。

「理解が早いですね。今、五感とおっしゃいましたが、そこには夢も含まれます。よって参加者だった万城目さん、庭野さん、矢羽々さん、屋根裏乃さんの身に起きた異常は全て、クオリア異常で片づけることができます。意識のアバターへの接続の際、クオリア異常排除率が九十九を超えていないと出てしまう可能性の高いものなのです。彼らは九十九を超えていなかったのでしょう」

「私はやはり違うのか。名前がなかったが」

「雪村さんの場合は、かなり特殊なケースでして、滞留する意識によるアバターのハッキングです。仮想空間に滞留していたのは前回の別のゲーム参加者である方の意識。その意識の持ち主が虹崎琉花さんでした。彼女の意識はアバターへの接続時にエラーが発生したせいで、本体とアバターの両方から拒絶されてしまいました。エラーはすぐに解除できたのですが、意識はすでに仮想空間という大海原に放流されて追跡不可能。ずっと彼女の意識のことが気になっていたのですが、まさか別人のアバターに侵入とはとわたくしも驚いています」

「やはり乗っ取りか。意識が仮想空間に滞留というが虹崎は死んでいるのか」

「三か月前のことですから本体はすでに心臓麻痺で処理されています。そしてあなたが追い出したことによって彼女の意識も完全に消滅しました」

「まるで私が悪いみたいだな。私の意識があの能無し女から自分のアバターを取り戻したにすぎない。そういえば、森野の名前もなかったな。あいつはよく転んでいたが、視覚クオリアの異常じゃないのか」

 とろろ蕎麦をすする。とろろと絡んだ卵の黄身が、絶妙のバランス比で口の中に広がる。蕎麦の歯ごたえもあってか、実にうまい。味覚クオリアがいい仕事をしているようだ。

「彼女の場合は、身体的に合わない参加者アバターを使用したからでしょう。小脳による平衡感覚の情報収集が正常に機能しなかったのです。よってクオリア異常ではありません。ジェーン・ドウと同じように、本体とほぼ変わらないサイズにしておけばよかったのですけれどね」

「あの体を選んだのは、あいつなりに理由があったらしいけどな。――その森野はどうなった?」

「どうなったとは?」

「生きてるのか死んでるのかだよ。言外を読めよ」

「いえ。虹崎さんではないあなたが気にするとは思ってなかったので。残念ですが森野さんはゲームに負けたので生きてはいません。彼女は一人暮らしなのでまだ見つかっていないのですが、明日には死が明らかになるでしょう」

「そうか」

「森野メイは偽名で別に本名がありますが、知りたいですか?」

「興味がない」

 名前に意味はない。少なくとも偽名で生きている私には。

「分かりました。ところで森野さんには妹さんがいるのはご存じですか?」

「ああ。筋萎縮性側索硬化症という難病に侵されているらしいな。まだ若いのに同情するよ」

 松茸ご飯を口に掻きこむ。松茸の芳醇な香りがスパイスとなり、上品な味が舌を優しく刺激する。キノコはあまり好きではないが、味の主張が強すぎないので非常に食べやすい。これも脳の都合のいい解釈かと思うと、妙な気持ちにもなるが。

「その妹さんですが、森野さんを担当した方が話の流れで写真を頂いていたのです。なのでわたくしも共有することになったのですが、どうぞご覧になってください」

 北条がスマートフォンを差し出してくる。

 名前同様に別に興味はなかったが、強制的に視界に入る写真。

 場所は屋外。病気の発症前なのだろう。はにかんだ笑みでピースサインをこちらに向けている女。私とは似ても似つかない顔だった。

「森野は私にそっくりと言っていたが、見る限りパーツの一つすら合致しないな」

「そうですよね。その話はわたくしも聴いて知っていましたが、全く似ていないので不思議に思いました。でもすぐに気づきました。雪村さんが妹さんそっくりに見えたのは、森野さんの〝妹さんに対する強い想いが生み出した幻想〟だったのだと」

「クオリアの異常ってやつか」

「はい。それしか考えられません。脳というのは本当に不思議ですね。とかく意識の問題となるとその原理は未だ解明できておりません。クオリアが何かは理解できても、なぜ脳を持つものだけにクオリアが生起するのか、誰も知らないのです。この先もわたくし達は脳、つまり世界への疑いを持って生きていくことになるでしょう。しかし、その疑いを持つ自分の存在だけは決して疑うことはできない。我思う、ゆえに我ありです」

 北条が席を立つ。見ると北条の料理は全てなくなっていた。いつの間に食べたのだろうか。彼女は報奨金の入っているバックを私に渡すと「それではごきげんよう。雪村さん。あるいは鳳夢Zさん」と優雅に去っていった。

 私はバッグの中身を確かめる。百万円の束が二十個。間違いなく二千万円のようだ。

 これも視覚クオリアの異常で、実はただの新聞紙だったりしてな。

 私は即座にくだらないと一蹴する。

 脳が都合よく解釈してようがなんだろうが、この現実は紛れもない現実だ。私達はこの現実で生きている。この現実に現実以外が入り込む余地はない。

 ――待て。おかしくはないか。

 だとしたら、私が妹にそっくりだと森野が知ったのが参加者一覧の写真というのはなんだ? 

 私は立ち上がり、店の外へ飛び出す。

 あれほどいた人が全く見当たらない。

 いや、よく見ると交差点の真ん中に誰かいる。

 そいつはピエロのようなマスクをかぶっていた。手には赤く染まった鉈。服は見覚えのある上下黒のスウェット。そいつは誰かを探すように周囲に目を這わせている。ふとこちらに顔を向けたところでピタリと動きが止まる。

 そいつはでかい口を歪に変形させると、鉈を振り回しながら私に向かって走り出した。

 

 どうやら私を殺す気らしい。

                                         



 了。

 

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ジェーン・ドウは誰か 真賀田デニム @yotuharu

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