我思う故に我あり(二)


 風になびく金色の髪が私の頬に触れた。

 ジェーン・ドウの顔が私の視界のほぼ全てを埋めていた。

 開いた双眸はビスマス鉱石のような虹色が輝き、人間の目とは思えない。

 ただ、見惚れてしまった。あまりの超絶的な美の顕現に。

 ――不覚。痛いセリフが効きすぎたか。一切の逡巡もなく起き上がるとは。

 ジェーン・ドウの手が私の顔をつかみ、走り出す。

〈始まりと真実の部屋〉のドアをすり抜けると、その勢いのまま廊下に放り投げられた。私はなんとか立ち上がると、ポケットからⅣのナイフを取り出す。

 振り向く私。

 Ⅳのナイフを蹴り上げるジェーン・ドウ。

 ナイフの大時計のあるほうへⅣのナイフが飛んでいく。

 追いかけようとする私の右足をジェーン・ドウが右手でつかむ。

 廊下を引きずっていくジェーン・ドウは突き当りを左に折れると、私の体を持ち上げた。

 うそだろと思った刹那、体を壁に叩きつけられた。

「うっ!」

 予想外の怪力。参加者にこんな膂力を持った人間はいない。明らかにジェーン・ドウというアバターのみに付与された能力だ。

 うずくまる私を見下ろすジェーン・ドウ。同時にしきりに背後を気にしている。

 理由は明らかだ。

〈始まりと真実の部屋〉にいる参加者の動向を確認しているのだ。あの部屋にいる参加者の誰一人も私に見せたくはない。だからこそ、〝私一人に集中できない〟。

 寝ころびながら私は、ジェーン・ドウの左足を掴み、手前に引っ張った。

 バランスを崩して倒れるジェーン・ドウ。

 立ち上がったのは、わずかに私のほうが早かった。

 私は後ろに体をひねると、書庫のある廊下へとダッシュした。

 体中が痛い。だが、仮想現実の中のアバターだと思うと不思議と痛みは和らいでいった。

 ドアを開き、廊下を直走る。

 ジェーン・ドウが後ろから追いかけてこない。

 なぜだ? と浮かんだ疑問の答えはすぐに分かった。

 廊下の天井から落ちてくるジェーン・ドウが前方で着地した。

 起き上がってからその場で跳躍したのだろう。建物をすり抜けて十メートルほどの距離を飛んでくるとは、いよいよもってチート能力である。

 だが私は止まらない。

「なんでも――ありかよっ」

 勢いを殺さず、ジェーン・ドウへ体当たりを食らわす。

 幸いにも鋼の肉体という特殊能力はなかったのか、ジェーン・ドウは私と共に廊下へ倒れた。

 私は周囲に目を這わして〝それ〟を見つけると、腹這いで進んで握りしめた。

 その瞬間、ジェーン・ドウが私を仰向けにさせ、首を掴んで上半身を持ち上げた。

 敢えて表情の豊かさをプログラムしていないのか、まるでターミネーターのように感情を表さないジェーン・ドウ。

 構えている左手にはⅣのナイフ。いつのまにか拾っていたようだ。

 その態勢のまま私を見ているジェーン・ドウ。

 微かな違和感を覚えながら、私は握っているダーツの矢をジェーン・ドウの右目に突き刺した。

 予想外だったのか、私から手を放して慌てたように目を押さえるジェーン・ドウ。その様から、右目の視覚を奪えたのは間違いない。

 しかし痛覚が遮断されているのか、微塵も痛がっているように見えない。だとしたら当てが外れたか――。

 私は立ち上がって踵を返す。

 すぐさま追いかけてくるジェーン・ドウ。

 予想を超えた立て直しの早さ。

 私は扉を開けてホールへ。刹那、後ろから頭を掴まれて、床に倒された。

 押し付けられる顔。リアルな痛みが私を襲う。

 ただ、視界は奪われていない。

 こちらに駆け寄ってくる三人の参加者が見えた。

 ――絶対的でゆるぎない証拠などなかった。

 だからこそ、それをすでに持っていると嘘を言った。

 結果、証拠を握っている私を殺すしかないとジェーン・ドウは判断してくれた。

 そして今。

 私は、絶対的でゆるぎない証拠を手に入れた。

 参加者のアバターに入ったまま、ジェーン・ドウを動かすことはできない。参加者の意識は一つであり分離できるものではない。つまりジェーン・ドウを動かしているのは、この場にいない者。

 おそらくそいつは私の意図に気づいているはずだ。

 絶対的でゆるぎない証拠を手に入れたものの、私はそれをまだ三人に伝えていない。気づいた参加者がいるかもしれないが、それでも私の口から聞かされなければ信じきれないかもしれない。

 その可能性も考慮すれば、ジェーン・ドウがここで私を殺すのは必然だと思えた。

 なのに――。

 私を押さえつけていた手が離れる。

 ナイフが床に落ちた。

 解放された私は、虹色の虹彩を向けるジェーン・ドウを見上げた。

「殺さないのは、お前に与えられたルールに抵触しているからか? それとも、悪あがきだと諦めでもしたか? どちらにしろお前の降参の証だとして受け取る。ジェーン・ドウはお前だったんだな。――森野メイ」



 糸が切れたかのようなジェーン・ドウが力なく頽れる。

 意識が森野メイのほうへ移行したのだろう。そう推測してしばらくしたのち、〈始まりと真実の部屋〉の扉が開いた。

 森野が立っていた。

 幼い顔に浮かぶ、どこか吹っ切れたような諦念。それでいて終幕への覚悟も感じられた。

「そうよ。私がジェーン・ドウ。私の負けね。時間がないわ。屋根裏乃さん、早くこっちで説明を」

「……え?」

 私は屋根裏乃の背中を押す。

「早くいけ。あと十分もないぞ」

「は、はいっ」

 屋根裏乃が走り出し、そのあとを庭野、矢羽々、私と続く。

「痛かったよね。ごめんね」

 森野が形ばかりの謝罪を述べてくる。私は何も返さなかった。

〈始まりと真実の部屋〉に入ると、屋根裏乃がクリア条件を満たすための説明を始める。

 庭野と矢羽々は森野から距離を取っている。当の森野といえば腕を後ろに組んで、説明を続ける屋根裏乃をずっと見ていた。

 私は屋根裏乃に、いくつかの説明の補足をしてやった。


 自己紹介を提案したのは森野メイだが、それは自分の計画に害をなす、あるいは利用できそうな人間を見極めるために敢えて自分から言い出した。結果、周防を危険だと判断し、屋根裏乃を名探偵役という駒にした。


 8号室を密室にする際にマスターキーが本物か否かの疑いを口にしていたが、それは8号室の鍵を使われては計画に支障がでるから。矢羽々を犯人役にするにはマスターキーで施錠してもらう必然性があった。

 

 ジェーン・ドウとだと疑われたとき自ら監禁を言い出したのも、そのあと行う予定の殺人に対して鉄壁のアリバイを手に入れるため。事実、北条が殺された時点で森野はジェーン・ドウではないと断定された。


 補足に対して肯定も否定もしない森野だが、構わない。自分の立場を森野に置き換えれば、今の推理は間違いなく合っているからだ。

「……よって四人の参加者を殺害したジェーン・ドウは――森野メイとなります」

 屋根裏乃の説明が終わる。

 私の披露した推理と証拠をうまく簡潔にまとめてくれた。論理的な説明かと問われれば、そうだと断言できる内容だった。

 不安そうにこちらを見る屋根裏乃に頷くと、彼女が右手を上げる。五秒経つと『本当に説明は終わりですか』と問われ、「はい」と答えた。『しばらくお待ちください』と返される。

 無音の中、屋根裏乃が森野に問いかける。どこか恐怖に怯えるかのように。

「教えてください、森野さん。あなたの殺した人間は仮想世界でのみ死亡という扱いになるのですか。それとも現実でも――」

「死ぬよ。私は主催者にそう説明されている。だから残念だけど万城目さんも、北条さんも、遠藤さんも、そして周防さんももう生きてはいない」

「そんな……」

「そういえば自己紹介時の周防さんの名探偵ぶりには焦ったな。私が年齢を偽ってるって推理したときは心臓止まりかけたもの。絶対最初に殺さないとって思った。実際、周防さんは脅威そのものだった。名無しの権平君の推理通り、あの人はジェーン・ドウが動くって疑ってたから。お前は動くのかと問いかけてきたあと、ブロック食品を粉々にしてるのを見て生きた心地がしなかった。だから周防さんが後ろを向いた瞬間、ここしかないと思って背中の下に隠していたナイフで殺した。あの人が持っていたブロック食品はかき集めて全て壁の外に捨てたと思っていたけど、一本だけポケットに入っていたんだね。詰めが甘かったな。

 万城目さんを第二の被害者にしたのは、あの時点での消去法で残ったから。『名探偵』の駒として動いてもらう屋根裏乃さん、物腰の柔らかい良い人そうな矢羽々さん、やけに泰然としていて不気味に感じた北条さん。行動的で物事を先に進めてくれそうな庭野さん、そして、琉花。あなたを殺す気は最初からなかった。この五人を消去していった結果、万城目さんしかいなかったから。それ以上の理由はないよ。

 第三の被害者である遠藤さんはそもそも被害者にしかなりえない存在だった。参加者といっても館にいない外部の人間みたいなもので、犯人だなんて興ざめもいいとこ。だからといって生きている状態であとで見つかったり、あるいは館に来られても扱いに困る。だから殺した。最低でも三人は殺さないといけなかったら丁度良かった。実は彼女に感謝しているの。屋外で暗躍する殺人鬼として館内に恐怖をもたらしてくれたから。

 最後の被害者である北条さんは条件が揃ったから殺した。彼女が尖塔の物見スペースに入ったとき施錠するのは聞いて知っていた。密室殺人を演出できないかなと考えたとき、ビリヤードのキューを使った方法を思いついて、そのタイミングで私の監禁が決定した。これだけ条件が揃ったらやるしかないと思った。合気道を警戒したけれど、まさか施錠されているドアから入ってくるとは思わなかったのか、あっけなく彼女は殺されてくれたよ」

 後悔の念など微塵もないのか、四人の殺害に関する詳細を淡々と話す森野。

 見た目の幼さが不釣り合いで、まるで喜劇のワンシーンのようだ。

「なんで、なんであなたは殺人なんかを……っ。あなたのことを信じていたのに、なんで……っ」

 屋根裏乃の、喉奥から絞り出すような震える声が響く。

「私のことを信じていたなら、それはやっぱり屋根裏乃さんが名探偵にはなりえない『名探偵役』でしかないってこと。だって私が犯人だったんだから。なんでって言われたらこう返すしかない。それが私のジェーン・ドウとしての役割だって」

「役割だから人を殺せる? ゲームだからですか? 周防探偵を、四人もの人間を殺そうがゲームだからと居直っているんですかっ? ……そんなのボクには理解できない。あなたは狂人ですよっ!」

「そ、そうだ、お前は狂ってやがる。今だって開き直ったような態度でよ。普通じゃねえよ、お前。このシリアルキラーがっ」

「万城目さんには小さな子供だっているのよ。森野さんだって知っていたはずでしょ。なのにあなた……どうかしちゃってるわよ」

 屋根裏乃に便乗して森野を責め立てる庭野。屋根裏乃同様に森野を信じていた矢羽々も、もはやその目は怪物を見るそれだった。

「そうだね。狂ってないとできないと思う。でも私が狂人になることで妹が救えるのなら、全然構わなかった。結局、ゲームに負けて報奨金はパア。妹を救うことはできなくなったけど」

 一瞬、深い哀切が森野の顔を過る。

「妹とはなんだ? お前はその妹を何から助けようとしたんだ?」

「筋萎縮性側索硬化症という病気から。知ってる? 名無しの権平君」

「なんらかの原因で運動神経細胞が阻害され、徐々に筋肉が痩せて動かなくなっていく難病だ。薬で進行を遅らせることは可能だが、治すことはできない」

「その通り。よく知ってるね。妹の筋肉はもう使い物にならない。だから動けないし声も出せない。文字盤でコミュニケーションできるけどそれもいつかできなくなる。十九歳の身にはあまりにも理不尽な病。ただそれは治せなくても、別の体を手に入れれば解決するってことを知ったんだ」

「別の体だと。一体何を――まさか」

 別の体。

〝別の意識の入れ物〟

「そのまさかだよ。私達と一緒。アバターの体。不完全な肉体から完璧なアバターに意識を移せば、妹はアバターとして生きていける。手足を自由に使って運動ができて、声を出して気持ちを伝えることができる。もうこれしかないと思った」

「生きていけるだと? それは、一時的にゲームで遊ぶとかではなく、生活の基盤として仮想現実を用いるということなのか?」

「そうよ。あなたの常識=世の中の常識じゃない。でしょ。〈ジェーン・ドウの館〉をダークウェブで見つけたとき、〈仮想現実での人の再現性・アバターの光ある未来〉という項目があった。そこには可能だと書いてあって、主催者の人にも確認は取ってある。仮想空間の領域は池袋くらいで、すでに多くの人間が生活してるとも聞いてる」

 俺がサイトを開いたとき、〈仮想現実での人の再現性・アバターの光ある未来〉という項目はなかった。おそらく、ジェーン・ドウ役の募集時にはあったのだろう。

「お前がゲームに勝っていれば、報奨金を使って妹にアバターをプレゼントしていたわけか。だとしたら残念だったな」

「本当に残念。四人殺して密室殺人も二つ。間違いなく本格ミステリだった。あなたが余計な探偵力を発揮しなければ、追加報酬も合わせて報奨金は二億はいっていたはず。それだけあれば、妹に仮想現実での素敵な生活を与えることができたんだけどね。本当にあなたは何者なんだか」

 今の口ぶりから森野の目的が、参加者達を使って本格ミステリを作り上げることだったのが明確になる。〈探偵役〉・〈犯人役〉・〈被害者役〉の配置はおおむね良かったが、まさか生存者の一人がとは夢にも思わなかったのだろう。

「その話を聞いたところでやはりボクには理解できません。自分の身内を助けるためなら他人の命なんてどうでもいいだなんて、ボクには」

「理解し合おうなんて思ってない。私は愛する妹のためにやるべきことをやっただけ。そして妹は私がゲームに負けたことによって、現実の世界で不自由に生きていく。それだけのこと」

 諦めたように口を閉じる屋根裏乃。

「なあ、さっきお前、妹が十九歳って言ったよな? お前が年齢詐称しているのは知っているが二十歳以上だったのか? その見た目でよ」

「相変わらずおバカなんだね、庭野さんは」

「はあっ!?」

「アバターは必ずしも本体と同じである必要はないんだよ。好きに変えられる意識の入れ物なんだから。ただあなた達は、現実だと思い込ませるために本体と同じだっただけ。子供のほうが親しみもあって警戒されないだろうとこの体を選んだけれど、中身は勝気な二十三歳のままだからあんまり意味なかったかもね」

「どうりで、てめえは生意気だったわけだ。くそっ」

『お待たせしました。判定結果を伝えます』

 部屋に反響する女の声。

 ようやくその時が来たようだ。

 緊張で張り詰める〈始まりと真実の部屋〉だが、私の鼓動は一切、乱れない。見れば、森野も同じようだ。

 その揺るぎない胆力は尊敬に値する。

 周防も恨んだりはしないだろう。お前に殺されたのなら。

『虹崎琉花、庭野れいな、矢羽々祥子、屋根裏乃壁流、計四名のゲームクリアが確定しました。お疲れさまでした』

 突と、視界がぶれる。

 仮想現実から現実世界へと戻る過程で起きる仕様なのか。

 次の瞬間には、足元が揺れて私は膝を付いた。

 色を失っていく背景。同時に意識も茫漠としたものになっていく。

 ただ、森野の声だけははっきりと聞こえた。


「――ジェーン・ドウを動かしていいのは、本格ミステリを作り上げるのに必要なときだけ。だから代表者が選出されて論理的な説明が始まった時点で、ジェーン・ドウを動かしてはだめだった。私がやってたのは見境のない悪あがき。でもあなたを殺さなかった理由はそうじゃない。

 あなたが琉花だったから。妹にそっくりだった虹崎琉花だったから。

 参加者一覧の写真を見たときあまりにも似ているから驚いた。だからゲームが始まった瞬間にあなたに会いにいっちゃった。実物もそっくりでこんなことあるんだってびっくりして感動した。一緒にいれて嬉しかった。いっぱい話せて楽しかった。年下のくせに私のこと守ろうとしてくれてすごい頼もしかった。

 妹にはもう会えない。でも妹のようなあなたと会えてよかった。

 あなたが何者かなんてどうでもいい。

 妹にそっくりな姿で現れてくれてありがとう――」 

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