銀将、成れば失い、戻ることあたわず 〜それは恋なりや何なりや〜

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

銀将、成れば失い、戻ることあたわず

 転がり落ちた銀将が、カーペットを思いのほか軽快にはずんだ。

 はずんで、ベッド脇に脱ぎ捨てた学ランの、中学の校章にかちりと当たった。

 それを拾おうと伸ばす雅成まさなりの手を、千歩ちほはじぃっと見つめた。


「その奥にエロ本とかある?」


「ねぇよ。あるわけないだろおまえがすぐ探せるような場所に」


「そういうトコじゃなければ、あるんだ」


「言葉のアヤだよ」


 銀将を将棋盤に戻し、並べ終える。

 祖父から譲り受けた、年代物だがいい値段のするらしい足つきの将棋盤。


 雅成の部屋。将棋盤をはさんで、千歩。

 千歩はセーラー服のスカートを正して、正座した。

 中学の校章が、胸元でちらりと揺れる。

 雅成はそれをなんとなく横目で見やって、あぐらを組み。

 二人同時に、頭を下げる。


「お願いします」


 ぱちり。ぱちり。将棋の駒を動かす音が、雅成の部屋に響く。

 静かに、将棋を指す。

 そうしながら、やがて千歩が、口を開いた。


「落ちたよ。第一志望」


「ん」


 守りを固める手を打ちながら、雅成も口を動かした。


「まぁ、知ってる……同じところ受けてんだから」


「掲示板、そりゃ見るよねぇ、二人分ねぇ……雅成は合格おめでとう」


「ん……」


 口を引き結んで、銀将を前に突き出した。

 敵陣に突入し、成る。

 千歩は受けに回って、しばらくやりとりをして、やがて頭を下げた。


「負けました」


「ん」


 雅成も頭を下げて、また駒を初期配置に並べ直した。

 並べながら、千歩はぽつりとこぼした。


「行きたかったなぁ……同じ高校」


 雅成はのどにぐっと力を込めた。

 レベルを落とせばよかったかな。油断したらこぼれそうになるそんな言葉を、精一杯に飲み下した。

 受けた高校は、雅成にとって適正レベルで、千歩にはほんの少しだけ背伸びだった。

 その結果通りなだけで、雅成がもしレベルを落としていたら、千歩はきっと許さない。

 何を許さないのかは、分からない。


 駒が整列し、また二人は頭を下げた。


「お願いします」


 ぱちり。ぱちり。

 千歩は正座を横座りに崩して、またぽつぽつと喋り出した。


「ずっとさぁ。幼稚園から小中まで、ずっと雅成と同じトコに通っててさぁ。

 クラスも同じになること多くてさぁ、こうしてずっと将棋指しててさぁ」


「うん」


 ぱちり。ぱちり。


「付き合ってるのって聞かれること、けっこうあったよねぇ」


「あったなぁ」


 ぱちり。ぱちり。


「……イヤだなぁ。別々の高校なの」


 ぱちり。雅成は駒を前に出した。

 千歩は盤上をじっと見つめて、それから頭を下げた。


「負けました」


「集中できてないな」


「んん……」


 千歩は足をもじもじさせた。


「着替えずにそのまま来ちゃったからさぁ……今日スカートの下にジャージも何もはいてないし」


「ああ……そっち……」


 千歩は普段、立て膝で座って将棋を指していた。

 そのときはいているのはたいていズボンか、スカートのときもジャージなりスパッツなり、何かしら下着の見えないものをはいていた、と、雅成は思い返した。


 千歩は雅成の顔を、じっと見つめた。

 そのままおもむろに、足を立て膝に組み替えようとした。

 雅成は目をそらした。


「えっち」


「おまえなっ……」


 千歩は横座りに戻して、膝に肘をついて、ほおづえをついた。


「意識したくないなぁ……女とか男とか……」


 そう言って視線が横に向いて、雅成もつられて視線を追って、その先がベッドだったので、雅成はどきりとして将棋盤に視線を戻した。

 将棋盤では、隅に追いやられた千歩の玉将が、雅成の成銀なりぎんに頭を押さえつけられた状態で終わっていた。


 千歩は物憂げな表情で、詰んだ盤面をかき回して、初期配置に戻していった。

 そうしながら、口はぽつぽつと言葉を吐き続けた。


「あたしさぁ、これからもずっと雅成と同じ学校通って、ずっと将棋指してるんだって、全然疑ってなかった」


「将棋は指せばいいだろ。今までもずっとうちで指してたんだし、変わんねえよ」


 千歩は唇を、噛むようにすぼめた。

 お願いします、そう頭を下げるのはきちんとやって、ぱちり、ぱちり、また将棋を指す。

 指しながら、左手を頭に置いて、かきむしって、小刻みに首を振った。


「だってさぁ。違う高校行ったら、新しい人間関係だってできるし、時間の使い方だって変わるし、ねぇ、変わるよ。変わるって。

 新しい友達ができてさぁ、そんで雅成さぁ、彼女とか作ったりして」


「そう簡単にできるかよ……」


「できるでしょ。雅成さぁ、いい男だもん」


「お、おぅ……?」


 ぱちり。うっかり甘い手を指した。

 やべっと雅成は思ったが、千歩は気づかず素直に守った。

 千歩は髪の毛をかき乱していた左手を、そのまま目元まで持ってきた。


「あたしさぁ、分かんないんだよ。分かんない。自分がどうしたいのかさぁ。

 将棋をしたい。雅成と。これからもずっと。

 でもそれ以外はさぁ、そう思わない、ってか、考えたくない、のかなぁ」


 ぱちり。ぱちり。

 手筋はガタガタだ。お互いに。


「でもさぁ。別々の高校になっちゃってさぁ。雅成に彼女できたらって考えたらさぁ。

 やだなぁって、思っちゃったんだよ。思っちゃった」


 ぐじぐじと、千歩はしきりに左手で目をこする。

 雅成は天井を見上げて、ふぅーっと息を吐いた。

 そうして、顔を正面に戻して、千歩の顔を確認した。

 疑いようもなく、千歩は泣いていた。


「どうしたらいいかさぁ、分かんないんだよ、あたし。

 将棋がしたい。彼女を作られたらイヤだ。

 じゃああたしは雅成が好きなの? 恋人になりたい? キスしたりとかしたい? 分かんない。全然想像できない。

 どうしたらいいかさぁ……分かんなくてさぁ……」


 雅成は、盤面に視線を落とした。

 ボロボロの千歩の陣地を見すえて、銀将が四段目に立ち止まっていた。


 自分たちの関係みたいだと、雅成は思った。

 あと一歩、踏み込んでしまえば、成ることができる。

 成れば、今までとは違う動きができて、そして今までできていた動きを失う。

 そして成ってしまえば、もう元には戻れない。


 カチ。カチ。

 時計の針の音が、響く。

 千歩の右手が、のろのろと動いた。


「どうしたらいいんだろ。あたし」


 ぱちり。玉将を、逃がそうとする。


「俺は」


 銀将を、つかんだ。


「それでもいい」


 ぱちり。まっすぐに、突き出す。不成ならず


 千歩は、雅成の顔を見た。

 雅成は正面に千歩を見すえて、決然と言った。


「ずっと、将棋をすればいい。別に恋人になんてならなくたっていい。

 俺が恋人作って千歩がイヤな気持ちになるんなら、恋人なんて一生作らなくっていい。

 そんで、ずっと、こうやって将棋をしてれば、それでいいよ」


 千歩はぽかんと、雅成の顔を見続けた。

 それから、笑って、困ったように首を振った。


「それ、さぁ。ええ? それは、えぇ……だってさぁ……」


 ぱちり。千歩は玉将を逃がす。

 ぱちり。雅成は追い詰めに行く。

 千歩は首を振り続けた。


「そんなのさぁ。ダメじゃん。あたしのせいでさぁ。

 こんな、ぐずぐずしてずるいこと言ってて、それで雅成までさぁ。立ち止まらせたらさぁ」


「止まってないよ。進んでる」


 雅成は銀将に指をかけた。

 銀将は真後ろに進めない。まっすぐ進んだ銀将は、成らなくたって、簡単には元の場所には戻れない。


「千歩に合わせりゃいいって、合わせていきたいって、俺が今、思った」


 銀将が、また一歩、玉将に詰め寄った。


 千歩は盤上を、じっと見つめた。

 見つめて、ふぅーっと、長い息を吐いた。

 それから雅成に向き直って、くしゃりと笑った。


「そっかぁ」


 千歩は力が抜けたように、横にだらりと倒れ込んで、ベッドまでもたれかかりにいった。


「……そっかぁ」


 顔を半分伏せたまま、千歩の指が、ベッドのシーツを握ってしわをつけた。

 投げ出した足が、脱力して横たわっていた。


 たっぷり時間をかけて、千歩は顔を上げて、また将棋盤の前に座った。

 その顔は、泣きそうで晴れやかだった。


「あたしは、やっぱりこれ、恋なのかなんなのか分かんないけどさぁ。

 雅成がいてくれたら、うれしいってのは、分かったよ」


「そっか」


 雅成は千歩の顔を見て、少し目を伏せながら、それでもそらしきらずに、言った。


「俺は、多分……千歩のこと、好きだと思う」


 千歩のそのときの顔は、泣き笑いのような複雑な顔で、雅成はとても読み解けないと感じた。

 プラスの感情も、マイナスの感情も、確かにあってごちゃ混ぜになっているような、そんな顔だった。


「悪い。合わせるって言っときながら、どうしても言っときたいって思っちまった」


「ううん」


 千歩は首を振って、笑ってみせた。


「うれしい、よ。うん。うれしい。

 雅成がそう思ってくれてるって、すっごい、うれしいな。

 けどごめん、あたしやっぱり、どう応えればいいか分かんないや」


「いいよ」


 雅成は体を後ろに反らして、両手をついて、将棋盤と千歩の顔を遠くに見やった。


「いい。

 このまま将棋をしてくれれば、それでいいよ」


 千歩はゆっくりと、笑った。

 それから盤面を見て、ぺこりと頭を下げた。


「負けました」


「うん」


 また、盤面を崩して、並べ直した。


 二人の関係がどうなるか、二人にもまだ分からない。

 ただ投了した最後の局面、詰みまで指し続けたら、最後に銀は成っていた。

 それだけ。ただ、それだけ。


 並べ終わって、二人はまた、頭を下げた。


「お願いします」

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