第23話
思い出さない様にしていた記憶が鮮明に浮かんでしまい、猛烈な吐き気に襲われる。口を手で覆いその場にしゃがんだ。
「大丈夫か!?」
男性は驚いた声を上げ、しゃがむ。涙が止まらなかった。先程のような悔し涙ではない、本当にただ悲しいだけだ。
二十年前よりも悲しいかもしれない、あの時は三人が死んでいるのを見て、ショックで何がなんだかわからなくなってしまったけど、今は違う。ずっと目をそらしていた事が目の前に現れ、どうしたらいいのかわからない。大人になったからこそわかる悲しみで、今までちゃんと向き合わなかったからどう対処していいのかわからない。何かにすがりつきたくてもここには電柱と名前も知らない男性しかいない。
「救急車呼んだ方がいいか…?」
そう訊かれて涼華は首を振った。わたしは病気じゃない。
「本当に大丈夫か?顔色がすごく悪いぞ」
男性が言うも全く耳に入らない。頭の中は二十年前のことで溢れていた。台所から漂っていたあの臭い、あの時はわからなかったが、今ならわかる。あれは血の臭いだ。わたしは家族の血の臭いを嗅いでいたんだ…。めまいがして前に倒れそうになる、しかし男性が涼華の両肩を支えてくれた。
「やっぱり救急車呼んだ方がー」
言葉を遮り首を振る。呼んだところでどうにもならない…。誰にもどうすることもできない、自分はこれからもずっと一人で苦しみ続けなければならない。そう考えると吐き気はさらに強くなった。
「そんなに病院に行きたくないのか?」
涼華はやっとの思いで頷く。
「…わかった。それなら、どこかで休もう。このままここに居るわけにもいかないし」
どこに行くっていうの…?彼女には動く気力は残されていない。
「一人で立てるか?」
首を振ると男性は今まで支えていただけだった手に力を入れた。
「痛…」
思わず声を上げる。
「我慢してくれ、こうしないと立てないだろ」
両肩を掴まれ引っ張り上げられる。立ち上がると少しふらついたが、支えられているので倒れることはない。
「歩けるか?」
小さく頷く。肩から手が離され涼華は静かに一歩踏み出した。足にあまり力が入らず、すり足になってしまうが、むしろこの方が転ばずに歩けそうだ。
目が慣れたから暗くても少しは見える、だが彼女の心はどんなに照らしても明るくならない。どんなに頑張っても何も見ることができない。まるで窓も電灯も無い部屋に閉じ込められているように真っ暗だ。
前方がちょっとずつ明るくなってきた、もうすぐ大通りに出られる。トンネルも路地も歩き続けていればいつかは明るい場所に行ける。でも彼女は歩いても歩いても、光に照らされることは無い、ずっと暗闇の中にいる。
大通りに出ると眩い光に目がくらむ。立ち止まると後ろから
「大丈夫か?」
という声がした。そうだった…。一人じゃなかった。少し前に進むと男性に再び声をかけられる。
「ついてきて」
涼華が振り返ると男性は彼女を追い越して歩き始めた。
力無い足取りでついて行く、どこに行くんだろう…。なんだか怖い気もするが、一人になるのはもっと怖い。本当に具合が悪くなって、病院に運ばれることになるかもしれない。それならたとえ名前も知らない男性でも、一緒にいてくれた方がいい。多少なりとも気が紛れるはずだから。
男性は駅の方に向かって歩いていた。見覚えのある店を次々通り過ぎていく。
もうすぐ駅に着く、そう思った時男性は一軒の店の前で止まった。涼華も止まり店を見る、そこは彼女が昼間入った喫茶店だった。
「ここで休もう」
そう言い扉を開け中に入って行く。もしかして、このお店を知っているの…?
カランカランというベルの音が鳴る。昼と違って照明が点いているので雰囲気が変わっていた。こういう雰囲気もいいかも…。
男性が窓際の席に座り、涼華も向かい合うように座る。すぐに店員が注文を取りに来た。
「いつものを二つください」
いつもの…やっぱり常連なんだ。
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
白髪混じりの男性店員は微笑みはがらそう言うと、店の奥に戻っていった。
「あの人はここの店長なんだよ」
「え!?」
「いや、この店によく来るから…」
男性は涼華が驚いたことで少し怯んだ様子だった。
「常連なの?」
「まあ、そんなとこかな」
なんだか悔しいのはなぜなんだろう…。せっかくいいお店を見つけたのに、この人は前からここを利用している。対抗心なんか抱く必要も無い。まして相手が名前も知らない人であれば。だけどなぜだかモヤモヤする。
「…どうした?」
「…え?」
「なんか機嫌悪そうだから…」
その通りだった。さっきは具合が悪かったが、今は機嫌が悪い。
「…どうもしないけど」
「そう…それならいいんだけど…」
しばらく沈黙が流れる。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったな。俺は青井秀っていうんだけど」
「小野涼華です…」
再び沈黙が流れる。
「お待たせいたしました。ご注文のブレンドコーヒーです」
店長がカップを二つお盆に乗せてやってきた。昼に涼華が飲んだものと同じだ。強すぎない甘い香りが漂う。
「ごゆっくりどうぞ」
慣れた様子でカップを置くと、戻っていった。
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